71年目の8月15日、どの程度の政治家・軍人・官僚が国を動かし、戦争を起こしたのか改めて振り返る

2016-08-15 10:20:31 | 政治

 日中・太平洋戦争の敗戦から71年目の8月15日がやってきた。如何に愚かしい政治家たちと愚かしい軍人たちの戦争であったか、一般的に広く知られている事実だが、私の中で消しがたい事実として居座り続けている今までブログなどに取り上げてきた中から、あるいはその他から、自分自身も記憶し続けていくために改めて振り返って、大した内容ではないが、僅かでも他の人の記憶に供してみたいと思う。

 先ず開戦当時の日米の国力の差。

 国民総生産は日本100億ドルに対して10倍の米1千億ドル。石油生産や鉄鋼生産、鋼材生産等々の総合的国力は日本1に対してアメリカ20。

 「太平洋戦争開戦時の日本の戦略」(相澤 淳)なる記事に次のような下りがある。文飾は当方。  

 先ず日中戦争時の陸軍は対北方戦(対ソ戦)を重視していたが、1939年9月のヨーロッパでの第2次世界大戦勃発を機に日中戦争解決のために対南方戦(対英戦)を先に考える(南先北後)という戦略に転換しようとしていたということが書いてある。

 〈こうした対南方戦の遂行について、陸軍は石油・船舶量を含めた国力上の検討を内閣企画院に依頼した。そして、その結論が「応急物動計画試案」として(1940年)8 月末にまとめられたが、その内容は「基礎物資の大部分の供給量は50%近くまで下がり、軍需すら相当の削減を受けるというもので、国民生活の維持もへったくれも、これじゃ全く不可能」というものであったという。それでも、結論的には「民需を極端に圧縮すれば短期戦は可能とされ、しかし、石油だけは致命的である」という判断であった。その結果として、石油資源獲得のための蘭印武力進攻の検討が、これ以降、具体化していくのでもあった。〉
 
 要するに満足に戦争をするだけの国力を有していなかった。にも関わらず、石油の保障を求めて南方進出を決めた。

 内閣総理大臣直轄の国家総力戦に関する基本的な調査研究と総力戦体制に向けた教育と訓練の研究を目的とした総力戦研究所が日米の総合的な国力の差に基づいて日米が開戦した場合の勝敗の帰趨をシミュレーションしている。

 研究所が設立されたのは昭和15年(1940年)9月30日。研究メンバーは各官庁・軍・ 民間などから選抜された若手エリートたち。

 シミュレーションが行われたのは昭和16年(1941年)7月~8月。

 東条英機が1941年(昭和16年)10月18日に首相就任する3カ月前で、当時は陸軍大臣の地位にあった。

 8月27・28日両日に首相官邸で開催の『第一回総力戦机上演習総合研究会』で、当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、政府・統帥部関係者の前でにおいて報告されたシミュレーションの結論は次のとおりとなっている。

 「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に日本の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」

 「戦争は不可能」と言うことは、戦争をした場合は敗北必至を意味する。

 この「戦争は不可能」(=敗北必至)を東条英機はいとも簡単に否定した。

 東条英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戰争というものは、君達が考へているやうな物では無いのであります。

 日露戦争で、わが大日本帝國は勝てるとは思はなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三國干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がつたのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。

 戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります」

 国力や軍事力、戦術等の彼我の総合力の差を計算に入れた戦略(=長期的・全体的展望に立った目的行為の準備・計画・運用の方法)を武器とするのではなく、それらを無視して、最初から「意外裡」(=計算外の要素)に頼って、それを武器にしてアメリカに戦争を挑もうというのだから、東条英機のその有能さなさすがである。

 東条英機は日米の国力・軍事力の冷静・厳格な比較・分析の緻密性と合理性を持たせた戦略に立った対米開戦ではなく、1904年~1905年(明治37年~38年)の日露戦争の勝利を約40年後の日米戦争の勝利の根拠とし、その理由を「戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事(=計算外の要素)が勝利に繋がっていく」と計画よりも僥倖(「思いがけない幸運」)に頼った非合理的な精神論を支えとした対米開戦に走った。

 そもそもからして当時盛んに言われていた「総力戦」という概念は第1次世界大戦がそうであったことから認識されるようになった概念だそうで、それまでの戦争が軍隊同士のみが戦う形式であったのに対してそれぞれの国家が保有する政治、経済、教育、宗教、文化等の諸力の総和を使って戦う総力戦へと形式を変化させていたことから、総力戦に重点が置かれるようになったという。

 にも関わらず、東条英機は総力戦研究所が勝敗の帰趨に大きな影響力を与える日米の総合的なそれぞれ国力をデータ値としてシミュレーションした「総力戦」の一定の結論には目もくれず、総力戦以前の、いわば旧式に当たる日露戦争の勝利を日米戦争の勝敗を占う参考にし、精神論に過ぎない「意外裡」に頼った。

 その精神論は東条英機一人の才能ではなく、大日本帝国軍隊幹部の多くが才能としていたと言われている。

 旧日本軍を全体的に占めていたそのような優れた才能のお陰で内外に夥しい数の犠牲者を出した。

 その代表格の東条英機が東京裁判によって開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)で1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑を受けたのち、靖国神社に昭和殉難者(戦争犠牲者) として祀られている。

 この歴史のパラドックスは歓喜しないわけにはいかない。

 杉山元は陸軍士官学校を卒業(12期)し、陸軍大学校を卒業(22期)し、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなった2人のうちの1人である。もう一人は上原勇作。 

 1941年12月8日のハワイ真珠湾奇襲攻撃で始まった太平洋戦争開戦時の陸軍参謀総長であり、太平洋戦争開戦の立案・指導に当ったと紹介されている。

 「小倉庫次侍従日記」(文藝春秋)によると1941年(昭和16年)9月5日、陸軍参謀総長と海軍参謀総長が天皇に拝謁している。

 この拝謁時の天皇と杉山元陸軍参謀総長の遣り取りを歴史家の半藤一利が解説している。世間に広く知られている事実だが、改めてここに記さなければならない。

 天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」 

 杉山「南洋方面だけで3カ月くらいで片づけるつもりであります」

 天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1カ月くらいにて片づくと申したが、4カ年の長きに亘ってもまだ片づかんではないか」

 杉山「支那は奥地が広いものですから」

 天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3カ月と申すのか」

 杉山元は頭を下げるばかりで何も答えることができなかったという。

 陸軍参謀長という地位にありながら、昭和天皇から「如何なる確信があって南洋方面だけで3カ月くらいで片づけることができるのか」との趣旨で質問を受けながら、長期的・全体的なこれこれの展望に基づいて戦えば、3カ月で片付くはずですと自らの戦略を説明することができなかった。あるいはこれこれこういった緻密・具体的な戦略を用いて戦いに臨む計画を立てていますから3カ月という日数を計算しましたと答えることができなかった。

 「3カ月くらいで片付ける」という戦略を立てていたなら、昭和天皇から「如何なる確信があって3カ月と申すのか」と問われて答えられないはずはない。

 要するに見当で「3カ月」と言ったに過ぎない。

 日中戦争の国力を消耗されられるだけの膠着状態も、日中双方の戦略・戦術を科学的・合理的に分析するのではなく、「奥地が広い」という抽象的な空間の広がりを原因に挙げている。

 その理由は後者に原因を置けば、軍隊に責任が及ばないからだろう。

 この程度の非科学的な軍人が大日本帝国陸軍の世界で陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなった。

 以下の地位の軍人の程度を推して知るべしである。

 戦争遂行に主たる当事者として関わった閣僚、軍人、官僚等の証言を戦後に録音したものの非公開とされてきた肉声を2012年8月15日放送NHKスペシャル「終戦 なぜもっと早く決められなかったの」が番組内で紹介していた。

 1945年(昭和20年)8月に入って戦況は日本にとって衝撃的なまでの激しさで慌ただしく動くことになった。

 昭和20年7月26日 ポツダム宣言発表

 日本に無条件降伏を勧告

 日本は無視。
 
 昭和20年8月6日 広島に原爆投下 死者14万人

 昭和20年8月8日 ソ連対日宣戦布告

 昭和20年8月9日午前零時 ソ連参戦 満州に侵入

  死者        30万人以上
  シベリア抑留者 57万人以上

 昭和20年8月9日 長崎に原爆投下 死者7万人

 昭和20年8月14日午後11時 ポツダム宣言受諾

 昭和20年8月15日 無条件降伏

 内大臣木戸幸一(録音音声)「日本にとっちゃあ、もう最悪の状況がバタバタッと起こったわけですよ。遮二無二これ、終戦に持っていかなきゃいかんと。

 もうむしろ天佑だな」――

 戦争終結に持っていくためには原爆投下やソ連参戦を「むしろ天佑」だと解釈する。

 被爆犠牲者や外地に入植した邦人の避難時の犠牲の悲惨さ、広く言うと、国民の悲惨さ、兵士の悲惨さは眼中にない。最初からアメリカに対して戦争遂行能力を持っていなかった。

 そのことに最後まで気づくことがなかった。早い時期に総力戦研究所が出した結論、日本敗北必至を思い出して終戦に動くべきを、責任逃れからだろう、誰も戦争処理に動かず、勝ち目が何一つないのに本土決戦の拳を振り上げるばかりで、降ろすことができなかった。

 外務省政務局曽祢益(そね えき・録音音声)「ソ連の参戦という一つの悲劇。しかしそこ(終戦)に到達したということは結果的に見れば、不幸中の幸いではなかったか」

 自らが早期戦争終結を果たすことができず、国民の多くの命を奪った外部からの衝撃的出来事が与えた他力本願の戦争終結を以って、「不幸中の幸い」だと広言する責任感は見事と言うしかない。

 国民の命、国民の存在など頭になく、あるのは国家のみだから、国家の存続を持って良しとして、「天佑」だとか、「不幸中の幸い」だと言うことができる。

 外務省政務局長安東義良(あんどう よしろう・録音音声)「言葉の遊戯ではあるけど、降伏という代わりに終戦という字を使ってね(えへへと笑う)、あれは僕が考えた(再度笑う)。

 終戦、終戦で押し通した。降伏と言えば、軍部を偉く刺激してしまうし、日本国民も相当反響があるから、事実誤魔化そうと思ったんだもん。

 言葉の伝える印象をね、和らげようというところから、まあ、そういうふうに考えた」――

 この言葉は最悪であり、醜悪そのものでる。

 戦争の結末の形式に拘り、自分たちが起こした戦争そのものの実質は問題としない。本土決戦に拘って戦争処理そのものが遅れたことの意味・責任には触れない。

 こういった程度の政治家・軍人・官僚が国を動かし、戦争を起こした。

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