安倍晋三の書道展での「無信不立」の書鑑賞、民衆の信頼は自身の自己絶対性・自己愛性人格とは水と油の関係

2017-09-11 10:34:42 | 政治

 安倍晋三が9月9日土曜日のプライベートの時間を東京都内の書道展鑑賞で過ごしたとマスコミが伝えている。「ロイター」   

 首相、「無信不立」の書しみじみ

 安倍晋三首相は9日、東京都内で書道展を鑑賞した。政治の師と仰ぐ小泉純一郎元首相が座右の銘「無信不立(信無くば立たず)」(むしんふりゅう)を書いた作品の前に立ち止まると、しみじみと見入った。内閣支持率が一時続落した状況を意識し、国民的人気が高かった小泉政権に思いをはせたかのようだった。

 書道展には、祖父岸信介元首相の写経や、母洋子さんの作品なども展示されていた。案内を務めた女性書家の説明を聞きながら「澄んだ字ですね」「立派だ」と語り、書を味わった様子。挑発行動を繰り返す北朝鮮への対応などに追われる中、つかの間の休息を過ごした。

 「信なくば立たず」と言う言葉は知っていたが、「無信不立」(むしんふりゅう)なる言葉もどこからの出典なのかも知らなかったから、ネットで調べてみた。

 『論語』顔淵編(中国春秋末期の儒者、孔子の高弟)にある言葉だという。実際には「民無信不立」と言い、言葉の成り立ちについては「顔淵出典(「格言・故事成語」講座)」が詳しく伝えている。      

 要約を「コトバンク」で借りると、〈《「論語」顔淵から》政治は民衆の信頼なくして成り立つものではない。孔子が、政治をおこなう上で大切なものとして軍備・食糧・民衆の信頼の三つを挙げ、中でも重要なのが信頼であると説いたことから。民信無くんば立たず。 〉

 簡単に言うと、基本的には「政治は民衆の信頼が基礎になる」と言うことなのだろう。あるいは「民衆の信頼が政治の栄養になる」。現在では「民衆の信頼」は世論調査で表される。

 内閣支持率が下がると、「世論調査に一喜一憂しない」という言葉が一般的な慣用句として使われるが、下がっている分、民衆の信頼を失っているのだから、実際は下がっている原因を追求して反省点は反省点として改める努力をしなければならないことになる。

 そうしないと、いつかは決定的に民衆の信頼を失って、「不立」の状況を迎えることになりかねない。記事が〈内閣支持率が一時続落した状況を意識し、国民的人気が高かった小泉政権に思いをはせたかのようだった〉と書いているが、そうするだけでは済まないことになる。

 安倍晋三が書道展に出かけて、「無信不立」の書道作品を眺める。その言葉を思い噛み締めて身を以って実践するためにはその言葉が僅かであっても自らの思想となっていて、血肉化していなければならない。素地のないところに種は育たない。

 書を眺めただけで、確かにその通りだとしみじみと思い反省して、それだけで自らの思想とし、血肉化にまで持っていくことができる程に「無信不立」は簡単なことではないはずだ。

 安倍晋三が国会論戦でその政治姿勢を厳しく批判されると、ときに冷静さを失ってキレたり、詭弁でしかない言葉を用いて無理矢理な反論を試みるのは自身の非は非、欠点は欠点として素直に認めることができない自分は常に正しいとする自己絶対性に立っているからであろう。

 自己絶対性に取り憑かれると、自身を完璧な政治家だと思い込ませることになり、その反動として完璧な政治家だと認めないことになる批判を非常に不愉快な攻撃と見做すようになって、自身に不都合な事実には頑なに耳を貸さず、自身に都合のいい事実のみを受け入れ、自身もその手の事実のみを流布する情報操作で自己絶対性を守る行動に走ることになる。

 この行動性は安倍晋三の行動様式そのものに重なる。精神分析に詳しいわけではないが、このような自己絶対性は自己愛性人格障害と名付けられている。

 ありのままの自分を愛することができず、自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込む人格障害の一類型だそうだ。

 以前ブログに、〈自身を完璧な政治家だと信じるに至っている人格は、多分、A級戦犯被疑者であった祖父岸信介の膝に抱かれ、それを揺り籠とし、戦前日本が偉大な国家であったことの数々のお伽話・メルヘンを聞かせられて育ち、偉大な政治家と信じるに至った岸信介や佐藤栄作と血のつながりがあることが影響しているのではないのか。〉と書いた。

 そのような血の繋がりから自己絶対性が生まれ、結果として自己愛性人格障害に陥ることとなった。

 安倍晋三の自己絶対性が象徴的に剥き出しになったシーンがマスコミが取り上げ、世間で取り沙汰されることになった2017年7月2日投開票の都議選最終日7月1日の安倍晋三の秋葉原での自民党候補者の応援演説であろう。

 森友疑惑や加計疑惑で内閣支持率を下げていた安倍晋三は逆効果として応援演説を忌避され、自身も遠慮していたが、自身の自己絶対性から言って、我慢できなくなったのかもしれない。最終日に初の街頭演説に立ったものの、聴衆から「安倍ヤメロー」、「安倍帰れー」のコールが湧き起こり、森友学園の籠池泰典前理事長までが聴衆に混じってコールに参加、「寄付して貰った100万円を返す」と叫ぶ始末で、騒然となったという。

 だが、安倍晋三の自己絶対性の負けん気がムクムクと頭を持ち上げたに違いない。ヤジる聴衆に向かって次のように発言した。

 安倍晋三「あのように人が主張を訴える場所に来て、演説を邪魔するような行為を私たち自民党は絶対にしません。私たちは政策を真面目に訴えていきたいんです。憎悪からは何も生まれない。相手を誹謗中傷したって何も生まれないんです。こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない。都政を任せるわけにはいかないではありませんか」(「産経ニュース」)  

 ヤジを頭から悪としての「憎悪」だと決めつける。「誹謗中傷」だと片付ける。そして「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかない」と、正しくない側の人間だと単純に色分けする。

 安倍晋三自身が自己絶対性に立っているからに他ならない。自己絶対性が自分は正しく、自分に反対したり批判したりする人間は正しくないと価値判断することになる。

 自身が招いた疑惑に対する政治不信が「安倍ヤメロー」、「安倍帰れー」等のコールに反映されているとは考えもしない。

 憎悪が全て悪と言うわけではない。民主主義者が独裁主義者を憎悪する。この憎悪は独裁主義者にとっては悪だが、民主主義者には善として自明視される。

 価値判断は常に一方的な解釈で成り立つわけではなく、ときには相対化される。こういった物事の道理を冷静に判断することができないことも自己絶対性に立ち、自己愛性人格障害を患っているからだろう。

 「政治は民信無くんば立たず」の「無信不立」は自己絶対性の価値観、あるいは自己愛性人格障害とは決して相容れることはない。自己絶対性の価値観、自己愛性人格障害共に「無信不立」の価値観に対して常に拒絶する関係を築くことになる。

 自己を絶対として自己愛性人格障害に罹っている政治家が地位を守る自己保身から民衆の信頼を重んずるポーズを取ることはあっても、それを政治の基礎に置くことなどするはずはない。

 あるいは民衆の信頼を政治の栄養にすることなどあり得ない。自己の絶対性のみを信じることになるだろう。

 このような症状こそが、自己愛性人格障害を成り立たせる。両者共に「無信不立」とは水と油の関係を築くことになる。

 安倍晋三が書道展に出かけ、「無信不立」の書の前にしばし佇んだからと言って、内閣支持率下落の苦境にある我が身を省みて民衆の信頼の大切さを噛み締め直して、その大切さに注力することになったに違いないなど解釈しようものなら、飛んでもない勘違いに後で気づくことになるだろう。

 安倍晋三は逆立ちしても「無信不立」を思想化・血肉化できる政治家には出来上がっていないことに重々留意すべきである。

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