北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【7】航空部隊展示訓練(2010-08-21)

2017-12-10 20:01:19 | 海上自衛隊 催事
■伊勢湾展示訓練航空訓練Ⅱ
 ヘリコプター搭載護衛艦よりSH-60K哨戒ヘリコプターが2機編隊で発艦してゆきます。編隊発艦の展示一般公開は本邦初のものでした。

 伊勢湾展示訓練2010、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、ミサイル護衛艦こんごう、堂々たる艦艇が参加する展示訓練です。併せて横須賀地方隊の歴史を紹介しつつ展示訓練の様子を掲載していますが、草創期の艦隊は小規模でした。

 艦隊運用は、第2船隊群の新編とともに、この二つの部隊は旗艦として護衛駆逐艦1隻の配備を受け、横須賀地方隊から独立運用が始まる。1953年にはソ連が原爆実験に成功し、1954年にはアメリカが水爆実験に成功、東西冷戦構造が醸成され対立が明確化してゆく。

 熊野灘連合応用教練、としまして、1954年3月1日より、今日の海上自衛隊演習にあたる初の総合訓練が実施されました、連合応用教練という呼称ですが、訓練は3月1日から11日まで実施されています、この訓練は1954年の映画“ゴジラ”において映像がみられます。

 熊野灘連合応用教練は保安庁海上警備隊から海上自衛隊への改編への訓練総仕上げという重要な意味合いがあります。かつて太平洋インド洋狭しと戦い抜いた海軍の末裔はその保有戦力の七割を失い敗戦となりまして、残る三割の艦艇も大型艦は接収か解体されました。

 戦艦伊勢、日向、榛名、解体、長門は原爆実験標的艦、若干残る駆逐艦も賠償艦として譲渡されてゆきまして、往事の面影はありませんが、とりあえず独立国家として存在するには、建国当日に第三国に占領されぬよう防衛力を構築できるという能力を誇示できました。

 海上自衛隊創設は1954年7月1日、防衛庁設置法により保安庁が防衛庁へと改編されまして、船という響きから艦という呼称も併せて復活しました。すると警備船は法律上で警備艦となったわけですね。警備艦といいますと、今日の護衛艦も予算要求でも継承される。

 こんごう型も、ひゅうが型、いずも型、むらさめ型など予算上では警備艦となっていまして、この頃から継承されていることがわかります。護衛艦いずも型は満載排水量27000t、発足前に護衛空母供与案がありましたが、ここまで巨大化すると想定されたのでしょうか。

 護衛駆逐艦は供与とともに警備船と呼ばれていましたが警備艦へ、LSSLは小型でしたので警備船の呼称から警備艇となり、掃海船も掃海艇へと呼称が転換しています。連合応用教練とともに、その能力を発揮できることを示した部隊は、部隊配置の母港へ向かいます。

 海上自衛隊発足前夜に続々と横須賀を出港してゆきました。6月20日、舞鶴地方隊へ第15船隊と第16船隊が出港、佐世保地方隊へ第16船隊が出港、大湊地方隊へ第11船隊が出港していったわけです。こうして全国へ警備艦と呼称を代えた水上戦闘艦部隊が配置された。

 横須賀から始まった艦隊編成は、佐世保地方隊へ第2船隊群と第16船隊、舞鶴地方隊へ第15船隊と第16船隊、大湊地方隊へ第11船隊、以上が配置され、加えて掃海艇部隊を地方隊直轄部隊として配置したことで、基地を母港とする艦艇が揃い一段落したわけです。

 艦隊駆逐艦として海上自衛隊へアメリカ海軍により、それまでに供与された護衛駆逐艦よりも大型の大戦艦が配備されることとなりました。護衛艦あさかぜ、護衛艦はたかぜ、2隻の引き渡しです。リヴァモア級駆逐艦で基準排水量は1630t、吹雪型駆逐艦と概ね同じ。

 この引き渡しはアメリカ本土にて行われ、現在運用されているミサイル護衛艦はたかぜ、よりも小型ではありますし、勿論ターターミサイルシステムなどは搭載していませんが、近代的なレーダーと火器管制装置に連動する兵装システムを有する護衛艦の引き渡しです。

 アメリカ本土において海上自衛官が五か月間もの完熟訓練を実施、海上自衛官により太平洋を渡り日本へ回航されました。1955年2月24日の出来事ですが、この頃には護衛艦という呼称が定着しており、警備船よりは駆逐艦らしい艦種呼称といえるかもしれません。

 護衛艦はたかぜ、護衛艦あさかぜ、とを筆頭に艦隊駆逐艦の引き渡しが本格化しました。アメリカ本土での供与艦は続いて護衛駆逐艦を護衛艦あさひ、護衛艦はつひ、として引き渡しを受けますが、この二隻は海上自衛隊により整備補修を経て大事に運用されました。

 大事に運用されたことで、その後の国産護衛艦建造を経てのアメリカへの返還時にも十分実用に耐えるという事から、そのままフィリピン海軍へ供与されています、そして驚くべき事に2010年代後半の今日でもフィリピン海軍の重要な水上戦闘艦とて現役なのです。

 キャノン級護衛駆逐艦、古いには古いですが、一隻が稼働状態、一隻が予備役、大事に整備すれば動くものなのですね。この4隻のうち、あさかぜ、はたかぜ、は第5護衛隊を編成、あさひ、はつひ、は第6護衛隊を編成、改称成った第1護衛隊群へ編入されています。

 艦隊駆逐艦供与は、護衛艦ありあけ、護衛艦ゆうぐれ、と続きまして、こちらは第1護衛隊を編成しました。数は確かに少ないものですが、旧海軍の艦隊駆逐艦と並ぶ大型駆逐艦により、小さいながら駆逐隊を編成できる水準で同時に国産警備艦の建造も開始されます。

 呉地方隊は海上自衛隊発足と同時に横須賀地方隊から独立しまして、これにより5地方隊体制が完成、横須賀地方隊の警備隊区も熊野灘から東海地方沖と首都圏沖を三陸海岸までとなります。云わば、現在の海上自衛隊横須賀地方隊警備管区へと画定していた訳ですね。

 横須賀地方隊ですが、しかし教育の横須賀、と今日呼ばれているように横須賀は教育拠点、供与艦はいったん横須賀地方隊へ配備して教育訓練を行った上で横須賀かそのほかの実戦部隊へ配属という方式は防衛庁設置後も続きまして、国産護衛艦就役後も続きました。

 教育拠点とは横須賀へいったん配備して訓練を行った上で、という方式は、国産護衛艦ゆきかぜ、護衛艦あやなみ、護衛艦うらなみ、護衛艦いそなみ、護衛艦しきなみ、護衛艦あきづき、護衛艦てるづき、と続々完成し竣工してゆきましたので、にぎやかになります。

 横須賀基地の護衛艦部隊はアメリカ海軍横須賀基地の巡洋艦部隊や空母と比べれば確かに小型ではあるものの、海上防衛力の再構築へと活況に満ちていまして、当時乗艦されていたというOBのかたの話は、横須賀のヴェルニー公園などで今日でも聞くことが出来る。

 あきづき型護衛艦は1960年に竣工していますが、併せてこれに先立つ1957年5月10日に練習隊群、現在の練習艦隊の前身となる部隊が創設されまして、幹部教育は江田島へ集約されてゆきました、教育訓練を全て横須賀が担うという方式からは転換しています。

 また、要員教育についても各地方隊の教育隊において実施され、艦艇の引き渡し後の教育、国産護衛艦については艤装中から艤装員が担うようになっていますので、横須賀地方隊のいちづけについて、横須賀は護衛艦艤装員の宿泊支援へと役を換え次第に変化してゆく。

 教育の横須賀、とよばれる今日の横須賀基地を示す気風は、まず海上自衛隊の前身にあたる海上警備隊発足当時に、その後の護衛艦乗員の訓練を一手に担い、供与艦艇の訓練、新造艦の艤装員受入を以て横須賀から母港へ旅立つ、このようにして醸成されてゆきました。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【6】航空部隊訓練展示(2010-08-21)

2017-11-26 20:08:47 | 海上自衛隊 催事
■伊勢湾展示訓練航空訓練
 伊勢湾上を往くヘリコプター搭載護衛艦しらね、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、今日では貴重な情景です。

 伊勢湾展示訓練2010、横須賀地方総監高嶋博視海将の隷下に自衛艦隊より第1護衛隊群司令糟井裕之海将補が就き護衛艦4隻、潜水艦1隻、掃海母艦1隻、掃海艦1隻、掃海艇2隻、輸送艇1隻、試験艦1隻、多用途支援艦1隻の艦艇13隻が展示訓練へ参加しています。

 横須賀地方天の伊勢湾展示訓練という事で、横須賀地方隊と海上自衛隊の海上警備隊時代からの歴史と共にその展示訓練の様子を紹介していますが、前回、日本へ海上防衛力を再整備する一大事業へアーレイバーク海軍大将が大きく尽力していた歴史を紹介しました。

 あのアーレイバーク級ミサイル駆逐艦の艦名となった指揮官で大戦中はガダルカナルにて日本海軍と死闘を繰り広げた提督ですが、その努力もあり実現したものです。アーレイバーク海軍大将は激戦を経ても日本になぜか好意的で逸話もいろいろあります提督です。

 アーレイバーク海軍大将は、護衛空母を供与し、再度阿賀野型巡洋艦や松型駆逐艦の改良型を日本国内で建造し、護衛空母部隊を船団護衛任務に当てよう、という調整も為されたほど好意的だったのですが、ワシントンDCの反対からこちらは流石に実現していません。

 さて、魚雷艇が供与されなかった背景は不明ですが、その後アメリカから供与された大戦艦の駆逐艦からもなぜか魚雷発射管は撤去されて引き渡されていました。この当時は艦艇攻撃への艦対艦ミサイルは技術途上、対艦攻撃といえば艦砲と魚雷でした、是非揃えたい。

 海上警備隊にこの魚雷艇の不供与、意図は不明確ですが水雷攻撃を得意としていた日本海軍の末裔となる海上警備隊へ、魚雷を供与すると、ソロモンやミンドロ沖海戦の悪夢など第二次大戦中のトラウマを再発させる指揮官等がアメリカにいたのかもしれません、ね。

 アメリカからの最初の供与艦は、1953年1月14日、くす、なら、かし、もみ、護衛駆逐艦で第1船隊を編成、第2船隊で、すぎ、まつ、護衛駆逐艦6隻を供与されまして、第11船隊として中型揚陸艦へ武装を施したLSSL、ゆり、きく、はぎ、らん、を受領します。

 くす、なら、かし、もみ、護衛駆逐艦出そろうと松型駆逐艦の雑木林をおもい出す陣容ですね。このように海上警備隊はここから始まりますが、これは手始めで1953年12月23日までに11回と分けて実施され、68隻の艦艇、排水量にして31350tが供与されました。

 供与艦は揃いました。ともあれ、自衛艦隊よりも海上自衛隊よりも、横須賀地方隊の歴史は長いわけです。そして、旧海軍からの再就職の方々へも、そもそもアメリカ海軍護衛駆逐艦と最新の戦術など知るわけもありませんから、まずは要員教育から始めたわけです。

 故に自衛艦隊に当たる部隊を創設するよりも横須賀地方隊の横須賀教育隊にて要員を養成するところから始めたわけです。太平洋側全ての任務を担った横須賀地方隊ですが、航路啓開隊任務がようやく1953年にはいり主要航路から機雷掃海が完了した、と考えられます。

 航路啓開隊、任務終了により解体、1953年9月16日、佐世保地方隊と大湊地方隊が創設されたわけです。この頃の舞鶴地方隊などは海上保安庁とともにソ連工作員の上陸事案が相次ぎ、何しろ日本海の対岸に北朝鮮があり朝鮮戦争、日本近海は大戦時に並ぶ緊張です。

 国連軍海軍艦艇がどんどん遊弋するなか、日本でのソ連工作員が破壊活動を行い、支援へソ連が工作員を入国させる、これを阻止しなければ、謎の武装集団が街を占拠するという、ついこの前のクリミア半島での出来事が戦後間もない日本で起こりかねませんでした。

 横須賀地方総監部が舞鶴地方総監部とともに海上警備隊のもとで発足しましたが、幕僚機構や基地施設管理などを実績を積み、その上でこの幕僚機構を元に細分化し新編させ、佐世保地方総監部と大湊地方総監部、続く呉地方総監部の発足へと繋がったわけですね。

 横須賀地方隊による伊勢湾展示訓練、海上自衛隊の発足以前から保安庁海上警備隊、そのもとで横須賀地方隊が舞鶴地方隊とともに発足しまして、海上自衛隊の歴史よりも横須賀地方隊の歴史のほうが長いという意外話を紹介しましたが、横須賀はもう一つの拠点です。

 海上警備隊の艦艇にあってアメリカ海軍からの供与艦が水上戦闘艦の歴史の始まりでもありました、そして日本海側の警備を行う舞鶴地方隊と太平洋側の警備を行う横須賀地方隊という任務区分の中、日本海軍艦艇の生き残りとアメリカからの供与艦艇の混在状態です。

 日本海軍艦艇とアメリカ海軍艦艇、新旧大小混在する艦艇を前に、アメリカからの供与艦艇は全て管理上、横須賀地方隊に所属するという方式がとられています。言い方によっては、舞鶴地方隊は純粋な日本海軍の生き残りから始まった、といえるのかもしれませんね。

 アメリカ海軍供与艦艇は警備船、と区分されまして、まず1953年4月1日に第1船隊と第2船隊とで第1船隊群が編成、これがのちの第1護衛隊群となります、こうしてみますと第1護衛隊群の歴史もなるほど防衛庁や海上自衛隊の時代よりも長いという事になるのです。

 名称は船隊群、ただ、第1船隊はダイイチセンタイと呼称しますので第1戦隊とも聞き取れるもの、これものちに第1護衛隊と名称を変えてゆきます。船隊は供与艦艇とともに続々と編成されまして、1953年2月16日には第12船隊、4月10日に第17船隊、と続く。

 新編は4月30日に第15船隊、その後に少しだけ間が空きまして10月1日に第17船隊、12月1日に第4船隊と第13船隊に第18船隊、12月23日に第3船隊と第14船隊と第19船隊と同時に3隊が創設されてゆきました。名称は漁船団のようでも列記とした艦隊です。

 第1船隊群の創設は、一定の艦隊行動が可能程度の練度を整備できたという事を意味しますが、続いて8月16日に第2船隊群が第11船隊と第12船隊を基幹として新編、これが現在の佐世保第2護衛隊群のはじまりです、こちらも防衛庁や海上自衛隊発足前にあたる。

 自衛隊の歴史よりも長い歴史を持つ自衛隊の部隊がある、似たような事例は陸上自衛隊でも北部方面隊が保安庁時代に発足しており、北部方面隊の歴史の方が陸上自衛隊の歴史よりも長い、という事例があります。それだけ部隊を編成し抑止力を置く必要がありました。

 そして海上自衛隊の歴史で非常におもしろいのはこのさなか、1953年9月16日に横須賀地方隊のもとに呉地方隊が創設された点でしょう、地方隊の下に地方隊がおかれています、ただ、総監部は横須賀に統合され、呉地方隊創設時では呉地方総監部は置かれていません。

 横須賀地方隊と横須賀地方総監部、そのもとに、横須賀基地警防隊、呉地方隊、大阪基地隊、館山航空隊、という編成がとられていたのです。自衛隊発足前の時代の模索期故の編成でして、総監部の隷下に地方隊を幾つか置くのではなく、地方隊の下に地方隊を置いた。

 そして供与艦艇については全て管理上横須賀地方隊に所属していたと前述しましたが、続々と編成された船隊、そして第1護衛隊群の前身に当たる第1船隊群と第2護衛隊群の前身に当たる第2船隊群、ともにこの時点では暫定で横須賀地方隊に所属していました。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【5】観閲式と観閲飛行(2010-08-21)

2017-10-29 20:17:03 | 海上自衛隊 催事
■横須賀地方隊観閲式と観閲飛行
 イージス艦こんごう、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、以下多数の伊勢湾上での観閲式に続き観閲飛行の航空部隊が飛行します。

 横須賀地方隊伊勢湾展示訓練、横須賀地方総監高嶋博視海将の隷下に自衛艦隊より第1護衛隊群司令糟井裕之海将補が就き実施されました。横須賀地方隊は護衛艦を有しませんが、地方総監部は指揮機構である為、必要に応じ自衛艦隊から部隊の加入を受け対応する。

 横須賀地方隊、横須賀地方総監部の幕僚機構は、横須賀地方総監へ海将が補職され、幕僚長に海将補が補職、政策補佐官に事務官が補職、防衛部長、管理部長、経理部長、技術補給監理官、監察官、とそれぞれの部長へ1等海佐が補職され幕僚機構を構成しています。

 高嶋博視海将の隷下に地方隊の部隊についてみてみましょう。地方総監部、第41掃海隊、横須賀警備隊、直轄艦艇、横須賀教育隊、横須賀弾薬整備補給所、横須賀造修補給所、横須賀基地業務隊、横須賀衛生隊、横須賀音楽隊、観音崎警備所、父島基地分遣隊など。

 横須賀警備隊は隷下に横須賀水中処分隊、横須賀陸警隊、横須賀港務隊を有しています。また、直轄艦は、輸送艇 2号、多用途支援艦えんしゅう、砕氷艦しらせ、以上3隻で、今回展示訓練乗艦のお世話になりました多用途支援艦えんしゅう、は直轄艦となっています。

 2008年まで、横須賀地方隊には第21護衛隊が置かれていました。しかし、護衛艦の減少と大型化が訓練を変え、地方隊管区を越えて脅威へ対応するには自衛艦隊へ護衛艦部隊を集約する事が効率的であるとして自衛艦隊改編の際に地方隊から管理替えとなっています。

 20年ほど前の横須賀地方隊には、第33護衛隊と第37護衛隊が置かれ、第33護衛隊隷下に護衛艦てしお、護衛艦よしの、護衛艦ちとせ、第37護衛隊隷下に護衛艦ちとせ、護衛艦によど、護衛艦あやせ、沿岸防備へ実に2個護衛隊6隻もの護衛艦が配備されていました。

 護衛艦てしお、護衛艦よしの、護衛艦ちとせ、護衛艦ちとせ、護衛艦によど、護衛艦あやせ、ともに沿岸防備用の小型護衛艦ちくご型ですが、この老朽化と共に護衛艦の減勢が決定、護衛艦隊から大型の護衛艦に当たる護衛艦はつゆき型が配備される事となりました。

 ちくご型護衛艦は駆潜艇の後継、はつゆき型は対空対艦対潜の各ミサイルを搭載しヘリコプターも搭載するシステム艦ですが、その分訓練負担も大きく、これが自衛艦隊への護衛艦就薬へと繋がりました。このおように地方隊の歴史は長く、改編を繰り返してきました。

 横須賀地方隊は海上警備隊発足の1952年4月26日に創設されました。しかし、横須賀に総監部をおくことは決まりましても、横須賀はアメリカ海軍が運用していました。何より1952年といえば朝鮮戦争が最盛期にあたり、日本へ軍事圧力が最も高まっていた時代です。

 朝鮮戦争中に空母が何隻も最前線日本海や東シナ海に黄海とを往復した時代、横須賀基地はアメリカも手放せません。朝鮮戦争では一時、韓国軍と国連軍が釜山まで追い込まれ、即ち長崎県対馬から100km先は最前線、というそれは大変に緊張した時代だったわけです。

 そもそも朝鮮半島は日本が植民地を経て本土に併合し、その間には非常に安定していたのですが第二次世界大戦後の占領とともにソ連側占領地とアメリカ占領地との間に軍事境界線が構築され、戦闘状態となったわけです。今日視点にはしっかりしてくれよ、と思う。

 ドイツ占領のようにイギリス軍等他の占領軍が朝鮮半島でも活動し、中華民国軍が国境を接している地域にも駐屯していたならば、これほど大きな戦争の火種、今日に続く対立構造は回避できたのだろうか、と思ってしまいます。歴史にIFは禁忌ではあるのですが、ね。

 この横須賀の重要度が戦後もっとも高くなっていた時代、旧海軍にも沿岸防備にあたる鎮守府が横須賀にもおかれていたのですが、横須賀鎮守府庁舎についてもアメリカ海軍が使用中でしたので、創設間もない横須賀地方総監部はその司令部庁舎の確保から始めます。

 田浦地区の旧海軍水雷学校庁舎が接収を免れていましたので、横須賀地方総監部は旧水雷学校庁舎を再利用することとなりましたが、終戦後の混乱により重厚な調度品はもちろん事務用品から書棚も無く、窓は窓枠まで扉は蝶番まで亡失した状態から再出発だった、と。

 横須賀地方隊創設式典とともに横須賀地方隊はアメリカから供与艦艇として護衛駆逐艦や中型揚陸艇改修警備船などを受領する予定だったのですが、残念ながらこの頃からアメリカは事務能力に不十分、もしくは大らかな部分があったようで、今日でも米軍は遅刻多い。

 結果、横須賀地方隊が発足してもフネがないという、引き渡しは遅れることとなりました。アメリカからくれるのは仕方ないと思われるかもしれませんが、実はこの艦艇、大戦中にソ連海軍へ供与する予定の艦艇を返還されたもので、東京湾に置かれていたものなのです。

 供与艦艇の一部は既に横須賀へも回航されていたといいますから、すぐ近くに置かれていたものが受領書類不備により引き渡されなかった、というものでして、ちょっと情けない。とりあえず、横須賀回航の艦艇の引き渡し訓練だけ、正式貸与前に訓練を始めました。

 こうしてアメリカ海軍護衛駆逐艦による訓練が海上自衛隊での艦艇訓練の始まりとなりました。もっとも、乗組員の選定は行わず、基礎訓練を教育の形から始めたという構図ではありましたが、ね。横須賀地方隊とともに舞鶴地方隊が創設、海上防衛が始まりました。

 横須賀と舞鶴、現在海上自衛隊の地方隊は佐世保や呉に大湊とありますが、この日創設されたのは横須賀と舞鶴のふたつでした。横須賀地方隊は北海道から本州に四国と九州太平洋沿岸や九州東シナ海側までという、それはもう広大な海域を担当することとなりました。

 舞鶴地方隊は日本海全域を、といいましても現在の舞鶴地方隊は日本海全域を担当しているようなものですが、広大な海域の任務を任されました。地方隊は、船隊と航路啓開隊に練習隊、この三部隊から構成されていました。供与艦と練習部隊に掃海部隊、にあたる。

 しかし、海上保安庁が勇壮な海防艦を運用していたのに対し、海上警備隊に渡されたのは艦隊というには少々貧弱と云わざるを得ない水準の物でして、アメリカ海軍供与の護衛駆逐艦をのぞけば旧海軍から継承しました駆潜特務艇と哨戒特務艇に航空機救難船のみ。

 航空機救難船といいますと響きだけは航空母艦のようで勇壮ではありますが、実際には墜落した航空要員を救助する高速船、ヘリコプターや飛行艇という墜落した搭乗員救難用の機材以上に墜落海域が明確にわかっている場合には高速艇で駆けつける単なる高速船です。

 アメリカ海軍からは魚雷艇が多数供与されていたらば、艦隊の再編に早く進むことが出来たのかもしれませんが、実現しませんでした。PTボートとして哨戒魚雷艇はアメリカが800隻以上を量産、40ノット速力で魚雷を主武装に機銃で針鼠の様に固めた局地防衛用のもの。

 海上警備隊発足当時供与されなかった理由ですが、当時の日本海軍へのアメリカの認識があったのかもしれません。日米関係は今日もっとも良好で、創設当時からアメリカ海軍は日本の海上防衛力再建へ注力、アーレイバーク海軍大将が個人的な尽力がありました。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【4】伊勢湾上の観閲式(2010-08-21)

2017-10-08 20:04:42 | 海上自衛隊 催事
■高嶋博視横須賀地方総監へ敬礼
 群青の大海原と快晴の伊勢湾上において、観閲式へ艦隊がいよいよ洋上で会合します。

 伊勢湾展示訓練2010、観閲部隊は、横須賀地方総監高嶋博視海将がミサイル護衛艦こんごう艦上から観閲を行い、観艦式のような観閲部隊編成でした。観閲部隊は、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、護衛艦しらゆき、掃海艦つしま、と既に除籍された艦艇が参加です。

 単縦陣で、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、護衛艦しらゆき、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、掃海艦つしま、多用途支援艦えんしゅう、が伊勢湾を進む情景は勇壮ですが、当方が乗艦する多用途支援艦えんしゅう、は単縦陣では後ろの方、文字通り後塵を拝する。

 第1護衛隊群司令糟井裕之海将補はヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが艦上に海将補旗を掲げ、受閲部隊を指揮しました。群司令糟井裕之海将補は着任が8月20日、つまりこの伊勢湾展示訓練前日に着任したとの事で、着任と共に即座に展示訓練へ臨んだとの強行軍です。

 伊勢湾展示訓練2010は一般公開日が一日のみであった事から、実任務の増大故に一般公開は一日のみなのか、と思ってはいたところですが、群司令着任の翌日と聞けば、成程致し方ない、それにしても艦隊は20日既に名古屋に入港中、名古屋で交代したのでしょうか。

 第1護衛隊群司令糟井裕之海将補前任の群司令は山下万喜海将補、部隊を鍛え上げ交代を果たしました。山下海将は2016年12月22日に第49代 自衛艦隊司令官に就任、海上自衛隊の護衛艦隊や潜水艦隊に掃海隊群と戦闘部隊を一手に担う要職に就かれています。

 横須賀地方総監高嶋博視海将は、護衛艦しらゆき、ミサイル護衛艦こんごう、掃海母艦うらが、と観閲部隊の中央、ミサイル護衛艦こんごう艦上から観閲、高嶋博視海将はこの八か月後に管内で発災の東日本大震災にて統合任務部隊海上指揮官として重責を担いました。

 地方隊、という海上自衛隊の部隊は、全国の沿岸防衛及び災害派遣と基地の補給などに当たる機構となっています。そして有事の際には地方総監を統合任務部隊指揮官として、必要な部隊を自衛艦隊や全地方隊から集約し、任務に当る。地方隊は司令部であり拠点です。

 横須賀地方隊、海上自衛隊には全国の沿岸へ地方隊を配置していまして、横須賀地方隊、呉地方隊、佐世保地方隊、舞鶴地方隊、大湊地方隊、この5地方隊には海上自衛隊から地方総監を配置し、海上防衛任務や艦艇の補給維持と要員教育、情報収集に当たっています。

 海上防衛と云えば護衛艦、護衛艦と云えば護衛艦隊です、しかし、護衛艦は今日の海上自衛隊編成に在っては自衛艦隊に集約されていますが、地方隊は過去には護衛隊を隷下に有していましたし、自衛隊史をみれば、実は海上自衛隊の歴史よりも永いものがあるのです。

 海上自衛隊よりも横須賀地方隊のほうが長い歴史、といいますと首を傾げられるかもしれませんが、これは海上自衛隊の前身にあたる保安庁海上警備隊の時代から横須賀地方隊が配置されていたためで、警察予備隊と改編による保安隊という歴史を視ればわかります。

 第二次世界大戦の敗戦とその後の占領とともに行われた第日本帝国海軍の解体、第二復員省への改編を経て、我が国はその必要上から占領軍により海上保安庁を発足させ、密漁船団や海賊船取締りという現代日本周辺では中々ない任務や機雷掃海任務へ当りました。

 このなかで沿岸警備任務の延長線上では対応できない機雷掃海任務などへ対応するべく、1952年に海上保安庁から海上警備隊を独立させました、自衛隊発足は防衛庁設置法が衆参両院で可決されました1954年ですので保安庁創設や海上警備隊発足はその2年前です。

 今日では想像が難しいのですが、第一線の要員の認識としまして海上保安庁と海上警備隊、どちらが帝国海軍の継承者か、という認識もありました、この経緯は興味深い。海上保安庁が帝国海軍の継承、という認識は今日では少々時代が違いますが、当時は顕著でした。

 海上保安庁、旧海軍艦艇と同名の巡視船が多数運用されているところに往事の面影を見いだす程度ですが、当時の海上保安庁は旧海軍海防艦を多数運用していまして、海防艦を巡視船というかたちで継承していた訳です。海防艦を継承する海上保安庁が海軍を継承する。

 海防艦といいましても、鵜来型海防艦などは現在の小型護衛艦に匹敵し、排水量では海軍駆逐艦と同規模、大戦では船団護衛にてアメリカ潜水艦と死闘を繰り広げた殊勲艦の生き残りを運用していたわけで、1954年の映画“ゴジラ”にもその雄姿が描かれています。

 戦艦大和や戦艦榛名、重巡洋艦摩耶、戦間期の巡洋戦艦鞍馬と比較しても海防艦は小型ではありますが、それでも歴とした海軍艦艇を継承していたのは海上保安庁のほうでした。海上警備隊はアメリカ海軍の退役艦艇から運用を始めまして、海軍の継承は人材中心です。

 旧海軍からは掃海艇さえも継承していません。掃海艇さえ継承していないが掃海任務を受けた海上警備隊は過酷な任務のように見えますが、実は旧海軍の掃海艇は外洋航行能力を重視しすぎ、この後大戦中の掃海特務艇まで、新型機雷へ対応する事が出来ませんでした。

 旧海軍は磁気機雷や音響機雷といった新型の機雷への対処ではなく従来型の係維機雷、水中に浮かんでいる機雷への対処を重視していたため、旧式駆逐艦へパラベーンという係維機雷の係維索を断ち切る処分装置を搭載し運用していまして、日露戦争時代の運用でした。

 旧式駆逐艦原型掃海艇、これが処分不十分のまま航行し、元駆逐艦の鉄製船体と重厚なエンジン音が機雷に察知され掃海艇が撃沈されるという残念な結果にいたったわけでした。すると、旧海軍は駆潜特務艇という小型艦艇を末期に数百隻建造していまして重宝します。

 駆潜特務艇、これが木造船体を採用していましたので、掃海艇へ転用されることとなったわけです。駆潜特務艇は機関銃と爆雷を搭載し、簡易ソナーにより船団護衛に当てられたもので、小型ではありますが限られた要員と人材で間に合わせた装備としては活躍します。

 小型艇ですので、少々任務は厳しいといいますか、アメリカの最新鋭の潜水艦や空母艦載機が乱舞するなかで運用は大変な犠牲と筆舌につくし難い苦労もあったようですが、大戦末期、既に資源が枯渇する中で船団護衛を行うにも限度があるなかで、苦肉の策です。

 全国の漁船建造能力を持つ小規模造船所を全て動員し、性能は限られていましたが数百の建造に着手し200隻以上の就役をもって船団護衛に当たりました。過酷な運用で犠牲も少なくはなかったものの、大量に建造されましたので生き残りも多く、多数残っていました。

 海上保安庁巡視船とともに新設された海上警備隊へも多数が配備、木造船体を応用し掃海艇に用いられたほか、朝鮮戦争支援への海上保安庁派遣でも掃海任務に当てられています。なにしろ、末期戦で動いた装備をアメリカの補給の下使うのですから、間違いないもの。

 ここで、駆潜特務艇を中心に継承した海上警備隊と、海軍海防艦を巡視船として継承した海上保安庁、どちらが海軍の後継者になるのか、海上保安庁と海上警備隊も構成する要員は海軍出身者、このような後継の認識があったわけですね。要するに縄張り争いともいう。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【3】伊勢湾上の単縦陣(2010-08-21)

2017-09-17 20:02:14 | 海上自衛隊 催事
■あゝ堂々の伊勢湾上単縦陣
 名古屋や四日市と松阪を出航した艦隊は順次伊勢湾上に単縦陣を組んでゆきます。

 伊勢湾展示訓練、護衛艦4隻、潜水艦1隻、掃海母艦1隻、掃海艦1隻、掃海艇2隻、輸送艇1隻、試験艦1隻、多用途支援艦1隻、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、イージス艦こんごう、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、等13隻が伊勢湾に集う大規模な訓練です。

 ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、イージス艦こんごう、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、この参加護衛艦の名を挙げるだけでも熱くなりそうですが、それ以上に熱かった、そう、2010年の夏は暑かったのです、この日は最高気温35度、猛暑日のさなかの展示訓練です。

 猛暑日35度という最高気温、伊勢湾洋上ならばさぞ涼しいかと問われれば、待機は循環しているのですから熱いものは厚い、直射日光に加え甲板からの照り返しがありますし、ステルス性を重視した最新艦艇は日影が実は少なかったりします、そして撮影は是非したい。

 伊勢湾にて熱中症とならないよう、厳重に給水と必要な塩分摂取を考慮しつつ、しかし撮影します乗艦は多用途支援艦えんしゅう、ひうち型多用途支援艦の一隻ですので、様々な作業へ充てる多目的区画が充分配置されていまして、日影が多い事で有難かったですね。

 伊勢湾は海上自衛隊とも様々なつながりあります、伊勢へは鳥羽沖に艦艇を停泊させ、指揮官が航海と日本の安全を祈念することもありますし、伊勢湾は名古屋へ繋がる重要航路の一つです、しかし、船舶が狭水道に多数集中するため、海上交通安全法が適用されます。

 この海上交通安全法は日本の国内法ですが、そのなかでも日本の海上交通が多い三海域において適用される特殊な法律です。そしてその三海域といいますのが、東京湾、伊勢湾、瀬戸内海、というもので、伊勢湾が含まれています、難所瀬戸内海並に難しいという事だ。

 基本的に海上衝突予防法に準拠するのですが、速力に関しては最高速力12ノットと指定された区間では越えてはならない速力が厳しく明示されています。衝突の危惧があったさいには海上衝突予防法が適用されますし、見張り等でも海上衝突予防法が適用されます。

 巡航については海上衝突予防法よりも海上交通安全法は厳しく、追い越し禁止海域が海峡屈曲部分など明確に禁止されています。行会い船関係ではこの行会い船を避ける観点から一方通行が指定される海域があります。行会い船、海上で出会う他の船、という意味です。

 中央部を避けて航行する海域が明確されているのも特色で出来る限り伊良湖航路では禁止され狭水道となれば中央部分を航行したくなる中に明確に避けるよう示されている。このほか様々な規制がありますので、これだけ規制されている通り非常に交通が難しい訳です。

 海上自衛隊と伊勢湾の関係ですが、伊勢湾展示訓練として横須賀地方隊が主催する海上交通行事を行い、中京地域の国民へ海上自衛隊の能力と海上防衛の意義やその努力と練度を広報する訓練を実施していますが、重ねて伊勢湾機雷戦訓練という訓練も行われます。

 伊勢湾機雷戦訓練、掃海艦艇の大規模な訓練が実施されています。これは二月に行われ、四日市や松阪と津に海上自衛隊機雷戦艦艇が集結し、実際に伊勢湾へ機雷が敷設されたとの想定から掃海艇を展開させ機雷を掃討するという訓練です。訓練機雷が実際に使われる。

 伊勢湾は世界地図では狭い海域かもしれませんが、世界中の船舶が集まる良港です。交通難所であると伊良湖水道の解説に見てわかるところですが、日本列島は環太平洋弧状列島として、太平洋の高い波の影響を受ける海域にありながら、しかも台風の通り道です。

 台風有り荒波ありの凄い地形にあります日本列島、その立地に港を構築するには波の穏やかな場所が必要、このため、志摩半島と渥美半島により太平洋の高波からまもられている地形は港湾として理想的ですし、実際、台風が近づく荒天でも湾内はかなり穏やかという。

 さらに台風の際には伊勢湾に位置する知多半島は突風から船舶を守る停泊地として最適な地形となっています、このため重要港湾ですが、日本の海上交通を遮断しようとする勢力からは、この海域に潜水艦などを用いて機雷を敷設することは非常に効果的で、可能です。

 日本にとってはこの海域へ機雷敷設されることは、実に痛い。そこで伊勢湾機雷戦訓練を行うわけです、模擬機雷ですが掃海艇が不用意に掃討せず航行しますと感知し浮上し掃海艇へ撃破判定を突きつけます、海底にはいろいろ落ちていて機雷発見難易度は高いという。

 海上自衛隊の機雷掃討技術は世界的にかなり高度な水準にあります、これは第二次世界大戦以降、日米が日本は防御用にアメリカは港湾航路閉塞用に敷設した大量の機雷を処理し続けてきたためなのですが、ただ、冷戦終結直後に実は意外な弱点が見つかりました。

 1991年の湾岸戦争を契機に平和憲法の観点から戦闘部隊は派遣できないしそもそも戦闘地域には後方支援部隊を派遣できないし、さらに原則として気合い外派遣が当時の国内法では出来なかったのですが、法整備の上で戦後のペルシャ湾機雷掃海へと向かいました。

 ペルシャ湾、この海域は日本へ向かう石油タンカーが多数航行する海域ですので日本は、無関係とは言い難い状況という事で掃海艇を派遣したものの、日本が戦後、向き合ってきました大量の機雷は当然ながら戦時中の旧式機雷ばかりで時代遅れの機雷が相手でした。

 イラク軍が敷設したイタリア製やイギリス製とソ連製の機雷を掃海した際、海上自衛隊の器材は最新型の機雷には十分対応できないという厳しい現実を突きつけられたことがありました。結局、機雷処分器具に代え水中処分員が実際に潜り直接機雷処分しましたが、ね。

 しかし、この現実を突きつけられたのが平時であり、日本本土が戦争に巻き込まれる前であって本当に良かった、まず、国産機雷処理機材の能力不足を現実的に受け入れ、国産装備優位主義にこだわることなく最新のフランス製機雷処理器具の輸入を決断しました。

 機雷処分器具、これは水中ロボットの一種なのですが国産の水中ロボットは湾岸戦争後の機雷処理に十分な能力を発揮できていなかったわけです。そのうえでフランス最新装備を調達しつつ、同時並行で世界の機雷情報を冷静に収集し、機雷掃討情報を再構築します。

 国産器材は、フランス製を用いつつ、その上で時間はかかりましたが国産機雷処分器具を開発し、能力的に世界最高度に戻ることが実現しました、掃海艇そのものは海上自衛隊が多数を元々装備していますので、掃海隊群始めそれを扱える高度な乗員もそろっています。

 そこに世界に通用する掃海器具が配備され機雷戦情報処理装置や機雷戦ソナーも再構築、世界的に質と量を誇れるものとなっています。この訓練、伊勢湾でやっています。伊勢湾展示訓練よりも、実は集まる艦艇が多い一方、実は伊勢湾展示訓練程有名ではありません。

 しかし報道公開は行われているものの、文字通り実戦勝負ですので一般には公開されていません、けれども入港中には一部艦艇が公開されまして、掃海母艦、掃海艇や掃海艦が岸壁一杯に何隻もめざし係留され端から端までと並ぶ、その迫力もものすごいのですよね。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【2】伊勢湾を往く艦隊(2010-08-21)

2017-08-20 20:02:37 | 海上自衛隊 催事
■しらね&ひゅうが伊勢湾を往く
 伊勢湾展示訓練2010、前回の出港から伊勢湾を堂々航行する様子を紹介しましょう。

 自衛艦旗と新鋭ひゅうが。:伊勢湾展示訓練2010、この年は海上自衛隊にも転換の年でした。横浜では建造が進むヘリコプター搭載護衛艦いせ公試が始まり、あきづき型護衛艦が19DDとして進水式を間近に控えていました。そしてヘリコプター搭載護衛艦はるな除籍の翌年に当たる年でした。

 ひゅうが、と伊勢湾を往くタンカー、海上交通が本当に多い海域でした。:ヘリコプター搭載護衛艦はるな除籍と共に同日、横浜にてヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、が竣工し、海上自衛隊には全通飛行甲板型護衛艦の時代が始まります。そして、新護衛艦ひゅうが、横須賀へ配備、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、が舞鶴へ転出しています。

 自衛艦旗と時機が合う瞬間を。:ひゅうが、しらね、揃って伊勢湾展示訓練へ参加する事となりまして、伊勢湾へは新旧ヘリコプター搭載護衛艦が洋上に揃う事となりましたが、しらね舞鶴転出後、新護衛艦いずも竣工とともにこの、ひゅうが、も後継へ舞鶴基地へ転出したのはこの五年後の話しです。

 掃海艦つしま、と護衛艦ひゅうが。:自衛艦の出港は曳船により岸壁から一定距離まで引き出した上で周辺の船舶へ干渉しない距離をとったことを確認すると同時に推進機を作動させ出港します、このあたり、側面へ移動できるフェリーや客船になれてしまいますとどうしても時間がかかるように見えます。

 ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、は今日でこそヘリコプター搭載護衛艦最古参ですが、当時は最新鋭、横浜で護衛艦いせ建造中でした。:出港に時間が掛かっているようですが、基本的に同じ速力で航行するだけの商船と水上戦闘艦は推進装置に相違点があるため致し方ありません、推進器を作動させる際に留意点は曳船と係留索が確実に収容されているかを確認することで、怠ると推進器にまきこみ一発です。

 しらね、遠景に掃海母艦うらが、等みえる。:出港時に係留索を引き込めば一発で航行不能となりかねません、しかし、この間は曳船が周辺に待機します、これは出港の際に推進能力を発揮できない艦艇へ不測の事態が発生した瞬間に即座に制動をかけられるよう待機しているもので、この情景入港でも御馴染み。

 真夏で洋上には薄らと靄がかっていて水平線が見えにくい。:この時点では曳船は艦艇と文字通り離れていても一体、といえるのかもしれません。ここではじめてラッパ用意の号令が出され、艦長は出港できると判断した瞬間に出港用意の命令が発令される訳です。この頃見学者は当方含めのんびり他の艦艇を撮っている最中です。

 四日市の石油化学工場背景に掃海艦つしま、がゆく。:出港用意の命令、その瞬間に出港ラッパ吹奏を信号員が命令し出港ラッパが響きわたるわけです。出港、街で暮らす我々にはこの瞬間から日常を非日常に転換します、市街地では船といえば湯船ていど、京都タワー大浴場の湯船や市役所の初音湯の湯船も素晴らしい。

 水平線上に見えるのは護衛艦しらゆき。:しかし、基本船といえば湯船ではなくお船、自衛艦の出港、出港よーいッ、この号令がスピーカーから響きわたりますと、気分も高揚します、足元が大型の護衛案でも小型の掃海艇でも中型の多用途支援艦でもしっかりと揺れて動いている、エンジンの鼓動もつたわる。

 ひゅうが、と共に水平線上に警戒船の輸送艇2号がみえる。:一番離せッ!、舷離せッ!、舷離せッ!、曳船使用終わり曳船ありがとうッ!、曳船舷離せッ!、推進器使用行うッ!、出港よーいッ、両舷推進用意ッ!、出港ーッ、甲板員作業完了ッ!、一連の流れとともに港湾の他の船舶位置に留意しつつ海へと出港するわけです。

 潜水艦の合流だ、海の忍者は突然現れる。:潮の香りが徐々に外有無に向かうとともに薄れ、しかし足元の機関鼓動は海風や期待と共に徐々高まる中で忘れかけますが、単純な出港とはいえ自衛艦の出港は”いくさぶね”としての商船との構造の違いもありまして様々な作業が同時並行して行われているようです。

 警戒船の特務艇はしだて。:伊勢湾ですが、我が国でも有数の航行船舶が多い難所です。伊勢湾沿岸には名古屋という京浜地区や京阪神地区につづく日本第三の大都市が広がるとともに四日市と松阪にかけ沿岸部は石油化学工場やコンビナートが広がり、タンカーや大型船舶に貨物船の往来が多い。

 警戒船の試験艦くりはま、今日では除籍された海上自衛隊各種装備開発の立役者はこの日も支援任務です。:海上交通量は多いのですが伊良湖水道という限られた狭水道を航行しなければなりません。制限速力は12ノットと定められていまして、海上保安庁による航路管制を受けています。そしてこの伊良湖水道には朝日礁とコズカミ礁という岩礁地帯がありますので、要注意だ

 潜水艦おやしお、おやしお型潜水艦の一番艦だ。:航路管制を受けない小型船舶の急な出現や海上交通法制を無視する遊漁船などをいち早く発見し、回避しなければ座礁や衝突という事故に繋がりかねません、岩礁のほかにも丸山出シという小島があり、狭水道と岩礁や小島、好漁場を構成し漁船の航行も多いのです。

 護衛艦しらね、舞鶴に転籍した後長くドック入りしていまして、当方が動いている様子を見たのは伊勢湾という。:この海域を通行するには愛知県と三重県の三半島と地形を確実に把握し航行することが求められます、三半島、これは渥美半島と知多半島に志摩半島です、1989年の映画”ゴジラvsビオランテ”、本海域へ自衛隊がゴジラ迎撃へ集結しますのでご記憶の方もいるでしょう。

 ひゅうが艦上にSH-60が見えまして城国はUH-60が飛行していますね。:若狭湾原子力発電所集積地域を最終確保地点として移動するゴジラへ防衛庁は伊勢湾から名古屋に上陸すると想定されたゴジラの進路にたいし、伊勢湾へ護衛艦隊を集結させ志摩知多渥美の三半島に陸上部隊を結集して一挙に撃退しようとしまして、その描写がある。

 UH-60J救難ヘリコプターの飛行です。:相模湾での観艦式の映像や富士総合火力演習での映像が流用され、富士総合火力演習へ足を運ばれた方はにやりとしてしまいそうな自衛隊描写、しかし、逆に水中聴音により艦隊動向を知ったゴジラが大阪湾に上陸され、防衛計画が破綻するという描写がありましたね。

 しらね、画像補正を強めてみました、2010年当時には現在ほどいいレンズを当方が揃えていませんでしたので、腕の問題と機材の問題を補正技術で対応してみた。:志摩半島といいますと、平成ガメラシリーズの選外、自衛隊が出なかったので逆にリアリティがないとされつつ、名古屋でのロケシーンには参加し思い出になった人も多いという“ガメラ 小さな勇者たち”でも志摩半島が舞台として出ました、展示訓練は此処で行う。

 当時はEOS-40Dに70-300mmのIS装置付ズームレンズを使用していました。:さて、志摩半島と知多半島に渥美半島ですが、志摩半島には鳥羽と石鏡灯台があり、その北方に離島神島があります、知多半島には主要な灯台ではなく羽豆岬と蒲郡沖の佐久島が陸上の特徴ある地形となります、航海を行うには様々なランドマークを叩きこむとのこと。

 ひゅうが、が単縦陣へ合流します。:煙突や特徴ある建物や寺社仏閣渥美半島は北部に立馬埼灯台がありますが加えて渥美半島太平洋側には大山三角点が陸上の目標物として航行することが出来ますので、ここから伊良湖水道の正確な位置を算出して航行します。事故防止にはこれほど見張りが重要、と。

 しらね、も単縦陣へ合流します。:GPSを使えば確実ではあるのですがGPSは有事の際に妨害を受ける可能性がありますし、なによりも海上交通量がおおいのですから民間用GPSの脆弱性、そしてなにより海上自衛官は船乗りとしての資質、地形から位置を把握して航行しなければ一人前ではありません。

 潜水案おやしお、が続く。:GPSに頼った航行というものは、外洋を航行する際には必要ですが、乗員の方に聞いてみますとGPS頼りというのは、恰も簡単な漢字を書くにも一々辞書字引を検索して一文字一文字書いているようで、スマートではない、という表現でした。なるほど、それは分かる。

 単縦陣で伊勢湾を航行する艦隊、当方乗艦の多用途支援艦えんしゅう、は後ろの方でした。:しかし、伊勢湾の入り口にあたる伊良湖水道は地図で見れば広く見えて航行が容易のように錯覚するのですが、海図をみるとすごく狭い、水道の中央部分に朝日礁とコズカミ礁と丸山出シという水深の浅い岩礁が三角に固まっていてこの中央部を通らなければならない。

 こうして伊勢湾を往く艦隊は合流し、いよいよ展示訓練の観閲式へ臨むこととなります。:海上衝突予防法という、海上での船舶同士の衝突を避けるための法整備がありまして、これは国際条約として世界中の海洋において用いられる一種の国際慣習法となっていますが、我が国には海上交通安全法というより厳しい法律があります、地域限定の法律ですが、ね。

北大路機関:はるな くらま
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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【1】艨艟伊勢湾へ出港(2010-08-21)

2017-07-30 20:15:13 | 海上自衛隊 催事
■伊勢湾展示訓練2010
 日曜特集、新しい特集に海上自衛隊横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010の様子を今回から紹介します、実任務増大により昨年度と今年度、こうした展示訓練は行われていません。

 海上自衛隊伊勢湾展示訓練、横須賀地方隊が主催する海上自衛隊展示訓練として伊勢湾を舞台に2010年8月21日に実施されました。舞鶴展示訓練2011、大阪湾展示訓練2011、観艦式2012、舞鶴展示訓練2013、舞鶴展示訓練2014、自衛隊観艦式2015等と続く。

 伊勢湾展示訓練2010、護衛艦4隻、潜水艦1隻、掃海母艦1隻、掃海艦1隻、掃海艇2隻、輸送艇1隻、試験艦1隻、多用途支援艦1隻、以上艦艇13隻と、救難飛行艇1機、哨戒ヘリコプター2機、救難ヘリコプター1機、多用途ヘリコプター1機の計5機が参加しました。

 ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、ヘリコプター搭載護衛艦しらね、ミサイル護衛艦こんごう、堂々たる艦艇が参加するこの訓練へ当方は縁あって、多用途支援艦えんしゅう艦上からこの演習、えんしゅうからえんしゅう、もとい展示訓練へ立ち会う事となりました。

 地方隊展示訓練は、横須賀地方隊や呉地方隊に佐世保地方隊と舞鶴地方隊に大湊地方隊と、海上自衛隊が全国に配置する5地方隊の広報行事となっています。これは観閲式と訓練展示を以て海上自衛隊の能力と訓練体制へ、国民と自衛隊の間を結ぶ体験航海でもあります。

 海上自衛隊は非常に忙しくなっていまして、2010年の頃は本当に平和でもありました、何よりもあの東日本大震災が後八か月を経て発生するなど、夢にも思いません。そして現在海上自衛隊は南西諸島警備に創設以来最大規模の哨戒体制を鋭意継続中となっています。

 東日本大震災は2011年3月11日に発災しました、横須賀地方隊は横須賀地方総監部へ東日本大震災対処統合任務海上部隊司令部が置かれ、太平洋岸の全ての災害対処任務を引き受けましたが、その八か月前、この訓練に当たった艦艇は全て災害派遣へ参加しています。

 南西諸島警備と中国からの軍事圧力増大を前に、海上自衛隊は創設以来の規模での艦艇任務を継続中ですが、この為、艦艇の運用がほぼ限界となっています。併せてソマリア沖海賊対処任務、ミサイル防衛任務と任務が増大し、広報展示実施が難しくなってきています。

 海上幕僚長は2016年に各地方隊へ、部隊を休ませよ、としまして実任務の増大を前に広報任務を止むを得ず低減させざるを得ない状況となってしまいまして、2016年には展示訓練はとうとう実施されていません。停泊式観閲式でも実施してくれれば、と思ったのですが。

 体験航海への関心は非常に高まっています、実際、海上自衛隊展示訓練へは全国の地方隊で行われますが、抽選制となりハガキ応募により乗艦券が交付される一方、物凄い競争倍率となって自衛隊を知ろうにも乗艦できない程でして、この傾向は年々高まっています。

 任務優先ではありますが、広報行事は軍事機構にとり平時の実戦と云われる通り、リクルートとして有能な人材を自衛隊へ招く重要な機会となっていまして、実際、体験航海を機会として自衛官の道を志したというお話はよく聞くところです、そして募集難となります。

 募集難、新聞記者の方と雑談するたびに安全保障関連法制での実戦の可能性が増えたことと関係はあるのか、という話題を振られますが、海上自衛隊の場合は、安全保障関連法制により紛争地で艦隊決戦を行う可能性が増えたのか、と考えれば、それは有り得ません。

 バブル崩壊後の就職難時代には自衛官志願者が激増し、バブル期には志願者が減った、という話はよくなされますので、それだけ人不足が深刻となっている点が隊員募集難への影響となっているのでしょう。また、実任務増大へ人員不足が大きく、勤務環境悪化もある。

 出港すれば入港まで禁酒となりますし、月月火水木金金、と旧海軍ではありませんが寝床が職場という厳しい勤務環境です、航海手当は出ますが時給換算し肩を落とす乗員を基地の街の酒場で視た事も、任務が増えているのです、艦艇を増やし激務緩和が肝要でしょう。

 さて、北大路機関では伊勢湾展示訓練2010の写真について、詳報掲載を開始した当時にOCNブログサービス終了の発表がありGOOブログへの転換という一大事業に忙殺されたことで掲載が中断していましたが、この度日曜特集として連載を再編する事となりました。

 護衛艦の出港、ラッパの音が響き非常に勇壮です。今回乗艦のお誘いをいただきましたのは、多用途支援艦なのですが、ラッパが響き出港用意の号令が響きわたるところは一緒です。伊勢湾展示訓練には多数の艦艇が停泊していますが、予定通り次々と出港してゆく。

 しかし、ラッパの音は象徴的なものであるだけで、最も重要なのはこの瞬間に艦艇が”停泊”から”航海”へと移行する瞬間だ、ということです。この瞬間、水上戦闘艦である護衛艦は、今回乗艦しているのは多用途支援艦ですが、自衛艦は商船と少々勝手が違う。

 自衛艦、民間フェリーのような出港への支援装置よりは速力などを優先しているため、曳船等の支援を受けて出港します、そして岸壁係留を取り外す作業と曳船の指揮を同時並行して行わなければなりません。その上、フェリーが船団をくむことはなかなかありません。

 一方の護衛艦はじめ自衛艦は訓練などへ艦隊を組み行動することも多く、伊勢湾展示訓練などはその典型です。出港時間はこのために厳格に明示されていますので、そのために出港時間へ出港するために時間をどのように配分し準備するのかという命題があります。

 曳船に係留索との指揮は艦長が全責任を負って実施しますが、そのために、前部指揮官と中央部指揮官に後部指揮官が艦長の意思を補佐し代行します、前部中部後部指揮官は出港前に艦橋へ集まり、岸壁を離れた後の航行や地形と船舶往来に関する情報の調整を行う。

 各指揮官調整では、係留索をはずす順番はどうするのか、港内のほかの船舶や艦艇の航行はどのように見積もられているのか、副長の砲雷長か船務長、DDHでは飛行長がこの指示を艦長のまえで各指揮官へ行います。これらは見学者乗艦までに完了し、出港へ備える。

 調整では留意事項として普段と異なる状況、展示訓練では見学者、実任務や大規模訓練等場合によっては実習員や難民と他部隊の要員など出港作業への留意事項など、これは副長と艦長が同じ認識を共有していることを艦長が確認するという意味合いもあるとのこと。

 こうして確認は各指揮官が改めて状況認識の概略を共有することとなりますので、例えば調整と違う動きなどがありましたらば、何か異常事態が起きつつある、と各指揮官が即認識できるわけです、各指揮官はハンドトーキー型無線機により情報連絡を密にしています。

 出港へ、異常の兆候が異常へ顕在化する前に対処行動をとって回避できるわけですね。ここの様子が海の男、という印象です。船が大きければうける風も大きい、強風で船が押されているという事は当然事故に繋がり、波浪も船体の大きな艦艇では相応に影響が大きい。

 タンカーやフェリーの行会船と突然遭遇することも漁船やヨットが近寄って接触しそうになることも、実際多い。実際、護衛艦などはしっかりと見張りをしているのですが、前を見て操船しているのかわからない漁船などは見学している一般の視点からも少なくはないのです。

北大路機関:はるな くらま
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新護衛艦かが(DDH-184KAGA)竣工!海上自衛隊全通飛行甲板型護衛艦四隻体制の完成

2017-03-22 18:44:41 | 海上自衛隊 催事
■くらま,海上防衛任務を完了
 加賀復活。本日、海上自衛隊の我が国海上防衛における歴史的な護衛艦の世代交代が完成しました。

 護衛艦かが、全通飛行甲板型護衛艦いずも型2番艦で、満載排水量27000t、全長248m、全幅38m、艦内の格納庫には14機のヘリコプターを収容可能で、飛行甲板係留を含めれば20機以上の航空機を集中運用可能です。旧海軍開戦時最大の空母加賀の名を踏襲し、排水量こそ加賀に及びませんが、空母加賀全長は238m、これを超える大型護衛艦の誕生です。

 海上自衛隊は、ひゅうが、いせ、いずも、かが、と四隻の全通飛行甲板型護衛艦を揃えるに至りました。全通飛行甲板型の艦艇、軽空母等の水上戦闘艦はイギリスでの垂直離着陸可能な戦闘機ハリアー開発以来、戦術価値が増大し、イギリスやスペインにイタリアやインドにタイ等の各国が挙って建造や改造しましたが、四隻揃える国はありませんでした。

 全通飛行甲板型護衛艦を四隻揃える意味とは、全通飛行甲板型護衛艦の卓越した航空機運用能力を複数方面へ即座に同時展開させる能力を向上的に維持できる事を意味します。海上自衛隊の護衛艦隊にはイージス艦やヘリコプター搭載護衛艦と護衛艦の8隻を基幹とする護衛隊群が四個あり、四隻の全通飛行甲板型護衛艦により各群へ揃う事となった訳です。

 はるな、竣工の1973年から海上自衛隊におけるヘリコプター搭載護衛艦の歴史は始まりました。ヘリコプター搭載護衛艦は米海軍などで空母艦載機として運用される大型対潜哨戒用ヘリコプターを3機集中運用する対潜中枢艦として建造されています。これは対潜哨戒ヘリコプターが海面下直接ソナーを展開させる事で高度な対潜任務能力構築を期しました。

 くらま、海上自衛隊はヘリコプター搭載護衛艦を、はるな型の護衛艦はるな、ひえい以上2隻、続いて、護衛艦しらね型の、しらね、くらま、を建造しました。はるな竣工当時は基準排水量4700tと第二次世界大戦敗戦以来久々の大型護衛艦として建造され、従来の海象名称や河川名称を改め、戦艦榛名を踏襲する山岳名が冠せられた事で意気込みがみえます。

 かが、竣工は、ヘリコプター搭載護衛艦4隻が全通飛行甲板型ヘリコプター搭載護衛艦へ全て転換する一大事業が完了した事を意味します。はるな、は2009年に全通飛行甲板型護衛艦ひゅうが、により置き換えられます。ひゅうが、旧海軍の航空戦艦日向を踏襲する新型護衛艦、その満載排水量は、はるな6800tに対し、ひゅうが19000tと大型化しました。

 はるな、ひえい、しらね、既に除籍され、惜しまれながら、くらま除籍、しらね型くらま、は満載排水量7200tと建造当時では海上自衛隊最大の護衛艦でしたが、いずも型かが、は満載排水量27000tと更に大型化しました。四隻のヘリコプター搭載護衛艦は四隻の全通飛行甲板型護衛艦へ、2009年から2017年までを要し交替する一大事業が、完成した訳です。

北大路機関:はるな くらま
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練習艦隊 近海練習航海(66期幹候卒)及び外洋練習航海(68期飛幹候卒) 3月19日~5月20日実施

2016-03-16 22:27:12 | 海上自衛隊 催事
■練習艦隊2016
 海上自衛隊練習艦隊による近海練習航海及び外洋練習航海の日程が公表されました。

 近海練習航海は幹部候補生学校を卒業し任官する初級幹部に対し練習艦及び護衛艦に実際に乗艦し、艦上での訓練作業を通じ、続いて実施される遠洋練習航海に求められる基礎的事項を習得させると共に艦内生活への慣熟を通じ、初級幹部の素養を練成すると共に、海上指揮官と船乗りとしての礼儀作法世界観所謂シーマンシップを経験として身に着ける事が目的です。

 近海練習航海は全国の港を3月19日から5月20日までの期間を通じ巡航します、入港歓迎行事や交歓行事等が行われ、こうして全国の海上自衛隊基地や港湾への寄港と交流を経て、我が国及び海上自衛隊の現状を理解させる、というものです。寄港先は後述しますが、北海道から沖縄まで艦隊が巡行、近海練習航海部隊参加要員への修養と共に、全国国民への重要な広報の機会ともいえるでしょう。

 外洋練習航海は、飛行幹部候補生課程修了者を対象とし、初級幹部自衛官として必要な知識と経験を海外の港湾と各国海軍との交流を行う事を通じて身に着け、幹部自衛官として必要な資質を育成し、友好国との友好親善の増進を図る、というものです。遠洋練習航海と外洋練習航海は別の訓練で、飛行幹部候補生課程修了者は外洋練習航海完了後、練習機での課程に移行します。期間は3月19日から4月27日までとのことでした。

 練習艦隊からの参加部隊について。近海練習航海は練習艦隊司令官岩英俊海将補を指揮艦とし、参加艦艇は、練習艦かしま、練習艦せとゆき、護衛艦あさぎり、以上の3隻です。参加人員は各艦乗員と第66期一般幹部候補生課程修了者等193名でこの中で女性19名が含まれています、また海外からもタイ王国留学生1名、東ティモール共和国留学生1名が参加し全体で700名が参加します。

 練習艦隊、外洋練習航海部隊には、第15護衛隊司令森下治彦1等海佐と第1練習潜水隊司令吉野宏昭1等海佐が指揮を執ります。参加部隊は、護衛艦ありあけ、護衛艦せとぎり、練習潜水艦おやしお、の3隻で今年度の外洋練習航海には練習潜水艦が参加します。参加規模は、第68期飛行幹部候補生課程修了者55名で、うち女性は2名となっています。練習潜水艦及び護衛艦の乗員を加え規模は500名と発表されました。

 近海練習航海部隊の全国寄港日程ですが、以下の通りです。3月19日に江田島基地幹部候補生学校にて修了式を行って後、江田島発、かしま、あさぎり、せとゆき、以上三隻が外洋練習航海部隊とともに江田島を出航します。3月19日から3月20日までは瀬戸内海柱島沖に停泊します、最初の寄港地は大阪港で、3月21日に入港、3月23日に大 阪を出航します。

 艦隊は3月28日に海上自衛隊西の最大拠点である佐世保に入港し3月30日佐世保を出航、南下し沖縄に向かいます、4月1日から4月3日まで沖縄の中城に入港、本州へ北上し4月7日に伊勢神宮に程近い三重県鳥羽沖に投錨します。艦隊は東北地方へ向かい仙台港に4月10日入港、4月12日仙台を出航します。4月14日から4月16日まで北方海域防衛を担う大湊基地へ入港します。4月17日から4月19日まで、北海道小樽港へ入港する。

 舞鶴基地、日本海防衛の要衝へは4月21日に入港し4月23日に 舞鶴を出航します。4月24日に三机へ投錨、ここは練習艦かしま、練習艦せとゆき、のみの投錨です、三机は三机湾で現在は愛媛県の伊方町となっています、原発で有名となった街ですが海上自衛隊としては旧海軍特殊潜航艇訓練拠点であり、歴史的に海軍との繋がりが大きな場所です。そして4月25日から5月4日まで、練習艦隊司令部が置かれる呉基地へ入港します。

 横須賀基地、自衛艦隊司令部が置かれる海上防衛の中枢であり旧海軍の象徴としての基地でもある横須賀へは5月6日に入港し5月8日に出港予定です。かしま、あさぎり、せとゆき、三隻そろっての入港であり、首都東京へは5月9日に晴海埠頭へ入港、5月12日に出港予定です。東京港を出港し、5月12日から5月20日まで再度、横須賀に入港、その後は遠洋航海へ出港することとなります。

 外洋練習航海は、フィリピンのスービック海軍基地、スービック湾はかつては横須賀と並ぶアメリカ海軍極東地域の一大拠点で現在は、火山噴火により使用不能となった事を契機にフィリピンへ返還され現在はフィリピン海軍が運用しています。続いて、ヴェトナムのカムランへ入港します、カムラン基地はソ連海軍がヴェトナム戦争終了後にフィリピンのスービック基地に展開する米海軍へ対抗する要衝として整備されました。

 スービック基地とカムラン基地への艦隊入港、今回の練習艦隊入港はかつての東西の架け橋となるとともに、南シナ海での大陸からの軍事力による現状変更を企図する勢力に対し、潜水艦と新鋭護衛艦を含む3隻の艦隊が入港する事で友好を深めると共にこの地域での平和が維持されるよう、この海域の安定が国益と直結する我が国として意志を明確に示す意味もあるでしょう。

 練習艦隊は、近海練習航海部隊と外洋練習航海部隊が揃って3月19日土曜日に江田島基地を出航します、その様子は出港を対岸から望見する事が出来、江田島市能美島高田港、広島からの高速船が入港する当たりから、正面の単縦陣での艦隊出港を望むことができますし、修了式を見送って後に艦隊出港を江田島津久茂瀬戸に面した高台から見送る事も出来ます。

北大路機関:はるな くらま
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伊勢湾機雷戦訓練二〇一六 機雷戦艦艇一七隻の四日市港一般公開(2016.02.11) 後篇

2016-02-15 23:11:42 | 海上自衛隊 催事
■掃海隊群四日市港一般公開
 伊勢湾機雷戦訓練機雷戦艦艇一般公開の様子、本日は後篇を紹介です。

 ひらしま型掃海艇、OYQ-201情報処理装置を中心とする国産機雷掃討システムが漸く海外の第一線級の水準に達した事で建造された掃海艇で、前期型3隻を建造し後期型として新型に区分されますが船体構造を改めたものがあります、そして我が国最後の木造掃海艇となっています。満載排水量650t、国産機雷掃討器具S-10をはじめとした機雷掃討器具と掃海器具両方を搭載しています。

 S-10は従来の機雷掃討器具が搭載していなかったソナーを搭載しており、これまでは母艦となる掃海艇からソナー情報を得て運用されていましたが、S-10は自分でも機雷を探すことができる。また、すがしま型掃海艇はメーカーの説明によれば機雷探知用ソナーの性能から1200m先の機雷を探知できるとされていますが、S-10という機雷掃討器具そのものがソナーを搭載している事で、より掃海艇は遠くから機雷掃討が出来る、ということ。

 S-10機雷掃討器具は、バッテリー駆動も可能ですが母艦から電力ケーブルを得て長時間航行する事が可能で、PAP-104ではバッテリーにより駆動時間が制限されてしまうのですが、S-10には有線ゆえの長時間運用でき、そしてもう一つ機雷処分用爆雷をS-4やS-7にPAP-104では一発しか搭載できなかったのですがS-10は4発の機雷処分用爆雷を搭載し、四基の機雷を処分する事が出来ます、長時間運用故の性能といえるでしょう。

 ひらしま型掃海艇のS-10は、可変深度ソナーVDSの開発経験が応用されており、そのソナーの性能もかなり高いものがあります。また、すがしま型掃海艇では必要に応じ搭載されていました音響掃海器具や磁気掃海器具は、国産新型の機雷掃討システムが小型化に成功したことで常時搭載する余裕が生まれ、感応掃海具1型として音響掃海と磁気掃海を同時実施できる掃海器具を搭載しています。

 一方ひらしま型の上部構造物は、すがしま型掃海艇の艦橋前部に配置されていた可変深度ソナーとCICの並列構造を、CICのみとなり、張出した上部構造物という外観上の共通点はあるのですが、その規模が縮小しており、前方からの両型の識別点となっています、もっとも、双方の最大の識別点は煙突が一本か二本か、という部分が最も大きな識別点なのですが、ね。

 えのしま型掃海艇、ひらしま型掃海艇の船体を木造船体からFRP船体とした掃海艇です。木造掃海艇、といいますとこの科学文明の時代に木造か、と云われる方がいますが、機雷戦闘に対応する掃海艇は上記の通り掃海技術に限界がある為掃海艇そのものが触雷する可能性が残ります、すると、木造掃海艇であれば爆発の衝撃を受けても弾性を以て受け止める事が出来ます、複合素材ではそうはいかず、例えば楽器等もピアノやヴァイオリンがFPRで製造できないのもこのため。

 木造船体は、磁気を帯びないという利点があります、木材に磁石を近づけても鋼製船体のような反応は当然おきませんので磁気機雷に対し有利です。ただ、木材は船大工による名人芸というべき加工技術が必要となり、更に良質な木材が必要となります。えのしま型掃海艇は、海上自衛隊がこの木材と職人の維持へ限界を来した時代を想定しFRP製船体の研究を進めてきました技術の成果です。

 FRP製船体は木造船体に対して、温度変化持続と紫外線等により劣化し、突如割れる、という特性が当初指摘されていましたが、他に選択肢はありません。欧州ではドイツを中心に船体に微弱電流を流し磁気的に中和させ磁気機雷に備える軽合金船舶が開発されていますが、近年その微弱電流を感知する機雷が開発されており、結局添加剤と成形方式を工夫し海上自衛隊はFRP製船体を採用しました。

 海上自衛隊はFRP製船体よりも木造船体を重視していたのですが、財政上の問題があり掃海艇の建造もかつての毎年二隻から三隻建造出来た時代から掃海艇は機雷掃討システムの費用高騰を受け、三年間に二隻を建造できる程度となり、船大工さんが防衛需要だけで産業を維持できない状態ともなりました、このため新型掃海艇として、えのしま型はFRP船体を採用した訳です。

 えのしま型掃海艇ですが、FRP船体を採用した事で掃海艇としての寿命は30年に延びました、木造船体は機雷戦を展開する場合には利点が多いのですが木造故に劣化に曝されるため、長期間の現役運用には向きません。アメリカなどは苦肉の策としてオスプレイ級機雷掃討艇に木造船体上からFRP船体で覆う構造を採用していますが、海上自衛隊は切り替えた訳です。三番艇からは、管制式機関砲を搭載しました。

 以上の通り掃海艇を紹介してきましたが、海上自衛隊の機雷戦部隊の最大の至宝は訓練された乗員にあります。掃海艇気質、と云われるものは、競技会も休日返上で兎に角順位にこだわるという、旧海軍の駆逐艦乗り気質に通じるものがあり、護衛艦と比べれば小型であり波浪には動揺にも曝される艦艇ではありますが、長期間の航海に耐える気概があるという。

 海上自衛隊の掃海部隊は規模と能力共に高く、欧州のNATO諸国とのペルシャ湾多国籍訓練へも展開しています。この際に所用期間は往路袋共に一ヶ月の航海となり、NATO海軍では一部に台船を利用して掃海艇を運搬している事例もあるようですが海上自衛隊の気質では自分の船は自分で動かすもの、という認識があり一か月間の航海でも難なく遂行します。

 また、湾岸戦争後の機雷処分任務では新型機雷に悩まされましたが、海外製機雷戦装備とその後の新開発の国産装備を導入し能力水準を第一線水準とすると共に、国際訓練を繰り返すことで最新の機雷戦への能力構築を精力的に進めています。もちろん我が国周辺には中国とロシアという伝統的に機雷戦を重視する海軍が存在しており、能力は幾ら整備しても十分というものはありませんが、今日この瞬間も任務と能力向上に傾注しています。

北大路機関:はるな くらま
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