石原都知事の刷り込み強制体罰論の正当性を問う

2012-05-20 12:12:31 | Weblog



 5月11日(2012年)、石原都知事と都民が話し合う「東京ビッグトーク」を都庁で開催。テーマは「子供の耐性をいかに培うか」

 4人の教育分野の専門家が参加したという。

 各記事から、コマ切れに紹介してあるそれぞれの発言を見てみる。


 戸塚宏・戸塚ヨットスクール校長――

 「しかることは必要」(YOMIURI ONLINE

 「正しく力を使い、感情を引き出し希望や夢が持てる能力を育てなければ」(MSN産経

 「力と暴力は違う。力は善なので正しく使えばいい」(毎日jp

 石原都知事――

 「九九を反復して記憶するような『すり込み』には強制が必要である。強制は一つの体罰。自我が発達しない中学生頃までは体罰が必要」(YOMIURI ONLINE

 「手をつないでゴールする運動会のように今の教育は能力の差を認めようとしない。体罰は一種の刷り込みで不可欠、徹底させることが必要だ」(TOKYO MX NEWS

 この発言は会話体ではなく、解説文となっていたものを会話体に変えた。

 川淵三郎日本サッカー協会名誉会長・都教育委員――

 「しごきのようなものを乗り越えないと超一流にはなれない」(MSN産経

 「トップアスリートは皆、しごきに近いことに耐えて超一流になっている」(毎日jp

 田上時子・女性と子どものエンパワメント関西理事長

 「体罰は否定しないが子は親を手本にする。親も自らの耐性を育てなければ」(MSN産経

 「体罰に頼るというのは、親としての想像力や知恵がない。自分も手を上げたことがあるが、娘に伝わったかは疑問」(毎日jp

 工藤定次・青少年自立援助センター理事長

 「就職できないだけで自殺せずに第二、第三の道を考える思考形態を培わなければ」(MSN産経

 「体罰は権力と結びついた時に暴走する危険がある」(毎日jp)――

 体罰容認派の石原都知事と戸塚宏・戸塚ヨットスクール校長、川淵三郎日本サッカー協会名誉会長・都教育委員の発言を取り上げる。

 先ず石原都知事の次の発言。

 石原都知事「九九を反復して記憶するような『すり込み』には強制が必要である。強制は一つの体罰。自我が発達しない中学生頃までは体罰が必要」

 刷り込みにもし強制があるとしたら、その強制と体罰が特性としている強制は明らかに違う。前者は暴力的要素はないはずで、後者は暴力的要素を力としている。

 にも関わらず、体罰を刷り込みというのは実際の体罰が持つ暴力的要素を曖昧化し、両者を同じ種類のものとして体罰を正当化するゴマカシであろう。

 九九は決して体罰と関連した刷り込みではない。また強制によって覚えさせても構わない種類の学習ではない。

 体罰等の暴力を用いた強制は児童・生徒に期待すべき自発性・主体性を排除する。

 尤も相手に自発性・主体性を期待できないから、体罰に訴えると言うだろうが、体罰を以て引き出した自発性・主体性は往々にして真の自発性・主体性ではなく、実体は恐怖心や恥からの機械的従属性に過ぎないだろう。

 だから、体罰は低年齢の子どもにはよりよく通じるが、中学生、高校生と年齢を重ねると、効果を失うことになる。長じるに連れて、恐怖心は恐怖心のま放っておくことはなくなり、恥は恥のまま抑えつけておくことはなくなって、反発心や復讐心を養うことになるからだ。

 その反発心や復讐逆が時として対教師暴力となって跳ね返ってくることは種々の事実が教えていることである。

 教えることは一種の強制であると主張する人間がいるが、それが強制であっても、生徒の同意と支持を得た強制でなければ、自ら学ぶ姿勢として必要な自発性・主体性は育たない。

 九九を例に取って説明すると、「おカネや物を数えるとき、足し算や引き算だけではなく、九九も必要になる。例えば125円の品物を10個買うとき、125円足す125円足す125円と125円を10回足していく足し算の方法と125円に10個をかけて一度に答を簡単に出す掛け算の方法があるが、このような掛け算の基本が九九であって、算数を勉強する上でも、社会に出て買い物したり、あるいは仕事で計算する場合、九九を知らないと不便することになるし、仕事の能力にも影響してくる」等々説明を尽くして、尚且つ生徒から質問を受けて徹底的に納得させ、同意と支持を得る言葉を構築することができたなら、生徒をして自ずと自ら学ぶ姿勢としての自発性・主体性が期待できるはずである。

 生徒自身が自発性・主体性を持って取り組むことになれば、強制でもないし、刷り込みでもなくなる。

 強制・刷り込みは上に位置した教師から下に位置した児童・生徒への上から下への一方通行の意思伝達となるが、同意と支持を得て、生徒が自ら学ぶ姿勢とした自発性・主体性は教師と児童・生徒間に双方向の意思伝達をつくる。

 かねがね日本の教育は教師が伝える知識・情報を児童・生徒が機械的になぞり、暗記する暗記教育だと言ってきたが、この教育構造は断るまでもなく機械的従属があるのみで、児童・生徒の自発性・主体性が関わる工程を当初から欠如させている。

 だからこそ、石原都知事は学校教育に於ける記憶させるための反復学習を「刷り込み」だと言い、刷り込みは強制であって、一種の体罰だと表現することになったのだろう。

 そのような体罰の必要性を自我の未発達に置いているが、自我の発達次期を中学生の年齢と決めてかかっていること自体が、暗記教育が児童・生徒の自発性・主体性が関わる工程を省いていることに輪をかけて、児童・生徒の自発性・主体性に何ら期待していないことを証明している。

 暗記教育に於ける児童・生徒の自発性・主体性は教師が発する知識・情報を如何に正確になぞり暗記するか、暗記した知識・情報をテストの設問に如何に的確に引き出すかといった従属性の範囲内でせいぜい発揮されることで終わっている。

 教師が教える知識・情報に従属するだけではない、自ら学ぶ姿勢としての児童・生徒の自発性・主体性は保育園・幼稚園の頃から期待していいはずだ。

 そして生徒の同意と支持を得た強制が自ら学ぶ姿勢としての児童・生徒の自発性・主体性を養い得るはずだ。

 もし期待通りの年令に応じた自発性・主体性を育み得たなら、それは自我の発達につながっていく。

 また、自ら学ぶ姿勢が自ずと耐性を培っていくことになる。

 戸塚宏・戸塚ヨットスクール校長が「力と暴力は違う。力は善なので正しく使えばいい」と言っているが、体罰主義者だけあって、自己を絶対善に置いている。

 力は常に善であるとは限らない。このことは児童虐待が証明している。その多くが躾だと称して暴力を振るっているが、躾だと妄信している親の側にとって、それは善としての力と見做しているはずだし、躾としている以上、正しく使っていると思い込んでいるはずだ。

 児童虐待が例え満足に言葉をつくり、発信することができない幼い子供が相手であっても、本人が納得する、いわば同意と支持を得ることができる躾でなければ、身体的な暴力でなくても、精神的な暴力として受け止めるだろう。

 例えどのように幼い子どもであっても、同意と支持を与えることができるかどうかは感覚的に判断する。いくら躾であっても、頭を殴られたり、食事を取り上げられたりして同意と支持を与えるはずはない。

 川淵三郎日本サッカー協会名誉会長・都教育委員が「しごきのようなものを乗り越えないと超一流にはなれない」、あるいは「トップアスリートは皆、しごきに近いことに耐えて超一流になっている」と言って、身体的強制を正当化しているが、そこにはアスリートの同意と支持がない身体的強制であるなら、暗記教育と同じ機械的従属を誘うばかりで、自分から考える思考プロセスを置かないことになる。

 果たして考えない練習、あるいは訓練をいくら積んでも、そこそこに体力をつけることができたとしても、試合の場でのプレーに真に役立つだろうか。

 同意と支持を与えることによって、身体的強制に自ら向かっていく挑戦――自らが学ぶ姿勢が可能となる。耐性と同時にチャレンジ精神を培うことができる。

 どうもパネリストとして参加した識者たちは半端な考えしかできないようだ。それとも私自身が半端な情報解釈に陥っているということなのだろうか。

 子供たちの耐性を培う方法として児童・生徒を図書館にノート一冊とボールペンのみを持たせて私語を禁じて1日閉じ込める教育をいつか書いたはずだが、パソコン内を探したが、見つけることができなかった。

 図書館の入館許容人数分だけのクラス数を1日ずつ、交代で閉じ込める。

 何のために図書館に閉じ込めるのか、児童・生徒の納得を得なければならない。読書を通じて創造性(想像性)と耐性(忍耐)を養ことができると、少なくとも頭で理解させ、同意と支持を得る必要がある。

 読書が創造性(想像性)を養うのは誰も異論がないだろうし、説明可能であろう。耐性(忍耐)に関しては、何しろ読書する人間も時間も減っているのである。逆に読書をしない人間が増えている。

 このような状況に反して、1日中、読書しなければならない状態で図書館に閉じ込めるのである。相当な耐性(忍耐)を必要としないはずはない。

 それが退屈逃れが動機だったとしても、読書に没頭できる書物を見つけて初めて退屈から逃れることができ、逆に却ってある種の歓びを読書から得たとき、同意と支持は深まり、否応もなしに自発性・主体性は確固とした姿を取っていくはずである。

 最後の1時限は生徒同士でどのような書物を読書をしたのか、何をテーマとし、どのような内容であったか話し合うのも創造性(想像性)を養う機会となるに違いない。

 単なる強制ではない、同意と支持を介在させて耐性ばかりか、創造性(想像性)までも培う教育方法はいくらでもあるはずである。

 参考までに――

 2007年1月4日当ブログ記事――《奉仕活動/曽野綾子の「入口は強制だっていい」 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野田首相の官邸ブログ、日中韓サミット「申し上げるべきことは申し上げた」は当たり前のこと

2012-05-19 10:19:33 | Weblog

 野田首相が自身の官邸ブログに今回で5回目となる持ち回り開催の日中韓サミット(今回は北京開催)で、「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」と書いていると各記事が伝えていたから、首相官邸HPにアクセス、ブログを覗いてみた。

 「40年を経て、40年先を思う」(首相官邸ブログ/2012年05月16日 (水曜日) 18:19)(一部抜粋)  

 野田首相「1972年。もしも、あのタイミングを捉えて、日中の国交正常化がなされていなければ、首脳同士が、地域の平和と安定という機微な話題について、率直に意見を交わす「日中韓サミット」の枠組は今も存在しなかったでしょう。これほどまでに経済面での交流が進むこともなければ、日中韓FTAの交渉開始について合意することもなかったはずです。今般署名した日中韓投資協定は、この三国で初めての経済分野における法的な枠組であり、大きな成果です。

 もちろん、三国の間には意見や利害の違いがあります。私としても、申し上げるべきことは、温家宝総理にも、李明博大統領にも、はっきりと申し上げたつもりです。しかし、そうであってもなお、日中韓サミットの全体のトーンは、極めて建設的なものだったと断言できます。これは、40年の間に、官民それぞれで、日中韓の友好を願う多くの人々の努力があればこそ、生み出されたものに違いありません」

 「申し上げるべきことははっきりと申し上げたつもりです」――

 一国の首相が外国に対して国益を代表している以上、“申し上げるべきことははっきりと申し上げる”ことは極々当たり前のことであろう。

 いわば常なる姿勢としていなければならない、“申し上げるべきことははっきりと申し上げる”態度でなければならないということである。

 逆に菅前首相がそうであったように、“申し上げるべきことははっきりと申し上げない”態度を一度でも見せたなら、一国のリーダーとしての資格を失うことになるということである。

 一国のリーダーである以上、“申し上げるべきことははっきりと申し上げる”態度が当然の前提であるなら、「申し上げた」自身の言葉の実効能力をこそ問題としなければならないはずだ。
 
 「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」、だが、相手に通じなかった、無視されたでは、何のために「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」のか意味を失うことになる。

 ということは、「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」ことに評価の対象を置くのではなく、「はっきりと申し上げた」ことを実現させる実効能力を評価対象としなければならないことになる。

 だが、野田首相は自らの言葉がどの程度の実効能力を発揮し得たのか見極めもせずに、「はっきりと申し上げた」ことのみを自ら評価対象とした。

 この精神構造は「政治は結果責任」意識を欠いていることの証明しかならない。

 菅仮免も「政治は結果責任」を著しく欠いていた。

 もし自らの言葉の実効能力を評価対象とする姿勢があったなら、「はっきりと申し上げたからこそ、これこれの結果を得ることができた」と自らの実効能力をこそ、あるいは結果責任をこそ評価対象としたはずた。

 5月13日午前、北京の人民大会堂で野田首相・李明博韓国大統領・温家宝集国首相と会談。その日の夕方、温家宝首相と会談。尖閣問題で激しいやりとりが展開されたという。

 《日中首脳会談 尖閣諸島巡り応酬》NHK NEWS WEB/2012年5月13日 21時43)

 温家宝首相「核心的利益と重大な関心事項を尊重することが大事だ。双方は相互信頼を増進させ、両国関係の健全で安定した発展を推進すべきだ」

 「核心的利益と重大な関心事項」は尖閣諸島問題といウイグル問題を指しているはずだ。後者に関して野田首相自身は一切言及していないが、複数の外交筋の情報として、この日中首脳会談の席で温家宝首相が亡命ウイグル人組織「世界ウイグル会議」ラビア・カーディル主席に対する日本政府の査証(ビザ)発給を、「テロリストを国内に入れるのは許せない」と激しい言葉で抗議したとしている(47NEWS)。

 野田首相「日中がともに発展し、地域・国際社会でさらに建設的な役割を果たすことが重要だ。

 尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本固有の領土であり、この問題が日中関係の大局に影響を与えることは望ましくない。

 尖閣諸島を含む海洋における中国の活動の活発化が日本国民の感情を刺激している」――

 確かに「申し上げるべきことははっきりと申し上げ」ている。だが、このことはごくごく当然の発言であって、特別の発言でも何でもない。言わなければならなかった発言であろう。

 では、野田首相は自らの言葉にどのような実効性を持たせることができたのだろうか。その実効能力はどの程度のものだったろうか。
 
 野田首相は温家宝会談の翌日の5月14日、胡錦涛中国国家主席及び李明博韓国大統領と三者首脳会談を行なっている。その後胡錦涛主席は李明博韓国大統領と個別会談を持ったが、野田首相との個別会談には、日本側からの要請にも関わらず、応じなかったという。

 このことは会談の拒否を通して野田首相の「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」言葉自体の受け入れを拒絶したことを意味しているはずである。

 また、サミットの成果表明となる日中韓共同宣言に日韓双方が望んだ北朝鮮問題を中国の反対で盛り込むことができなかった。

 いわば野田首相は自身の言葉に実効性を持たせることができず、見るべき実効能力を発揮し得なかった。ただ単に「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」だけで終わった。

 勿論、だからと言って、今後共実行性が失った状態で推移するとは限らない。今後の言動、その政治性にかかっているが、と同時に実行性を持たせる実効能力発揮の責任を負ったことになる。

 「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本の領土である」を相手に認めさせる実効能力発揮の責任である。

 「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」からと、そのことだけを喜んでいられたら困る。

 温家宝首相が野田首相との会談で日本政府のラビア・カーディル主席に対するビザ発給を激しい言葉で抗議したことに併せて、中国外務省も5月17日、激しく抗議している。

 《世界ウイグル会議が閉幕》NHK NEWS WEB/2012年5月17日 18時21分)

 中国外務省の報道官「世界ウイグル会議はテロ組織とつながっており、中国の分裂を企てる組織だ。われわれの断固とした反対にも関わらず、日本が開催を許可したことに強い不満を表明する」

 この抗議に対する日本政府の発言を新聞・テレビは何も報道していない。「我々の調査ではテロ組織とつながっている事実はない」ぐらいの「申し上げるべきことははっきりと申し上げ」るべきだろう。

 「はっきりと申し上げ」て日本側の姿勢を常時明確に突きつける姿勢が、その積み重ねによって、「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も日本固有の領土である」という言葉も日本の姿勢を明確な突きつけた生きた言葉となっていくはずだ。

 普段から日本の姿勢を明確に突きつけずに、何か問題が起きたから、あるいは会談が行われたからと「尖閣諸島は」云々を言ったとしても、単なる原則の表明、あるいは公式見解の表明で終わって、実効ある生きた言葉となることは期待できない。

 いわば「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」だけで終わり、その繰返しを行うことになる。

 例えば日本国憲法は「基本的人権の不可侵」を謳っている。日本憲法は日本政府も国民も基本的人権の不可侵を常なる姿勢としていなければならないことを規定しているということである。

 普段から日本の姿勢を明確に突きつける習慣を身に着けていたなら、中国当局が中国国民に対して基本的人権を侵害する行動に出た場合、自らが体現しているはずの基本的人権不可侵の姿勢を突きつけずにはいられまい。

 要するに「申し上げるべきことははっきりと申し上げ」る批判の一言である。

 だが、欧米諸国が自ら体現している基本的人権不可侵の姿勢を突きつけ、何か一言突きつけることを習慣としていることに反して日本政府は多くの場合沈黙したままで終わる。

 自分たちにだけ基本的人権が問題なく作動すればいいという偏愛的なセクショナリズムからきているのかもしれないが、それでは外に向かって実効ある生きた言葉とはならない。

 野田首相は同じブログで、ブログ題名の由来となっている日中国交正常化40周年と同様に沖縄本土復帰40周年当たることから、沖縄の基地問題にも触れている。

 野田首相「沖縄の皆さんが被災地の復興に思いを致して頂いているのと同じように、沖縄の問題は、すべての日本人が自分たちの問題として引き受けなければなりません。そして、国としても、為すべきことを成し遂げていかなければなりません。国の安全保障を揺るがせることなく、沖縄の振興と基地負担の軽減のために、目に見える「成果」を積み上げていく。そのための政府の真摯な努力は、沖縄の皆さんの心にも届くと信じています」――

 「沖縄の問題は、すべての日本人が自分たちの問題として引き受けなければなりません」とは言っているが、野田政権だけではなく、歴代政権は沖縄問題を「すべての日本人」に対して「自分たちの問題として引き受け」させることができないできた。

 そして現在も「自分たちの問題として引き受け」させることができないでいる。

 ブログ全体の文書自体が「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」言葉であるはずだ。また、何よりも「政治は結果責任」を負っている一国の首相である。にも関わらず、申し上げるだけで実効能力を発揮できないまま、あるいは実効ある生きた言葉とすることができないままに「沖縄の問題は、すべての日本人が自分たちの問題として引き受けなければなりません」と立派なことを言っている。

 これ程空疎な言葉はないはずだ。

 野田首相の「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」は極々当たり前のことでありながら、「申し上げるべきことははっきりと申し上げた」が如何に信用できないかも証明している。

 いずれにしても、言葉に実効性を持たせる実効能力発揮の責任を負っていることを忘れないで貰いたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海江田元経産相国会事故調参考人出席発言から見る菅仮免共々の情報処理能力の欠如

2012-05-18 13:01:21 | Weblog

 昨日5月17日(2012年)、福島原発事故発生時の海江田元経産相が国会設置の事故調(正式名:東京電力福島原子力発電所事故調査委員会)に参考人として出席、政府の福島原発事故初期対応について証言した。

 最初に記事《海江田氏“伝言ゲームのよう”》NHK NEWS WEB/2012年5月17日 19時32分)を参考に、これまでブログに書いてきたことと重なる部分があるが、政府の緊急事態宣言発令の遅れと東電が申し出たとしている福島第1原発からの全面撤退について主として取り上げてみる。

 海江田元経産相は国会議員として最初の参考人出席だそうだ。

 この記事には書いてないが、地震発生から緊急事態宣言発令までを時系列で追ってみる。

 2011年3月11日午後2時時46分――東日本大震災発生。 
 2011年3月11日午後3時42分 ――第1原発1~4号機非常用電源喪失
 2011年3月11日午後4時45分 ――東電、福島第1原発冷却機能喪失と政府に通報
 2011年3月11日午後7時3分   ――原子力災害対策特別措置法に基づく「原子力緊急事態宣
                   言」発令

 東電の政府への通報から約2時間20分遅れた緊急事態宣言発令となった。

 この遅れに関して――

 海江田元経産相「ご指摘のとおりだ。『まずは対策本部をつくることが必要だ』と言ったら、どこに根拠となる法令があるのかとなり、探していて時間が経過した。菅前総理大臣の理解を得るのに時間がかかった」

 「どこに根拠となる法令があるのか」がこの発言からでは誰による最初の疑問提示なのか分からないが、誰の疑問提示であっても、「菅前総理大臣の理解を得るのに時間がかかった」と言っている以上、菅仮免も情報共有していた疑問であったはずだ。

 だが、この「理解」が対策本部設置に関する「理解」なのか、「原子力緊急事態宣言」関する「理解」なのか、はっきりとしない。

 《国会事故調:海江田氏「伝言ゲーム」…情報共有が不足》毎日jp/2012年05月18日 00時51分)では次のような発言となっている。

 海江田元経産相「原子力災害対策本部設置の根拠がどこにあるか、というやり取りをしているうちに(菅氏が野党7党との)党首会談に入って時間が経過した。首相の理解を得るのに時間がかかった」

 要するに菅仮免は「原子力災害対策本部設置の根拠」さえ理解していなかった。

 このことは2011年12月27日当ブログ記事――《原発事故報道番組が改めて証明する菅のお粗末な認識と判断能力 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で既に書いたが、12月25日(2011年)日曜日TBSテレビ『「報道の日2011」記憶と記録そして願い』(第三部) 「官邸初動5日間 原発事故緊迫の舞台裏 初動を検証 ブラックボックス リーダーたちの初動の5日間」が海江田元経産相の「原子力緊急事態宣言」発令に関する発言を取り上げている。
 
 海江田経産相「私は、あのー、事務方から、あー、報告受けましたから、えー、すぐに、うー…、まあ、そのー、すぐに(原子力緊急)事態宣言を、オー、発して、貰えるものだと思っておりました」

 法律の、おー、“たてつけ”と申しますか、ま、そういうことについて、えー、質問がありました。ま、うまく答えられなかったと、言うこともあって、ま、時間がかかったと思います」――

 ここでは原子力災害対策本部設置の根拠となる法令捜しに手間取ったと言うよりも、「原子力緊急事態宣言」発令の根拠となる「原子力災害対策特別措置法」を詳しくは把握していなかったために「原子力緊急事態宣言」発令に手間取ったという説明となっている。

 だが、「原子力緊急事態宣言」発令も原子力災害対策本部設置も、平成11年(1999年)施行の「原子力災害対策特別措置法」に規定されていて、この法令を根拠とすることを義務づけている。

 「原子力災害対策特別措置法」

 (国の責務)

第四条  国は、この法律又は関係法律の規定に基づき、原子力災害対策本部の設置、地方公共団体への必要な指示その他緊急事態応急対策の実施のために必要な措置並びに原子力災害予防対策及び原子力災害事後対策の実施のために必要な措置を講ずること等により、原子力災害についての災害対策基本法第三条第一項 の責務を遂行しなければならない。

 (原子力緊急事態宣言等)

 第十五条  主務大臣は、次のいずれかに該当する場合において、原子力緊急事態が発生したと認めるときは、直ちに、内閣総理大臣に対し、その状況に関する必要な情報の報告を行うとともに、次項の規定による公示及び第三項の規定による指示の案を提出しなければならない。

一  第十条第一項前段の規定により主務大臣が受けた通報に係る検出された放射線量又は政令で定める放射線測定設備及び測定方法により検出された放射線量が、異常な水準の放射線量の基準として政令で定めるもの以上である場合

二  前号に掲げるもののほか、原子力緊急事態の発生を示す事象として政令で定めるものが生じた場合

2  内閣総理大臣は、前項の規定による報告及び提出があったときは、直ちに、原子力緊急事態が発生した旨及び次に掲げる事項の公示(以下「原子力緊急事態宣言」という。)をするものとする。

 上記TBS番組はこの規定に関して、“15条通報”の何たるかを知るために総理執務室の隣の首相秘書官室で秘書官たちが六法全書のコピーに追われていたと関係者の話として伝えている。

 いわば原子力発電所過酷事故が発生した場合、どのような法律を根拠として行動したらいいのか情報処理できずに、菅仮免を筆頭として首相官邸はドタバタ劇を演じていた。まさに喜劇である。だが、被災者にとっては迷惑な喜劇――悲劇そのものと言わざるを得ない。

 但し菅仮免はこの「原子力災害対策特別措置法」を知っていなければならなかった。当然、「菅前総理大臣の理解を得るのに時間がかかった」という菅仮免の不手際な情報処理は存在してはならなかった。

 このことも当ブログの幾つかに書いたが、首相当時の菅仮免を政府原子力災害対策本部会議本部長とした、静岡県の中部電力浜岡原発緊急事態想定の原子力災害対策特別措置法に基づいた「平成22年度原子力総合防災訓練」を2010年10月20日と21日の2日間実施しているのである。

 この訓練は「原子力災害対策特別措置法」「第十三条」を根拠としている。

「原子力災害対策特別措置法」

(防災訓練に関する国の計画)

第十三条  第二十八条第一項の規定により読み替えて適用される災害対策基本法第四十八条第一項 の防災訓練(同項 に規定する災害予防責任者が防災計画又は原子力事業者防災業務計画の定めるところによりそれぞれ行うものを除く。)は、主務大臣が主務省令で定めるところにより作成する計画に基づいて行うものとする。

2  前項の規定により作成する計画は、防災訓練の実施のための事項であって次に掲げるものを含むものとする。
一  原子力緊急事態の想定に関すること。
二  第十条、第十五条及び第二十三条の規定の運用に関すること。
三  前二号に掲げるもののほか、原子力災害予防対策の実施を図るため必要な事項・・・・・・

 菅仮免は 「原子力災害対策特別措置法」「第十三条」に基づいて自身が政府原子力災害対策本部会議本部長として参加した「平成22年度原子力総合防災訓練」を行なっていながら、原子力災害対策本部設置に関してであったとしても、原子力緊急事態宣言発令に関してであったとしても、実際に原発事故が発生した際、どのような法律に基づいて行動するのか、どう行動したらいいのか情報処理できないままにドタバタ劇を演じていた。

 情報処理に関わるこの無責任・無能は計り知れない。

 次に「NHK NEWS WEB」記事に戻って、東電の全面撤退問題についての海江田経産相の発言を見てみる。

 海江田元経産相「東京電力の清水社長からの電話で覚えているのは『第一発電所から第二発電所に退避』という言葉があった。『一部を』という話は一切なかったと記憶している。頭の中で『全員が』という認識をした」

 清水東電社長から電話があり、菅仮免が東電本店に乗り込むまでを時系列で並べてみる。

 2011年3月15日未明――清水東電社長から海江田経産相に電話、撤退を申し込む。
 2011年3月15日午前3時頃――菅、海江田経産相から、東電が全面撤退の意向を示しているこ
                とを伝えられる。
 2011年3月15日午前4時過ぎ――菅、清水東電社長を官邸に呼ぶ。
 2011年3月15日午前5時半過ぎ――東京・内幸町の東電本店に乗り込み、「撤退なんてあり得
                   ない!」と怒鳴ったとされる。

 海江田元経産相の上記発言は、《福島第1原発事故「人為ミスもゼロではない」海江田氏》MSN産経/2012.5.18 00:26)では次のようになっている。

 海江田元経産相「『全員』という言葉はなかったが、社長がわざわざ私に電話してくるのは重い決断が後ろにあったのだろう」

 要するに「全員」は海江田経産相の憶測による判断だったことになる。

 勿論正しい憶測かどうかが問題となる。

 海江田経産相の参考人出席を求めた《東京電力福島原子力発電所事故調査委員会》の動画で確認してみたが、新聞記事が示しているとおりの憶測の情報把握であったことを裏付けただけであった。

 海江田元経産相「清水さんが電話をしてきたことの意味を考えますと、私はそれは大事な結論だったんだなあというふうに思います。ほんとうに必要な人を残して、まあ、みなさん、必要なんでしょうけども、ある程度残して、一時的に避難していただくというのは、当然ある話でありまして、それは現場の吉田所長で判断できることではないかと。

 私にまでわざわざ電話をかけてくると言うことは、そこには重い決断が後ろにあったんではないかというふうに思いました」――

 言っていることに矛盾がある。全面撤退だろうと部分撤退だろうと、現場の最終判断は吉田所長であったとしても、それを許可するのは余程の緊急時なら吉田所長が兼ねるということもあるだろうが、東電上層部が謀って、許可の最終判断は清水社長が下すことになるはずだ。

 もしそこで清水社長が東電の許可判断だけで撤退したなら、あとで官邸から何を言われるかわからないと考えたとしたら、最終許可を官邸に求めたとしても不思議ではない。

 何しろ事故対応を全面的に東電に任せていたわけではない。菅仮免は事故発生翌日の3月12日に第1原発に直接乗り込んで口出ししているのである。そこで何かうるさいことを言ったなら、そのことが記憶にあって面倒を避ける意識が働き、官邸にお伺いを立てたということもあり得る。

 なぜ海江田元経産相は東電清水社長から「第一発電所から第二発電所に退避」の許可要請があったとき、憶測ではなく、清水社長に確認しなかったのだろう。誰の判断であろうと、誰の許可であろうと、全面撤退は事故発生中の原子炉を放置することになるのである。

 憶測による情報処理というケースもあるが、この場合は正確を期すために事実の確認を通した情報処理が必要だったはずだ。少なくとも全面撤退した場合は原子炉はどうなるのか聞くべきだったろう。

 東電にしても、もし全面撤退だったなら、全面撤退した場合の原子炉の状態を吉田所長共々議論したはずだ。海江田元経産相が全面撤退した場合の原子炉の状態を尋ねていたなら、東電側の議論の結末を伝えたはずだ。

 海江田元経産相は憶測による情報処理によって自分から伝言ゲームに参加し、情報の歪曲に自ら手を貸したようにしか見えない。

 この海江田元経産相の伝言ゲームと同様の伝言ゲームを菅仮免は演じている。

 そのことを証明する次のインタビューはブログで何度も使っている。

 《菅前首相インタビュー要旨》時事ドットコム/2011/09/17-19:58)

 記者「東電は『撤退したい』と言ってきたのか」

 菅前首相「経産相のところに清水正孝社長(当時)が言ってきたと聞いている。経産相が3月15日の午前3時ごろに『東電が現場から撤退したいという話があります』と伝えに来たので、『とんでもない話だ』と思ったから社長を官邸に呼んで、直接聞いた。

 社長は否定も肯定もしなかった。これでは心配だと思って、政府と東電の統合対策本部をつくり、情報が最も集中し、生の状況が最も早く分かる東電本店に(本部を)置き、経産相、細野豪志首相補佐官(当時)に常駐してもらうことにした。それ以降は情報が非常にスムーズに流れるようになったと思う」・・・・・

 清水社長が全面撤退か部分撤退か、いずれかの撤退許可を求めるために海江田元経産相に電話した事実に変わりはない。

 いわばいずれかの撤退の意思を持っていた。

 また菅仮免の全面撤退は「とんでもない話だ」ということは、自身も国会答弁で何度も言っているように、また東電本店に乗り込んで怒鳴ったように、「全面撤退はあり得ない」ということであるはずだ。

 菅仮免が「全面撤退はあり得ない」としている以上、清水社長の撤退意思が全面撤退であったとしても、「全面撤退はあり得ない」という事実をその場で相手をして共有の事実とする情報処理を行わなければならなかった。

 でなければ一国のリーダであることの意味を失うし、原子力災害対策本部長としての意味を失う。

 だが、全面撤退した場合の原子炉の状態を尋ねたのどうか分からないが、清水社長は「否定も肯定もしなかった」ということは「全面撤退はあり得ない」という事実を相手をしてその場で共有の事実とする情報処理を行い得なかったことを物語っている。

 この自分自身で証明している説得力のなさ、指導力のなさ、つまりは情報処理能力の欠如は責任能力の欠如へとつながっていくずだ。

 菅仮免は清水社長の撤退意思に関する情報の歪曲に自ら手を貸したとまでは言えないが、撤退意思の情報確認を怠ることによって、結果的に正しい情報につなげていく伝言ゲームのルールから自ら踏み外す失態を犯したのである。

 いや、正しい情報につなげていくことができなかったという意味で、間接的な情報の歪曲と言えないこともない。

 菅仮免にしても海江田元経産相にしても、かくまでも情報処理能力を欠いていた。内閣全体に言えることなのだろうが、満足な情報処理能力を有していなかったことが福島原発事故初期対応に於いてドタバタ劇――不手際を演ずる原因となったに違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋下徹大阪市長の入れ墨で人間を判断・評価することの正当性を再度問う

2012-05-17 09:00:59 | Weblog

 橋下徹大阪市長独裁的命令の大阪市役所全職員対象入れ墨調査は110人判明の大成果を挙げた。意外とたくさんいるものだなあという印象を受けたが、入れ墨で人間を判断するつもりはない。

 逆に評価するつもりもない。入れ墨の種類、大きさ、人に与える印象等に関係なしに一人ひとりがどういう人間か知らないから、その人間性を判断もできないし、評価もできないからだ。

 橋下市長は入れ墨職員を市民と接触がない部署に配置転換する意向だという。いわば市役所内での市民との接触を禁じ、隔離するということである。独裁国家が人権活動家を隔離し、市民との接触を禁じるようにである。

 110人の大成果を受けた橋下市長の発言を、《大阪市職員110人が「入れ墨」 橋下市長「組織として異常」》から見てみる。

 橋下徹大阪市長「やっぱり、組織として、僕は異常だと思っています。何から何までが異常。

  入れ墨をやったからといって、人間的に全てだめだとか言うつもりもないんですけど。何をやったってクビにならない、何をやったって降格にならないというね、そういう甘えというものが全部出ていると思いますよ

 入れ墨をしていることが「何をやったってクビにならない、何をやったって降格にならないというね、そういう甘え」にどうつながるのか理解できない。飛躍があり過ぎないだろうか。

 「何をやったってクビにならない、何をやったって降格にならないというね、そういう甘え」は深く個々の公務員としての倫理意識・責任意識にかかっているはずだ。

 倫理意識・責任意識は公務員としての職務上の行動として現れる。その行動は職場から離れた一般社会に於いても社会人としての行動としても現れるだろう。

 いわば公務員としての倫理意識・責任意識は社会人としての倫理意識・責任意識と相互対応しているはずだし、相互対応させなければならないはずだ。

 それが公務員としての、当然、相互対応の関係性からして社会人としてのということにもなるが、倫理意識・責任意識に反する行動を取る人間であるなら、入れ墨を彫った精神性と深く関係し、そのような精神性が倫理意識・責任意識に反する行動を取らせていると見ることはできる。

 だが、入れ墨を彫った全ての人間が公務員としての、さらに社会人としての倫理意識・責任意識に反する行動を取るとは断言できないはずだ。

 だからこそ、橋下市長は「入れ墨をやったからといって、人間的に全てだめだとか言うつもりもないんですけど」の発言となったはずだ。

 以上見てきたことと橋本市長のこの発言から見ても、入れ墨を基準にその人間の倫理意識・責任意識を判断・評価するのではなく、あくまでも入れ墨に関係なく、個々の行動からその人間の倫理意識・責任意識を判断・評価しなければならないことになる。

 このことは前科者を例に取るとよく理解できる。何か重大な犯罪を犯して逮捕、裁判、有罪判決、刑務所入所・出所と経て、前科者として社会復帰を果たした人間はその前科で判断される偏見に往々にして曝されるはするが、実際は前科で判断・評価されるべきではなく、あくまでも偏見を排して刑期を終えた以降の社会人としての責任意識・倫理意識に則って行動しているかどうかの素行(=行動)で判断されるべきであろう。

 だが、橋下市長は「入れ墨をやったからといって、人間的に全てだめだとか言うつもりもないんですけど」と入れ墨を基準としてその人間を評価・判断するつもりはないと言いながら、あるいは入れ墨を基準にその人間の倫理意識・責任意識を評価・判断するつもりはないと言いながら、その発言と矛盾させて、「何をやったってクビにならない、何をやったって降格にならないというね、そういう甘えというものが全部出ていると思いますよ」と、入れ墨と人間性を否定的評価・判断で結びつけ、そのような否定的要素が否定的行動となって現れるだろうと看做す断定を行なっている。

 いわば入れ墨で人間を評価・判断している。

 この人間価値判断は前科者に対して前科で人間を評価・判断するのと同じ構造を取っていると言える。

 その行動が公務員としての倫理意識・責任意識に則っているかどうかはあくまでも個々の行動から見るべきであって、このことに反して入れ墨で人間を判断・評価し、公務員としての倫理意識・責任意識までも否定するのは、5月7日(2012年)当ブログ記事――《橋下徹大阪市長入れ墨調査はプライバシー&思想・信条・表現の自由の明らかな侵害 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたように、やはりプライバシーや思想・信条・表現の自由の明らかな侵害に当たるはずだ。

 上記「FNN」記事は、市の児童福祉施設の職員が児童に入れ墨を見せて脅したことをキッカケとして今回の調査が始まったと書いているが、大の大人が入れ墨を見せて年端もいかない児童を脅すこと自体が、それが底なしの愚かさから出た行為であっても、大人げなさを大きく通り越した狂気とも言うべき異常な個別性であって、そのことを以って入れ墨をしている全ての人間を判断・評価するのは人権侵害というだけではなく、そのように判断・評価する橋本市長自身の個別性自体も狂気を持った異常性さえ感じざるを得ない。

 橋本市長がなすべきことは入れ墨をしている職員全てが児童福祉施設の職員のような人間ばかりではない、真面目に職務に励んでいる職員もいると、入れ墨で人間を判断・評価する社会的な偏見を取り去ることであったはずだが、逆に入れ墨で人間を判断・評価する社会的偏見を犯している。

 現在ある社会的偏見から考えると、入れ墨が理由で配置転換を受けた職員は、配置転換の理由を知り得た人間から、それが同じ市役所内の人間であっても、一般市民であっても、その職員の職務上の行動・私生活上の行動を直接的にも間接的にも知り得る機会を持たなかった場合、以後、入れ墨で人間を評価・判断される危険性に曝され続ける確率が高いことになる。

 もしそうなったなら、橋本市長自身も大きく担った確率とも言える。

 その職員の職務上の行動・私生活上の行動を直接的にか間接的にか知り得る機会を持った場合、入れ墨で人間を判断・評価することから行動で判断する、いわば見方を変える可能性は捨て切れない。社会的偏見からの踏み出しである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野田首相が沖縄復帰40周年で約束すべきは本土並みの基地負担と経済振興であろう

2012-05-16 11:24:12 | Weblog

 昨5月15日(2012年)は沖縄本土復帰40周年式典が沖縄県宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開催され、野田首相が出席、式辞を述べた。相変わらず多くの人の胸を打ち、感動させる美しい言葉の連なりとなっている。

 式辞は首相官邸HP〈沖縄復帰40周年記念式典 内閣総理大臣式辞〉によった。

 先ず冒頭。

 野田首相「1972年5月15日。あの晴れがましい歴史的な本土復帰の日から、本日で40年を迎えました。

 この5月15日は、まず何よりも、『鎮魂と平和への決意』を新たにする日でなければなりません。先の大戦で奪われた、あまりに多くの尊い命。終戦後も、占領下に長く置かれた沖縄県民の言われなき苦しみ。沖縄が歩んでこられたそうした苦難の道のりを噛みしめ、平和で豊かな沖縄の未来を願い続けた先人の事績を決して忘れてはならぬ。そうした思いを改めて強くしています」

 確かに「1972年5月15日」は「晴れがましい歴史的な本土復帰」を刻んだ日だったろう。そして日本は復帰のその日から現在に至る40年の歴史に於いて、その晴れがましさを具体的な実績で以って形とした。40年前の復帰のあの高揚感を間違いのないものだと証明した。

 それが 全国土0・6%の沖縄県に在日米軍基地約74%集中の「過重な基地負担」と全国平均1人当たりの年間所得279万1000円に対する沖縄県民1人当たり年間所得204万5000円、被災3県を除く2011年平均完全失業率4.5%を遥かに上回る沖縄県失業率約7%の「本土との経済格差」である。

 戦前から復帰前までの「沖縄が歩んでこられたそうした苦難の道のりを噛みしめ、平和で豊かな沖縄の未来を願い続けた先人の事績」に応えたのである。

 だからこそ、野田首相は声量ある堂々とした、よく響く声で胸を張って式辞原稿を読み上げることができた。

 だからこそ、野田首相は続いて、「5月15日は、これまでの沖縄県民の努力を称え、すべての同朋が沖縄に寄り添っていく思いを新たにする日でもあります」と言うことができた。

 すべての日本人が、すべての「同朋」が日本への復帰を果たしたあの日から「沖縄に寄り添っていく思い」を持ち続けたからこそ、「過重な基地負担」と「本土との経済格差」を40年も引きずってこられたのである。

 さあ、その思いを新たにしようと野田首相は高らかに宣言した。

 ということは、「過重な基地負担」と「本土との経済格差」を今後共引きずっていくということなのだろうか?

 野田首相「復帰後、今日に至るまでの40年間、沖縄は、県民自らのたゆみない努力によって、あまたの困難を乗り越えながら、力強い発展を続けてきました。政府としても、4次にわたる振興計画を実施し、様々な特別措置を通じて、県民の努力を全力でお支えしてまいりました。これらが相まって、この40年間で、社会資本の整備が着実に進み、生活水準も格段に向上してきたことは疑いのないところです」 

 復帰以降のこの40年間に於ける政府の「4次にわたる振興計画」実施(国からの公共投資は約10兆円規模だそうだ。)が社会資本整備の着実な進行と生活水準の格段の向上をもたらしたと言っているが、そのような発展の成果としてある「過重な基地負担」と「本土との経済格差」だとしなければならない。

 「過重な基地負担」と「本土との経済格差」は紛れもない事実・紛れも無い現実として存在しているのだから。

 勿論、そこには沖縄「県民自らのたゆみない努力」があった。

 だが、沖縄県民が目指した目標が「過重な基地負担」と「本土との経済格差」ではあるまい。結果的に沖縄県民の目標に反して政府が目指した目標となったのである。

 このことは勿論、野田首相は痛い程に自覚していなければならないはずだ。何と言っても、日本の首相である。

 野田首相「そして、5月15日は、沖縄の未来に思いを馳せる日でもあります。私たちは、世界の重心がアジア太平洋地域に移りつつある歴史の変動期を生きています。それはすなわち、アジア太平洋の玄関口として、沖縄が新たな発展の可能性を身にまとったことを意味します。豊かな自然環境や温暖な風土。琉球の輝かしい歴史に裏付けられた独自の文化。日本一若い県民の持つ清々しい活力。そして雄飛の覇気を持って海外にはばたき、世界中にネットワークを有するウチナーンチュ。こうしたすべての潜在力を発揮させることで、沖縄がますます輝きを増していく。そういう時代がやってこようとしているのです。

 既に、観光と情報通信技術は、沖縄経済を牽引しています。那覇空港は、いまや国内第3位の国際物流拠点に成長しています。いずれも、日本再生のために我が国全体で取り組もうとする方向性を先取りしたものです」

 日本の政治が、歴代の日本の政府が復帰以降の沖縄の未来に対して結果的に「過重な基地負担」と「本土との経済格差」を目標としたことを痛い程に自覚しているからこそ、野田首相は5月15日を「沖縄の未来に思いを馳せる日でもあります」と言うことができる。

 いや、全然その逆だ。

 復帰の5月15日に「沖縄の未来に思いを馳せ」てこの始末なのだから、そのことを踏まえているとしたら、5月15日が巡ってくるたびに「沖縄の未来に思いを馳せる日でもあります」とするなら、「沖縄の未来」は依然として「過重な基地負担」と「本土との経済格差」を予定調和とすることになる。

 いわば「世界の重心がアジア太平洋地域に移りつつある歴史の変動期」にあろうと、「アジア太平洋の玄関口として、沖縄が新たな発展の可能性を身に纏」おうと、「過重な基地負担」と「本土との経済格差」を残滓とすることになる。

 大体が、沖縄の「豊かな自然環境や温暖な風土。琉球の輝かしい歴史に裏付けられた独自の文化。日本一若い県民の持つ清々しい活力。そして雄飛の覇気を持って海外にはばたき、世界中にネットワークを有するウチナーンチュ。こうしたすべての潜在力」は少なくともアメリカの占領から解放されて本土復帰を果たして以来、自らが自らに対して恃(たの)みとしてきたエネルギーとして存在していたのであり、そのようなエネルギーを以てしても自らが目標としたのではない、「過重な基地負担」と「本土との経済格差」背負わされることになったのである。

 いわば日本の政治の力、歴代の日本政府の力には勝てなかった沖縄のエネルギーだった。

 もし野田首相がウソ偽りなく、口先だけではなく、心底から沖縄のエネルギーに確かな手応えで未来を感じているなら、沖縄の未来に心底将来性を確信しているなら、日本の政治、あるいは歴代日本の政府がもたらした復帰から40年以降ほぼ変わらない「過重な基地負担」と「本土との経済格差」の歴史的・継続的現実を否定しなければならないはずだ。

 この否定は当然のことだが、日本の政治、歴代政府の安全保障政策、対沖縄政策の全面的な否定によって可能となる。

 両者によって沖縄のエネルギー、沖縄の未来は力を失わされてきたのだから、両者の否定なくして、沖縄のエネルギー、沖縄の未来を語ることはできない。

 対沖縄政策に関しての今年度の沖縄振興総費約3千億円のうち、使途の自由度が高い総額1575億円もの「沖縄振興一括交付金」交付は従来の沖縄振興政策の否定であろう。

 だが、基地問題に関しては従来どおりに小出しの基地負担軽減はあるものの、「過重な基地負担」の決定的な否定はどこにもない。

 野田首相はこの肝心要の否定を行わずに沖縄のエネルギーを語り、沖縄の未来を美しい言葉で語っている。

 野田首相「『沖縄は、日本のフロンティアである』――私のその願いを裏付ける具体的な発展の『芽』が実際に次々と生まれているのです。こうした『芽』をきちんと育て、まさに21世紀の『万国津梁』の要となって、総合的な地域の発展につなげていく。私たちの世代は、そうした責務を負っています。平和で豊かな未来のために沖縄の潜在力を解き放ち、基地負担の軽減を着実に進めていくことは、私の内閣の最重要課題の一つです」

 いわば、「沖縄の潜在力を解き放」つには、基地負担軽減の着実な実現ではなく、従来の安全保障条約を否定し、大きく見直すことからはじめなければ、解き放とうにも解き放つことはできないはずだ。

 実際にもアメリカ軍基地の沖縄県内集中が経済発展の障害、経済振興の障害と看做す声が大きい。解き放ち不可能ということになれば少しぐらいの基地負担の軽減では片付かない、「過重な基地負担」は勿論、「本土との経済格差」も引きずることになる。

 野田首相が言っている「万国津梁」(ばんこくしんりょう)とは既にご存じかと思うが、初めて知った言葉で、「津梁」とは「渡し場と橋の意から、人を導く手引きとなるもの」(『大辞林』三省堂)の意味で、沖縄県により沖縄県名護市に建設され、「九州・沖縄サミット」の首脳会合会場として2000年7月から使用が開始された、東シナ海に面するリゾートコンベンション施設のことだそうだ。

 「21世紀の人を導く手引きの要となって」という意味となる。

 官僚が思いついたのか、野田首相自身が思いついたのか分からないが、なかなか見事な言葉遣いとなっている。

 次いで野田首相は、自由度の高い一括交付金の新設、新たな沖縄振興と基地跡地の有効利活用のための法律等に触れ、肝心要の安全保障に触れる。

  野田首相「沖縄振興とあわせ、沖縄を含む我が国の安全を確保することは、国の基本的使命です。一層の厳しさを増す我が国周辺の安全保障環境の下、日米安全保障体制の役割は引き続き重要となる一方、米軍基地の集中が沖縄の皆様に大きな負担となっていることは十分に認識しています。抑止力を維持しつつ、沖縄の基地負担の早期軽減を具体的に目に見える形で進めていくことを改めてお誓いいたします。

 普天間飛行場の固定化は絶対にあってはなりません。その大前提の下で、先般、日米両政府は、普天間移設の問題と『海兵隊のグアム移転』や『嘉手納以南の土地返還』の問題を切り離すことに合意するとともに、海兵隊の国外移転を待たずに返還可能な土地や速やかに返還可能な土地を特定いたしました。これらは、基地負担軽減の『目に見える具体的な成果』につながっていくはずです」

 歴代政府の常套手段である、沖縄振興と安全保障を抱き合わせたお願いとなっているが、言っていることは僅かな負担軽減でかわそうとするだけの従来の繰返しに過ぎない。

 だが、既に書いてきたように従来の安全保障政策、対沖縄政策がつくり出した「過重な基地負担」と「本土との経済格差」であって、両者の否定ではなく、両者の肯定の上に肯定を重ねた発言となっている。

 この肯定の上に肯定を重ねた政府の意思が間違いなのは同じ沖縄復帰40周年記念式典で述べた仲井真沖縄県知事の式辞の言葉が証明している。
 
 仲井真沖縄県知事「東日本大震災と原子力発電所の事故により、わが国は厳しい試練に立たされている。沖縄県民も、困難なこの問題に立ち向かうメンバーの一人だと自覚している。同様に沖縄の米軍基地の問題についても(全国民が)沖縄県民とともに受け止め、考えてほしい」(時事ドットコム

 沖縄県民は同じ日本人の一員であり、全国土0・6%の沖縄県に在日米軍基地約74%集中の「過重な基地負担」となっている「沖縄の米軍基地の問題について」、同じ一員として「沖縄県民とともに受け止め、考えてほしい」と訴えることを通して「過重な基地負担」と、このことが大きな障害となってもたらされることとなった「本土との経済格差」を否定(=拒否)し、解決を求めている。

 だが、否定を一切排除、肯定一辺倒の野田首相の式辞の結び。

 野田首相「本土復帰から40年。日本全体を牽引し、アジア太平洋の時代を先頭に立って切り拓いていくのは、沖縄です。そして、そうした未来を担っていくのは、私たち自身です。

 平和を希求する県民の願いが、そして世界に飛躍を願う『万国津梁』の精神が、21世紀の沖縄を切り拓く大きな財産となることは疑いありません。我が国に未曾有の被害をもたらした東日本大震災からの復旧・復興、日本経済の再生に向けた挑戦が続けられている今だからこそ、沖縄に期待します。そして、沖縄の一層の発展が、我が国及びアジア太平洋地域の発展に寄与することを確信します。

 最後に、改めまして、沖縄と日本、さらには世界の平和と発展を祈念し、私の式辞といたします」――

 最後も多くの人の胸を打ち、感動させる美しい言葉で終わっているが、普天間の県外移設に関して沖縄の意思どおりにフリーハンドを約束するならまだしも、従来どおりに跳び越えるのが難儀な高いハードルを並べた障害レースを強いながら、「日本全体を牽引し、アジア太平洋の時代を先頭に立って切り拓いていくのは、沖縄です」と後生楽なことを言っている。

 まるでゼウスによって地獄で絶えず転がり落ちる大岩を山頂へ押し上げる永遠の苦業を強いられたシジフォスとまで行かなくても、それにかなり近い「過重な基地負担」と「本土との経済格差」の悪条件を肯定したままの、過剰な沖縄への期待という矛盾を犯している。

 いくら沖縄が安全保障上、地理的優位性を確保しているからとしても、少なくとも本土並みの基地負担と経済振興を約束しなければ、平等とは言えない。

 このことを実現するのが政治の創造性と実行力であるはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自由に遊ぶ子の運動能力の高さを暗記教育から読み解く

2012-05-15 11:07:00 | Weblog

 題名は大したことを言っているようだが、中身は大したことはない。

 幼稚園の保育時間で体育指導を受けている園児と指導を受けず自由に遊んでいる園児の運動能力の比較は自由に遊んでいる園児がより高いという研究結果が纏まったと次の記事が伝えている。《“自由に遊ぶ子”運動能力高く》NHK NEWS WEB/2012年5月13日 6時55分)

 既知の事実と思っていたから、今更理解できたことなのかの驚いた。勿論、実証は必要だが、既に遠い昔に実証済みのことではなかったらしい。

 1985年(昭和60年)頃からその兆しが出始めたという最近の子どもの運動能力の低下は昔の子どもと比較して自由に外で遊ぶことをしなくなったことが原因のはずだ。

 一方でサッカーや野球等を小学生の低学年から開始するリトルチーム化が進んだが、全体的には運動能力の低下を補うことができずにいる。

 研究は杉原隆東京学芸大学名誉教授らのグループが全国の幼稚園に通う4歳から6歳のおよそ9000人を対象に行ったものだという。

 保育時間内にマット運動や体操などの体育指導を週2回以上受けている子どもたちと、体育指導を受けず自由に外遊びなどをさせている子どもたちの25メートル走や幅跳びなど6つの種目についての運動能力を30点満点で比較。

 体育指導を受けている子どもは男女とも平均18点台。

 受けていない自由派の子どもは平均19点台。

 杉原名誉教授の指摘〈特定の運動を上達させるため同じ動きを繰り返すだけでは経験する動きの種類が少なくなることや、説明を聞いたり順番を待ったりしている時間が長いと実際に運動をする時間が短くなる〉・・・・

 研究にあたった専門家「特定の運動を繰り返すだけでは経験する動きが少なくなってしまう。さまざまな遊びを通じてたくさんの種類の動きを経験することが大切だ」

 研究にあたった専門家が杉原名誉教授と同一人物なのかどうかは記事からでは判別できないが、指摘自体はほぼ同じ内容となっている。研究グループの結論として出た主張ということなのかもしれない。

 自由に遊んでいる園児と比較した体育指導を受けている園児の運動能力の低さを防ぐには、〈体を動かすさまざまな遊びを通じて楽しんで運動をできる機会を多く作ると、たくさんの種類の動きを経験することになり、幼児期の運動能力の向上につながると分析〉しているそうだ。

 杉原名誉教授の指摘「幼い時期は遊びのかたちで楽しんで体を動かすことが大切です。そうすれば意欲も高まり自然とさまざまな運動を経験できるので、運動能力にもよい影響が出ると思う」――

 決まりきった「特定の運動」の反復の強制自体が教師が与える知識・情報を園児・児童・生徒にそのままなぞる形で機械的に自身の知識・情報とさせていく、その反復の強制となっている暗記教育そのものの形式を取った運動形式と言うことができる。

 当然、そのような運動の弊害は暗記教育の弊害と連動することになる。

 その結果の運動共々の経験機会の減少という弊害でなければならない。

 いわば勉強でも運動でも、教えられ、強制された勉強・教えられ、強制された運動の範囲以下の、勉強の場合は知の経験、運動の場合は身体経験で終わってしまい、その範囲内の知的活動、身体活動にとどまることとなって、教えた以上の活動は望むことができない、限られた状態にあるということであろう。

 勿論、勉強でも運動でも暗記形式の強制だから、こういう結果が起きることになる。暗記形式の教師から園児・児童・生徒に対する知識伝達・情報伝達は園児・児童・生徒が自ら考えるプロセスを構造としていない。

 当然の結果として、教師からの知識・情報をなぞる形で受け止めるだけで、自分から考えて発展させることがない。

 だが、自由に遊ぶについては、否応もなしに考えるプロセスを自ら有することになる。自分でどう遊び、どう動くか、自分で考え、判断して、自分で決めていかなければならないからだ。

 勉強に関しても教師が伝える知識・情報を園児・児童・生徒がそのまま暗記するのではなく、自分なりの知識・情報へと発展させるためには教師の知識・情報をどのように自分なりの知識・情報とするか、取捨選択や自分の中にある他の情報との加味等、考え、判断して決める思考作業が必要となる。

 「たくさんの種類の動きを経験すること」についても、自ら考えるプロセスを欠いて単になぞるだけの経験だったなら、運動能力のたいした発展は望めないはずだ。

 そもそもからして“自由”とは何をしても許されるということではなく、何をするか判断を任されることを言うはずだ。自身が自らの行動を決定する以上、そこに責任が生じるが、判断を任されること自体が考えるプロセスをそこに置いていることになる。

 となると、先ず必要なことは暗記教育を脱して、「総合学習」が掲げていた、園児・児童・生徒自身が考える教育の定着が喫緊の優先課題となる。

 日本の教育が暗記教育となっていて、園児・児童・生徒自身に考えるプロセスを提供していないために、ブログ等で何度も書いているが、プロ野球で大の大人になっても、シーズンのテーマに「考える野球」を掲げなければならないことになる。「考えろ」、「考えろ」と尻を叩かれる。

 この状況はプロサッカーのJリーグでも、同じ状況にあるはずだ。

 サッカー日本代表元監督オシムの2003年の言葉。

 オシム「日本人コーチに即興性、柔軟性、創造性が欠けているから、選手にもそれが欠ける。コーチが変わらないと選手は変わらない。そういう指導者からは、創造性に欠ける選手しか生まれない。

 文化、教育、世情、社会に左右されることはよくない。サッカーは普遍的なもの。そして常に変わっていくからコーチも常に変わっていく必要がある」

 即興性、柔軟性、創造性の欠如とは考える力がないことの裏返しであろう。

 私自身、現在の子どもが日本の工業化と開発の影響をモロに受けて大人たちから遊びの空間を奪われ、逆にテストの成績を唯一最大の価値観とする暗記教育の世界に閉じ込められて運動能力を低下していくのは自由に遊ばないことと暗記教育によって考える力を失っていったからだと考えていて、確かそういったことを書いた文章があるはずだとパソコン内を探したが、ブログにもHPにも記事にしていなかったためになかなか見つからなかった。 

 作成年月日が「2006年5月24日」となっている、「プロ教師」と自称する河上亮一氏の著作を批判した、記事題名が『プロ教師』 著・手代木恕之をやっと見つけることができたが、すっかり忘れていた文章であった。

 ぺージの最後に「四○○字詰原稿用紙換算枚数・・五七五枚」との記入があるから、評論の形にして、そのまま放っておいたのだろう。機会があったらブログ記事にしたいと思うが、読み直して、まずまずの内容ならの話である。

 部分的にザッーと読み直してみたら、所々よし、所々気に入らないの感じであった。

 上記研究結果と関連がある箇所を引用してみる。

 〈学校は生徒が怪我をし、その責任問題が自分たちに振りかかるのを恐れて、危険と見える競技や遊戯を子供たちから奪ってしまった。日本の社会が豊かになると共に家庭にあって家事に手が掛からなくなった親は子供たちに手を掛けるようになった。社会の豊かさに応じた方向に子供の生活を持っていったのである。普段から子供たちにいい服を着せ、日曜日ともなると家族で動物園やレジャーランド、その他の観光地に出掛け、昼には子供はお子さまランチ、親はちょっと高価でしゃれた食事を注文して、リッチな気分を味わう。

 子供たちはいわば悪童だった時代からお坊っちゃまとなる時代へと変化を強いられたのである。それは日本人が敗戦による混乱から立ち直って、一億総中流意識を育んでいった時期と重なる。お坊っちゃま化した子供たちにとっては、ちょっとやそっとの怪我も危険も顧みずに外の世界で飛び跳ねていたかつての悪童たちの動物的な身の敏捷さは当然生存に不必要な機能となり、退化の方向に進んだとしても不思議ではない。学校は責任を回避する方向にではなく、子供たちの動物的敏捷さ=危険に対する反射神経が退化しないよう、退化を少しでも補う方向に時間を割くべきだったのである。つまり親がしなかったことを学校が代わって心を砕くべきだったのである。

 小学校低学年の頃から、あるいはもっと早く幼稚園の頃から少々危険で乱暴な身体動作にも耐えられるよう、敏捷さを養う競技や遊戯を授業に取入れ、訓練していくことをも教育の一環に据えるべきだった。ところが学校は親と歩調を合わせて、受験戦争の戦場に子供たちを駆り立てる戦争犯罪だけではなく、子供たちから身の敏捷さを奪うという去勢の罪をも犯している。

 敏捷ささえ身につけていたなら、少しぐらいの危険動作にもそれなりに対処できるものである。子供たちは親や学校が規制して危険を取り去ってしまったありきたりの遊びには飽きてしまう。刺激と冒険心を満たしてくれないからだ。ありきたりの遊びには工夫の余地が極端に限られてしまう。つまり想像力への刺激が少ない。危険な遊びほど、刺激と冒険心を高め、なし遂げたときの達成感はときには精神の解放の域にまで達する。学校と親が子供を受験勉強に閉じ込めてしまった結果、冒険と刺激に対する欲求、危険なものへのほのかな憧れは外で飛びまわる遊びから、ナイフを持つことやコンビニなどでの万引き、あるいは覚醒剤を試すといったいわば代償行為で満たす方向に変質させた側面もあるはずである。〉・・・・・

 「ありきたりの遊びには工夫の余地が極端に限られてしまう。つまり想像力への刺激が少ない」

 「工夫」は考える力を必要条件とする。

 同じことを繰返して言うことになるが、勉強にしても運動にしても与えられたものを与えられたものとして受け止めるだけでは「工夫」(=考えるプロセス)は生じない。

 上記研究結果は運動だけではなく、教育に関しても自己判断に任せる、あるいは自己工夫に任せる“自由”が必要だと言っていると読み解かなければならないはずだ。

 参考までに。

 2006年6月26日記事――《教育論からの日本サッカー強化の処方箋 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川法相の裁判官肩書効用損得レベル発言は有権者は単細胞だとバカにしたことと同じ

2012-05-13 10:44:28 | Weblog

 今年2月29日の党首討論前に自分が所有している競馬馬の調教の具合を見るために党首討論実施の国会委員会室内で携帯で馬場の様子を見ていたと批判されたあの小川敏夫法相が5月11日(2012年)の立教大学開催「現代社会と司法の役割」をテーマとしたシンポジウムで基調講演を行ったという。

 《小川法相「裁判官は退屈」「3年もったいない」 母校のシンポで経験語る》MSN産経/2012.5.12 16:32)

 先ずは「Wikipedia」「小川敏夫オフィシャルサイト」から国会議員になるまでの経歴。

 1948年3月18日生まれ。64歳
 1970年 司法試験合格
 1973年 静岡地裁判事補任官
 1976年 検事に転官(東京地検他)
 1981年 検事辞職 東京弁護士会登録
 1996年 第41回衆議院議員総選挙に旧民主党公認立候補、落選
 1998年 参議院東京都選挙区民主党公認初当選
      参議院議員3期目

 記事題名にある「3年」とは静岡地裁判事補任官1973年から検事転官の1976年までを言うのだろう。

 「Wikipedia」には、「前妻は女優の市毛良枝」の記述がある。初めて知った事実だが、野次馬人間にできているから、取り上げないではいられない。

  シンポジウムには立大生やOBらが参加した。

 小川法相「3年間はちょっと退屈で、もったいなかったが、選挙で『元裁判官』とポスターに(肩書を)入れ、全てを取り返した。

 裁判官は責任があって大変、大切な職業だ。(平成10年の参院選に立候補した当時を振り返り)元裁判官のひと言で、清潔で良識があると(有権者の)皆さんに思ってもらえる。それだけ信用が高いということだ」
 
 記事は小川法相の発言部分の情報発信を主体としていて、何の解説も加えていない。

 次の記事が発言部分の情報発信と共に一言解説を加えている。発言と共に引用。

 《小川法相「裁判官は退屈、選挙で取り返した」》YOMIURI ONLINE/2012年5月12日10時13分)

 小川法相「(裁判官をしていた)3年間は退屈でもったいなかったが、選挙の際、『元裁判官』ということで大変に評価が高く、全てを取り返した。

 裁判官は、責任があって大変大切な職業。(1998年の参院選に立候補した際のことを振り返り)元裁判官の一言で、小川敏夫は清潔な人だろうと思っていただける。裁判官に対する信用が高いということの表れだ」

 発言の取り上げ方はほぼ同じである。

 解説〈国民に裁判員への負担を求める中、裁判官の仕事を軽んじ、選挙の際に肩書を利用したとの批判を浴びそうだ。〉

 要するに裁判官の3年間は退屈で、勿体無い時間を過ごした。だが、元裁判官という肩書が効いて、選挙では有利に働き、そのお陰で当選できたのだから、退屈で勿体無く過ごした3年間を全て取り返したというのが記事が発信している小川法相発言の趣旨であろう。

 とすると、「裁判官は責任があって大変、大切な職業だ」はあくまでも自身の経験から発した情報ではない一般論であって、自身は自ら進んで体現しなかった裁判官としての責任であり、小川法相個人には当てはまらない職業観を述べたことになる。

 いわば本人は意識していなかっただろうが、「裁判官は責任があって大変、大切な職業だ」という言葉で以っていい加減な気持ちでは従事できない重要な職業であると、その職業観を披露しながら、自身は裁判官という職業に実際に就いてみて、「3年間は退屈でもったいなかった」と、3年間という月日を通して機械的に裁判官の職業に臨んでいた、必要とする責任感を持って臨んでいたのではない、裁判官として不適任者であったと告白したことになる。

 立教大学としては前以て知ることはできなかっただろうから、仕方がないとしても、現在法相を務めているとしても、裁判官として不適任者であった人物を「現代社会と司法の役割」をテーマとしたシンポジウムに講演者として招請したというのは皮肉な現象である。

 あるいは知っていて、客寄せパンダの価値があるからと呼んだのだろうか。

 法廷での検事と弁護士の有罪だ、無罪だといった遣り取り、あるいは被告の立場に置かれた人間の人生や生活が露にされる場面を退屈な思いで判事補席から眺めていた。我慢の3年間であり、ムダな3年間だった。

 勿論、給料は満足に戴いていただろう。

 だが、「元裁判官の一言で、小川敏夫は清潔な人だろうと思っていただける。裁判官に対する信用が高いということの表れ」を世間一般の価値判断・職業観だと看做していて、「選挙の際、『元裁判官』ということで大変に評価が高く、全てを取り返」すことができた価値の恩恵を受けることができた。

 この発言を解くと、裁判官という職業に責任感を持って務めていたわけではないが、そのような実績・経験の空虚さに反して選挙の際は「元裁判官」という肩書は財産となった、実績・経験に不相応な恩恵を「元裁判官」という肩書から手に入れることができたということになる。

 ということは、実質的にはハッタリをかましたことになる。裁判官としては不適任者であったが、「元裁判官」という肩書だけで、「小川敏夫は清潔な人だろうと思」わせたのである。

 それとも「元裁判官の一言で、小川敏夫は清潔な人だろう」と思い込んだ有権者が悪いということなのだろうか。悪いということなら、そのように騙された有権者にも責任があることになるが、政党で選ぶ場合、小川敏夫の選挙区である東京都選挙区は蓮舫と2人が当選の複数立候補で地域割りを受けることもあるから、選択肢が限定され、一概に肩書のみで選択したわけではないはずだが、少なくとも小川敏夫は裁判官として不適任者であったことに反して、そのことを自覚したことがなかったからだろう、忸怩たる思いに駆られることもなく、「裁判官に対する信用が高い」ために「元裁判官の一言で、小川敏夫は清潔な人だろうと思っていただけ」たことを有権者に対する認識としていることになる。

 このことを要約すると、小川の認識としては選挙民は人物を見ぬくことができずに「元裁判官」という肩書で人物を判断、選択したと見ているということである。

 直接的には言葉にして言わなかったとしても、間接的に有権者は単細胞だと言っているのと同じことになるはずだ。

 有権者をバカにしている意識はなくても、実質的にはバカにした発言ということになる。

 小川法相が自らを裁判官としては不適任者であったと自覚して、一度でも忸怩たる思いに駆られたことがあったなら、「(裁判官をしていた)3年間は退屈でもったいなかったが、選挙の際、『元裁判官』ということで大変に評価が高く、全てを取り返した」とか、「元裁判官の一言で、小川敏夫は清潔な人だろうと思っていただける」などといった損得レベルで評価する言葉は口が腐っても出てこなかったろう。

 自覚もせず、有権者を意識下でバカにしているからこそできた損得レベルの発言だと言える。

 法相としての資格がないばかりか、国会議員としての資格もない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野田政権による「需給検証委員会」を使った大飯原発再稼働世論誘導の情報操作

2012-05-12 11:03:06 | Weblog

 政府の「需給検証委員会」の第1回会議は4月23日(2012年)の開催である。

 この第1回会議を伝える記事。《今夏の電力不足、0.4%に大幅縮小 政府試算、関電は16.3%不足》MSN産経/2012.4.23 19:23)

 文字体裁は筆者。

 記事冒頭の記述。〈政府は23日、原子力発電所の再稼働がない場合の今夏の電力不足予測について検討する需給検証委員会の初会合を開いた。〉――

 当然、北海道電力泊原発1号機、2号機が定期検査のために停止中で、3号機が5月初旬(実際の停止は5月5日)に定期検査に入り、停止することを予定していたのだから、日本の全原発停止は「需給検証委員会」第1回会議で想定内に入れて事態であり、このことを踏まえた「原子力発電所の再稼働がない場合の今夏の電力不足予測について検討」ということだったはずだ。

 このことは北海道電力が4月23日に北電管内全原発停止を想定して7月・8月の原発を除いた電力供給量を公表したことが裏付けている日本の全原発停止の想定であろう。

 この公表に関して、《泊3号機5日定検入り 原発42年ぶり全停止 道内、最大3.4%電力不足》MSN産経/2012.5.3 13:34)が触れている。

 北海道電力公表の今夏7月・8月の原発ゼロを想定した電力供給量
 ――483万~485万キロワット

 一昨年波の猛暑を想定した最大電力需要量
 ――500万キロワット

 電力不足率で言うと、3.1~3.4%不足

 平年並みの暑さを想定した最大電力需要量
 ――484万キロワット

 余力がないことになる。

 記事結び。〈電力不足回避へ再稼働の期待は高まるが、ストレステスト(耐性検査)の原子力安全・保安院の審査は停滞。さらに、保安院は泊原発で想定される最大の地震の揺れの強さ(基準地震動)の引き上げを4月23日に決定、これに伴い原発の安全性の再確認も必要となり、再稼働への見通しは不透明となっている。〉・・・・・

 原子力安全・保安院が基準地震動引き上げを決定した同じ4月23日に北海道電力は原発ゼロの場合の電力供給量を公表した。保安院の発表に当たっては前以て北電に報告してあっただろうから、保安院の報告を受けた北海道電力の公表ということであろう。

 だが、「需給検証委員会」は原発稼働ゼロを前提とした今夏電力不足予測の検証を役目としていたはずだが、第5回会議でその前提を崩し、〈原発再稼働を前提としない報告書案を提出する一方、再稼働した場合の試算も提示した。〉

 その原発再稼働とは勿論、大飯原発3号機・4号機を指している。

 《大飯再稼働なら強制節電回避…政府が新試算》YOMIURI ONLINE/2012年5月10日12時42分)

 何ためなのだろうか。

 〈政府は10日、今夏に深刻な電力不足が見込まれる関西電力管内の需給見通しについて、関電大飯原子力発電所3、4号機が再稼働すれば、昨夏以降に定着したとみられる企業や家庭の節電を前提に、電力不足がほぼ解消されるとの試算をまとめた。

 政府が原発の再稼働を前提に今夏の電力需給見通しを示したのは初めて。大飯原発の地元・周辺自治体などで続いている再稼働論議にも影響を与えそうだ。

 大飯3号機・4号機の再稼働電力供給量――236万キロ・ワット
 夜間余剰電力利用の揚水発電の増加分 ――210万キロ・ワット

 〈揚水発電は、一日を通して一定の発電量がある原発と組み合わせることで最大の効果を発揮する。〉と記事は解説している。

 以上の設定による検証結果。

 一昨年並みの猛暑の場合。

 需給の逼迫時に大口需要家に節電を求める随時調整契約を加味した場合――不足率0%
 加味しない場合――不足率0.9%

 〈この水準は、一般的に発電設備の故障に備えて必要とされる3%の予備率には届かないものの、電力使用制限令や計画停電など強制的な節電策は回避できるめどが立つ。〉としている。

 要するに原発稼働ゼロを前提とした今夏電力不足予測の検証を役目としていながら、再稼働を前提とした電力不足の検証にまで踏み込んで、最も電力不足が予想されている、それゆえに停電等の不便をより多く負うことになる関西電力管内に於いて大飯原発を再稼働しさえすれば、強制的な電力使用制限もないし、計画停電もありませんよとする検証を行ったのである。

 そのことは誰にしても、どのような停電もない方がいいに決まっている人間の心理を再稼働した場合の生活に与える影響(=無影響)の方に誘(いざな)ったはずだ。

 あるいは停電などない方がいいに決まっているという人間の心理をより強めたはずだ。

 このことを動機とした検証だったのか、《電力需給検証委 「原発ゼロ」前提覆す》東京新聞/2012年5月10日 13時55分)から見てみる。

 記事は再稼働を前提とした検証を〈参考値として提示した。〉ものだとしている。

 果たして単なる参考が目的だったのだろうか。

 〈「原発ゼロ」で今夏を乗り切れるかどうかを見極めるのが議論の前提条件だったが、事務局が委員の求めに応じて原発の供給力を見込んだ試算を提出、政府の再稼働方針を「後押し」する形となった。〉・・・・・

 この記事も、「需給検証委員会」が自らに課せられた役目を踏み外しているとした文脈で伝えている。 

 動機自体は分からないが、委員の要請による再稼働電力供給量だとしていることが問題となる。

 首相官邸HPによると、「需給検証委員会」は「電力需給に関する検討会合及びエネルギー・環境会議」の下に置かれていて、委員長は国家戦略を担当する石田勝之内閣府副大臣、副委員長が牧野聖修経済産業副大臣。連絡先が内閣官房国家戦略室の門松、吉田、末藤(TEL:03-3581-9280)となっている。

 いわば大本は内閣官房設置の総理直属機関国家戦略室であって、政府の人間が頭に鎮座し、牛耳っている組織だと分かる。

 当然、委員の要請に基づいた再稼働前提の電力供給量=電力不足率0%~0.9%ということなら、国家戦略室の意思が働いた、役目を超えさせた検証と見るべきだろう。

 国家戦略室が役目を超えさせたからこそ、「需給検証委員会」は役目としていない検証まで、いわば越権行為的に行い得た。

 上の意思なくして、下が上の意思に反することはできない。直ちに越権行為となる。

 いわば、一方で原発を再稼働しなければ、これだけ電力不足が起こりますよ、その一方で、再稼働した場合は電力不足は起こりませんよと対比させたのは国家戦力室の意思によるものと見なければならない。

 国家戦略室の意思は更に上の内閣官房、更にその上の首相官邸の意思を受け継いだ使命とみなければならないだろう。

 枝野が主導したのか、仙谷が主導したのか、あるいは野田首相自身が主導したのか、あるいは3人が雁首を揃えて共同で主導したのか分からないが、原発を再稼働しなければ、これだけ電力不足が起こりますよ、再稼働した場合は電力不足は起こりませんよが首相官邸から発した意思に基づいた対比と見做さざるを得ない以上、本人たちは否定するだろうが、例えこのことが勘繰りから生じた非事実であったとしても、誰にしても、どのような停電もない方がいいに決まっている人間の心理をどちらに動かしたかを考えると、原発再稼働に向けた世論誘導の情報操作と解釈しなければならない。

 なぜもっと正々堂々とした方法で地元住民に十分に理解できる原発安全性の確認の手続きを踏み、最終的に地元住民と地元自治体の了解に任せる正々堂々とした態度を取ることができないのだろうか。

 あまりにもこせこせした遣り方に見える。

 野田首相や仙谷や枝野にふさわしいこせこせした遣り方だと言うべきか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野田内閣、総合こども園法案に見る待機児童と少子化解消の本気度

2012-05-11 10:59:01 | Weblog

 野田政権が目論んでいる幼保一体化の総合こども園法案は満3歳以上児の受入れ義務のみで満3歳未満児は受入れ義務がなく、待機児童解消には役立たないと早くも批判が渦巻いているばかりか、総合こども園が文部省所管の幼稚園が関わり、厚労省所管の保育園が関わり、総合こども園自体は新たに内閣府所管となるということから、従来の縦割りが残る上に三つ巴の権益争いが展開する予感を披露する識者も多く見かけることとなっている。

 縦割りと権益争いの懸念は総合こども園法案が内閣府と厚労省と文科省の共同提出となっていることから、太鼓判付きで窺うことができる。

 5月7日の朝日テレビ「ビートたけしのTVタックル」でもこの問題を取り上げていた。

 待機児童解消につながらない理由は厚労省発表の2011年10月時点の保育所入所待機児童46620人に対して総合こども園に入所を義務づけられていない3歳未満児41137人

 計算上は5500人しか入所できず、約88%程度の児童の入所待機解消に役立たないことになるが、受入れる幼稚園もなくはないだろうから、もっと増えることになるだろうが、そもそも幼保一体化を考えたのは少子化が原因で幼稚園の定員割れが一部現象化し、保育園に入所できない待機児童を幼稚園で受け入れて、その解消を図ろうとしたのだという。

 だが、幼稚園側は3歳未満児を受入れた場合、給食室の設置と職員の増加が必要になり、その財政負担がそれゆえの幼稚園側からの反対も大きく、3歳未満児受け入れの大きなハードルになっていると番組は伝えていた。

 総合こども園法案がどのような内容になっているのか、内閣府設置の少子化社会対策会議決定だとしている、《子ども・子育て新システム法案骨子》少子化社会対策会議決定/平成24年3月)から必要な箇所を拾い出してみた。

 「少子化社会対策会議」は野田首相を会長として、全閣僚が委員に任命を受けている。いわば内閣総がかり政策だということになる。

 〈1 基本的な考え方

すべての子どもの健やかな育ちと、結婚・出産・子育ての希望がかなう社会を実現するため、
 以下の三点を目的とする幼保一体化を推進するとともに、二重行政の解消を図る。

(1)質の高い学校教育・保育の一体的提供
(2)保育の量的拡大
(3)家庭における養育支援の充実〉――

 「すべての子どもの健やかな育ちと、結婚・出産・子育ての希望がかなう社会」の実現が幼保一体化の理念だとしている。

 若い女性が、まあ、40歳以上・50歳以上の女性が結婚・出産・子育てしてもいいわけだが、「結婚・出産・子育ての希望がかなう社会」となるための条件の無視できない一つが待機児童解消であるはずで、待機児童解消に繋がらない総合こども園であるなら、見せかけの理念、聞こえをよくしただけの理念となる。

 また、「二重行政の解消」を謳っているが、所管はタテマエ上は内閣府となっているが、総合こども園法案が内閣府と厚労省と文科省の共同提出となっていることからも分かるように文科省も厚労省も関わっているとなると、些か怪しい目標と言わざるを得ない。

 〈7 施設の一体化(総合こども園(仮称)の創設)

(1)基本的位置づけ

○ 学校教育・保育及び家庭における養育支援を一体的に提供する総合こども園(仮称)を創設す
  る。総合こども園(仮称)の根拠法として総合こども園法(仮称)を制定する。

○ 総合こども園(仮称)においては、

1. 満3歳以上児の受入れを義務付け、標準的な教育時間の学校教育をすべての子どもに保障する。
 また、保育を必要とする子どもには、学校教育の保障に加え、保護者の就労時間等に応じて保育
 を保障する。

2. 保育を必要とする満3歳未満児については、保護者の就労時間等に応じて保育を保障する。

○ 総合こども園(仮称)については、学校教育、児童福祉及び社会福祉の法体系において、学
  校、児童福祉施設及び第二種社会福祉事業として位置づける。
○ なお、満3歳未満児の受入れは義務付けないが、財政措置の一体化等により、満3歳未満児の受
  入れを含め、幼稚園及び保育所等の総合こども園(仮称)への移行を促進する。〉――

 法的義務はないが、幼稚園が受入れた場合の保育を必要とする満3歳未満児に関しては「保護者の就労時間等に応じて保育を保障する」と謳っている。

 待機児童解消は若い母親の就業機会の喪失回避と就業機会の持続保障につながり、このことは次の子どもの出産へとつながっていくはずだ。定員一杯で預けるに都合のいい適当な保育所がないために次の子の出産をためらったり、諦めたりする若い母親がかなりいると聞く。

 いわば断るまでもなく、待機児童解消は少子化対策と一体化している。少子化対策としても考えた総合こども園であり、待機児童解消はその前提だということであろう。

 当然、人口面から見た日本社会の維持、その健全性にも関わってくる。

 企業側から待機児童解消を言うと、雇用確保、あるいは雇用喪失回避の欠かすことのできない対策ともなり得る。46620人の保育所入所待機児童がいるということは、元々専業主婦をしていられる女性は専業主婦できる夫の収入があるからこそで、その多くは幼稚園に入れるだろうから、その子供は待機児童の数に入っていないはずで、46620人に近い母親が子育てのために仕事を辞めたりしていると見ていいのではないだろうか。

 ということは、待機児童問題は雇用問題を通して日本の経済の一端、その健全性の一端にも関わっていることになる。

 これ程にも重要な待機児童問題である。
 
 理念は実現の具体的な方策とその実現可能性の具体的な提示があって初めて、政策としての初期的な信用を得る。

 逆説するなら、このような提示によって本気度を占うことができることになる。

 ということは、総合こども園に満3歳以上児受入れの義務づけを行なっていなくても、従来の施設のままで残る保育園と幼稚園、新たな施設としての総合こども園を併せた三体制で待機児童解消の具体的な方策と実現可能性の具体的な提示があったなら、総合こども園一施設のみでは待機児童解消に繋がらなくても、創設の正当性を得ることになる。

 いわば本気度を確認できる。

 だが、「総合こども園法案」にも、「総合こども園法案(概要)」にも、「総合こども園法案(要綱)」にも、「総合こども園法案(案文・理由」にも、「総合こども園法案(参照条文) 」にも、「待機児童」の文字は検索してみたが、一つとして出てこない。

 待機児童問題と深く関わっている「少子化」という文字にしても、「総合こども園法案(概要)」に、
 
 〈誰もが安心して子どもを産み育てられる社会を実現

 女性の社会進出を促進
 
 →少子化問題を改善し、今後の経済成長につなげる〉と謳っている、具体的方策の提示とは無関係の一箇所のみで、他のページには会議の名称である「少子化社会対策会議」の「少子化」のみである。

 これでは総合こども園だけではなく、全体としての「子ども・子育て新システム」に関しても実現に向けた本気度を窺うことはできない。

 総合こども園が待機児童解消につながらないことが分かっていて、それを全てとしていることから、総合こども園法案や関連する要綱等に「待機児童」という言葉が消えることになったのだろうか。

 あるいは消すことになったのだろうか。

 「待機児童」という文字と「少子化」という文字の現れ方から野田政権の総合こども園実現の本気度を確かめてみた。

 実現の本気度が希薄な法案内容であるなら、総合こども園の実現に漕ぎつけたとしても、当然、希薄な効果しか期待できないことになる。

 消費税のうちから多額の投資する必要性を失うことになる。

 野田総理大臣「一体改革では、未来への投資を強化することで全世代対応型の社会保障制度の実現を目指している。子育て支援に消費税による財源を向けることは、人生前半の社会保障を強化する意味がある」(NHK NEWS WEB

 果して言ったとおりのことになるだろうか。

 最後に一つ提案だが、「少子化対策」という言葉は、少子化に向かっていくことに対する、それを阻止する言葉を意味しているが、これを子どもを多くする意味の造語だが、「多子化」(たしか)という言葉に変えて、「多子化対策」とした方が積極的な意味を込めることができると思うが、どうだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

枝野の関西電力・電力不足問題発言に見る無責任とデタラメさ加減

2012-05-10 11:14:26 | Weblog

 ――国は自ら電力供給に動け――

 関西電力は大飯原発3・4号機再稼働なしの場合は同管内最大で18.4%の電力不足に陥るとの見通しを示していたのに対して、政府が法律に基づいて全国の各電力会社に対して夏の需給見通しに関する詳細な報告を求めた結果、関西電力は一昨年の猛暑を前提に企業・家庭の節電を計算しても、最初の18.4%の電力不足から、なぜか分からないが2.1引いて16.3%の電力不足に訂正。

 だが、5月2日開催の今夏の電力需給状況検証の国の第三者委員会が企業・家庭での節電を従来予想よりも多く見込むよう求めるべきだとする案を提示、その見込み節電を加えてさらに1.3%低く予想、15%程度の電力不足だとした。

 多分具体的な根拠を持たせた正確な予測だと思うが、どうも電力会社の報告どおりの電力不足としたのでは政府が言いなりになっているように見えるからと国民を納得させるために数字だけを一生懸命小さくしているようにも見える。

 この約15%不足について5月8日閣議後記者会見で詭弁家・枝野経産相が次のように発言している。 

 枝野詭弁家「(供給力不足が)15%というレベルだと、節電をしてもらっても足りなくなる可能性がある」(YOMIURI ONLINE

 この発言は枝野の4月26日読売新聞インタビュー発言とセットにさせた発言であろう。

 枝野詭弁家「猛暑の場合に(自主的な)節電では足りないとなれば、計画停電や電力使用制限令といった手段を駆使することになる」(YOMIURI ONLINE

 4月26日の時点での関西電力管内の電力不足は16.3%と見込んでいたが、それが15%になっても一層の節電の努力では追いつかない、計画停電や電力使用制限令といった強硬手段を取らざるを得ないというシグナルである。 

 5月6日(2012年)日曜日の朝日テレビ「報道ステーションSUNDAY」と続けて放送した同朝日テレビ「サンデースクランブル」で関西電力管内の大飯原発を再稼働しない場合の電力不足を取り上げていた。

 4月26日の関西広域連合会委員会。

 井戸兵庫県知事「(関西電力は)去年の最高は2789(万KW)だったはずなのに、だから、何で3030(万KW)になるのか全く疑問です」

 ここで「今年8月の電力需要3030万KWは一昨年の猛暑を想定」と解説が入る。

 気象庁の今夏の長期予想は一昨年並みの猛暑にはならないと言っているが、電力会社からしたら、最悪の事態を想定内としなければならない危機管理上、一昨年並みを基準とすることは十分に正当性を得る。

 メインキャスターの長野智子が訪れた関西電力で質問。

 長野智子「そもそも見通しが過大過ぎるのでは?」

 軸屋尚久関電給電計画グループ「1日たりとも停電させたくないという思いからですね、実績に基づいてあり得る数字として高めを見ていますので・・・・」

 その危機管理上の「高め」の正当性が政府の手にかかって低めに見積もられる仕打ちを受けたということになるが、関電に正当性があるのか政府に正当性があるのかはこの夏を過ごしてみないと何とも言えない。

 番組はここで川崎重工業明石工場の節電対策を紹介する。自身の工場でも製造しているガスタービン自家発電機を設置、去年関西電力から50%以上購入していた電力を24時間稼働で今年は7%にまで削減。工場従業員が針がゼロの位置にあるメーターを指差して、「関西電力から電気を購入していない」と言っていたから、現在はゼロ購入ということらしい。

 ガスタービン自家発電機は1基数千万円から数億円の価格だが、東日本大震災以降、注文が増えているという。

 能美伸一郎川崎重工ガスタービンビジネスセンター副センター長「(今年度の販売台数の見通しは)1.5倍ぐらいですか。2009とか、2010年に比べたら」

 番組が近畿では自家発電機の生産量は右肩上がりだと棒グラフを示して解説。

 荒木秀之りそな総合研究所主任研究員「関西で原発1基分の容量の自家発電設備が普及している可能性があると思いますねえ。100万KW前後の、需要の押し下げにつながってもおかしくないのかなあと思いますねえ」

 予想でしかないが、企業としたら停電は困るから、関西電力の電力節電に懸命に努力している様子は窺うことができる。

 にも関わらず、関西電力は東京電力の10%(600万KW)の節電見込みに対して3%(100万KW)の節電しか見込んでいないという。

 長野智子「少なくとも去年並みの節電はできるんですか?」

 明徳毅関電営業計画グループ副部長「(去年の節電は)かなり社会的にも経済的にもですね、あの、無理、無理と言うか、色んな負担があった結果として、そういう数字だったんだと思ってまして、(今年の節電は)3%ぐらい織り込んでいますけども、それは無理のない範囲ということでして――」

 要するに去年の節電量は社会的にも経済的にも無理を重ねた結果であって、無理のない範囲ということなら、去年並みは難しいということを言っている。
 
 番組はここで切れて、建設機械製造のコマツ粟津工場(石川県小松市)に場面を移す。

 なぜ長野智子は各企業が去年以上に関西電力からの電力購入抑制に動いていることを伝えなかったのだろう。自家発電機製造・販売の川崎重工業の2009年度や2010年度比較で2011年度は1.5倍ほど販売量が増加しているという指摘、近畿では自家発電機の生産量が右肩上がりという棒グラフでの指摘が意味をなさなくなる。

 これら節電の動きは関電の説明を否定していることになるはずだ。

 撮影が後先となったという弁解は効かない。最初に放送テーマを決めて、関西地域を基盤とした各企業の節電に向けた動きを調査・把握してから各撮影に入ったはずだからだ。

 それとも、「企業の負担になることは見込めない。しかし3%の節電が企業にとっての限界なのだろうか」と解説が言っている疑問解明の企画を途中に挟んでいた都合上、肝心の質問は省いたのか、質問したけれども、編集段階でカットしたのか。

 竹原宣博コマツ粟津工場プロジェクト室室長「いち早く節電に取り組んで、(この夏の)難局もですね、乗りきれるような、そういった形に持って行きたいと思います」

 コンピューターで無駄な電力使用をチェック。

 上田和則コマツ省エネルギー推進部課長「実際の加工には使っていない電力が約3分の2あったということで、加工している時より効率のいい加工の仕方、あるいは効率のいい装置を使うことによって、そこそこの電力を下げていくといったような取り組みに取り組んでいます」

 この工場では生産量を維持したまま、冬場の電力をピーク時で15%削減、今夏は25%の節電を目指しているという。

 企業のこのような節電努力からすると、関西電力が言っている去年の無理に対して今夏は「無理のない範囲」に節電量をとどめるとしている方針説明の正当性はかなり疑わしくなる。

 番組は次の電力供給源として関西電力管内に5箇所あるという揚水発電を取り上げる。上下2ヶ所のダム間で昼間上のダムから下のダムに水を流して発電し、夜間、余力電力で下のダムの水を上のダムに汲み上げて、再び昼間上のダムの水を放水して発電する仕組みの発電だと解説。

 関西電力管内5箇所の揚水発電最大出力は512万KW。原発4基分に相当。

 但し関電試算の供給可能出力は232万KW。長野智子が関電事務所でこの違いの理由を尋ねる。

 軸屋尚久関電給電計画グループ「ベース電源がぐっとなくなることによって、発電時間が長くなっていることになりますので、時間が倍になれば、供給力は半分になる――」

 要するに下のダムから上のダムへ揚水する電力は他の供給源に頼ることになるが、その供給源自体が電力不足に見舞われているから、フル稼働は見込めないということなのだろう。

 テレビの画面で見ると、上のダムから下のダムへの放水路と下のダムから上のダムへの揚水路が同じだから、下のダムから上のダムへ揚水している間は発電を停めていなければならない。これが別々なら、常時水を循環させることが可能となり、発電も常時可能となって、最大出力512万KWは常に確保できるが、そうはなっていないから、「時間が倍になれば、供給力は半分になる」ということなのだろう。

 このことに対する部分的解決策を専門家が発言している。

 藤波匠日本総研主任研究員「他社からの融通を受けることで、揚水発電なども効率化されるはずで、200万kW以上の供給力向上が期待できると思います」

 但し関西電力提示の不足量の正当性を崩そうとする番組の努力に反して、関西電力は供給量をもう少し積み増しはできるとしながら、本質的態度は大きく不足することを前提としていて、その態度に変化はない。

 5月4日大坂府市統合本部「エネルギー戦略会議」

 岩根茂樹関西電力副社長「大飯が動けば、もう少し我々できると、ま、こういうふうに乗り切れるという案はつくります」

 副社長の発言だから、関西電力を代表した発言ということになる。

 大飯原発の再稼働がなければ、今夏の電力不足を乗り切る案はつくることはできませんと言っている。大飯原発の再稼働がなければ、電力不足に手も足も出ませんと言っているのと同じである。

 あるいは大飯原発再稼働を取るか、電力不足を取るかと迫っていると言ってもいい。

 ここで番組は実質的にどの程度の電力不足なのか、専門家の試算と対比させる。

 関西電力――-495万KW(不足見通し)

 これは今夏の予想電力需要3030万KWに対して15%程度の電力不足としていることから算出した-万495万KWであろう。

 自家発電――100万キロワット(りそな総研試算)

 他の電力会社から――100万KW(日本総研試算)

 揚水発電――233万KW(環境エネルギー政策研究所試算)

 合計433万KW。試算上、62万KWの不足となる。

 藤波匠日本総研主任研究員が「他社からの融通を受けることで、揚水発電なども効率化されるはずで、200万kW以上の供給力向上が期待できると思います」と言っていたから、関電試算供給可能出力232万KWに上乗せした200万kW以上の向上だと思ったら、そうではなかった。

 このような不足状況に対しての枝野の態度を見てみる。同じ5月6日日曜日の午後12時からの朝日テレビ「サンデースクランブル」

 この番組の中で5月5日土曜日放送のBS朝日放送「激論!クロスファイア」での枝野の発言を取り上げている。司会者は例のマヤカシ人間田原総一朗。

 枝野「(大飯原発を)再稼働しない場合にお願いしなければならない無理の大きさは(去年の東電の計画停電と比べて)今年の関西の方が大きい。

 これは間違いのないことです。やはり、その、計画停電の、計画は立てないといけない。

 病院、医療関係とか、あのー、それから、例えば冷凍食品を扱っているとか、そういうところは計画停電しなければ(ふっと笑いをこぼし、そのまま小さく笑いながら)、例えば購入しているものは3時間冷やせなくなった、商品がダメになる分野はたくさんあるわけなので、大きな企業は、あの、自家発電とか、色んなことでリスクを分散できる。

 問題は選択肢を持たない中小零細企業――」

 田原総一朗「これが大変だ」

 枝野「これが大変なんです」

 大飯原発再稼働がなければ、こうなりますよの警告である。だが、質の悪い警告となっている。質の悪い分、笑いながら誤魔化していたが、それとない威しの仄(ほの)めかしとも言える。

 中小零細企業対象の個別的電力供給ということなら、軽油燃料の横長さ3.5メートル前後×高さ1.2メートル前後×幅1.5メートル前後、出力150KVA(キロホルトアンペア、kW換算で約120kW)

 レンタル料金、一例初日価格1万円前後~1万5千円前後、初日以降価格5千円前後~1万円前後の中型発電機1台前後を使用すれば、計画停電時間帯を過ごすことができるはずだ。(左図)

 月借りだとより割安となる。

 電力の安定供給は電力会社の責任であると同時に国の責任である。計画停電時間帯の普段の消費電力料金を差引いた金額を電力会社と国が共に補助すべきだろう。

 常に電気を必要とする個別の商店に関しては小型発電機で間に合う。間に合わなければ、小型発電機を2台3台増やしていけばいい。1ヶ月契約で5万円前後から借りることができる。資金に余裕があるなら、自前で購入したなら、自身があった時などの今後の備えとなる。1ヶ月のレンタル料で買うことができるはずだ。(左図)

 「病院、医療関係」にしても自家発電装置を備えていなければ、国の補助でレンタルの中型発電機を設置すれば、備えとなるはずである。

 現在の発電機は全て静音型となっていて、近くにいても左程気にならない。

 朝日テレビ「報道ステーションSUNDAY」が紹介していた川崎重工のガスタービン自家発電機を、電力需要がピークとなる真夏になるまでに3ヶ月近くもあるのだから、例え億単位のカネがかかろうと、一定地域ごとに設置して、24時間フル稼働させたなら、提供可能とした電力相当分は関西電力の需要削減につながり、その電力不足を補うはずだ。

 企業ができる限りの可能な範囲で自ら電力供給と節電に努力しているのに対して国が自らは電力供給に何ら努力もせずに、手をこまねいたまま大企業はリスク分散できるが、中小零細企業はそれができないから大変だと薄く笑いながら言うだけのことで済ましている。

 この無責任とデタラメさ加減は詭弁家枝野ならではの体質であろう。

 大飯原発再稼働が難しくなった時点で国が電力不足回避の危機管理から自家発電機等の設置、企業、あるいは個人が自ら設置する場合の補助金制度の創設に動いていたなら、時間的にも十分に間に合い、例え原発が再稼働することになって無駄となったとしても、危機管理上許される行為となるはずだ。

 三菱自動車パワートレイン製作所京都工場が1997年に約10億円を投じて稼働し、燃料代高騰等の理由で2005年前後に停止した天然ガス燃料のタービン発電機を中心とするコジェネレーション(熱電併給)システムの2基あるうち1基を今夏再稼働させると、《三菱自、京都の自家発電設備を再稼働-補修進め7年ぶり》日刊工業新聞/2012年03月19日)が伝えている。
 
 1基当たり5億円の価格ということだと思うが、最大出力6000kW、夏場の出力は5000kW程度になるという。

 川崎重工のガスタービン自家発電機にしても、1基数千万円から数億円の価格だと番組が紹介していたから、数億円単位の設備は三菱自動車のシステムと同程度の出力を出すのではないだろうか。

 自治体や住民の合意を得ることが困難な状況を無視して大飯原発再稼働にのみ目を向け、自らは電力供給に動くことはせず、電力不足に陥ったら大変なことになるぞと威し紛いの言動に終始している。

 最低の連中だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする