天皇生前退位: “新たな立場で国民を見守りたい” 神の如き立場に自身を置かないよう留意する必要性

2016-08-08 10:25:05 | 政治

 82歳となっている現天皇が8月8日、生前退位の意向をビデオメッセージで表すという。そのことを伝えている8月7日付「NHK NEWS WEB」記事は、〈天皇陛下は、皇太子さまと雅子さまをサポートしながら新たな立場で国民を見守っていきたいという考えを、宮内庁の関係者に示されていたことがわかりました。〉と天皇の意向を紹介している。

 「新たな立場で国民を見守る」とはどういうことなのだろうか。

 「見守る」という言葉には幾つかの意味がある。一つは無事であるよう様々に努めることを言う。例えば親が子の成長を見守ると言う場合、親が単に眺めていれば子が勝手に無事に成長していくわけではなく、無事に成長していくための手助けを成長の段階に応じて様々に働きかけることを言う。

 勿論、それが全て成功するわけではない。その手助けが子どもとの衝突の原因ともなる。見守るという行為にはそういった試行錯誤も含まれる。

 天皇は親が子に対するように国民に対してそういった必要とされる現実的な行為を働きかけることができるのだろうか。

 日本国憲法第1章天皇第4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」とある。

 例えば東日本大震災によって被災地及びそこに居住する国民が大きな被害を受けたとき、政治はその救済や復興に曲がりなりにも手を尽くすことができるが、「国政に関する権能を有しない」天皇は現実が必要とする原状回復のための具体的な行為は一切できない。

 東日本大震災で天皇や皇后ができたことは被災地の海岸沿いやその他の場所に立ち、海に向かうか何かするかして震災で命を落とした被災者の魂を鎮める祈りを行うか、仮設住宅に立ち寄ってそこでの暮らしを余儀なくされている被災者に声をかけて彼らの心を安らかにするといったことであった。

 いわば天皇は精神的に祈ったり、見守ったりすることしかできない。

 但しこのような精神的な祈り、あるいは見守りがある種の力を被災者に与えることができたとしても、起きた現実に対する精神的な手助けのための働きかけに過ぎない。

 このような精神的な祈りや見守りが未だ起きていない好ましくない現実を起きない現実とする力を有しているわけではない。

 あるいは起きていない好ましい現実を起こして現実を好ましくする力を有しているわけではない。

 このプロセスはそれが好ましいと好ましくないとに関わらず、起きた現実を受け入れて行う天皇の精神的行為という構造を取っていることである。

 いわば当たり前のことだが、天皇の祈りや見守りは好ましい現実を起こす力も、好ましくない現実を起きないようにする力もない。

 だが、被災地でのそのような行為に特別な意味を見い出す国民が、政治家を含めて多く存在した。

 天皇が太平洋戦争のかつての激戦地を訪れて戦死者の魂安らかなれと祈りを捧げることも、起きた現実を受け入れていることを前提としている。

 例え戦死者の魂への祈りを捧げると同時に再び戦争が起きないように願ったとしても、起こす起こさないの現実をつくり出すのは政治や国民の役目であって(戦前、国民は戦争を起こすのに大きな力を果たしていた)、戦後に於いては天皇はそのような権限は何一つ持っていない。

 ただひたすら祈り、見守る精神的働きかけを役目とする以外の力を有してはいない。

 勿論、天皇の戦争が再び起きないようにとの祈りに心動かされてそのことを目指す国民もいるだろうが、それで簡単に戦争が起きない現実をつくり出すことができる程に世界の現実は生易しくできていない。祈りよりも利害が動かす現実となっている。

 もし戦後の天皇に国民が万が一にも現実を動かす力があるかのようにその祈りや見守りの力を認めるようなことがあった場合、国民は天皇を国民統合の単なる象徴から現人神として君臨した戦前の天皇の存在性に近づけることになる。

 天皇自身が自らの祈りや見守りに現実を動かす力を有すると過信した場合、現人神であった戦前の天皇の存在性に自身を擬えることになる。

 前者は天皇を神の如きに崇めることになり、後者は神の如き立場に自身を置くことになる。

 こうなった場合の危険性は計り知れない。

 決して杞憂として存在する危険性ではない。

 2013年4月28日、天皇・皇后出席のもと開催された政府主催の「主権回復の日」式典で天皇・皇后の退席時、誰かが壇上の天皇に向かって「天皇陛下バンザイ」と唱えると、壇上の安倍晋三その他も加わって、2回目の「バンザイ」から合わせて両手を上げ下ろしして三唱を行った事実は天皇を象徴として扱ったバンザイ三唱ではなく、戦前の天皇の存在に近づけ、崇める対象に見立てたバンザイ三唱であったはずだ。

 バンザイ三唱時、その血を熱くしただろうことは容易に想像できる。きっと目玉役を作ることができる程の熱量を一気に噴出させたに違いない。

 被災地での天皇の行為に特別な意味を与えることも、天皇を国民統合の象徴以上の存在に奉ろうとする欲求を見ないわけにはいかない。

 安倍晋三のような戦前回帰を願う復古主義者は天皇を戦前の天皇の存在にいつ近づけようと謀らないとも限らない。そのためには天皇がその祈りを力として国民を見守るという新しい立場は好都合でさえあるはずだ。 

 天皇にそのような力がさもあるかのように見せかけることが成功した場合、近づけることが可能となる。

 そうさせないためには天皇自身が自らの祈りや見守りが現実を動かす力を有しないこと、単なる精神的な力添えに過ぎないことをそれとなく言葉で示して、特別な意味を付与させないように気をつけなければならない。

 そうしなければ、特別な意味を与えようとする政治家や国民の手に乗って、意図せずに自身を神の如き立場に押し上げてしまうことにならない保証はない。

 是非そうしたい国民が政治家を含めてゴマンと存在するのである。

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