安倍晋三が9月11日(2017年)午前、東京市谷の防衛省で同省幹部や自衛隊の指揮官が一堂に会する自衛隊高級幹部会同に出席、「訓示」を行った。
最初に断っておくが、自衛隊は憲法違反である。安倍内閣が憲法解釈で集団的自衛権を行使容認する際、その根拠を「最高裁の判断こそ憲法の番人」だからと、砂川最高裁判決に置いたが、判決は集団的自衛権の行使を容認するとはどこにも書いてない。逆に自衛隊を日本国憲法第9条2項の「戦力不保持」を謳った「戦力」に当たるとの判断を示して、間接的に憲法違反に位置づけている。
砂川判決は「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」との見解を述べているが、一方で自衛隊が憲法第9条2項が禁じている「戦力」に当たると解釈したことから、「憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではなく、外国の軍隊は、例えそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべき」との理由付けで日米安全保障条約に基づいた米軍の日本駐留を憲法違反でない認めた上で、「国家固有の権能の行使」として認められている「自衛のための措置」を米軍に依存することは何ら問題はないとの判断を採用したに過ぎない。
要するに安倍内閣は砂川判決が元々自衛隊違憲としていたことを「最高裁の判断こそ憲法の番人」だと主張することによって自分たちでは気づかないうちに自衛隊違憲の判決を逆に炙り出していたのである。
にも関わらず、砂川判決に反して自衛隊合憲の立場に立っている。と言うことは「最高裁の判断こそ憲法の番人」だと言いながら、「憲法の番人」を自分たち安倍内閣に置いていることになる。
何という僭越、何という不遜な思い上がりだろうか。
いずれにしても多くの憲法学者が言っていることが正しい違憲存在の自衛隊幹部たちを前に安倍晋三は訓示を垂れた。
北朝鮮が2017年8月29日早朝に事前の通告なく北海道上空を通過して太平洋上に落下させる弾道ミサイルを発射したことと9月3日正午過ぎに核実験を行ったことについて次のように触れている。
安倍晋三「北朝鮮による、我が国上空を飛び越えるミサイル発射や核実験という暴挙。
自衛隊は、発射直後から落下まで、ミサイルの動きを、切れ目なく完全に探知・追尾していました。速やかな放射能調査により、国民の安全を確認しました。北朝鮮がミサイル発射の検討を表明した時には、即座にPAC-3部隊とイージス艦を展開させました。県民の安心につながった。迅速な対応に感謝する。島根、広島、愛媛、高知の知事からの言葉です。国民の負託に全力で応え、与えられた任務を全力で全うする隊員諸君。国民から信頼を勝ち得ている自衛隊員は、私の誇りであります」
何日前かのブログに「NHK NEWS WEB」記事を参考にして北朝鮮がミサイルを発射した場合、アメリカの早期警戒衛星が最初にそれをキャッチ、おおまかな発射場所や発射の方向などを割り出して、この情報を元に日本近海に展開する海上自衛隊のイージス艦が追尾、日本国内落下の予測の場合は迎撃ミサイル「SM3」で撃墜、迎撃が失敗した場合は航空自衛隊の地上配備型の迎撃ミサイル「PAC3」が地上近くで迎撃するという二段構えの備えとなっていて、二段構えそのものが、100発100中の迎撃ミサイルなど存在しないことの証明そのものとなっていると書いたが、この不都合な事実について一言も触れずに100発100中であるかのような都合のいい事実のみを例の如くに得々と口にしている。
要するにいくら自衛隊が「発射直後から落下まで、ミサイルの動きを、切れ目なく完全に探知・追尾」することができたとしても、跡を追いかけるだけのことで、いざ迎え撃つとなると、常に完全ということにはならないことになる。
にも関わらず、「県民の安心につながった。迅速な対応に感謝する。島根、広島、愛媛、高知の知事からの言葉です」と、「PAC-3部隊とイージス艦」の展開が「県民の安心」を確約するかのように言うことができる。
迎撃ミサイルが100発100中であるなら、政府が内閣官房を先頭にして自治体と手を組んで各地で実施している「弾道ミサイルを想定した住民避難訓練」は必要なくなる。
大体が一方で避難訓練を行っていること自体が迎撃ミサイルが100発100中でないことの証明そのものとなる。
安倍晋三は「国民の負託に全力で応え、与えられた任務を全力で全うする隊員諸君」と言いながら、「国民から信頼を勝ち得ている自衛隊員は、私の誇りであります」と力強い言葉で応えている。
ある対象に対して「私の誇り」とすることはその対象に対して一体性を表明することになり、あるいは一体感を表明することになる。だが、いくら自衛隊の最高指揮官であっても、軍人ではない文民である首相は文民統制の立場上、自衛隊とは常に一線を画する姿勢を保持しなければならない。
そのような姿勢の保持に反する自衛隊に対する首相個人の一体性の表明、あるいは首相個人の一体感の表明は自衛隊を“国民対自衛隊という関係”に置くのではなく、“安倍晋三個人対自衛隊という関係”に置くことになる。
このことを避けるためには、「多くの国民の誇りであります」と言わなければならなかったはずだ。このように言うことによって、自衛隊を“安倍晋三個人対自衛隊という関係”に置くのではなく、“国民対自衛隊という関係”に置くことができる。
安倍晋三が自衛隊に対して“安倍晋三個人対自衛隊という関係”に置くこと自体が危険極まりないが、自衛隊、あるいは自衛隊員に対して「国家の誇り」ですと国家の立場に立って自衛隊との一体性、あるいは一体感を示した場合は自衛隊を“国家対自衛隊という関係”に置くことになり、安倍晋三が自身を国家の立場に擬えさせるという最悪の危険な状態に突き進むことになる。
安倍晋三には自衛隊を“安倍晋三個人対自衛隊という関係”に置いたのと類似した前例がある。
2015年3月20日の参院予算委員会で維新の党真山勇一から自衛隊の訓練の目的を尋ねられて、「我が軍の透明性を上げていく、ということに於いては大きな成果を上げているんだろうと思います」と答弁したことについて3月27日午後の参院予算員会で小野次郎維新の党議員からその真意を尋ねられると、「共同訓練の相手国である他国の軍との対比をイメージを致しまして、自衛隊を『我が軍』と述べたもので、それ以上でも、それ以下のものでもないわけでございます」と答えているが、文民である以上、文民統制の観点から自衛隊を独立した組織として距離を置くべきを、置かずに「我」と「軍」を一体化させて「我が軍」とする呼び方には自衛隊を安倍晋三自身に限りなく引き寄せるニュアンスが否応もなしに滲み出ている。
独裁者が自国軍隊と自身を一体化させ、軍隊を自己所有物と見做すようにである。
それが今回図らずも自衛隊に対して「私の誇り」と一体性、あるいは一体感を示すことで、自身を“安倍晋三個人対自衛隊という関係”に置いた、
元々が戦前国家回帰主義者であり、国家主義者であるのだから、このような関係が“国家対自衛隊という関係”という危険な領域に発展しない保証ははない。