御手洗「世界経済が危機に直面するなか、中国は高い経済成長率を維持しており、存在感は大きくなっている。中国政府のかじ取りに対して、大きな関心を持っている」
記事は王岐山副首相の直接の言葉は伝えていないが、次のように解説している。
〈中国政府として内需拡大に向け、投資促進策の強化などの取り組みを進めていると説明しましたが、中国経済の先行きについては、輸出など外需の落ち込みが大きく、決して楽観できないという見方を示し、欧米や日本などで広がっている中国経済に対する過剰な期待を戒めました。〉――
多分これは我が日本の偉大なる総理大臣麻生太郎の立場を思いやって擁護した発言ではないだろうか。何しろ我が麻生太郎はサブプライムローン問題に端を発して、2008年9月のリーマン・ブラザーズの破綻に誘発されたアメリカ発の金融危機が全世界を襲うや、いち早く「世界が100年に1度と言われるような不況に入りつつあります。異常な経済には異例な対応が必要です。日本もまたこの世界不況の津波から逃れることはできません。しかし、大胆な対策を打つことで、世界で最初にこの不況から脱出することを目指します」と08年12月24日に記者会見で声高らかに宣言したのである。
いくら日本の経済界を代表する経団連の会長と言えども、日本を代表する点に於いて総理大臣を差し置くわけにはいかない。差し置いて日本経済の回復を「世界経済が危機に直面するなか、中国は高い経済成長率を維持しており、存在感は大きくなっている」云々と中国経済に期待したのでは、「世界で最初にこの不況から脱出する」の麻生の言葉をウソに貶めることとなって、一国の総理大臣としての麻生の立場を台無しにしてしまう。
中国の王岐山副首相はそのことに気づいたから、中国と戦略的パートナーシップ関係にある日本の総理大臣麻生太郎に恥をかかせないよう、中国経済も矛盾を抱えていてアメリカも欧州も日本もとばかりに景気回復を牽引できる程力強く活動しているわけではないと謙虚なところを見せたのではないのか。
御手洗日本経団連会長は民間の立場に立つ者として総理大臣麻生太郎の公式見解に違わぬよう、それを尊重、頭から信じてこう言うべきだった。
「世界経済が危機に直面するなか、世界で最初にこの不況からの脱出を目指している日本の存在感は大きい。日本の麻生政府のかじ取りに対して、大きな関心を持って欲しい」
このように言った上で、尚且つ任せておけとばかりに胸をドーンと一つ力強く叩いたとしたら万全である。相手を十分に信用させることができるだろう。麻生の顔を立てることにもなる。胸を叩いた後、むせたりしたら、信用を与えるどころか、相手をして眉に唾をつけさせかねないから、その点は気をつけなければならない。
だが、自民党政治と密接な関係にありながら、御手洗会長は実際には日本の景気回復の牽引役として中国経済に期待を示したことで、麻生太郎の「世界で最初にこの不況から脱出することを目指します」の宣言をウソのものとしてしまった。
9月6日の「日経ネット」《企業収益、アジア依存最高 09年3月期、営業利益の36%占める》は、日本企業が収益向上のアジア依存が高まっていることを伝えている。
日本の〈上場企業が2009年3月期に稼いだ営業利益のうち、アジア地域の比率は36%と過去最高で、下期(08年10月~09年3月)に限れば日米欧がそろって赤字となる一方、アジアだけが黒字を確保した。世界同時不況の中でもアジアの需要は底堅かった。日本の国際企業にとり、アジアでの収益力が中長期的にも成長を左右するようになっている。経営資源を重点配分する動きもあり、10年3月期もアジアが収益を下支えしそうだ。>と、日本企業のアジア依存を解説している。
このような現実のものとしてある実体的な影響から経済人として止むを得ない中国依存ということなのだろうか。
だとしても、中国に経済上の色目を使った時点で麻生の「世界で最初にこの不況から脱出することを目指します」をウソとしたことに変わりはない。
麻生太郎の公式見解をウソとしたのは御手洗経団連会長ばかりではない。6月10日の「asahi.com」《早期解散の可能性も示唆 自民・菅選対副委員長》が、7月12日の東京都議選に敗北すれば「麻生降ろし」が起きかねないとして、都議選前に解散に踏み切り、「8月2日投開票」が望ましいとの自民党最大派閥の町村派の声に対して自民党菅義偉選挙対策副委員長の10日に行った東京都内の講演の言葉を伝えている。
「(千葉市長選など)一連の地方選挙の様子を見ながら、国会の法案の審議状況を見ながら解散する」
「(衆院議員の任期満了の)9月10日までの間に(首相は)解散権を行使すると思う。・・・・都議選の後とか、8月2日、9日、30日、9月6日投票と言われているが、誤差の範囲だ」
麻生は常々公の場で「政局よりも景気対策、選挙よりも経済対策」と言い、解散・総選挙の決定基準を政局や選挙ではなく、景気対策・経済対策に置き、そういった姿勢を政権党としての責任としてきた。
それを自民党最大派閥の町村派の声にしても、菅選挙対策副委員長にしても、政局や選挙を重点に解散・総選挙を語ることで麻生の「政局より経済対策、選挙より景気対策」をウソとしている。
これは御手洗経団連会長と同じ罪を犯す裏切りであろう。本来ならお仲間である以上、日本国総理大臣麻生太郎を親船に見立て、すべてを親船に乗った気持で任せることが仲間としての仁義のはずだが、仁義を通さないのだから、裏切りと言われても仕方があるまい。
それとも麻生初め閣僚も自民党国会議員も「世界で最初にこの不況から脱出することを目指します」にしても、「政局より経済対策、選挙より景気対策」にしても、最初からタテマエだと承知していて、景気回復に関しては中国依存、解散・総選挙の決定基準に関しては選挙、政局がホンネ中のホンネだったと言うことなのだろうか。
だから、支持率が失速しかねない低空飛行を続けるばかりだったから、それとの睨めっこが続いて、踏ん切りをつけることができないままに解散が先延ばしになってしまった?
麻生の言っていたことが元々のウソ・タテマエだったとしても、御手洗にしても菅にしても、それをウソ・タテマエだと世間に曝した裏切りを働いたことに変わりはない。
また麻生内閣が6月10日に掲げた2020年までの温室効果ガス削減の中期目標にしても、05年を削減基準年としたのは京都議定書締結の90年を削減基準年とした8%削減よりも、数字を大きく見せることができる15%削減だとする指摘もあるが、事実だとしたら、「極めて野心的」だとする麻生の言葉は麻生のウソの歴史に新たなウソをつけ加える企みとなるだろう。
民営化した日本郵政の保養・宿泊施設「かんぽの宿」と社宅の計21施設の総務省独自の不動産鑑定評価額148億円を基に推計した250億円の販売評価額、及び日本郵政が公表した08年固定資産税評価額約857億円に対するオリックス不動産への109億円の安過ぎる一括売却予定に鳩山総務相が疑義申し立てを行い、売却は白紙撤回。さらに障害者団体向け割引制度の悪用による郵便法違反事件を見逃した責任を問い、5月の日本郵政取締役会指名委員会が西川善文社長の再任を決定したものの、民営化されたとはいえ、政府が全株100%を保有、6月末の株主総会で与謝野財務相が株主としての権限を行使、その承認を経て総務相が認可して決まる運びに反して、「日本郵政が正しいガバナンス(企業統治)の元で運営されているとは思えない」(日経ネット)として再任を拒否、西川社長の更迭を強硬に求めている問題――
鳩山邦夫「財務相と総務相の判断基準は違う。判断は同じである方が望ましいが、一体のものではない。・・・・国が出資した財産が毀損されていないことを判断するのが財務相。私は郵政民営化が国民の信頼に応える形で進められているかどうか全体を見なければいけない」(毎日jp
「首相からこういう方向で頼むとか、しなさいという指示は、まだ、そういう形ではいただいていない。首相と私の判断が食い違うことはないでしょう」(日テレNEWS24)
政府の大勢意見と異なるのだから、自民党内での鳩山総務相の強硬な態度に対する批判の声にしても大勢を占めることになるが、鳩山応援団がいないでもない。このことも問題を纏まる方向に収束させないでこじれさせている。
太田前農林水産大臣「日本郵政の社長人事は所管大臣が決定することが会社のガバナンス上、正しい方法であり、鳩山大臣の選択に委ねるべきだ」(NHK)
だが、圧倒的に批判が多い。
石原幹事長代理「この問題は、財務大臣、総務大臣、官房長官が期限までに適切に判断すると思う。西川社長は完ぺきだとは思わないが頑張っており、日本郵政の委員会も続投を支持している。いくら認可権があるとはいえ、一大臣が個人的な感覚で話すのは好ましくない」(同NHK)
中川泰宏衆議院議員「西川社長はきちんと計画どおり事業を進めている。西川氏を内閣が代えるなら、あす衆議院を解散し、国民の民意を問うべきだ。そうでなければ、鳩山大臣に辞めてもらう。どちらかを麻生総理大臣は決断すべきだ」(同NHK)
加藤紘一元幹事長「(鳩山氏も西川氏も)どっちもどっち。わたしたちの選挙に影響する。怒りをもってみている」(時事ドットコム)
河村建夫官房長官「麻生太郎首相は関係閣僚に調整を指示した。財務相を排除して物事が進むものでもない」(msn産経)
大島理森国対委員長「おれが正義で向こうは違うという言動は政治家として慎むべきだ」(同msn産経)
だが、いくら批判のボルテージを上げて、その声が圧倒的多数を占めようとも、鳩山総務相が頑として引き下がらなければ、柳に風、馬耳東風、暖簾に腕押し、カエルの面にショウベン、糠に釘で、再任拒否の膠着状態を打ち破ることはできない。
そこで「麻生総理大臣の対応はぶれており、リーダーシップが欠如している」との野党からの批判もあり、自民党内から麻生総麻生太郎のどちらかに決着づける決断・リーダーシップを求める声が起こるのは自然の成り行きと言えば自然の成り行きと言えるが、我が辞書にリーダーシップなる文字は存在しないという人間にリーダーシップの発揮を期待すること自体が矛盾行為だと気づかない点を考慮すると、自然の成り行きとは言えなくなる。
6月8日のぶら下がり記者会見で次のように答えている。
〈Q:次です。公明党の太田代表がですね、政府与党(連絡会議)後に記者団に、日本郵政の西川社長の進退問題について、政府の中で十分話し合って決めてほしいというふうに苦言を呈されたんですが。あと、北側幹事長も、政府与党の中で、政府として決着を急いでもらいたいと述べられているんですが、こうした連立パートナーからの要望にはどうお答えになるんでしょうか。
A:これは基本的には、なんていうの、許認可権、仮にも民間会社ですから、許認可権は総務大臣。株主としての権限は財務大臣。で、これ確か人事は長官になってますんで、官房長官とこの3者で調整をしてもらわなくちゃいかんということに最終的になるんですが、今、時期的にいろいろな話がわんわん飛び交ってますんで、なんとなくそれが、なんだろうねえ、うーん、内閣の支持率になってみたり、政府の評判になってみたり、党の評判になってみたりするようなところはいかがなものかというご意見っていうのは、よく聞かれるのになってんだと思いますが、あの、このところは最終的に、今、調整をしなくちゃいかんところだとは思ってますけれども、ちょっといつやるかというのが、今がいいのか29日の株主総会の日がいいのか、いろいろ意見の分かれるところであろうと思ってますんで、そのうえ、よくよく聞いたうえで、最終的に判断せないかんでしょうね。(《「首相VS記者団」 温暖化防止「交渉次第でどう変わるか分かりませんから」 6月8日午後7時5分~》毎日jp)/2009年6月8日)〉――
「最終的に判断せないかんでしょうね」とは、何とまあ熱意の籠もっていない他人事な言い草か。各閣僚が持つ人事や許認可権に関わるそれぞれの権限と問題が引き起こしている状況等の表面的な説明で終わっていて、党内の解決が長引いているという印象を早く解消して欲しい、早いとこ決着をつけて欲しい、そのためにリーダ-シップを発揮してほしいという要請には何ら答を示していないところはさすがリーダーシップゼロの麻生太郎である。
9日午後の参院総務委員会での鳩山総務相と西川社長の態度。
鳩山邦夫総務相「法律では総務相独自の判断で(認可の可否判断を)やれとされている。私の考え、信念に基づいて権限を行使していきたい」(上記日経ネット)
西川社長「私自身至らぬ点もあるが、いったん引き受けた以上、民営化の土台をしっかり築くことが私の責務であり、果たすべき責任だ」(同日経ネット)
但し総務相が同社長の取締役再任を認めない場合は、
「法律の決めたことだから法に従うまでだ」(時事ドットコム)
各武装勢力が乱立して銃撃戦を繰り広げる無政府状態さながらに麻生首相のリーダーシップ無政府状態をいいことに両者とも自らの主張を押し通して、妥協の気配すら見せない。
鳩山「正しいことは正しい、正しくないことは正しくないと申し上げている。落としどころはあるわけない」(毎日jp)
鳩山「わたしは、落としどころということばは好きではない」(NHK)
要するに鳩山総務相は最後の最後まで西川再任は認めない、どんな妥協案も受け付けない。西川社長は総務相が再任拒否の職務権限を行使するまで社長を決して辞任しないという態度である。この状況を早期に打開するには麻生首相の決断・リーダーシップしかないのだが、「最終的に判断せないかんでしょうね」の“早期”が期待できない優柔不断状況にある。
鳩山総務相は5日夜に麻生太郎首相と社長人事を話し合い、「首相と私の判断が食い違うことはない。今までの経緯からそう感じている」(毎日jp)と述べたということだが、話し合ったのが事実なら、首相との判断の一致を「今までの経緯からそう感じている」と推測で決めるのはおかしい。
この答は6月9日の「日テレNEWS24」記事が出している。
〈鳩山総務相は、5日に麻生首相と協議した際、西川社長の続投を認めない考えを伝えたものの、麻生首相からの指示はなかったことを明らかにした。〉――
我が辞書にリーダーシップなる文字は存在しない人間らしく、自らの判断を述べて、それに従わせるべく説得する内閣を率いる者としての責任の片鱗すら示さなかった。
だから、「今までの経緯からそう感じている」と意見の一致を推測するしかなかった。
我が辞書にリーダーシップなる文字は存在しない優柔不断な人間は必然の勢いとして、他力本願を性格とする。鳩山首相が以心伝心で大勢意見を汲んで妥協してくれることを望んでいたが、妥協しそうにもない。そこで、〈首相周辺では「首相は西川氏の自発的辞任を望んでいる」との見方も出ている。〉(asahi.com 2009年6月3日21時14分)といった他力本願頼みの状況が生じる。
いわば自分で決めかねるから、相手がこちらの苦衷を察して問題解決となる動きをしてくれることを願う。
だが、いくら麻生がリーダーシップ欠如の反対給付として他力本願の性格を強く持っていたとしても、あるいはかんぽの宿売却の不適切価格設定と障害者団体向け割引制度悪用の郵便法違反事件の責任追及を目的に、「私自身至らぬ点もあるが、いったん引き受けた以上、民営化の土台をしっかり築くことが私の責務であり、果たすべき責任だ」としている西川社長に自発的辞任を期待することも、あるいは職務権限で辞任させることもできないことに二人とも気づいていない。
自殺した松岡元農水相が事務所費架空計上問題でその責任を追及された当時、任命権者である安倍首相は「政策分野について、相当の見識がある。今後とも職責を果たすことで、国民の信頼を得る努力をしてもらいたい」と、職責(=職務上の責任)を果たすことを以ってして事務所費架空計上問題に関わる責任の免罪を図っている。
政府税制調査会の本間正明会長が東京・原宿の国家公務員官舎に妻ではない女性と不法入居していた問題でも、安倍晋三は「見識を生かして、あるべき税制の姿を作っていく、議論していくことによってですね、まとめていただくことによって職責を果たしていただき、責任を果たしてもらいたいと思っています」と、職責(=職務上の責任)を果たすことを以ってして女性不倫問題と不正入居問題の責任を不問に付そうとした。
麻生首相にしても、今年2月の「7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)」後記者会見で泥酔した醜態を世界に動画発信させしめた我が日本の誇る中川昭一財務大臣の責任を自発的辞任、あるいは更迭を以って応えるのではなく、「財務・金融にも明るく、金融に明るい、という意味で、私は適任であると考えを、考えて、任命をさせていただきました」、「本人の健康管理に関してはあるかもしれないが、任命責任については極めてこれまで確実にいろいろ仕事をやってもらったと思って感謝している」、「体調をしっかり管理して職務に専念してほしい」と「職務の遂行」を以ってして責任に代えている。
かくかように自民党内閣は閣僚及び党役員、あるいは所属国会議員の不祥事、不正行為等の責任を「職務の遂行」を以って代えることを歴史とし、伝統・文化としてきているのである。
西川社長の「・・・民営化の土台をしっかり築くことが私の責務であり、果たすべき責任だ」にしても、「職務の遂行」を他の責任に優先する責任解決方法だとする自民党の歴史・伝統・文化に合致した責任論であって、その点に於いてどこにも不都合はない。
もし麻生相にしても鳩山総務相にしても、自民党内閣が歴史・伝統・文化としている責任制度から西川社長だけを除外した場合、二重基準を犯すことになる。自己都合のためにはそんなこと問題にしないか。
いずれにしても、ますますリーダーシップのなさを曝け出すことになる麻生首相と、政権党の敗北が囁かれている総選挙という微妙な時期に来て麻生首相のリーダーシップの欠如を補おうともしない、麻生応援団長であるはずの鳩山総務相とのこのバトル、今が見所なのは間違いない
イスラエル・パレスチナ問題一つ取っても、アフマディネジャド大統領は「イスラエルは地図から抹消されるべきだ」との過激な姿勢を示していて、欧米とは相容れない対極に位置している。
もしイランが核保有国になると、イスラエルは自国の安全のために核施設に向けた攻撃の可能性が指摘されている。イスラエル空軍の核施設空爆を想定した大規模演習が行われてもいる。
となると、是が非でも保守強硬派のアフマディネジャド大統領再選は日本の自民党政権にトドメを刺す必要性と同程度に阻止しなければならない差し迫った問題であろう。
保守強硬派のアフマディネジャドが大統領に居座っている間、イランとイスラエル間の緊張関係は絶えに違いない。オバマ大統領は6月5日(09年)、エジプト・カイロで「世界のイスラム教徒と米国との『新たな始まり』を求めるためここに来た」(《オバマ米大統領:アラブ圏で初演説(要旨)》と演説の冒頭(?)で述べて、イラン、核問題については、「米国は冷戦中、民主的に選ばれたイラン政府を転覆させた。イランは、米国に対し暴力的だった。今後は互いを尊重し、話し合う。核への姿勢は揺るがない。米国は、いかなる国も核兵器を持たない世界を追求する。核拡散防止条約に従う国々はイランを含め、平和利用を認める」と核兵器開発は認めないが、平和利用は認めると言明した。
ここの箇所は「NHK」インターネット記事によると、イランとの関係を「前提条件なしで前進する用意がある」と述べたと伝えている。
「前提条件なし」と言うなら、経済制裁という軛を無条件に外し、核の軍事利用開発問題の話し合いの進展に応じて、早期に国交断絶という次の軛を外してもいいはずである。
アメリカのイランに対する過去の負の遺産がイラン国民の多くに反米感情を植えつけ、固定観念化させていて、経済制裁無条件停止というアメリカの新たな政策に反発するイラン国民も多くいるだろう。だが、ハタミ前大統領(1997年~2005年)選出時には彼の改革開放政策に多くの大学生や若者、女性が強い支持を与えている。
その支持を背景に欧米との関係改善を図り、革命後初めてアメリカのスポーツ選手団を受け入れたり、欧州各国を訪問したりしたが、宗教右派の妨害とブッシュ大統領の2002年の「悪の枢軸」名指し等でアメリカとの関係改善の努力が報われず、挫折し、改革解放に期待した国民を絶望させ、憲法の連続三選禁止規定によって出馬しなかったが、絶望の反動がイラン国民をして改革解放から保守強硬へと向かわせ、結果として保守強硬の代表格たるアフマディネジャド大統領誕生に力を貸すこととなったと言われている。
しかし現在のイランは高インフレ、高失業率が問題となっていて、アフマディネジャド大統領の経済政策に国民の不満が高まっているという。アメリカの経済制裁解除が改革解放から保守強行へ振れた針を戻すチャンスとなる可能性を秘めてもいる。
例え内政干渉だとしてアフマディネジャド大統領及びその一派や宗教右派が反撥しようとも、改革派当選を条件に経済制裁無条件解除を打ち出して、核開発問題の解決進展に賭けるためにも、イランとの友好関係構築のためにも改革派当選に力を貸すべきではないだろうか。
私がまだメーリングリスト仲間に加わっていた頃、世界をすべて「独裁対民主主義と捉える図式的教条主義にはまっている」といった批判を受け、それに反論する文章の中でアメリカはイランやキューバが独裁的、あるいは一党独裁であっても国交を回復すべきだという考えを持っていることを例に挙げて、必ずしも世界を「独裁対民主主義と捉える図式的教条主義にはまっている」わけではないことを主張したが、後で気がつく寝小便めくが、アメリカはハタミ大統領時代に経済制裁解除と国交回復を図るべきだった。だが、ブッシュ大統領はそのチャンスを逃したばかりか、「悪の枢軸」なる有難い尊称をイランに与えた。こういったことが現在のイランの状況にもつながっているはずである。
当時の文章を一部抜粋で参考に供したいと思う。
送信者: "Hiroyuki.Teshirogi" <wbs08540@mail.wbs.ne.jp>
宛先: <kokkai2@egroups.co.jp>
件名 :Re図式的、教条主義的に過ぎませんか
日時 :2003年6月28日 20:03
キューバを例に挙げて、説明してみます。カストロがアメリカ資本の支配した腐敗したバチスタ独裁政権を打倒、共産主義化したのは、当時のキューバにあっては、アメリカ資本と結びついた一部富裕層を除いて、大多数の国民には苛酷な労働と生活しか生み出さない、悪の象徴でしかなかった資本主義を反面教師としたからだと思います。その時代の世界は、国民の虐げられた状態に憎しみと怒りを感じる人間にとっては、資本主義国家にあっては共産主義が、共産主義国家においては資本主義が、それぞれに理想の制度と見なしていたという状況も影響したでしょう。旧ソ連政府から国外追放処分された反体制派作家ソルジェニーツインは自由の国アメリカに移住しなががら、皮肉にも、その社会に対する失望を語っています。
キューバは中南米唯一の共産主義国家だと言っても、ある程度の自由は存在するでしょうが、カストロがイラクのフセインや北朝鮮の金正日レベルの政治権力と国家予算の私物化・国民に対する過度の人権及び経済的抑圧・体制批判者に対する無制限、無条件な行き過ぎた身体的拘束と肉体的精神的懲罰を権力維持の絶対的方法としているわけではない独裁国家に対するアメリカの経済制裁には、前々から反対でした。キューバ人の陽性を考慮すると、逆に経済交流を図って、その過程で民主主義と自由主義の有意義性を肌に染み込ませ、共産主義における全体主義的規律を氷解させていけばいいというのが私の考えでした。
同様に、43年間続き国家の富を独占したソモサ一族の腐敗した独裁支配に対する反動として樹立されたニカラグアの左翼政権・サンディニスタ民族解放戦線に対するアメリカのかつての政治的・経済的圧力にも反対でしたし、核開発を意図しているといは言え、ホメイニ死後の、国民の多くが民主化を求めているハタミ大統領(1997年 - 2005年)のイランに対するアメリカの国交断絶と経済制裁には、現在も反対しています。アメリカの国交回復と経済制裁解除によって、イランは民主化に向けて大きく変るだろうと予測しているからです。
オバマはブッシュ前大統領の単独主義的軍事力行使にウエイトを置いた強硬外交から決別、話し合いや世界各国との強調にも主眼を置いた硬軟両様の「スマート外交」を提唱している。
こちらの要求に応える相手の努力にのみご褒美を与えるのではなく、ご褒美を与えてから、要求を提示するのも世界の超大国としての“スマート”な遣り方と言えないだろうか。
6月3日の米州機構(OAS)年次総会で加盟国はキューバ追放決議を無効としたものの、米州機構(OAS)への復帰を拒否したが、先ずは仲間に戻し、経済制裁の解除も行ってから、丁々発止の議論を闘わせるべきではないだろうか。
まあ、私は「外交の麻生」とは遥か遠い場所にいる外交オンチだから、麻生の世迷言とは違う別の世迷言でしかないかもしれないが、相手が保守強硬、コチコチ頑迷な原理主義者なら、どのような誠意も通じないかもしれないが、改革解放あるいは人権や自由の価値により重きを置く指導者であるなら、経済制裁の無条件解除等の先手を打つことによって、イランやキューバといった国が構えてきたこれまでの頑なな姿勢に相手に対する信頼を少しは植えつけることができるのではないだろうか。
この考えは麻生以上に甘過ぎるだろうか。
以下、参考までに引用――
≪《オバマ米大統領:アラブ圏で初演説(要旨)》≫(毎日jp /2009年6月5日)
オバマ米大統領が4日にカイロで行った演説の要旨は次の通り。
世界のイスラム教徒と米国との「新たな始まり」を求めるためここに来た。相互の利益、尊敬に基づく。イスラムに関する否定的なステレオタイプと戦うのは米大統領の責務だ。
◆過激主義との戦い
安全保障に深刻な脅威をもたらす過激派とは容赦なく戦う。アフガニスタンには必要があって派兵したが、兵を維持したいわけではない。イラクは選択的に行われた戦争で、論争を引き起こした。外交や国際協調の必要性を米国に思い知らせた。米国は国家主権と法による支配を尊重し、イスラム社会と協力しながら自国を守る。
◆中東和平
米国とイスラエルの強い結束は断てない。ユダヤ人が祖国建設を希求するのは、悲惨な歴史体験に根付く。だがパレスチナの苦しみが続く現状は、認められない。パレスチナは暴力を、イスラエルは入植をやめる必要がある。2国共存が唯一の解決だ。
◆イラン、核問題
米国は冷戦中、民主的に選ばれたイラン政府を転覆させた。イランは、米国に対し暴力的だった。今後は互いを尊重し、話し合う。核への姿勢は揺るがない。米国は、いかなる国も核兵器を持たない世界を追求する。核拡散防止条約に従う国々はイランを含め、平和利用を認める。
◆民主主義
どの国も特定の政治体制を他国に押し付けられない。各国には伝統に根ざす原則がある。ただ発言の自由、法の下の平等、自由に生きる権利は人々から奪えない。
◆宗教の自由
イスラムには寛容の伝統がある。宗教の自由は人々の共存に不可欠だ。
◆女性の権利
髪を隠すのは女性差別ではない。教育を受けられないのは不平等だ。
◆経済発展
日韓のように文化を保持しながら経済成長した国もある。湾岸諸国は石油で豊かになったが、教育と革新が重要だ。今年、イスラム社会と米国との企業家サミットを開く。新エネルギーやきれいな水を作るための科学特使を任命し、イスラム圏と技術開発を進める。
世界平和が神の意思だ。私たちが実現させなければならない。【カイロ支局】
6月2日夕方、《首相VS記者団 対北朝鮮「6者協議の枠組みで話をしていくのが一番いい」6月2日午後6時58分~》(毎日jp/2009年6月3日)によると、首相官邸でのぶら下がり記者会見で支持率の低迷、政策不人気、自民党内反乱等で悩み尽きないらしく、大分頬がおこけになられている我が日本の麻生太郎総理大臣は北朝鮮のミサイル発射問題についての応答の後、そのことに関連して後継者問題について記者から次のような質問を受け、次のように答えている。
Q:総理、関連してですが、フジテレビです。金正日総書記の後継者問題が浮上していましたが、韓国の情報当局がですね、三男の金正雲(ジョンウン)氏に決定したとの通知が、北朝鮮の在外公館から送られてきたという報道を発表しましたが、総理はこの後継問題についてはどうお考えでしょうか。
A:他国の後継者について私のほうで、それがいいとか悪いとかいうコメントを言うことはありません。――
たったこれだけ。
6月5日の「msn産経」記事《金正男氏 マカオで亡命の公算 側近らが相次ぎ粛清 金正雲の後継体制作り急ピッチ》が題名が示唆しているように三男正雲後継を目指して、多分それを確実にするために権力の分散、もしくは分裂の阻止を狙ってのことだろう、北朝鮮国内での金正日の長男正男(ジョンナム)周辺で粛清の動きが出てきたために滞在先の中国特別行政区マカオに留まり、中国に亡命する公算が強まっていると伝えている。
記事は韓国などの情報当局筋からの情報として、北朝鮮の秘密警察である国家安全保衛部が4月3日午後8時頃、平壌市内で正男の複数の側近を拘束しとも伝えている。
また記事は北朝鮮の朝鮮労働党が中国共産党に金正雲氏の後継を伝えたとされていることと、その伝達に対する中国の態度を伝えている。
(1)世襲反対
(2)改革開放
(3)核放棄
以上の3項目を求め、金正雲氏の後継を認めていないとしている。
我が日本の麻生太郎総理大臣の「他国の後継者について私のほうで、それがいいとか悪いとかいうコメントを言うことはありません」とは大違いの積極的「コメント」となっている。
尤も中国のこの3項目の要求は5月25日の北朝鮮の地下核実験に対して強い非難の姿勢を示していながら、安保理での制裁決議となると慎重姿勢に転じているように、他の大国とのバランスから世界の常識から言ってより正しいとされる態度を取らざるを得ず、タテマエとして取るが、ホンネの態度は違えているように表向きの姿勢だと疑えないこともない。
それに表向き世襲に反対することによって、同じ一党独裁であっても、世襲の北朝鮮よりはましだと世界に示すこともできる。世襲制度を採っていない我国としては表面的には反対しなければならないが、最終的にはあなた方が決めることだと内々に伝えている可能性も否定できない。
金正日権力の世襲継承とはわざわざ断るまでもなく、今ある金正日体制の継承を併せて行う。金正日体制は金正日が一人で担っているわけではなく、体制の頂点に位置する金正日の最周辺を忠実・忠誠な複数の側近で固めていて、各側近はそれぞれに忠実な部下を複数従え、そのような忠実・忠誠集団のパターンを下層方向に段階的に人数を増やしていく形で裾を広げていきピラミッド型を形成する。勿論その中には軍上層部を頂点として最下層の一般兵士までピラミッド型に裾野を広げた軍部も含む。、
権力世襲継承者はその体制をも継承する。だが、世襲権を持った人間が3人もいれば、それぞれから厚遇された者がそれぞれに忠実・忠誠な集団を派閥の形で形成することになるし、中には先物買いで世襲継承するに違いないと当りをつけて自分自身も特大の権力を握ることができると計算を働かせて肩入れした側近もいるだろうから、一人に決定した場合、それぞれの派閥利害が対立することとなって、その対立の中で世襲継承に将来的に阻害要因となりかねない危険分子と看做された場合、粛清という名の対立解消、あるいは阻害要因の排除が断行されもする。
また権力の世襲継承の場合、既にブログで何度か言っていることだが、世襲継承の正統性を父親である金正日の正義に置く。金正日が金日成から権力を世襲継承したことの批判に対して、「金正日は金日成の息子だから後継者となったのではなく、もっとも優れた後継者がたまたま金日成の息子だった」(「Wikipedia」)と宣伝しているそうだが、金日成が正義の存在でなければ成り立たない継承の正当論理であろう。
3人の息子のうち、誰が金正日の権力とその体制を継承しようとも、その者は金正日体制を支えてきた側近と、両者が共々つくり出した先軍政治をも継承し、それを金正日が生み出した正義として正当づけなければならないことから、例え金正日の死後であっても、そこから外れようとした場合、側近たちが障害となって立ちはだかるに違いない。先軍政治は金正日を独裁者として支えてきた側近たちにとっても、失ってはならない虎の子の最大利害だからだ。
体制を変えた場合、側近たちは失脚の危険を伴い、失脚した場合は握っていた権力をも失う。場合によっては政治犯、あるいは国家反逆罪の罪を着せられて刑務所送りとなり、最悪の場合死刑に処せられないとも限らない。
失脚と権力失墜を防ぐには自分たちがつくり出した金正日独裁体制という世界を何が何でも維持しなければならない。
いわば世襲権力継承によって、中国が要求していた「世襲反対」ばかりか、「改革開放」も「核放棄」も、少なくとも近い将来に亘って実現可能性は見込み薄となる。
日本側からしたら、「拉致問題」解決も遠のくことになるだろう。金正日に正義を置く世襲継承である間は、金正日の仮面を暴くことは重大なタブーとなるからだ。
それを「外交の麻生」を売りにしている我が日本の総理大臣麻生太郎は「他国の後継者について私のほうで、それがいいとか悪いとかいうコメントを言うことはありません」と、カエルのツラに小便で済まして憚らない。
北朝鮮のミサイル発射や核実験に対して「安保理制裁決議だ」を声高に叫ぶよりも、世界は「権力の世襲継承反対」を声高に叫ぶべきだったろう。北朝鮮の核や、長距離ミサイルの所有は国民の自由を抑圧し、世界を敵に回して平然としている独裁者が支配・君臨している国だからこそ危険であって、警戒が必要となってくるのであって、権力の世襲継承はそのような危険性の根を断ち切らずに存続させる方向に手をこまねくことになる。
その反対は当然、権力の世襲継承を何が何でも謀っている金正日にとって大いなる圧力となるはずである。
勿論、反対を内政干渉と反撥するだろうが、国連総会特別首脳会議が05年に「保護する責任」として国家が国際社会と共々負うべきと掲げた理念に基づいて、国民の人権と自由を抑圧し、その多くを飢餓に陥れている独裁体制をそっくりと受け継ぐ世襲継承に対する反対は内政干渉に優先するとすべきであろう。
以前ブログにも書いたことだが、「保護する責任」とは、「Wikipedia」が次のように紹介している。
基本理念
国家主権は人々を保護する責任を伴う。
国家が保護する責任を果たせない場合は国際社会がその責任を務める。
国際社会の保護する責任は不干渉原則に優先する。
保護する責任には、「予防する責任」を筆頭に、「対応する責任」と「再建する責任」の3つの要素が包まれていて、「予防する責任」を尽くした上で解決しない場合は、軍事干渉も含む状況に対する強制措置を「対応する責任」として認めている。
そして「対応する責任」を遂行した後、復興、和解等の「再建する責任」を課している。
「保護する責任」を掲げて、権力の世襲継承に反対する。金正日の独裁政治に対抗する。
少なくとも実際の制裁決議となると腰を引く中ロとの妥協の産物となって実効性が弱められることとなる決議よりも、北朝鮮もそのことを計算に入れてミサイル発射や核実験を行ったのだろうが、圧力としての力を持つに違いない。
はっきりと言えることは、我が麻生の「他国の後継者について私のほうで、それがいいとか悪いとかいうコメントを言うことはありません」とは雲泥の差で圧力効果はあると断言できる。
京都市内の居酒屋で行われた体育学系学生の90人規模の「追い出しコンパ」で容疑者の男子学生らが「有志がコップを持って起立して、ヨーイドンの合図で、コップ1杯飲みきる速さを競い、最下位者はもう1杯飲むルールのダービーゲーム」(TBSニュース)という酒の一気飲み競争で酔いつぶれた女子学生を1階上の別室に連れ込み、大学側の調査で部屋の外に見張りを置いて4人が性的行為をし、残り2人がわいせつ行為に及んだ。
被害者の女子学生が心の整理に6日間必要としたのか、事件から6日後の3月3日、大学に相談。大学側は(多分、飛んでもないことをしてくれたと慌てふためいて)調査委員会を設置、3週間後の3月24日に女子学生の保護者に調査結果を報告。
「公共の場所で性的なことをした公然わいせつは6人とも認めたが、同意があったのか、無理矢理だったのか、細かいところは判断できない。・・・・警察に告訴するかどうかを考えてください」(msn産経/2009.6.1 22:28 )
その理由を京都教育大学寺田学長は6月1日の記者会見で次のように述べている。
「大学は捜査機関ではないので、細かい事実を追及するのには限界があった。(大学として)警察に早期に相談しなかったのは、内密に事実確認を行うことを優先したため」(同msn産経)
被害者家族への報告1週間後の3月31日に6人を無期限停学処分とする。
但し、記者会見で当初は6人の処分を「教育的な指導を成功させるために発表しない」と隠していたが(新聞は「拒否していた」〈日刊スポーツ/2009年6月2日7時1分〉となっているが)、4時間に及ぶ記者会見の中で後になって無期限停学処分であったことを公表。
また同じ記者会見で大学側が女子学生から相談を受けたのち、自らは警察に届け出なかった理由を――
「われわれが家族に報告したことで、家族による通報につながった」(「NHK」)
「被害者の立場を考慮した」(「毎日jp」
「対応が遅くなったのは被害者の女子学生の学内や社会に知られたくないという心情を配慮したため」(「日刊スポーツ」/2009年6月2日7時1分)
大学の対応が生ぬるい、埒が明かないと見たのか、3月27日になって女子学生の家族が3月27日に府警に通報。4月4日に女子学生自身が警察に告訴(上出日刊スポーツ)。
警察の取調べに対して、1人は容疑を認め、5人は「合意の上」を主張、容疑を否認しているという。
大学は警察の逮捕、そして記者会見を経てから6月3日に学生への説明会を開催。事件の経緯の説明と再発防止を訴えている。
寺田学長「人権の知識があり、テストで正解できるかもしれないが、果たして行動ができているのかあらためて考えてほしい」〈「NHK」〉
寺田学長「人権を踏みにじる卑劣極まりない行為。人権に対する意識を高め、行動に反映してほしい」(時事ドットコム)
以上見てくると、マスコミも指摘していることだが、矛盾点がいくつか浮かんでくる。
居酒屋の使われていない部屋を「公共の場所」と言い、そこで行われたから、例え複数の男性による一人の女性に対する性行為であったとしても、「公然わいせつ」としている。
公然猥褻は不特定、または多数の人間を何らかの形で介在させた空間での性的行為を通して自身の性欲をより強い刺激で以って充足させようとする行為であるか、あるいは金銭的利益を得る等の目的で不特定、または多数の人間の前で何らかの性的行為に及び、彼らに金銭支払いに対する代償として性的刺激を与える商行為等を言うのであって、学生たちが各々の性行為に相互に刺激を受けたとしても、不特定、または多数の人間の介在を性的な刺激充足の条件としていたわけではなく、自分たちの性欲充足のみを目的に力を頼み、数を頼んで行う性的行為は当てはまるはずはない。
また「大学は捜査機関ではない。細かい事実を追及するのには限界があ」り、「同意があったのか、無理矢理だったのか、細かいところは判断できない」と言いながら、「公然わいせつ」と認定して、大学としての処分を行う矛盾を犯している。
女子学生が警察に告訴した以上、「同意していない」という証言が大学側にあったはずである。その時点で6人共が「合意の上」と主張していたとしても、「細かいところは判断できない」としながら「公然わいせつ」としたのは男子学生側の言い分のみを受け入れたからだろう。
「細かい事実を追及するのには限界がある」も「細かいところは判断できない」も口実に過ぎず、大学は女子学生の言い分を無視したということだろう。これはある意味、無実の罪、冤罪をかぶせたことにならないだろうか。細かいところまで判断して、女子学生の言い分はウソの主張だと認定した上での「公然わいせつ」と言うことなら、理解できないでもない。
「合意の上ではない」、「合意の上だ」と双方の主張が平行線を辿ったなら、「捜査機関」ではないと言うなら、警察に通報すべきを自分たちの処分を優先させた。しかも「教育的な指導を成功させるために」すべてを公表せずに伏せておいた。
それまでの大学の6人の学生に対する「教育的な指導」の結果が既に無効果だったと出ているにも関わらず、その原因をつくり出した「教育的な指導」の不備・矛盾に視線を向け、検証することもせず、それが「公然わいせつ」を事実としていたとしても、犯罪行為であることに変わりはないはずだが、「教育的な指導を成功させるために」を口実に犯罪事実の公表を差し控えた。
大学の体面保守と大学側の責任回避と批判されたとしても仕方がないだろう。
大体が被害女子学生が4月4日に警察に告訴しているのだから、その時点で女子学生が「学内や社会に知られたくないという心情」にはなかった(大学に相談した3月3日の時点で既にそのような「心情」にはなかったのかもしれない。)――いわば学生たちの行為を罪として糾弾しようとしていたことが明らかに分かっていなければならないにも関わらず、6月の1日の記者会見で、対応遅れの口実に「女子学生の学内や社会に知られたくないという心情を配慮したため」を使っている。教育者として、卑怯極まりない行為ではないか。
警察の取調べに対して全員が「合意の上」を主張しているなら、裁判の決着を待つしかないが、一人が認めている以上、強姦行為があった疑いは濃い。勿論今後の取調べや、あるいは裁判になってから容疑の否認に転ずる場合もあるが、現在のところ、そういった兆候は見せていない。
警察が逮捕事実とした「集団準強姦容疑」を前提とすると、強姦行為はセクハラ同様、権力行為であり、その最たる権力性である独裁性を担わせた行為であるのは断るまでもなく、その方面からの考察が必要なのだが、大学はそのようには行っていない。
集団強姦は表面的には集団による相手の意志を無視し、行動の自由を奪って身体的に強制的・一方的な性行為の形を取るものの、内実は行動の自由を奪うことによって一人の女性の精神の自由まで奪い、踏みにじってそれを支配する加害側の意志を唯一絶対とした、絶対とすることによって成立可能となる暴力的な独裁的権力性が集団で演じられたのである。
寺田学長が説明会で、「人権を踏みにじる卑劣極まりない行為。人権に対する意識を高め、行動に反映してほしい」と言ってはいるが、「人権を踏みにじる」ことを可能とする最たる力は独裁権力であろう。独裁権力こそが、最大限に精神の自由・行動の自由を奪うことができる。
子どもを恣意的に虐待する親を見れば理解できる。親は子どもに対して自己を独裁的な絶対君主に位置づけているからこそ、虐待を通して子どもの自由を奪い、精神の自由を奪って、それを支配し、子どもの「人権を踏みにじる」ことができるのである。
当然、子どもはただ暴力的な虐待を受けているだけではない。行動の自由も精神の自由も親の支配を受けて奪われているのである。金正日独裁権力によって北朝鮮国民の多くが行動の自由も精神の自由も奪われて、支配を受けているように。
女性にとって強姦被害はまさに行動の自由を奪い、精神の自由を奪う最たる独裁権力が衝撃的な形で理不尽にも行使され、その力に支配されたに等しい出来事であろう。
だが、大学は自らの調査の間、被害女子学生の「人権を踏みにじる卑劣極まりない行為」とは認識していなかった。認識していたなら、女子学生に対する不利を無視して、男子学生にのみ有利となるより罪の軽い、当然退学ではなく、無期限停学というより軽い処分につながった「公然わいせつ」と看做さなかったろう。
「人権を踏みにじる卑劣極まりない行為」は自分たちの公表を控えた判断、警察に自らは通報しなかった判断、さらに無機停学という処分に対する責任回避のための世間に対する後付の取り繕いに過ぎなかったと見て、間違いない。
取調べで「当時4年生だった学生が主導的な役割を果たしていたことも判明。3年生のうち2人は従属的な立場だった」(msn産経/2009.6.2 14:42 )と伝えていることも、そこに特に体育系部活に今以って色濃く残っている昔ながらの上は下を従わせ、下は上に従う先輩・後輩の権威主義的上下関係が集団行動力学として働いていて、その権威主義性が行動の自由と精神の自由を究極的に奪う独裁性を伴って一人の女子学生を支配・攻撃する集団強姦に反映されたと見るべきだろう。
勿論、一部の不心得な学生のみの問題だとする意見もあるだろうが、一部の体育会系部活のみが権威主義的行動性を受け継いでいるのではなく、一般の学生のみならず、日本人も全体的に基本のところで受け継いでいる権威主義性とみなければならない。
このことは11年度に小中学校共に全教科で「言語力」育成を求める新学習指導要領が全面施行されることに現れている。
「言語力」の育成とは、実行可能であるかどうかは別問題として、これまでの暗記教育からの軌道修正を図るものであろう。暗記教育とは教科書に書いてある知識を教師がほぼそのままなぞって一方的に解説・伝授し、それをそのとおりに生徒が受け継ぎ、記憶する、他者の知識・情報をそのまま自己の知識・情報とする教育形式を言う。
このことは上は下を従わせ、下は上に従う権威主義的な知識及び情報の授受の力学を受けて、上位他者の知識・情報の支配・束縛を許すことを意味する。上位他者の知識・情報を以ってして自己の知識・情報と看做し、それを言葉でよりよく発信する能力を「言語力」とは言うまい。
「言語力」とはあくまでも他人の知識・情報ではなく、その支配から自由な場所に立ち、自分独自の言葉を持ち、それをよりよく発信する能力を言うはずである。
他人の知識・情報の支配から自由な場所に立つには断るまでもなく、精神の自由を基本条件とする。無条件・無考えに他に従う、あるいは他の支配を受ける権威主義性に染まった精神であっては、精神の自由は遠い存在となって、自己に独特な「言語力」は獲得無縁となる。
このことは「自律」という言葉に言い換えることもできる。自律は精神の自由によって保障され、当然の結果として知識の面でも情報の面でも、あるいは行動や意志の点でも自律している程、いわば他から自由である程、「言語力」はあるべき独自性(=自由な姿)を備えることができることになる。
「新学期になって顧問から、コンパでは飲酒を控えろと言われた」(上出msn産経)と同大学の体育会クラブ所属4年の男子学生(21)の言葉を伝えているが、「顧問」のこの言葉は本質的な問題を問わずに表面的な態度を取り繕わせて無難を願う言葉に過ぎず、男子学生にしても何ら思考の咀嚼も経ずに丸のまま受取って口にした言葉であって、両者とも独自であるべき「言語力」に見るべき独自性がないことを曝している。「言語能力」も自律精神もゼロと言うべきであろう。
この学生が将来学校教師を目指しているかどうかは不明だが、顧問は学校教師を目指している学生をも指導しているはずだから、この程度の「言語力」、自律精神で教師育成に参加しているとしたら、空恐ろしいことではないか。
「言語力」及び自律心が精神の自由を基本条件として獲得可能とするなら、それを否定し、上位他者の知識・情報の支配・束縛を受ける日本の教育形式としている暗記教育からの解き放ちが必要となる。
勿論、日本人が行動様式としている権威主義性を基本として暗記教育を成り立たせているのだから、暗記教育は幼児期の家庭教育から始まって、幼稚園・保育園と続き、小中高大学と段階を経て広範囲化し、且つ強化されていく。
6月2日の「asahi.com」が《保育所2割広くすべき?専門家は提言、待機児解消には壁》という記事を伝えていた。
認可保育所の子ども1人当たりの現行面積の最低基準は0~1歳で3.3平方メートル以上(ほふく室)、2歳以上で1.98平方メートル以上と定めているが、厚生労働省の委託を受けた保育や建築の専門家らが、1948年の制定後、改正されていない国の最低基準引き上げて2割広げるべきだと提言する報告書をまとめたという内容の記事である。
〈他国の3歳以上の子ども1人当たりの面積基準は、スウェーデン・ストックホルム7.5平方メートル、フランス・パリ5.5平方メートルなど、日本を大幅に上回る。 〉という。
要するに日本の国が経済的に豊かになった分、〈落ち着いて食事や昼寝をすることが子どもの心身の発達に重要で〉、そのことに役立てるために、〈食事の場と昼寝の場を分ける〉等の設備の充実が必要ということらしい。
だが待機児童解消策として自治体が最低基準を緩和して保育所の設置に動いている関係から、逆に最低基準を上げると、保育所の新たな設置を特に必要とする都市部程、設置が困難になるという逆説状態が起きるという。
確かに身体的に伸び伸びと育つには広い生活空間を必要とするが、身体的には伸び伸びと育っても、日本の教育形式である暗記教育の伝統・文化を受けて他者の知識・情報の支配・束縛を許し、その代償に他者の知識・情報の支配を受けずに自己に独自な知識・情報を獲得する精神の自由を失ったのでは、心身の発達という点で偏りが生じ、さらに「言語力」の育成も自律心の育みも覚束なくなる。
物理的な空間の広さよりも、他の意志の支配を受けない精神的な空間の広さ(=精神の自由)に重点を置いた教育が望まれるのではないだろうか。
以下参考引用。
《保育所2割広くすべき?専門家は提言、待機児解消には壁》
(asahi.com/2009年6月2日15時1分)
認可保育所の子ども1人当たりの面積は、現行基準より少なくとも2割広くすべきだ――。厚生労働省の委託を受けた保育や建築の専門家らが、1948年の制定後、改正されていない国の最低基準引き上げを提言する報告書をまとめた。ただ、基準引き上げは保育所整備を滞らせ、待機児童の解消がさらに難しくなる可能性がある。
最低基準は、保育室の1人当たりの広さを0~1歳で3.3平方メートル以上(ほふく室)、2歳以上で1.98平方メートル以上と定めている。
基準が制定された48年当時は貧困家庭の子どもへの対応などを目的としていたが、いまは共働きの家庭などの増加に伴い、保育所の利用児童数は増え続けている(昨年4月現在202万人)。
報告書は保育所の利用時間が長くなっていることをふまえ、落ち着いて食事や昼寝をすることが子どもの心身の発達には重要だとして、食事の場と昼寝の場を分ける必要があると指摘した。
そのためには、0~1歳は4.11平方メートル以上、2歳以上は2.43平方メートル以上を確保するよう提言。「現在の最低基準は保育をすることが不可能ではないが、現行基準以上のものとなる方向で検討することが重要」と指摘した。
他国の3歳以上の子ども1人当たりの面積基準は、スウェーデン・ストックホルム7.5平方メートル、フランス・パリ5.5平方メートルなど、日本を大幅に上回る。
国内の認可保育所などへのアンケート(回答1738カ所)によると、実際の1人当たりの面積は、0歳児は5~5.5平方メートル、1歳児3.3~3.4平方メートル、2歳児2.7~2.8平方メートル、3~5歳児は2平方メートル程度が最も多かった。ただ、廊下や可動式ロッカーが置いてある部分などを除くと、実質的な保育室の広さが最低基準を下回っている施設もあった。
都市部を中心に現行の最低基準を満たす施設を整備することが難しいのが現状だ。東京都が独自に設置する「認証保育所」の一部では最低基準を緩和している。政府の地方分権改革推進委員会が昨年5月、自治体が独自に基準を決められるように緩和すべきだとの第1次勧告をまとめたのも、こうした背景がある。
一方、不況の影響で待機児童はさらに増える傾向にあり、昨年10月現在で約4万人にのぼる。厚労省幹部は「保育面積は保育の質の維持・向上にかかわる課題だが、基準を引き上げれば今後の保育所整備が難しくなる。待機児童対策との兼ね合いも考えないといけない」と語る。(高橋福子)
一昨日の当ブログ記事《麻生の国民を愚弄する「最初からこだわっていない」厚労省分割》でマスコミが、「最初からこだわっていません」としたことでぶれ・迷走だと取り上げていた厚労省分割・再編を麻生首相は5月19日の経済財政諮問会議で果して指示したのか、指示しておきながら、自民党や閣僚からの反対に遭って「こだわっていません」とあっさり撤回する、マスコミが言うとおりにぶれ・迷走を見せたのかを前置きに、例え指示しなかったとしても、厚労省が行政上の役目としている国民生活上の諸問題の多くで現在抱えている不備や矛盾の解決に十分に機能していない以上、分割・再編に「こだわっていなません」なら、どのような方法・政策で諸問題を解決に導くのか国民に説明する責任がある、「こだわっていません」で終わらせるとしたら、国民を愚弄することになるといったことを書いたが、5月30日の「スポーツ報知」が民主党の森ゆうこ氏に対する答弁として、「厚労省や内閣府など、国民生活に関係する府省の部局を再編、強化してはどうかと申し上げた。厚労省だけ例に引いて分割しろとは言っていない」と改めて分割・再編を全面否定していることを伝えていた。
「厚労省や内閣府など、国民生活に関係する府省の部局を再編、強化」と、厚労省と内閣府の名前を具体的に挙げた以上、その両省を特に対象とした「再編、強化」を指示したのであって、「厚労省だけ例に引いて分割しろとは言っていない」といくら強弁しても、組織の「再編・強化」の中には「分割」による機能向上の可能性をも視野に入れた議論の必要性を条件とするだろうから、少なくとも暗黙の了解事項としていたと言えるのではないだろうか。
5月29日の「asahi.com」記事《厚労省分割、与謝野氏が持論を首相発言に「上乗せ」紹介》は麻生首相の「厚労省だけ例に引いて分割しろとは言っていない」(上記「スポーツ報知」)にも関わらず、与謝野大臣が「厚労省の仕事の切り分け、すなわち組織の分割、幼稚園と保育所の(所管の)一元化は与謝野大臣が案を出してくれとの指示があった」と記者会見で紹介したのは拡大解釈に走ったための誤りで、「正確には首相は『考え方の整理をして下さい』と言われた」と訂正したことを厚労省の分割・再編は与謝野大臣の持論で、直接的には言っていない首相の発言に「上乗せ」紹介したものだとして、麻生太郎はぶれたわけでも迷走したわけでもない説に立った内容となっている。
「スポーツ報知」が伝えている5月29日午前の参院予算委員会で麻生太郎が森ゆうこ議員の質問に具体的にどのような言葉を使って答弁しているのか、「参議院インターネット審議中継」HPから質疑の模様をダウンロードして、文字に起こしてみた。森ゆうこ議員は太字で表記したが、麻生首相及びその内閣は影が薄くなったから、麻生と麻生以下の閣僚は細字表記とした。悪しからず。
感想は例の如く途中途中で青文字で記した。
森ゆうこ「ちょっと厚労省分割について確認したいんですが、総理大臣、厚労省分割は断念したのでしょうか」
麻生「あの、厚労省の分割っていうのは、えらい踊っていますが、あれ、是非、あれを、あれは、テレビで、公開したから、みんな見ていたでしょう?あの議論の内容、あれ全部、公開ですから、私の発言も、全部公開ですよ。
そんな中で、分割って言葉が載ってました?聞いたでしょう?私はあれを聞かれた方は、どう思われました、ということは知りませんが、少なくとも、あれを、私はもう一回見てみました。けども、国民の安心安全を確かなものにするため、厚生労働省や内閣府など、国民生活に関係する府省の部局を再編成・強化してはどうかと考えている、ということを申し上げました。
そのとおりに申し上げていますんで、現在官房長官を中心に、関係閣僚に検討していただいておると、いうことであります。従って、我々といたしましては、厚生労働省だけを例に引いて、直ちに分割しろなどという話は、あの、までは、あのー、一つも、出ておりませんでしたので、是非、あれは公開された、公開されておりますテレビから、是非、もう一回、ご覧になっていただくことをお勧め申し上げます」
(女性に「君と生涯を共にしたい」と言った男が嫌いになって、「俺はお前を愛していると一度も言っていない」と開き直るようなものではないのか。「生涯を共にしたい」の中に「愛している」という感情が含まれているはずなのと同じく、「再編成・強化」の中に“分割”も可能性として含まれているはずである。
また、上記「asahi.com」記事が伝えているように与謝野大臣が厚労省の分割・再編を持論としているなら、そのような人間に「再編成・強化」という言葉を使ったとなれば、例え「分割って言葉が載って」いなくても、「分割までやらなくてもいいですよ」と特段な断りを入れてないなら、持論への誘導を必然化させる「再編成・強化」の指示となったとしても不思議ではない。
また与謝野が自分の持論を麻生が承知していると認識していたなら、持論の方向での「再編成・強化」の指示と受け止めたとしても、これもごく自然な判断と言える。
それが上記「asahi.com」記事が言う「持論を首相発言に『上乗せ』紹介」ということだろうが、麻生が厚労省組織の分割・再編を「最初からこだわっていません」と言ったものだから、そこに辻褄を合わせるための「正確には首相は『考え方の整理をして下さい』と言われた」(「asahi.com」>)の訂正であって、理解の道理から言ったなら、麻生にしても与謝野大臣の厚労省組織に関わる持論を知らないはずはないだろうし(知らないとしたら、元々たいした能力ではないと分かっているものの、自分の部下に対する任命権者としての情報管理能力及び人事管理能力が疑われることになる)、そこに持論(=厚労省の分割・再編)への暗黙の了解が働いていたと見るべきだろう。
要するに「厚生労働省だけを例に引いて、直ちに分割しろなどという話は」、「出て」いなくても、テレビがそのことを証明したとしても、直接的にある言葉を使わなかったからといって、その言葉が意味する内容を以心伝心で伝える例はいくらでもあるのだから、偶然口にしなかったことを狡猾にも利用したウソつきだけがなし得る「最初からこだわっていません」の狡猾な正当化に過ぎなかい疑いが濃厚である。
これはウソをウソで塗り固めるようなものであろう。)
森ゆうこ「与謝野大臣、総理からその件に関して、どのようなご指示があったのでしょうか」
与謝野「えー、これも公開された議論に載っておりますけれども、総理のご発言は色々な意味があるので、それらの意見を経済財政諮問会議で、ええ、ええー、与謝野、おー、元で、整理をして欲しいと、いう、整理をして欲しいというご注文がありました。
それは議事録にちゃんと、そういうふうに書いてありますんで、あのー、総理が使われたことは、分割しろとか、分割案を作れというではなくて、色々な考え方があるんで、整理をしてくれと、こういうご指摘があった、わけでございます」
(苦しい答弁となっている。「総理のご発言は色々な意味があるので」は、自分は「分割・再編」の「意味」で受け止めたが、別の「意味」であったと言っている「色々」のはずである。
だが、実際問題として、「総理のご発言は色々な意味があ」ったのでは的確な指示が迅速に伝わらないことになって、指揮が混乱する原因となりかねず、内閣の長たる資格を失うことになる。10人が10人とも別々の「意味」で指示を解釈したとしたら、滑稽な大混乱に至ることとなって、こちらの方が重大問題となる。「色々な意味がある」としたこと自体が既にウソ・ゴマカシの境地に足を踏み入れていると言える。)
森ゆうこ「何をどのように整理して、いつまでに結論を出せというような明確なご指示があったんでしょうか」
与謝野「えー、こういった問題は、あのお、色々な方が、色々な考え方を、するわけです。えー、現状維持がいいと、いう方もおられるし、まあ、三つに分割しようと言われる方もおられるし、まあ、100人のお話を聞くと、100ぐらいの案が出てくらい、出てくるくらい、やっぱり、あの、整理整頓すべきは、ものの考え方であって、その分割案とか、そういうことじゃなくて、基本的な、あの、ものの考え方、例えば、国民によりよい、社会保障サービスを提供するための体制、あるいは現場感覚を持った、責任体制。えー、それから、よりキメの細かい福祉行政サービスは何か、そういうものの考え方が大事なんで、役所があっちにくっついている、こっちについている、くっついているということは、実は枝葉末節の話だろうと、私は思ってまして、考え方を整理すると言うか、総理のご注文は、ちゃんと今後、あのー、骨太方針でお答をしてきたいと思っております」
(分割だって何って、「ものの考え方」次第で形を取っていくのだから、当然「ものの考え方」は重要だが、「社会保障サービスを提供するための体制、あるいは現場感覚を持った、責任体制。よりキメの細かい福祉行政サービスは何か」云々は今更ながらにことさら言わなければならない議論項目ではなく、常にすべての議論の下敷きとしていなければならない基本的な注意点であり、心がけとしなければならない大事な取るべき姿勢そのものであって、そういった注意点・心がけを下敷きとして、組織・制度を運用していく上で、役所は機能しているのかどうか、現行組織が時代とズレを生じせしめていて、運営がスムーズに行われなかったり、障害が起きたりするといった欠陥・不備がありはしないか、改良点があるということなら、具体的な制度・組織の運用面に於ける改善を議論・模索する段階へとつながっていく。当然そこには「分割・再編」を含めた組織改革(いわゆる組織いじり)まで進んで検討されるケースも生じる。
それを基本的な注意点とし心がけとしなければならない事柄にのみ、「ものの考え方」が重要だなどと言っている。つまり麻生と与謝野の釈明からすると、トンチンカンにもすべての議論の下敷きとしなければならない基本的な注意点・基本的な心がけを考慮する場面にまだとどまっていることを示している。制度・組織の運用面での矛盾点を把握し、どう改善したらいいか、具体的な制度・組織の改善、あるいは運用方法の改善を議論・模索する段階へとまだ進んでいないことを示している。何という遅さ。)
森ゆうこ「考え方を整理しろ、ということなんでしょうか。つまり、総理には特別な考え方はなかった――」
与謝野「先ず大事なのは、組織いじりとか、そういう発想ではなくて、どのようにものを考え、どのように国民に対する社会保障サービスを、より効率的なより確かなものにするかと、そのものの考え方が、多分、私には一番大事なんだと思っております。ええ、それは多分総理のお考えではないかと思います」
(同じ内容の答弁を繰返したに過ぎない。社会保障制度でも介護問題でも、母子問題でも、その改革・改善は待ったなしであるにも関わらず、既に時間を費やしていてもいい組織改革や制度改革、あるいは運用面での改善に踏み込むところにまで進んでいなくて、「ものの考え方の整理」に重点を置く姿勢を前面に打ち出して、そのことに今以て時間を費やそうとしている。
麻生は「経済対策はスピード感を持ってやらなければならない」と言っていたことを裏切って補正、補正の手直しばかり続けて「スピード感」を自分から損ねていたが、「国民の安心安全の立場に立っ」た省庁の再編問題でも、まだ手をつけるところまでいかない「スピード感」を見事発揮している。)
森ゆうこ「総理、それでよろしいんですか?」
麻生(最大限に口を尖らせて)「一番最初に森先生には申し上げましたように、国民、の安心安全を確かなものにするためということ、最初に申し上げておりますんで、基本は申し上げていることは同じだと思いますが」
(「国民、の安心安全を確かなものに」できないでいる。当然、各種の社会保障関係制度その他に欠陥・不備があるのか、運用面で欠陥・不備があるのか、議論・模索する段階にとっくの昔に進んでいなければならない。答を見い出して、制度をいじるのか、運用方法を改善するのか、結論に至る段階を経て、改善策の構築に取り掛かっていなければならない。カネをばら撒くことだけにかまけていて、そのことにのみ「スピード感」を発揮するあまり、「国民、の安心安全を確かなものにする」暇はなかったと言うなら、情状酌量の余地無きにしも非ずだが。)
《麻生厚労省分割・再編「こだわっていません」のウソを民主党森ゆうことの参議院質疑から改めて暴く》(2)
に続く
森ゆうこ「あのー、えー、その、でも、(麻生の「あのー、そのー」が伝染したのかと思った。)特に、あの、幼保一元化について、今が判断の時期だというふうに強調されたと、いうふうにお聞きしてるんですが、けれども、これ違いうんですか?」
麻生「幼保一元化、この話も、国民生活や幼児教育、子育て支援というものが、国民生活を守るために極めて重要なことだと考えております。ご存知のようにこれは幼稚園と保育園をそれぞれに異なる役割、異なる役所に所属していることもありますんで、一元化を進めておりますのはご存知のとおりであります。
そういった意味で、国民生活の安心をより確かなものにするためには行政体制のあり方の検討に、いや、行政体制の検討に合わせてそれぞれの行政組織についても、議論等の対象とするようにお願いしてあると言うのが、その言葉とおりだと思っております」
(「幼保一元化」の方は「一元化」という組織再編の「議論の対象とするようにお願いする」段階にまで進んでいる。一方の厚労省の方は色々と不備・矛盾が生じているにも関わらず、組織再編よりも「ものの考え方の整理」の段階に踏みとどまっている。ウソが生じせしめた矛盾であろう。)
森ゆうこ「一国の総理の言葉というのは重いんですね。まあ、拘りがなかったんだったら、なかったら、なかったと言わなければならなかったんでは・・・と思います。」
(以上が「最初からこだわっていません」に関する質疑で、以下は民主党新代表鳩山由紀夫との党首討論の中で小沢政策秘書が逮捕・起訴された段階で、さも刑が確定したような発言をしたことを取り上げている。)
森ゆうこ「そしてもう一つ、総理の発言について、総理のご発言について、ですね、一昨日の、国家基本政策委員会の、いわゆる党首討論に於きまして、私は看過できない発言がございましたので、ご確認をさせていただきたいと思います。この予算委員会です。以前にも西松事件関連に関して、行政の長たる総理大臣が、三権群立の基本を侵して、恰も、もはや、えー、犯罪を犯したことが確立したかのような発言をされるということは、この三権分立の根幹を侵すものだ、そのように思いますが、いかがでしょうか」
麻生「先ず、再々したように、私の方から、それまでの議事録を読ませていただきますと、何回か、三回程申し上げているのですが、今ご指摘のありました点につきましては、それを飛ばしているところがあります。従いまして、小沢前代表秘書が逮捕された件に関する私の発言のところでありますが、誤解を与えるような発言があった旨のご指摘がありましたが、推定無罪の原則というものは言うまでもないことでありまして、係争中の個別事案の件について、判断を示したものではありません」
(極めつけのウソ八百となっている。次の質問で森ゆうこ議員も取り上げているが、麻生は党首討論で民主党が打ち出した企業献金禁止政策を西松問題及び小沢政策秘書逮捕と絡めて次のように言っている。
「企業献金、世襲の話などいろんなご論議があり、私はいいことだと思います。ぜひこれまで議論を積み重ねて、少なくとも後援会は企業、団体からの献金は禁止になったわけですから、それを犯された方がそこにいらっしゃるわけで、そういった意味では、きちんとした決着をつけねばならない」(「毎日jp」)
決して「係争中の個別事案の件について、判断を示したものではありません」ではない。逮捕・起訴・保釈と経緯を踏んでいるが、裁判が開始された段階に進んだわけでもなく、当然判決が確定したわけでもない。にも関わらず、三審まである裁判を飛ばして、さも有罪が確定、裁判が決着したかのように「それを犯された方がそこにいらっしゃるわけで」と「推定無罪」を軽い人間にふさわしくも軽々と飛び越えておいて、「係争中の個別事案の件について、判断を示したものではありません」と狡猾にも言って憚らないウソをついている。)
森ゆうこ「同じく私も議事録を持っておりますけれども、『少なくとも後援会には企業団体からの献金は禁止になったわけですから、そういった意味では、それを犯された方が、そこに、いらっしゃる、わけで』って、これは断定じゃなくて、何を断定なんですか?」
麻生「あの、基本的、基本的には、一部の、私共から見ますと、少なくとも、企業献金というものは、政党支部にしか出せないと、いうことになっていると、存知ます。それが、後援会、もしくは支援団体と、いうものに出されたと、いうことになれば、それは明らかに違法と言うことになろうと存じます。そこのところが問われているんだと思いますんで、そういった意味で、少なくとも逮捕・起訴された方がおられると、いう点は、私共としては、あの、何て言うの?推定無罪の原則、というものに対しまして、我々、我々、個別事案の帰趨について判断をしたと申し上げたものではございませんと申し上げました」
森ゆうこ「これ総理のご発言ですか?『本人が正しいと思ったことであっても、少なくとも、間違った場合は逮捕されるということは十分にある。それは国策捜査ということにあたらないのではないのか』
これもおかしいですよ。どう思いますか。これ正しかったと思いますか、発言」
麻生「もう一度確認するためにお願いします」
森ゆうこ「片道方式なので、あまり言いたく何のですけども、『本人が思ったと言うお話ですけども、正しいと思ったことでも、少なくとも、間違った場合、逮捕される』そうなんですか?」
(「片道方式」とは質問する側はどのような質問をするのか「質問趣意書」を答弁側に提出するが、答弁側はどのような答弁をするのか、質問側に「答弁趣意書」を出すわけではない一方通行を言っているのだと思う。)
麻生「本人が正しいと思ったとしても、間違った場合は、逮捕されるということも申し上げたと言うんであれば、そのとおりだと存知ますが」
森ゆうこ「あの、法務大臣、刑法38条代1項には何と書いてありますか。」
森英介法相「えー、お尋ねの38条でありますけれども、先ず第1項、罪を犯す意思のない行為は罰しない。但し、法律に特別の規定がある場合は、この限りではない。
2項、重い罪に当たるべく、行為をしたのは、行為のときに、その重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
3項、法律を知らなかったとしても、その罪を犯す意思がなかったとは言うことはできない。
繰返します。法律を知らなかったとしても、そのことによって罪を犯す意思がなかったとすることはできない。但し、情状により、その刑を軽減することはできる。」
(「法律を知らなかったとしても、そのことによって罪を犯す意思がなかったとすることはできない」を繰返したのは、政策秘書、さらには小沢前代表をその例に該当するとしたかったからだろう。だが、ここには麻生同様、「推定無罪」を超えて、有罪確定の意思を働かせている。)
森ゆうこ「では法務大臣として、その条項に基づいて、先程の総理のご発言をどのように判断されますか。?」
法相(怒ったように)「本人が正しいと思っても、逮捕されることは当り前のことだと思います」
(だが、裁判を経て、刑が確定したわけではない。「当り前のこと」だとして「逮捕」したことが不法とされる例は枚挙に暇がない。死刑判決を下して、冤罪だったという例もある。法務大臣でありながら、「逮捕」までの出来事で犯罪を犯したとするかのように扱い、「推定無罪」の原則を平気で無視して、そのことに気づかないでいる。)
森ゆうこ「犯意が存在することが刑法処罰の大原則じゃないのですか?」(大きな声で)
大声に気をとられて通じなかったの様子なので、再び立ち上がって、
森ゆうこ「犯意の存在することが刑法処罰の大原則であるのでは、ないでしょうかと申し上げております」
法相「これは先程申し上げましたとおりですが、法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとするすることはできない、ということで・・・」(最後までしっかり言わすに背中を向ける。)
森ゆうこ「兎に角、総理の発言、ご発言、私は許すことはできません。総理の資質を改めて疑いたい。疑念を呈したい、と言うふうに思います」(次の質問に移る。)
(警察や検察の逮捕事実の公表と取調べから心証として容疑を超えて限りなく法律に反する犯罪行為があった、“クロ”だと解釈したとしても、それはあくまでも“解釈”、であって、容疑を取り外す犯罪事実の認定は裁判所の“解釈”を待たなければならないのだが、麻生にしても法務大臣の森英介にしても、裁判所の“解釈”を待たないうちに逮捕・起訴までを以って、裁判所に代わって犯罪事実があったと認定する意思を働かせていて、どこにも「推定無罪」への意識の働かせがない。罪を犯したとする方が、選挙対策上有利となる利害意識がそうさせているに違いないが、利害で社会生活上の原則まで変えるのはウソをつくことに他ならない。)