北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【日曜特集】観艦式2009-守る!この海と未来-【04】くらま,観閲式はじまる(2009.10.23)

2019-09-22 20:02:00 | 海上自衛隊 催事
■旗艦-護衛艦あしがら先頭に
 自衛隊観艦式はイージス艦あしがら先頭に陣形を組みいよいよ観閲式へと進みます。

 観艦式、受閲艦艇部隊として旗艦-護衛艦あしがら(DDG-178第2護衛隊群-第2護衛隊)が航行して参りました、受閲艦艇部隊第1群護衛艦はたかぜ(DDG-171第4護衛隊群-第4護衛隊)と護衛艦さわかぜ(DDG-170護衛艦隊直轄艦)等艦艇が続く、小規模でも観艦式です。

 旗艦-護衛艦あしがら(DDG-178第2護衛隊群-第2護衛隊)は護衛艦あたご型二番艦のイージス艦、第1群護衛艦はたかぜ(DDG-171第4護衛隊群-第4護衛隊)はデジタルターターシステム艦で護衛艦さわかぜ(DDG-170護衛艦隊直轄艦)は前型、最後の護衛艦隊旗艦を担う。

 ひゅうが、全通飛行甲板型の艦容が際立ちます、満載排水量19000tという海上自衛隊最大の護衛艦で、はるな後継艦です。そしてこの観艦式が執り行われている、まさにこの時に横浜では二番艦いせ、の建造が進められています。ひゅうが型はこの観艦式が初参加です。

 全通飛行甲板を有する護衛艦は航空機運用中枢艦であると共に指揮統制中枢艦として巨大な通信能力と指揮統制能力を有し、この二年後に発生した東日本大震災にも活躍している。なお、この二か月後、22DDHとして護衛艦いずも型の予算要求が出され、政府が了承へ。

 受閲艦艇部隊第2群護衛艦ひゅうが(DDH-181第1護衛隊群-第1護衛隊)と護衛艦さざなみ(DD-113第4護衛隊群-第8護衛隊)に続いて受閲艦艇部隊第3群護衛艦ゆうばり(DE-227護衛艦隊直轄-第15護衛隊)と護衛艦ゆうべつ(DE-228護衛艦隊直轄-第15護衛隊)が見えた。

 SH-60J/K哨戒ヘリコプターの編隊が上空を飛行しています、航空部隊は続く祝賀飛行にも備える。受閲艦艇部隊第4群潜水艦そうりゅう(SS-501第1潜水隊群-第5潜水隊)も見え始めました、観閲部隊は14ノット、受閲部隊11ノット、彼我かなりの速度で近づいてゆく。

 制形という陣形を整えた観艦式参加部隊は、観閲部隊が三浦半島から富士山へ向かい、観閲付属部隊も並行して航行します。観閲では受閲艦艇部隊が観閲部隊と観閲付属部隊の中間を富士山方向から三浦半島方向へ航行、観閲艦に敬礼を行う、これが観閲式なのですね。

 あしがら。妙高型重巡洋艦足柄を継ぐイージス艦で、2008年3月13日就役の最新鋭艦です。満載排水量10000tと基準排水量7700t、SPY-1Dレーダーによる650km圏内の目標を追い射程100kmのスタンダードSM-2ミサイルを21目標同時対処させ、艦隊防空を担う。

 観艦式当時あしがら艦長は山崎浩一1佐、あたご型護衛艦はこの後に弾道ミサイル防衛対応改修を受け射程1100kmのSM-3を積む。奥を往くのは観閲部隊先導艦として戦闘を進む護衛艦いなづま、艦長田中久行2佐は護衛艦やまぎり艦長経て一回り大きな艦の艦長に。

 イージス艦はSPY-1D多機能レーダーにより得た1100以上の目標情報を脅威順に標定し、21目標に同時対処する。C4Iデータリンクにより各艦の情報は共有され、イージス艦が増えれば増える程、クラウド化した情報処理能力が強みに。奥には警戒艦はつゆき型の姿が。

 受閲艦艇部隊第2群護衛艦ひゅうが(DDH-181第1護衛隊群-第1護衛隊)と護衛艦さざなみ(DD-113第4護衛隊群-第8護衛隊)の姿が。ひゅうが艦長は山田勝規1佐、大型艦を扱うエキスパートとして後の第1輸送隊司令に。護衛艦さざなみ艦長は溝江和彦2佐が務める。

 くらま、あしがら、いなづま。くらま艦長は柏原正俊1佐、柏原艦長はこの時の操艦技術から後々、練習艦隊かしま艦長となります。さざなみ艦長溝江和彦2佐はこの後に1佐昇進と共に観艦式で二隻前を進んでいるイージス艦あしがら艦長を命じられ、不思議な縁だ。

 受閲艦艇部隊第1群護衛艦はたかぜ(DDG-171第4護衛隊群-第4護衛隊)と護衛艦さわかぜ(DDG-170護衛艦隊直轄艦)、はたかぜ艦長は千代野正2佐、さわかぜ艦長は森﨑真司2佐、イージス艦配備前までは二隻のターターシステム艦が艦隊の前後を分けて防空に当った。

 はたかぜ、はたかぜ型1番艦で神風型駆逐艦旗風と米軍供与あさかぜ型護衛艦はたかぜ艦名を継ぐ。基準排水量4600tと満載排水量5900tです。ターターシステムによる艦隊防空を担い、射程38kmのスタンダードSM-1を搭載しています。イージス艦までの過渡期だ。

 こんごう、あしがら。金剛型戦艦金剛の名を継ぎ、ミサイル護衛艦として初めてイージス艦であり山岳名を冠した。こんごう艦長は鍋田智雄1佐、基準排水量7200tと満載排水量9500tで当初は6000t型ミサイル護衛艦として艦名も、ゆきかぜ型が検討されていたという。

 くらま、はたかぜ。1980年代の護衛艦隊を象徴する情景、はたかぜ型は当初4隻が建造予定でしたが、アメリカのイージスシステム日本供与の可能性が海上幕僚長の海軍作戦部長直談判という日本側の熱心な姿勢が通じ目途が就いた事で、こちらは2隻のみの建造へ。

 127mm単装砲Mk42,射程23kmでマウント重量は58tという強力な艦砲、しかし本艦の任務は防空で前方のSPS-52三次元レーダーと後方のOPS-11二次元レーダーを用い、得た脅威情報をMk.11ミサイル発射器から投射するスタンダードミサイルにより任務に活かす。

 さわかぜ、たちかぜ型護衛艦3番艦として建造されましたが、1番艦たちかぜ竣工が1976年であったのに対し、さわかぜ竣工は1983年と期間が空いています。この為、Mk.11発射器は40発の弾庫を有しますが対艦ミサイルの搭載も可能になるなど、部分改良があります。

 くらま、が海上自衛隊最後の蒸気タービン艦として除籍されたのはこの観艦式から後の2016年ですが、くらま竣工は1981年、対して護衛艦さわかぜ竣工は1983年ですので結果的に、さわかぜ、は海上自衛隊が最後に建造した蒸気タービン推進方式の艦となりました。

 護衛艦隊旗艦さわかぜ。峯風型駆逐艦2番艦澤風の名を継ぐ本艦は、あたご就役と共にミサイル護衛艦に余裕が生じ、あきづき、むらくも、たちかぜ、あさかぜ、に続く第五代護衛艦隊旗艦となりました。ただ、指揮官先頭の時代でもないとして、最後の旗艦になる。

 こんごう、さわかぜ、くらま。さわかぜ艦上では登舷礼として乗員が左舷側に整列しています。さわかぜ、受閲部隊と観閲部隊の距離は300ヤード、ゴルフで届く距離だったりします。受閲部隊と受閲付属部隊の距離は800ヤードといい、艦艇のエンジン音が聞こえる。

 ひゅうが。伊勢型戦艦日向の艦名を継承すると共に海上自衛隊護衛艦として初の旧国名、律令制度国名を冠した護衛艦です。計画当時は、護衛艦あかぎ、が有力候補になったといい、航空母艦赤城の艦名を継承する可能性はありました。護衛艦あかぎ、次を待ちたい。

 さざなみ。日本海海戦で活躍した雷型駆逐艦漣と特型で知られる吹雪型駆逐艦漣の名を継承する、たかなみ型護衛艦の4番艦です。むらさめ型は対潜対空装備がMk.41とMk.48VLSに分かれていたのをMk.41に統一し、艦砲を大型化、科員室も大部屋へ大型化したもの。

 ひゅうが。護衛艦は就役から一年程度完熟訓練を行う関係から、この観艦式への参加は就役からまだ半年と少し、という事もあり難しいのではないか、と考えていましたが、新世代を象徴する全通飛行甲板型護衛艦、配備間もない横須賀の護衛艦として参加が実現です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】観艦式2009-守る!この海と未来-【03】浦賀水道を相模湾へ(2009.10.23)

2019-09-08 20:14:07 | 海上自衛隊 催事
■太平洋に向う海上自衛隊
 自衛隊観艦式、太平洋に向かう観艦式参加部隊は写真を観返しても磯風が海風に移ろい凉波の沖波への穏やかな潮を思い出します。

 ヘリコプター搭載護衛艦くらま、しらね型護衛艦二番艦ですが当方は2006年、2009年、2012年と観艦式を撮影する機会に恵まれまして、毎回旗艦を努めていました。そして2015年観艦式では、遂に護衛艦くらま艦上で撮影する事となり私には、くらま、こそ主役です。

 横須賀を出港する観艦式参加部隊、何か前回と重なる情景ですが二重掲載ではありません、現在はEOS-7DmarkⅡを主軸として撮影していますが、当時はEOS-7DとEOS-50Dを併用していましたので、撮影番号が混成してしまいました。別々の器材で撮影したもの。

 海上自衛隊観艦式の歴史を、東京湾の風景と共に紹介しましょう。旧海軍の観艦式は非常に規模が大きなものでした。海上自衛隊は1954年に海上警備隊を改編し創設されましたが、初の観艦式を行えたのは昭和32年、即ち1957年まで三年間もの準備期間が必要でした。

 昭和32年観艦式、海上自衛隊初の観艦式は岸信介総理を観閲官として観閲艦ゆきかぜ、東京湾にて艦艇32隻と航空機49機が参加しました。昭和35年観艦式は江崎真澄防衛庁長官を観閲艦として東京湾にて挙行、停泊式観艦式ですが艦艇43隻と航空機49機が参加です。

 昭和36年観艦式は藤枝泉介長官を観閲艦とし東京湾で挙行、観閲艦あきづき以下32隻と航空機29機が参加し部分的な移動式観艦式を行った。昭和37年観艦式は初の大阪湾挙行となり生田宏一防衛政務次官が観閲官、観閲艦あきづき以下48隻と航空機31機が参加と。

 昭和39年観艦式は小泉純也防衛庁長官と東京湾で挙行し観閲艦てるづき以下52隻と航空機31機が参加です。昭和40年観艦式は松野頼三長官を大阪湾へ招き挙行され、新鋭ミサイル護衛艦あまつかぜ、を観閲艦とし艦艇49隻と航空機51機が参加、二年連続の挙行だ。

 昭和41年観艦式は初の博多湾での実施となり、上林山栄吉長官を観閲官とし、あまつかぜ以下37隻と56機が参加、初の航空自衛隊機参加となった。昭和42年観艦式は伊勢湾、増田甲子七長官が観閲官を務め新鋭たかつき以下艦艇43隻と航空機75機が参加しています。

 昭和43年観艦式は佐藤栄作総理、内閣総理大臣が久々に観閲し、護衛艦たかつき以下艦艇44隻と航空機47機が参加しています。昭和44年観艦式は大阪湾にて挙行され、護衛艦きくづき以下艦艇50隻と航空機50機が参加、有田喜一防衛庁長官が観閲官を務めました。

 昭和45年観艦式は後の首相となる中曽根康弘長官が観閲、もちづき以下45隻と航空機48機が参加し、東京湾から相模湾へ会場を移しました。昭和46年観艦式は初の佐世保沖で挙行、西村直己長官が観閲官を務め護衛艦きくづき以下艦艇50隻と航空機65機が参加です。

 昭和47年観艦式は参加艦艇で米軍供与艦が全て国産艦に代わり、増原惠吉長官が観閲官ながつき以下51隻と61機を観閲しました。昭和48年観艦式は若狭湾で実施、山中貞則長官が、たかつき以下39隻と48機を観閲しましたが、同年に世界に石油危機が発生しました。

 昭和56年観艦式、石油危機以来久々の挙行となり、会場を相模湾に鈴木善幸総理が観閲官を務め、しらね観閲艦として艦艇45隻と航空機55機が参加しました。昭和59年観艦式は自衛隊創設30周年記念、加藤紘一長官が艦艇53隻と51機を、しらね艦上から観閲です。

 昭和62年観艦式は中曽根総理が、しらね艦上より相模湾で艦艇54隻と航空機49機を観閲しました。平成元年観艦式は相模湾にて、海部俊樹総理を観閲官とし、しらね以下艦艇55隻と航空機51機が参加です。なお、石油危機後の観艦式は全て相模湾で行われている。

 海上自衛隊創設40周年記念観艦式として平成4年は宮澤喜一総理を招き、しらね以下52隻と54機が参加。防衛庁創設40周年記念観艦式として平成6年に村山富市総理を招きしらね以下45隻と52機が参加しています。この次から観艦式は、自衛隊記念日行事となる。

 平成9年観艦式は橋本龍太郎総理を観閲官に、しらね以下46隻と48機が参加、平成12年観艦式は森喜朗総理を観閲官に、しらね以下63隻と38機が参加しました。平成9年以降陸海空が自衛隊記念日行事を持ち回り実施する事とし海上観閲式へ改名も検討されている。

 海上自衛隊創設50周年記念国際観艦式は観艦式実施年度ではありませんが、東京湾に久々の停泊式にて小泉純一郎総理と11か国の艦艇17隻を含む65隻が参加しています。翌平成15年観艦式は相模湾にて小泉総理が、しらね以下52隻と航空機53機を観閲しています。

 平成18年観艦式は当方が初めて見た観艦式、安倍晋三総理大臣が観閲し、初の観閲艦くらま以下艦艇48隻と50機が参加、そしてこの今回特集の観艦式は、観閲艦くらま以下艦艇40隻と航空機31機が参加しています。平成21年観艦式、参加艦艇の詳細は以下の通り。

 観閲部隊の編成は先導艦-護衛艦いなづま(DD-105第4護衛隊群第8護衛隊),観閲艦-護衛艦くらま(DDH-144第2護衛隊群第2護衛隊),随伴艦-護衛艦こんごう(DDG-173第1護衛隊群第5護衛隊),随伴艦-護衛艦あぶくま(DE-229護衛艦隊直轄第14護衛隊),という陣容だ。

 観閲付属部隊,護衛艦まきなみ(DD-112第3護衛隊群-第3護衛隊),掃海母艦うらが(MST-463掃海隊群),潜水艦救難艦ちはや(ASR-403第1潜水隊群直轄)艦),試験艦あすか(ASE-6102開発隊群直轄艦),訓練支援艦てんりゅう(ATS-4203護衛艦隊直轄-第1海上訓練支援隊)という。

 受閲艦艇部隊は旗艦-護衛艦あしがら(DDG-178第2護衛隊群-第2護衛隊)を先頭に進みます。受閲艦艇部隊第1群護衛艦はたかぜ(DDG-171第4護衛隊群-第4護衛隊)と護衛艦さわかぜ(DDG-170護衛艦隊直轄艦)、イージス艦とターター艦が三世代に渡り揃う陣容ですね。

 受閲艦艇部隊第2群の編成は護衛艦ひゅうが(DDH-181第1護衛隊群-第1護衛隊)と護衛艦さざなみ(DD-113第4護衛隊群-第8護衛隊)、二隻のみという編成ですが事とし就役したばかりの海上自衛隊最新鋭、初の全通飛行甲板型護衛艦である、ヘリコプター搭載護衛艦が。

 受閲艦艇部隊第3群は護衛艦ゆうばり(DE-227護衛艦隊直轄-第15護衛隊)と護衛艦ゆうべつ(DE-228護衛艦隊直轄-第15護衛隊)、冷戦時代後半に北方海域の防衛を担った小型護衛艦です。実はこの時点で既に退役予定が発表されていまして、最後の観艦式となりました。

 受閲艦艇部隊は第4群潜水艦そうりゅう(SS-501第1潜水隊群-第5潜水隊)と潜水艦わかしお(SS-587第2潜水隊群-第4潜水隊)に潜水艦なつしお(SS-584第1潜水隊群-第5潜水隊)という潜水艦部隊です。画期的AIP潜水艦である、そうりゅう型が初めて参加しました。

 受閲艦艇部隊第5群は掃海母艦ぶんご(MST-464掃海隊群直轄艦)と掃海艦やえやま(MSO-301掃海隊群第51掃海隊)と掃海艇あいしま(MSC-688掃海隊群-第1掃海隊)という掃海艇部隊です。三隻ですが掃海母艦と掃海艦と掃海艇という三類型がこう揃っています。

 受閲艦艇部隊第6群は補給艦ましゅう(AOE-425護衛艦隊直轄-第1海上補給隊)、輸送艦おおすみ(LST-4001護衛艦隊直轄-第1輸送隊)エアクッション艇1号とエアクッション艇2号(LCAC-2102護衛艦隊直轄第1輸送隊-第1エアクッション艇隊)という陣容で参加しました。

 受閲艦艇部隊第7群はミサイル艇くまたか(PG-827余市防備隊-第1ミサイル艇隊)とミサイル艇おおたか(PG-826佐世保警備隊-第3ミサイル艇隊)、哨戒部隊というべきミサイル艇二隻です。観艦式本番は重ねて海上保安庁巡視船やしま、が受閲艦艇部隊第8群に加わる。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】観艦式2009-守る!この海と未来-【02】東京湾を浦賀水道へ(2009.10.23)

2019-08-18 20:15:22 | 海上自衛隊 催事
■くらま,艦隊進路は太平洋へ
 自衛隊観艦式、第二回は横須賀基地を出航した艦隊が横浜港と東京湾一円の集結地よりの艦隊出航と湾内を太平洋へ向かう様子から。

 くらま、先導する護衛艦いなづま。長浦湾を東京湾へそして浦賀水道へと進みます。観艦式は相模湾で挙行されますが、観艦式参加艦艇は横須賀基地だけでは入りきらず、横浜港と木更津港にも入り、その艦艇が航行する東京湾の情景も観艦式の一部といえましょう。

 平成21年度自衛隊観艦式、天皇陛下御即位20周年奉祝行事としても実施されました。ただ、自民公明連立政権がこの年の衆議院総選挙により民主党連立政権へ後退し、財政再建重視の新政権は防衛費縮小を強く政権公約に掲げた為、観艦式は小規模となりました。

 海上自衛隊創設50周年記念国際観艦式として平成14年度に小泉総理時代に行われた東京湾停泊式観艦式は艦船65隻と航空機11機という規模、森喜朗総理時代の平成12年度自衛隊観艦式では艦船63隻、航空機65機という規模で挙行されています。半分強、という。

 ヘリコプター搭載護衛艦くらま。十年前の観艦式ではありますが、この年は海上自衛隊が初の全通飛行甲板型のヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、を就役させました。そしてそれから十年、海上自衛隊は全通飛行甲板型護衛艦へ全て世代交代を完了、十年の長さは凄い。

 平成18年自衛隊観艦式、安倍晋三内閣総理大臣を護衛艦くらま艦上に観閲官として行った際の規模は艦艇48隻と航空機50機、対して平成21年自衛隊観艦式は艦艇40隻と航空機31機でした。小泉内閣総理大臣時代の平成15年度観艦式は艦艇52隻と航空機53機です。

 くらま。北大路機関は、はるなさん、くらまさん、と創設しましたので護衛艦くらま、には親近感があります。そしてこの年の観艦式、その半年と少し前の2009年3月19日に初のヘリコプター搭載護衛艦はるな、舞鶴基地にて自衛艦旗を返納し退役しているのですね。

 東京湾を往く護衛艦くらま。遠景にはイージス艦ちょうかい、試験艦あすか、の艦影が浮かんで見えます。2009年、考えてみれば東京タワーはあっても東京スカイツリーはまだ完成していません、そして撮影機材もEOS-7DとEOS-50Dの混成で臨んでいる時代です。

 三浦半島を背景に護衛艦くらま雄姿、観艦式は2006年と2009年に2012年と2015年、御縁が在ったのですが驚くなかれ、この四度とも内閣総理大臣座乗の観閲艦は、くらま、が務めています。佐世保基地を母港とする護衛艦ですが海上自衛隊の象徴の様な存在という。

 いなづま。むらさめ型護衛艦5番艦です、むらさめ型はステルス性を備えたシステム艦で9隻が建造、拡大改良型たかなみ型5隻、防空型あきづき型4隻、拡大改良型あさひ2隻と20隻が建造、設計に余裕が在った事から新任務の長期航海と新装備搭載に対応出来ました。

 うらが、掃海母艦が追い越してゆきます。友人が本番の日のこの艦上で荒天下大変な事になる。この観艦式、正確には写真は予行ですが本番の観閲官には首相代理として菅直人副総理がヘリコプター搭載護衛艦くらま、に乗艦艦艇40隻と航空機31機が参加しています。

 自衛艦旗と試験艦あすか。あすか、はこの観艦式に観閲付属部隊として参加しています。そして当方一行が乗艦しています潜水艦救難艦ちはや、も観閲付属部隊に所属していまして、別に競争をしているのではなく観閲付属部隊としての陣形を組もうとしているのです。

 部隊は護衛艦まきなみ(DD-112第3護衛隊群-第3護衛隊),掃海母艦うらが(MST-463掃海隊群直轄艦),潜水艦救難艦ちはや(ASR-403第1潜水隊群直轄)艦),試験艦あすか(ASE-6102開発隊群直轄艦),訓練支援艦てんりゅう(ATS-4203護衛艦隊直轄-第1海上訓練支援隊)という。

 護衛艦いなづま、を海上保安庁巡視船するが、が超越しようとしています。最大速力は巡視船よりも護衛艦の方が早いのですが、するが、は観艦式への参加艦船ではなく実任務への移動中である為、先行しています。いなづま、は観閲部隊の中でも先導艦を務めている。

 観閲部隊編成は先導艦-護衛艦いなづま(DD-105第4護衛隊群第8護衛隊),観閲艦-護衛艦くらま(DDH-144第2護衛隊群第2護衛隊),随伴艦-護衛艦こんごう(DDG-173第1護衛隊群第5護衛隊),随伴艦-護衛艦あぶくま(DE-229護衛艦隊直轄第14護衛隊),という陣容です。

 くらま、上空をSH-60J/K哨戒ヘリコプターが四機編隊で進んでいます。内閣総理大臣が観閲官を務める観艦式、当時は民主党連立政権へ政権交代した為、防衛政策に熱心ではない民主党の鳩山内閣総理大臣は出席せず、菅直人副総理が代行で出席する事となっていた。

 いなづま上空をSH-60J/K哨戒ヘリコプター四機編隊が飛行します。実は観閲官は横須賀基地出航の時点ではまだ乗艦していません、観閲官は観艦式観閲部隊が相模湾に陣形を整えた段階で、ヘリコプターにより観閲艦くらま、へ着艦するのですね。上空を警戒へ当る。

 いなづま、と旅客船や遊漁船とが重なり合う情景、牧歌的な情景ではあるのですが東京湾の海上交通総量の多さを示しています、日本でもというよりも世界でも最も混雑する海域故の情景です。万が一にも衝突事故が起きてはなりませんし、陣形も乱さないように進む。

 あぶくま、先導艦-護衛艦いなづま(DD-105第4護衛隊群第8護衛隊),観閲艦-護衛艦くらま(DDH-144第2護衛隊群第2護衛隊),随伴艦-護衛艦こんごう(DDG-173第1護衛隊群第5護衛隊),随伴艦-護衛艦あぶくま(DE-229護衛艦隊直轄第14護衛隊),この陣形完結へと急ぐ。

 護衛艦まきなみ(DD-112第3護衛隊群-第3護衛隊),掃海母艦うらが(MST-463掃海隊群直轄艦),潜水艦救難艦ちはや(ASR-403第1潜水隊群直轄)艦),試験艦あすか(ASE-6102開発隊群直轄艦),訓練支援艦てんりゅう(ATS-4203護衛艦隊直轄-第1海上訓練支援隊)部隊の通り。

 SH-60J/K哨戒ヘリコプターの二機編隊とヘリコプター搭載護衛艦くらま。ここで富士山でも背景に収める事が出来れば良かったのですが、くらま、は観閲部隊、ちはや、は観閲付属部隊です。総理大臣代理の部隊に対し観閲部隊付属部隊は並行し航行、撮影位置はここ。

 受閲艦艇部隊は旗艦、受閲艦艇部隊第1群の護衛艦部隊、受閲艦艇部隊第2群が護衛艦部隊、受閲艦艇部隊第3群に護衛艦部隊、受閲艦艇部隊第4群が潜水艦部隊、受閲艦艇部隊第5群で掃海艇部隊、受閲艦艇部隊第6群の支援部隊、受閲艦艇部隊第7群の哨戒部隊と。

 ちはや上空をSH-60J/K哨戒ヘリコプターの四機編隊が航過してゆきます。航空祭等では編隊飛行の航過飛行は一回か二回、編隊を組みなおしても三回程度ですが、部外船舶への機動巡察も兼ねている為、繰り返し上空を飛行します。ここぞとばかりに撮影しておこう。

 くらま。観閲官は三浦半島の南端、剣崎近くでヘリコプターが着艦軌道を開始し、そのまま三浦半島南端の小島である城ケ島で着艦します。ですから理論上、三浦半島の観音崎や剣崎の標高が比較的高い場所から、視程が良ければ艦隊を一望する事もできるでしょう。

 受閲艦艇部隊の旗艦-護衛艦あしがら(DDG-178第2護衛隊群-第2護衛隊)を先頭に受閲艦艇部隊第1群護衛艦はたかぜ(DDG-171第4護衛隊群-第4護衛隊)と護衛艦さわかぜ(DDG-170護衛艦隊直轄艦)始め多数の艦艇が見えてきました、観艦式がいよいよはじまる。

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【日曜特集】観艦式2009-守る!この海と未来-【01】横須賀基地の艦隊出航(2009.10.23)

2019-08-04 20:09:10 | 海上自衛隊 催事
■歓迎-自衛隊観艦式2009
 本年秋の令和元年観艦式を祈念し今回より自衛隊観艦式、この十年間の自衛隊発展を垣間見る自衛隊記念日行事の様子を紹介しましょう。

 歓迎-自衛隊観艦式2009、横須賀基地船越地区の朝がやってきた。本年は観艦式2019が挙行されます。そこで平成懐古として、海上自衛隊十年の発展を回顧するという視点からも、今回から2009年に挙行されました自衛隊記念日行事、自衛隊観艦式を特集しましょう。

 自衛隊観艦式、守る!この海と未来、この標語一下挙行されました十年前の観艦式ですが、船越地区には今日では歴史となった護衛艦が並んでいます、なにしろこの年の三月まで、初のヘリコプター搭載護衛艦はるな、現役であり、最新鋭護衛艦ひゅうが竣工より半年だ。

 ゆうばり型護衛艦DE-227 ゆうばり、DE-228ゆうべつ。一番艦が1983年に竣工し、二番艦ゆうべつ竣工は翌1984年、この観艦式の翌年に揃って除籍となりました。基準排水量1470tで満載排水量1750t、対潜性能と北方警備用に水上打撃力に特化した小型護衛艦です。

 M/50-375mm対潜ロケット砲、スウェーデン製の対潜装備で海上自衛隊は71式ボフォースロケットランチャーとして導入し、射程2.2kmで80kgのHE爆薬を搭載し、潜水艦に対し使用します。砲身下には48発の弾庫があり、ソナーが捕捉した潜水艦を追い詰める。

 ハープーン艦対艦ミサイル、海上自衛隊がアメリカ海軍RGM-84を制式化したもので、ゆうばり型の原型である護衛艦いしかり、から導入しました。これ以前には対艦戦闘の主力は艦砲であり、ソ連海軍の太平洋進出活性化を受け、水上打撃力強化へ導入されました。

 ゆうばり、ゆうべつ。DEと云いますと聞きなれない方が居るかもしれませんが、DDという護衛艦隊の大型護衛艦とは別に、DEという沿岸警備用の小型の護衛艦を自衛隊は長らく分けて建造していました。現在は平成以降、護衛艦数削減受けDDに一本化されています。

 対水上打撃に重点を置いた護衛艦、という設計は艦尾のハープーン対艦ミサイルが象徴的です。ただ、ミサイル艇と比較したらばレーダーは強力ですし対潜戦闘能力も上記の通りあり、沿岸部、特に友軍航空優勢の支援下であれば相応な対潜掃討艦としても機能する。

 ちはや、潜水艦救難艦です。潜水艦隊第1潜水隊群に所属していまして就役は2000年、まだまだ現役です。大きなフネですが、観艦式のこの一日、当方一行はこの潜水艦救難艦ちはや、にお世話になります。太平洋に向かうこの日に揺れが少なそうで、幸先良いですね。

 輸送艇2号、横須賀地方隊が装備する輸送艇1号型の一隻だ。1988に就役しました。観艦式ではりますが、ここ船越地区は自衛案隊司令部が置かれる海上防衛の中枢、つまり横須賀基地の一般公開日である横須賀サマーフェスタでも全部公開されず、結構風景貴重だ。

 あいしま出航、すがしま型掃海艇の一隻です。この数年後に乗せてもらう事になる。観艦式、この日撮影する事が出来る自衛隊記念日行事ですが、元々は国家元首の観閲を受ける事で海軍力の水準を示す国威発揚の行事であり、我が国では現在三年に一度行われている。

 自衛艦旗掲揚、潜水艦救難艦ちはや、0800時と共に自衛艦旗掲揚が開始されました。喇叭の号令が響き渡る中、全員が敬礼すると共に朝日の中を自衛艦旗が掲げられてゆきまして、観艦式、永浦湾を東京湾へ、東京湾を相模湾へといま出航する機運がみなぎってきますね。

 ゆうばり出航、自衛艦旗掲揚と共にみなぎる機運、曳船の出港作業が始まる頃なのですが、大忙しの曳船は向こうの方へ行く、先に出港するのはこちらの、ちはや、ではなく護衛艦ゆうばり、出航にも順番が在るのですが自衛艦旗を構図に入れて撮影出来たのは嬉しい。

 沿岸警備用のDEとして建造されました護衛艦ゆうばり型は非常に小型に見えます、が、この前任は駆潜艇というさらに小型の水上戦闘艦でした。対水上対空用に40mm単層装機関砲を搭載し、対潜用に爆雷投下装置とヘッジホッグ対潜迫撃砲を装備していましたが。

 ひよどり、迎賓艇として1999年まで現役でしたが、この原型が駆潜艇です。みずどり型という。しかし360mしか飛ばないヘッジホッグ対潜迫撃砲と探知能力5kmという小型のSQS-11Aでソ連の原子力潜水艦を追尾する事は難しく、小型護衛艦へ置き換えられる事に。

 ちくご型というDE、1968年から11隻が量産された基準排水量1470t満載排水量1800tの護衛艦が、アスロック対潜ロケットと9kmの探知距離を有する66式探信儀OQS-3A に加えSQS-35/J可変深度式ソナーを搭載、駆潜艇の時代は1980年代には代替わりへ向かう。

 ゆうばり、この沿岸護衛艦の任務は北方警備用です。冷戦時代、ソ連海軍は太平洋に近い日本海沿岸ウラジヴォストーク海軍基地を有していました。有事の際、大規模な原子力潜水艦による通商破壊を阻止するには、津軽海峡と宗谷海峡を防衛する必要があったのです。

 沿岸防備任務、日本海と太平洋は北方の宗谷海峡と津軽海峡、そして九州の対馬海峡だけです、流石に関門海峡は除く。すると広範囲の対潜哨戒能力よりは、限定された場合でも水上打撃力と併せた多機能能力が求められ、ここに対艦ミサイル搭載艦の必要性が生じた。

 自衛艦旗、自衛隊観艦式がいよいよ開始されます。観艦式とは国家元首の観閲と国民への海軍力現状を展示する事が目的です。我が国物流の八割以上が海運により維持されており、海を守る事は日本そのものを維持し、平和国家の理想、その源流を護る事に他なりません。

 ゆうべつ出航、本艦が建造された1982年は対艦対空対水上各種ミサイルとヘリコプターを搭載したシステム艦はつゆき型護衛艦の量産が開始され、前年1981年はヘリコプター搭載護衛艦くらま就役による4隻体制が遂に完成、海上防衛が一時代を完成させる転換期です。

 ハープーン艦対艦ミサイルは射程220kmという、従来の艦砲や草創期の長魚雷と根本から異なる水上打撃力を有しています。対艦ミサイルそのものの原型は第二次大戦中に在りますが、その実用化は北欧とソ連が注力した以外、特に同盟国アメリカは重視していません。

 アメリカ海軍は空母航空団という最強の洋上打撃力を有しており、スタンダード対空ミサイルの対艦照準攻撃等、この分野ではあまり重要視して来ませんでしたし、1970年代以前は太平洋正面でのソ連海軍水上戦闘艦の動きは限定的、日本もそれ程重視していません。

 ミサイルは、1967年の第三次中東戦争においてイスラエル海軍の元イギリス製駆逐艦がエジプト軍ミサイル艇により撃沈、エクゾセ空対艦ミサイルが1982年のフォークランド紛争にて僅かイギリス海軍の行動を大きく制約し、防空駆逐艦シェフィールド等が撃沈された。

 まつゆき、はつゆき型護衛艦です。はつゆき型は満載排水量4000tの大型水上戦闘艦で、対潜ヘリコプターからアスロック対潜ロケットにハープーン艦対艦ミサイルとシースパロー艦対空ミサイルまで一通りを搭載した1980年代の傑作艦、ただしこの日は御留守番だ。

 まきなみ出航、甲板上に溢れんばかりの乗艦者を乗せています。たかなみ型護衛艦3番艦、むらさめ型護衛艦の余裕ある設計を応用した改良型、2004年の竣工時は第2護衛隊群第2護衛隊所属、この観艦式の前年に第3護衛隊群第3護衛隊転属、今は第7護衛隊に居ます。

 いなづま出航、横須賀市の市街地を背景に堂々の出港です。むらさめ型5番艦、ここまで、ゆうべつ、ゆうばり、を強調して参りましたが、冷戦後の平成時代は海洋安全保障と地域不安定の広域化を背景に自衛隊任務範囲が拡大し、このように護衛艦も大型化しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】ひゅうが特別公開-横浜開港一五〇年祭,DDHひゅうが&いせ(2009.09.06)

2019-02-03 20:02:36 | 海上自衛隊 催事
■ひゅうが&いせ横浜大集合
 DDH,海上自衛隊におけるヘリコプター搭載護衛艦はこの時の横浜に二隻居ました、横浜港にて一般公開を行った護衛艦ひゅうが、そして横浜磯子で建造中の護衛艦いせ、です。

 ひゅうが停泊、大桟橋に停泊する護衛艦というものは、ひゅうが前の最大の護衛艦が満載排水量10000tのミサイル護衛艦あたご、あしがら、でしたが、ひゅうが、をこの位置から見ますと流石は満載排水量19000tの迫力、というところでしょうか、改めて思う大きい。

 ひゅうが初公開、いせ建造中、同じ横浜に二隻の全通飛行甲板型護衛艦が並んだわけです、それならば二隻とも撮影したい、というところ。御縁あって新護衛艦いせ進水式へご招待を頂きました事もあり、いせ進水式ののちの建造進捗などをひとつ視てみる事としました。

 いせ建造、竣工はこの後の2011年3月です。あの東日本大震災直後に竣工となりまして、もう一年建造が早ければ、東日本大震災災害派遣には洋上の航空拠点をもう一隻加える事が出来、それにより救われる人命ももう少し多く出来たのではないか、と考えてしまう。

 IHIマリンユナイテッド横浜工場、ヘリコプター搭載護衛艦いせ建造は横浜市磯子の造船所、護衛艦ひゅうが建造の造船所と同じ場所にて進められています。場所は根岸と磯子、決してこの横浜港大桟橋から近い訳ではないのですが、京浜東北線を利用すれば、遠くは無い。

 ひえい建造、はるな型護衛艦二番艦のヘリコプター搭載護衛艦ひえい、もここIHIマリンユナイテッド横浜工場、その前身である石川島播磨重工東京工場にて建造されています。いせ建造は、ひえい代艦として進められているものですので、これも御縁といえば御縁か。

 いずも型護衛艦、菓子上自衛隊最大のヘリコプター搭載護衛艦の予算が概算要求に盛り込まれるのはこの翌年の2010年、自民党民主党政権交代の同年ですが、その護衛艦いずも型が建造されたのも、IHIマリンユナイテッド横浜工場、手馴れているという印象なのかも。

 おおなみ、きりしま、整備中だ。たかなみ型護衛艦二番艦、こんごう型ミサイル護衛艦二番艦、二番艦二隻が並ぶ、というものは中々ありません。早速目に入った護衛艦を見ますとこの日にIHIマリンユナイテッド横浜工場までやってきたのは正解だったと分かります。

 かが建造もIHIマリンユナイテッド横浜工場、全通飛行甲板型護衛艦だけで既に4隻、ひえい、を含めるならば前身の時代を含めてIHIマリンユナイテッド横浜工場はヘリコプター搭載護衛艦を5隻建造しているわけでして、最早名門といっても過言ではないでしょう。

 磯子駅、根岸線の磯子駅がIHIマリンユナイテッド横浜工場の撮影適地に最寄となっています。ここからジェイパワー方面へ移動しますと、磯子海釣り施設という大物を狙える有料施設がありまして、椅子も日除けも軽食飲料も御手洗いもありまして、タクシー呼べる。

 新杉田駅がIHIマリンユナイテッド横浜工場の最寄駅ではあるのですが、此処で降りてしまいますとIHIマリンユナイテッド横浜工場の正門が最寄であるだけで、こちらは関係者以外立ち入り禁止となっています。撮影ならば、磯子駅からのバス利用がいちばんちかい。

 いなづま、浮きドックにて整備中ですのでソナーの形状を含めて護衛艦を文字通り丸ごと眺める事が出来るという。いなづま、は護衛艦むらさめ型の7番艦で、この護衛艦むらさめ型9隻がステルス設計と新鋭戦闘システムを以て現在の護衛艦隊主力を構成する汎用護衛艦となっています。

 磯子海釣り公園は磯子駅東口から毎時一本程度運行されています路線バスで行く事が出来ます、ただ、要注意なのは磯子駅バスターミナルとは真逆の、根岸線を跨線橋でまたいだ向こうの磯子駅東口バス停から運行されていますので、ここを間違えると永遠に行けない。

 東口バス停は、磯子駅改札から海の方向に出たところにあります。ただ、東口付近には自販機が一台あるだけで軽食等を買う事は出来ない場所となっていますので、撮影に時間をかける場合には、まず、磯子駅前のスーパーやファストフード店で買い物をするのがいい。

 東京湾でも大物が釣れるという昨今ですので、磯子海釣り施設、そしてその周辺の岸壁には釣り人が集っています。磯子海釣り施設は有料施設ですが、内陸寄りの岸壁からも海釣りが楽しめまして、成程待機時間が長い際には雑談も、ただ、舞鶴の方が海は綺麗だなあ。

 舞鶴基地も護衛艦はるな現役時代はユニバーサル造船と舞鶴基地北吸桟橋を一望できる前島埠頭フェリー桟橋で良く時間を過ごしまして、此処にも多い釣り人の人たちと交流といいますか、小鯵や小鯛などをつり上げる際の感動なんかを幾分か共有する事ができたもの。

 前島埠頭フェリー桟橋と磯子海釣り施設の違いは、前島埠頭は基本的に運行されているバスは新日本海フェリー乗客の輸送用だけですので、東舞鶴駅から徒歩で行くほかない、と。ただ前島埠頭までは徒歩30分程ですが、磯子海釣り施設は徒歩で一時間以上かかる、が。

 路線バスの本数は少ないのですが、ここから少し奥に行った場所が終点となっていますので、目的の艦が目の前にいる場合などは、バス停を下りまして素早く撮影位置に進出し五分ほどでばちばち撮影して後にバス停へ折り返しますと、戻りのバスが直ぐやってきます。

 佐世保基地を俯瞰風景に収める弓張岳展望台もこうした方法で撮影していましたね、磯子海釣り施設と違って弓張岳展望台は一日に四本ほどしかバスが運行されていません、終点に来ましたバスが折り返すまでの数分間で一挙に撮影する、という方法しか手段がなし。

 弓張岳展望台の撮影の方が、バスが折り返すまでの時間は数分間、この数分間で天応台を駆け上がり、それこそ一眼レフの高性能、毎秒十枚十数枚という高性能で自衛隊と米軍施設や入港艦艇を撮影するのですから時間が無い、その点横浜の方はもう少し余裕があるか。

 しらね、建造中の護衛艦いせ、隣に見えますのは横須賀での火災事故後に修理を行う、しらね、です。ヘリコプター搭載護衛艦いせ、との並び。全通飛行甲板型護衛艦はこの時点で就役している護衛艦で、ひゅうが、ひえい、しらね、くらま。しらね横浜修理中という。

 きりしま、は奥の方に入っていますので、船体の大きさの違いは良く分かりませんが、おおなみ、いせ、については二隻が並んでいる構図ですので、新時代の全通飛行甲板型ヘリコプター搭載護衛艦と汎用護衛艦の大きさの違いが一目瞭然、というところでしょうか。

 かが就役、あの撮影からほぼ十年を経て海上自衛隊の護衛艦を見ますと、護衛艦は大きくなるものだ、と考えるところですが、一方で、いずも型護衛艦という事で、海上自衛隊が護衛艦大型化の終止符に用いるともいわれる護衛艦ながと、が使われなかった点にひとつ。

 ながと型、最初は護衛艦あたご型に充てられる予定でしたが時期尚早という事で四万トンの巨大戦艦の艦名を条約型巡洋艦程度の大きさのイージス艦には適当ではないと見送られた。いずも型にも最初ながと型を冠する構想はありましたが、日中関係の配慮から流れる。

 いずも型の装甲巡洋艦出雲の方が日中関係を考えた場合避け、敢えて戦艦長門の艦名を冠した方が長期的に波風を避けられたようにも思うのですが、いつか長門に相応しい巨艦ながと、が、この造船所にて建造されるのかな、と今日、写真を見返して考えてしまいます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】ひゅうが特別公開-横浜開港一五〇年祭,新DDH就役一〇周年(2009.09.06)

2019-01-13 20:19:36 | 海上自衛隊 催事
■全通飛行甲板型護衛艦時代
 2019年は護衛艦ひゅうが就役から十年が経ったことを意味しまして時代とは早いものです。

 ひゅうが一般公開が行われた横浜大桟橋は開港からの生き字引、大桟橋には通関施設などもあり、神戸港のポートターミナルなどと比較した場合でも優美な建築美を誇る。横浜ベイブリッジが大黒埠頭とを結び、観光地として当時の栄華を昇華の後も際だたせている。

 護衛艦ひゅうが、満載排水量19000tの全通飛行甲板型護衛艦です。ヘリコプター搭載護衛艦としては第二世代型に当たる護衛艦で、海上自衛隊では明確に区分しているわけではありませんが、はるな、ひえい、しらね、くらま、第一世代とは明確に概念が進歩している。

 第一世代にあたる護衛艦はるな型、しらね型、1973年から1981年に整備された四隻がヘリコプター巡洋艦型を採用しているのに対し、2009年から2017年にかけて整備された護衛艦ひゅうが型と護衛艦いずも型は航空機運用を重視し、全通飛行甲板型を採用しました。

 はるな満載排水量は6800t、これもFRAM近代化改修により拡大改修され6800tでして、その前であっても海上自衛隊最大の護衛艦でした。しらね型護衛艦は7200tとなっています。対して護衛艦ひゅうが型は19000t、いずも型は27000tと非常に大型化しました。

 全通飛行甲板型護衛艦という新機軸は、海上自衛隊の航空機重視姿勢を端的に示すものといえましょう。SH-60J/K哨戒ヘリコプターは1機で2000t級巡視船を上回る費用を要します。航空機運用の重要性と部隊としての能力を理解している故に巨費に耐えられました。

 もともと海上自衛隊は航空機重視で、例えば実に100機を調達したP-3C哨戒機などはその取得費用が、はつゆき型護衛艦と護衛艦いしかり、の中間よりもやや高い取得費用、護衛艦換算では、はつゆき型護衛艦70隻分を海上自衛隊は哨戒機に投入したこととなります。

 航空機は電子装備の固まりであり、しかも哨戒機であれば潜水艦の徴候を分析し海中の潜水艦位置を画定する高性能器材を持つ、同世代の戦闘機よりも遙かに取得費用が高くなることは不思議ではありません。実際、P-3C哨戒機はF-16戦闘機よりも取得費用が大きい。

 HSS-2対潜ヘリコプターの時代から自衛隊は高くともソナーとコンピュータを備えた機種を採用、もっとも日本の場合は航空自衛隊が戦闘機のロールスロイスとよばれるF-15戦闘機を採用したことでP-3Cの取得費用はそれほど飛び出たものには成りませんでしたが、ね。

 ひゅうが型護衛艦は航空機を主体として戦闘システムを構成し、特に航空機であれば機種を変更することは難しくはありません。設計当時にF-35B戦闘機、当時はJSF統合打撃戦闘機と呼称されていましたが、搭載するところまで長期展望していたのかは未知数です。

 F-35B搭載可否まで話はいかずとも、少なくとも当時搭載が決定していましたSH-60K哨戒ヘリコプターとMCH-101掃海輸送ヘリコプター、陸上自衛隊CH-47輸送ヘリコプターやAH-64戦闘ヘリコプターの比率を代えるだけでも任務遂行能力を大きく転換できます。

 SH-60Kが旧式化した将来であってもSH-101かSH-92かSH-90となるのかは現時点で判然としませんが、新型機に積み替えるだけで能力を根本から再構築できる、はるな型護衛艦もHSS-2をHSS-2A,HSS-2B,そしてSH-60J.SH-60Kへ載せ替え近代化を維持しました。

 これが護衛艦そのものの戦闘システムであれば、コンピュータ処理能力の強化程度であれば定期整備の際に実現可能ですがセンサーそのものを転換させるとなるとそう簡単にはゆきません。航空機だからこそ即座の更新を選択肢に含むことが出来る、といえるでしょう。

 飛行甲板に並ぶヘリコプターをみますと本質を錯誤しそうですが、ひゅうが型護衛艦は艦砲を搭載していないだけで、多機能レーダーに連動し僚艦防空までを担うFCS-3を搭載する護衛艦ひゅうが型の能力は実に強力です。ひゅうが、伊勢型戦艦日向を継ぐのですから。

 Mk41VLSは16セルにVアスロック対潜ロケットかESSM先進艦短射程対空ミサイルを搭載しており、ESSMはVLSの1セルに4発を搭載しますし短射程としつつその射程は50kmに達します。もちろん、近接脅威へ20mmCIWSや12.7mm機銃等を揃えています。

 FCS-3は多目標同時対処能力を備えていますので迂闊に攻撃を仕掛けますと護衛艦ひゅうが型は猛烈な反撃を加えることが出来る。ソナーを備える護衛艦、しかし、護衛艦いずも型は機雷探知や魚雷探知など対潜戦闘よりは自衛用のソナーに限られていましたが、ね。

 ひゅうが型は対潜戦闘を強く意識した装備となっています。いずも型が同様の装備搭載を断念したのは、ひゅうが19000tが猛然と潜水艦を追尾しますと艦内動揺が著しく、航空機整備などに影響が及ぶため、ともいわれまして、ひゅうが型運用実績を反映したものです。

 かが、いずも、とヘリコプター搭載護衛艦は対潜戦闘もヘリコプター主体へと転換した、ヘリコプタ運用能力が高いのだからヘリコプターに任せる設計思想の変容といわれています。すると、いずも型の艦対空能力が抑えられている背景は、もしやこれも艦載機に、と。

 一方で、ひゅうが型設計当時は護衛艦なのだから、という視点から必要な装備を、実のところ当初は76mm艦砲も検討されたほどに、搭載していますので護衛艦として高い能力を維持しているのです。76mm艦砲が搭載されていたらば、少し想像してみたりもします。

 実際、全通飛行甲板型艦艇といいますと被護衛対象、という印象がありますが、ひゅうが型についてはこの必要がありません。他方で、ひゅうが型設計は2000年に本格化しており、当時はここまで南西諸島情勢が緊迫化すると考えられていたかが難しいものがありました。

 巨大な護衛艦ですが、やはり格納庫の広さに特筆されるものを感じるとともに、全通飛行甲板の艦上において清涼飲料水の移動販売が行われていたことが驚きました。台車に氷塊ごと清涼飲料水をペットボトルごと浮かべて、それで艦上を移動販売しているのですね。

 はるな艦上でも自動販売機などはありましたが、ひゅうが艦上はそれだけ広い、ということなのでしょう。ひゅうが飛行甲板は此れだけ広いのですから、後年に横須賀から舞鶴配備となった頃に米海兵隊との共同運用を念頭にMV-22可動翼機の発着場が追加されました。

 MV-22,横幅が非常に大きな航空機ですが、この運用能力を有する潜在性が、ひゅうが型の能力の大きさなのでしょう。エレベータは見学者を多数同時に昇降していまして、見上げる護衛艦の威容、乗艦しての実際の感覚、海上自衛隊新時代の到来を痛感したものです。

 ひゅうが、この巨大な護衛艦は、兎も角この時点では次の護衛艦いずも型建造等は想像もしていませんでしたので横須賀基地に停泊していますだけで新時代を感じさせるものでした。そして、いずも竣工と共にこの時点で舞鶴母港の護衛艦しらね交代に本艦が来るとは。

 いせ、横浜での護衛艦ひゅうが初公開と同日、既に同じ横浜では護衛艦ひゅうが型二番艦いせ、が進水式を終え建造が進められている所でした。横浜まで来ているのだから、新しい護衛艦も観てゆこう、撮影の次の目的地も決まり改めて護衛艦ひゅうが、を見上げます。

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【日曜特集】ひゅうが特別公開-横浜開港一五〇年祭,新時代DDH艦内探訪記(2009.09.06)

2018-12-16 20:16:30 | 海上自衛隊 催事
■新時代は全通飛行甲板型護衛艦
 ヘリコプター搭載護衛艦の新時代は全通飛行甲板型時代となりました、そのはじまりが、ひゅうが、です。

 ひゅうが横浜港開港150周年特別公開、ひゅうが型2隻、ひゅうが、いせ。いずも型二隻、いずも、かが。全通飛行甲板を備えた護衛艦は航空機運用という視点で多用途運用能力があり、日本の海上防衛力が独自防衛力で展開できる分野を一応は広めたといえます。

 横浜港開港150周年、前回の特集では横浜港を幕末に開港した幕府の尽力、そして明治政府が軍事脅威へ対応しつつ近代日本の萌芽を確たる水準まで引き上げる際の生みの苦しみに横浜港拡張を挙げました。年々増大の貨物量、しかし港湾を拡張する予算はありません。

 1886年に転機があります、アメリカがかつて日本が支払った賠償金78万8000ドルを返還することで日米合意に至ったという。賠償金というのは江戸時代に長州藩が行った下関事件、四カ国連合艦隊の反撃で長州藩が壊滅した際、幕府が支払った賠償金の返還です。

 現首相の地元ですので叩くのは一考しましたが、あの頃の長州藩は無茶苦茶な危険分子でしてそういえば御所に銃弾を撃ち込んだ蛤御門も長州でした、そして賠償をになったのは幕府だったわけですね。幕府が日本の正統政府として賠償していなければ、どうなったか。

 中国の上海租界のように山口市はなっていたのかもしれません。閑話休題、当時の78万8000ドルですので、それは大きな金額でした。賠償金というものは返還されるものなのかは少々おどろきですが、外交上独立国としての地位を固めた日本へのアメリカの期待か。

 イギリスのパーマー技師、内務省嘱託の技師によりこの返還賠償金を元に全長457mという4000t級商船6隻の同時接岸が可能な容量を有する巨大な鉄製桟橋が横浜港に増築されることとなり、逐次増加に個別に対応させていた桟橋の荷役容量不足を一挙に解消します。

 4000t級商船6隻の同時接岸が可能という新しい桟橋は、のちに大桟橋、現在の横浜大桟橋と呼ばれるようになりました。草創期からの突堤には鉄道線が開通、旅客船から新橋行へ乗換でき、陸蒸気と珍重されたのも昔の話で鉄道線として陸運の花形へ昇華した鉄道です。

 しかし、横浜港には国際港湾として重要なものが欠けていました、それはドックです。横浜の近代化は、ホテルや商店が並び、各国料理や病院なども開設され、売弁と呼ばれる通訳や商業仲介人が上海租界や香港から日本に拠点を築き賑わうも、港にドックが無かった。

 国際港湾としてドック、船渠、いろいろ言い方はありますが不可欠なものでした、何故ならば国際航路は長距離で現在の旅客機と異なり長期間の航海を行わなければならず、これは必然的に船体の損傷や老朽箇所補修を必要とするものです、国際港湾の必要条件の一つ。

 国際港湾のドック、空港の整備施設というようなものでしょうか、これがなければ単なる発着場となってしまう。1891年に東京の実業家渋沢栄一が発起人となり、船渠造営における我が国第一人者である恒川柳作海軍造船官を招き、横浜船渠の建設が開始されました。

 日本人の手で行われる船渠建設、これはパーマー技師が突如病没し、やらざるを得ない状況にあったというわけなのですが、建設開始、途中に1895年の日清戦争勃発などで戦費が嵩む事もありましたが先に1898年、二号ドックが完工、1899年に一号ドックが完成する。

 横浜港から世界へ結ぶ航路は1896年に日本郵船が完成成った大桟橋から北米サンフランシスコ航路、豪州シドニー航路、欧州ロンドン航路を相次ぎ就航させ、横浜港は一挙に日本の船会社により世界とを結ぶ航路へ発展します。ここで、ひゅうが、一般公開されました。

 その後、しかし1923年の関東大震災では大桟橋が崩落全壊するなど、試練の時を迎えますが、大桟橋は耐震構造の鉄筋コンクリート構造へ頑強に生まれ変わり、あの太平洋戦争さえも生き延びました。そして膨大な震災瓦礫は山下公園造成へ利用され、今日に至ります。

 神戸港の発展、同時にこれは期せずしてのことですが、関東大震災の荒廃は代替港として神戸港を大きく発展させることとなります。無論横浜港の重要性は些かも代わらず、政府は震災翌月に早速横浜港の復興に着手しました、前述の耐震構造大桟橋へと続くのですね。

 関東大震災は、しかし世界からの救援の窓口として機能したことも特筆しておきたく、世界へ開かれた横浜港には多数の各国商船が接岸中、アンドレルボン号やエンプレスオブオーストラリア号などの大型船が日本郵船などの日本船とともに被災者救出にあたりました。

 昨今、日本の海の玄関口であった東京港晴海埠頭がレインボーブリッジ建設により60m規模の高さを有する大型客船が入港できなくなり、結果的に、行政の不作為というお粗末な事由ですけれども、10万トン級超大型クルーズ船の横浜入港の増大という僥倖を得ました。

 横浜港の歴史は、しかし第二次世界大戦において突如米軍が瑞穂埠頭を無期限接収することとなり、しかも1956年まで商港として全面返還に至りませんでした。サンフランシスコ講和条約とともに港湾施設を部分的に使用することは出来るようになっていたのですが。

 横浜港は、全面返還は日本が日ソ基本条約を締結し国連に加盟した1956年までまつ必要がありまして、実のところ横浜港とともに歴史を歩んだ横浜の戦後復興は大きく遅れることとなり、一方復興へ工業力を高めるには横浜港は不可欠、官民一体となり返還要求を行う。

 占領下の横浜港ですが、全く港湾施設が使われなかったかと問われればそうではなく、軍需輸送に依存する状況が醸成されます。連合軍の、具体的には進駐軍と1950年からは朝鮮戦争にともなう軍需輸送の中継地として細々と復興の端緒を探るほか無かったわけですね。

 しかし、返還後は国際航路へ運良く特務艦としての戦争を生き残ることが出来た太平洋航路用旅客船氷川丸と、そして各国から導入した船舶とともに自分で稼ぐ方式の正当な戦後復興を成し遂げ、横浜港一等地に米軍接収の瑞穂埠頭にかわる埠頭造成を大車輪で進めた。

 今日の横浜港が再建されました。今日では旅客船はクルーズ船となり定期国際航路はなく、船員街というものは自動化されたコンテナ埠頭へ生まれ変わりました。湊町情緒、という、ものが失われた事に郷愁を覚える方も年々減り、なるほどそんな時代もあったのか、と。

 港とは物流拠点として点と船を結ぶ点に過ぎないのか、それとも瀬人や人と人の交流の拠点ともなる複合的な拠点なのか、後者については懐古趣味的な思い出の価値観とは成りましたが、横浜は世界に冠たる300万都市として湊町から商都に発展し、今日に至ります。

 大桟橋は2002年に増大する巨大クルーズ船へ対応するべく、高さを抑えた、しかし、クジラの背中ウッドデッキという優美なデザインを取り入れた美しい大桟橋へ生まれ変わりました。新しい大桟橋では明治時代から今日に至る大桟橋の模型なども展示されています。

 ひゅうが一般公開はここ大桟橋で行われるとともに観艦式では護衛艦ひゅうが艦内、更に大型のヘリコプター搭載護衛艦いずも就役後は護衛艦いずも、艦内にて海洋安全保障シンポジウムを挙行することとなり、その際に改めて大桟橋の巨大さを体感する事が出来ます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】ひゅうが特別公開-横浜開港一五〇年祭,最新護衛艦横浜初公開(2009.09.06)

2018-12-02 20:09:01 | 海上自衛隊 催事
■DDH181ひゅうが横浜初公開
 今回から横浜開港一五〇年祭ひゅうが横浜初公開の様子を紹介しましょう、本当に巨大だと実感しました。

 ひゅうが初公開、海上自衛隊最大の護衛艦として建造され、ヘリコプター搭載護衛艦はるな、と交替した19000tの護衛艦艦艇広報は横浜港開港150周年記念行事として挙行されました。いずも型の巨大さに昨今押されがちですが、あの日横浜の活況をお伝えしましょう。

 横浜港、1858年の日米修好通商条約にもとづき江戸幕府の首府江戸にもっとも近い国際港湾として開港された横浜港です。もはや十年前の情景ですが、そもそも横浜は浅野造船が世界最初の航空母艦鳳翔を建造した歴史があり、海軍初の追浜飛行場はお隣横須賀に在る。

 太平洋とインド洋から世界に轟かせた帝国海軍航空艦隊の発祥の地でもあります、しかしそのなかでも、ひゅうが、建造当時からの威容には驚かされたもの、間近にみると更にすごい。ひゅうが竣工は同時に、はるな除籍と繋がる事に一抹の寂しさもありましたが、ね。

 DDH181ひゅうが、横浜IHIマリンユナイテッドにて建造され、横須賀基地の第1護衛隊群に配備されました。その偉容は建造中の様子を造船所の対岸にある磯子海づり公園から望見した際にも巨大の一言に尽き、公試は横須賀の高台からも望見することができました。

 DDH141はるな、幸運にもリムパック環太平洋合同演習から帰国のヘリコプター搭載護衛艦はるな、と太平洋での公試へ向かう護衛艦ひゅうが、が横須賀沖に並ぶ様子を撮影できましたが、艦型と規模の違いは著しく、世代交代、という印象を強くもったものでした。

 はるな、ひゅうが、実は聞いてみますとこの二隻が並ぶ情景を撮影したのは、世界でも当方だけ、という話を聞きまして、はるな母港は舞鶴基地、京都府の日本海側、対して護衛艦ひゅうが建造は横浜で配備後の母港は横須賀とともに太平洋に臨む、本州の反対側です。

 はるな除籍の日は、ひゅうが竣工の日、少なくとも洋上で巡り合った瞬間、二隻が並ぶ様子はあのリムパックからの護衛艦はるな帰国と、横浜を公試ひゅうが出航の瞬間だけとのことでしたので、北大路機関榛名研究室と榛名を冠する故、はるな冥利に尽きる、という。

 ひゅうが一般公開、空母型DDHとも誇称され、当方は全通飛行甲板型護衛艦と呼称しています。満載排水量19000t、はるな満載排水量が6800tでしたので、護衛艦の交替、以上のヘリコプター搭載護衛艦世代交代、海上自衛隊にとっての新しい一歩を刻んだ瞬間です。

 はるな型は護衛艦はるな建造が三菱重工長崎造船所でしたが、二番艦ひえい建造は石川島播磨重工東京工場、つまりIHIマリンユナイテッド横浜工場の前身です。ひえい交替となった護衛艦いせ建造も同じ造船所、護衛艦いずも、かが、建造も同じで縁を感じますね。

 横浜港、安政6年即ち1859年に開港しました。横浜開港150周年記念ひゅうが一般公開、という点からもわかる通り、2009年は特別な一年間でした。世界に冠たる国際港としての地位を得た横浜港、しかし1859年の開港当時は突堤二本から開港、歴史を歩み始めました。

 安政年間はいよいよ時代が幕末から明治維新へと転換しつつあった時代、徳川幕府は外洋船の建造を厳しく禁じてきましたので、突堤や港湾整備の技術は非常に限られ、それこそ徒手空拳に近い形で、わずかなオランダ資料をもとに浚渫と突堤建築を進めてゆきました。

 日本の開国、徳川幕府は外圧の影響を受けるとともに鎖国政策の影響が諸外国との文字通り隔世の技術格差や制度格差として現実化していたこともあり、幕府開府の時代には全く想定する必要の無かった外国の侵攻、侵攻とは豊臣秀吉の朝鮮遠征のように自ら行うもの。

 江戸時代と安土桃山時代の日本は強い。当時最新鋭といえた火縄銃、そして弓兵と槍兵とを重ねた三兵戦術は、同様の戦術が欧州、スペインにおいて開発されてより僅かに40年程度の遅れをもって導入された、中世における40年の技術格差は驚くほど僅かなものだ。

 幕末は外国の軍事圧力を受けた時代ですが、安土桃山時代の延長線上に国内政治と世界政治への関心を維持していた我が国、太平の世の眠りを覚まされた、というように最新鋭の軍事装備と戦術を有していた時代には必要がなかった周辺国の脅威をうけてのものでした。

 沼沢、横浜を表現する開港前の地名はまさにここ、人が住むことの出来ない荒れ野というものでした。しかし、幕府は開港に際して膨大な人的資源を惜しむことなく、実際は財政逼迫でしたが、そそぎ込み、かなり短期間で造成成功、欧米諸国からは驚きだったもよう。

 当時横浜イギリス総領事に着任した総領事オールコックの表現を借りるならば、将軍の魔法の杖によって忽然と、創設されたという。ここが選ばれたのは既に横浜村という東海道に近い村落があり、地形調査により水深が大型船舶入港に十分な水準であり、潮流もない。

 こうした条件から出島の建設が可能、という判断を受けてのものでした。武蔵国名主笹井万太郎が落札した突堤建設は、全長109mと幅18mの金属製突堤を二本建設するというもので、一つは旅客用突堤、もう一つを貨物用突堤とするもの。これが横浜港の始りでした。

 横浜港は1864年に早速というべきでしょうかイギリスのPO汽船が横浜ロンドン航路を解説します。驚くべき事というか大政奉還が1867年ですのでその前に日英旅客船航路が開設されていた訳ですね。PO汽船はロンドン上海航路を有し、これを横浜まで延伸したかたち。

 1865年にはフランスのメサジェロマリティム社がマルセイユ横浜航路を、これもマルセイユインドシナ航路を延伸した形ですが開設しまして、定期航路という意味では不定期に大型客船が入港する現在の横浜港以上に我が国の玄関口としての位置づけを有することに。

 1866年には桟橋拡張が行われまして港湾の耐波構造などが強化されました、しかし江戸時代、日本にはまだ外洋船舶は勿論、近海船舶の量産能力がない大政奉還のその年1867年にアメリカのパシフィックメール社がサンフランシスコ香港航路の経由地に横浜を加える。

 国際航路と共にパシフィックメール社は横浜と神戸に長崎の国内線航路を、秋には横浜と函館航路を開設し、しかし日本には沿岸用小型船をのぞき量産できないことから仕方ない事ですが外国企業が国内線を押さえるというかたちでの航路となってしまったわけですね。

 岩崎弥太郎の三菱商船は、この状況下で多数の商船の購入と国産技術の開発に尽力し、この状況は1876年に漸く解消されました。鉄道整備はまだ先の話、最速は船舶、日本の国内航路だけは日本の企業が対応させたい、外貨流出防止と殖産産業の視点からも重要です。

 明治政府は、国際交易の増大に対応するべく横浜港の拡張を大車輪で進めたいところでしたが、しかし、江戸時代より続く経済停滞、その上で戊辰戦争という内戦を戦った後での武器購入費が重くのしかかり、思うような港湾開発、のちの殖産興業も着手できていない。

 最初の大博打に打って出るその元手も捻出できない有様でして苦悩していました。外国の侵略に備える明治維新だったのですから港よりも横須賀軍港が、しかしそもそも軍艦を買うには工業が必要だ、稼ぐ必要が、と。近代日本生みの苦しみの舞台だったわけですね。

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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【9】四日市港名古屋港(2010-08-21)

2018-02-04 20:10:41 | 海上自衛隊 催事
■伊勢湾展示訓練2010完了!
 伊勢湾展示訓練詳報、横須賀地方隊の艦隊展示訓練日曜特集は第九回の今回が最終回です、2010年の展示訓練、2018年の今日には懐かしい艦艇も実に多い。

 伊勢湾展示訓練2010、実は相方が一人寝坊しまして、当方は近鉄霞ヶ浦駅で待つことと相成りました。伊勢湾展示訓練2010なのに霞ヶ浦駅に行くとは、茨城県と三重県で間違え過ぎだろう、と思われるかもしれませんが霞ヶ浦駅は実は三重県四日市市八田にあります。

 近鉄特急を撮影しつつ待ちまして、その間、近鉄特急に近鉄修学旅行列車に近鉄団体列車が続々と通過し、当然どんどこ撮影を続けた訳ですが、駅長さんと雑談で昔の制服や、社員向けの初代ビスタカーの記念品等を見せて貰い、いやはや楽しいひと時を過ごせました。

 展示訓練に寝坊する事は聞いたことが無い、とは前回に紹介しました内容ですが、いたのですね。他の機会ですが、神戸への護衛艦入港に際し残念無念と新幹線遅れにて入港が間に合わなかった、という話もありまして、成程、世の中想うようにはいかぬものだ、とも。

 件の友人、高速道路を制限速度で爆走中との事で、当初案では霞ヶ浦駅にて合流し車両にて四日市港へ、という公算でしたが、桟橋は歩いたほうが早い、とは駅長殿のご指南、近鉄駅長の言葉は過去の経験上重く、然らば現地合流と一報電話で打ち乗艦しましたしだい。

 成程、現地合流にて乗艦前に合流叶い、その上で艦上の人となりまして、更にその後は撮影位置を多用途支援艦えんしゅうファンネル付近に定めましたところまでは前回紹介しました通り。この日は快晴で名古屋名物の猛暑が酷暑となり早、幾日というところでした。

 灼熱太陽も搭載艇の陰には動く船体が涼風を、いや伊勢湾湾上は充分暑かったので熱風、いや、微熱風かな、という様相ではありましたが風は汗を気化熱に代えて分散し、過ごしやすいまま伊勢湾を進みました。名古屋港には展示訓練参加主力部隊が合流へ向かうころ。

 ステルス艦全盛の21世紀ですが、先頃アメリカ海軍に竣工した最新鋭駆逐艦ズムウォルト等は、ステルスを重視しすぎて艦船模型というよりは粘土細工でも再現できそうなほど無機質でした。そしてステルス性とは艦上の突起物を排する事でレーダー反射を局限する。

 ステルス性を重視した艦艇は、同時に日よけになる構造物が無い事を示します。勿論水上戦闘艦には不要な概念であることは確かなのですが、はつゆき型護衛艦の飛行甲板下舷側通路や、あさぎり型護衛艦舷側通路等は、日よけにも雨宿りにも理想的だったなあ、とも。

 むらさめ型護衛艦が竣工した時代を思い返せば、未来的な艦容を海事専門誌“世界の艦船”表紙で感激した事を思い出しますが、いざ自分がその艦上で専門誌に出せる程の写真を撮影する立場になりますと、暑いし熱いなあ、と怠惰な感情が艦上では勝ってしまいます。

 ロシア海軍将来原子力駆逐艦リデル級の構想模型等を見ますと、ステルス性全盛ながら起伏を配し水上戦闘艦の十分実用性とステルス性を両立していまして、ズムウォルト級のようにステルス第一でその他第二、と思えるような形状ばかりではないと若干安心しつつ。

 海上自衛隊横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010、四日市港を出港しますと、望遠レンズにて水平線上をくまなく探します。物凄く暑いのですから海面上にも陽炎が発しているので閉口するものですが、しかし、同じ湾内には護衛艦等艦艇が多数いまして、是非撮影したい。

 展示訓練は朝一番に乗艦受付が始り朝に出港、観閲式と展示訓練が正午過ぎまで行われ帰港は夕方となります。つまり移動時間が相応にあるのですが、この移動時間に寝てばかりいるというものはやはり勿体ない、乗艦時に毛布が配られるので横になりたくはなる、が。

 観閲式が開始されますと、高嶋地方総監の訓示が無線を通じて流され、各艦艇の紹介がスピーカーから流されるのですが、観閲式へ向かう途中に見える艦艇、何より陣形を組むために追い越し追い越される様子というものも、普段に陸上からは絶対見えない艦艇の輝き。

 高嶋博視海将は横須賀地方総監として、この伊勢湾展示訓練2010の少し前に着任したばかり。第40代横須賀地方総監として東日本と東海地方を防衛警備管区として重責を担い、東京湾と伊勢湾という世界有数の港湾とその周辺海域の海上防衛へ当たる事となりました。

 高嶋総監は護衛艦隊司令官や統合幕僚副長という要職を経て地方総監となりましたが、この伊勢湾展示訓練の翌年、2011年3月11日に発生した東日本大震災にて、東日本大震災統合任務部隊海災部隊指揮官として災害派遣へ海上部隊全ての総指揮を執る事となります。

 展示訓練の時間は非常に長いのですが、この中で比重が最も大きなものは移動時間となっています。そして、移動時間に洋上を見てみますと、成程中々発見するものが多いのです。この中で注意しなければならないのが舷外に荷物や自分が落下しないようすることですが。

 万一に備え落下防止ネットが索に重ねられ用心されているのですけれども、やはりカメラバックなどは落ちないよう脱落防止の紐を取り付け用心を重ねます。帽子等も飛ばされないよう。2009年の観艦式では艦橋に帽子が飛んできたこともありました。何処からか、ね。

 観艦式で艦橋に飛んできた帽子、乗員の人が持ち主を探すも見つからず、帽子は第12ヘリコプター隊の識別帽でした。何処の部隊か話題となっていたので陸上自衛隊の相馬原駐屯地、と会話に参加すると、あんな内陸から飛んでこないだろうし前の護衛艦からかな、と。

 水分補給は重ねて注意したいところです。熱中症で倒れては周りにも迷惑を掛けますから。持ち込んだのは1リットルミネラルウォーター、少々のスポーツ飲料、1リットルペットボトルならばカメラバックのサイドポケットに収まるので二本用意しましてしっかり飲む。

 展示訓練の内容は此処までの写真紹介と共に多数を紹介しましたが、重ねて留意したいのはどのタイミングで艦内を散策するか、多用途支援艦は5隻ありますのでヘリコプター搭載護衛艦よりも数は多いのですが、一般公開で艦内を見るとなると機会はそれ程多くない。

 帰港するまでが展示訓練、という部分にも留意が必要でしょうか。夕暮れ時で一日目いっぱい艦艇の洋上での生き生きとした姿を撮影したのですから、周りの方々の多くは毛布に包まり難民船状態といいますか、寝静まった状態ではあるのですが、入港風景を撮ります。

 出航と入港で接岸場所は同じなのですが、当然同じ順番に接岸するためには出港に見られなかった風景が入港では見られる訳です。寝るならば帰路に近鉄電車とJR新快速でもしっかり寝られますので、目の前に広がる艦隊の入港風景、やはり余すところなく撮影したい。

 接岸しても慌てず、ゆっくりと上陸したいところです。皆さん早めに上陸したいところですが、当方には撮影した後、上陸ビールという、大阪湾展示訓練にてお教えいただいた作法を守らねばなりません、体験航海でもやはり上陸ビールと、作法は守りたいところです。

 名古屋港へ急行し展示訓練参加艦艇を重ねて撮影しよう、という御誘いがありましたので、上陸し名古屋港へ展開した後、ガーデン埠頭最寄のBARかビヤホールか何処かでビール、肴は名古屋名物を何か、そういう算段を採りつつ、霞ヶ浦駅へと向かいました次第です。

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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【8】US-1と艦隊機動(2010-08-21)

2018-01-14 20:09:19 | 海上自衛隊 催事
■伊勢湾展示訓練艦隊行動
 US-1A救難飛行艇、最後の一機が2017年に除籍されUS-2へ大任を譲りました、この飛行展示の後に背湾展示訓練は展示訓練この日最後の艦隊行動展示へと進みます。

 伊勢湾展示訓練、横須賀地方隊が実施する海上自衛隊展示訓練です。近年は海上防衛への関心の高まり、それ以上に一般でも応募し当選すれば艦隊を撮影する事が出来るという情報のインターネットでの流通により非常に多くの方々の関心を集めることとなりました。

 横須賀地方隊の伊勢湾展示訓練という事で横須賀地方隊の歴史を振り返る内容を中心に写真特集を掲載してきましたが、展示訓練という夏に執り行われます洋上で展開される我が国海上防衛力を見学にて、どのように眺めるかについて、ちょっと振り返ってみましょう。

 今回お世話になったのは、多用途支援艦えんしゅう、ひうち型多用途支援艦です。観艦式程ではないものの展示訓練となりますと、どうしても艦隊行動をしっかりと撮影したいものですが、その為には撮影位置というものが重要です、まず洋上に出る事が先決ですが。

 艦隊の先頭を往く先導艦に乗艦できれば、これに勝るものはありませんが、そもそも乗艦する艦艇は応募の時点で選ぶことはできません。希望艦艇等を聞いてくれればよいのですが、艦隊行動の観点から防衛上、長期的に示す事が出来ない部分もあるのかもしれません。

 艦名を視て、恐らく観閲部隊の後方だな、とか、受閲部隊の先頭に違いない、とか一喜一憂するのも、この展示訓練の一つの姿なのかもしれませんが、まずは乗艦する際に寝坊して遅れないことが肝要です。出港順は各艦に違いがありますので、早い艦もあるのです。

 整備旗、といいまして艦艇の出港準備完了と共に掲げられる旗があります。展示訓練等では流石は海上自衛隊の模範と実力を見せる為に、出航準備が完了しない艦艇というものあありませんが、遅刻すると乗せてもらえません。時間にゆとりを持つ事が大事ですよね。

 自衛隊、余り団体行動で時間を守れない人を揶揄する言葉に、整備旗、という呼び方がありまして、即ち、その人が集合地点に居るのならば他の人は全員そろっているだろう、という事で、おう整備旗も来ているな、という言葉もある模様、成程気をつけねばならない。

 しかし、展示訓練、興奮してと言いますか、乗艦する場合は何故か目が覚めているものでして、遅刻する、という話はあまり聞かないのですよね。もっとも、日曜日と云いますと、日朝キッズアニメの影響で元々早起きする、という人もここ数年は多いようですけれども。

 乗艦に際して、いや、先んじてお弁当はどうするか悩むところです。お弁当はかつて当方、観艦式に焼き肉弁当を準備し、横須賀地方隊の方に、これ、艦上まで持っていくのですか、と笑われた事もありますが、確かに考えるとコンビニ系弁当箱は食べた後の処理が面倒ではある。

 駅弁で、名古屋名物とり飯、日本SF界の巨匠である小松左京氏が小説“首都消失”の冒頭で駅弁として主人公に絶賛させていた駅弁でもあれば、あれはコンパクトであるものの中味がしっかりと入っているだけに満足感が大きいのですが、名古屋駅でしか売っていない。

 とり飯、薄く切った名古屋コーチンの味付け鶏肉が、山菜五目御飯の上に数枚まぶせられており、沢庵の漬物と共に厚紙ごと木籠細工の弁当箱に収まる。“首都消失”では主人公が新幹線名古屋駅にて東京への帰路購入し、道中三河安城付近から謎の濃霧に襲われます。

 横濱しうまい弁当、とも名古屋とり飯は重なるものがありまして、首都圏で当方の一押しは横濱しうまい弁当なのですが、多くの弁当が華美と荘厳さに併せて価格高騰に突き進む中、弁当の素朴さと手軽な価格帯を維持しているという意味で別格の駅弁といえましょう。

 閑話休題。艦上に上がりましたらば、やはり撮影位置というものは大きな関心事です。なにしろ、陸上自衛隊駐屯地祭や航空自衛隊航空祭は年がら年中日本のどこかで行われているものですが、海上自衛隊の展示訓練となると全国で各地方隊が一回だけ、貴重そのもの。

 撮影位置で慌てて右舷左舷を間違え、何も来ない側に陣取っては折角血税で動く護衛艦や支援艦艇に広報というご厚意に頼る身の上、乗せて貰うからにはしっかりと海上防衛力の現状を把握し、2010年の写真を2017年に掲載するにしてもしっかり報じる義務も生じる。

 気概はそんなもので、撮影位置を選ぶのですが、なにしろ撮影位置というものは状況次第でどんどん変わってきます。しかし人口密度はそれなりにあるのですからそう簡単に観閲行進は正面から見たうえで訓練展示は戦車の前へ、陣地変換、という訳にもいきません。

 一方、当方が撮影位置を陣地変換せずとも艦は動いているのですから陸の上で戦車や戦闘機を撮影するとは訳が違うのです。ここだな、と撮影位置を決めましても艦隊行動によっては、いや、此処だと見えるものも見えなくなるのか、という状況、多々生じかねない。

 展示訓練案内パンフレットというものはこうした状況でかなり重要です。観閲部隊なのか受閲部隊なのかで、観てもらう艦隊なのか観る艦隊なのかが違ってきますし、艦隊が単縦陣、つまり艦が全部一列に航行する際に前の方を行くのか後ろを進むのかでも違ってくる。

 単縦陣で艦隊が航行する際に、乗艦する艦が先頭の先導艦ならば間違いなく撮影適地は後部甲板、後続する艦艇が単縦陣で進む様子を先導艦から撮影すれば、艦隊が一列に進む様子をしっかり撮影する事が出来ます。艦隊行動は単艦の体験航海ではやはり見られません。

 単縦陣は外国の留学生で徴兵にて海軍の取られた連中の話を聞くとかなり難しいらしい、それも一隻二隻、一隻では陣形は取れませんが、少数ではなく十隻単位で、しかも艦型が違い、護衛艦から掃海艇まで単縦陣を組むというのは、もう練度が相当の必要とのこと。

 艦隊行動は、一見行進の技量を誇るだけの陸軍の様相で時代錯誤と誤解しがちですが、船団護衛やミサイル戦闘では死活的に重要で、洋上補給等の基礎にもつながる部分です。これが出来ないと、外国艦艇の某国艦の如く日本の国際観艦式へ向かう途上座礁しかねない。

 撮影位置で単縦陣の後方にいる場合は、前甲板か艦橋付近が撮影適地です。艦橋は操艦の邪魔にならないよう一部立ち入りが制限されていますが、艦長航海長等と機関長や飛行長に砲術長とのテレトーク会話等きびきびとした行動が雰囲気として体験できる航海となる。

 単縦陣後方にいる場合の撮影場所ですが、もう一つ、上部構造物付近で搭載艇等日影となる位置も撮影適地となります。この位置ですと、観閲部隊であっても受閲部隊であっても、先を往く艦艇と、対向するもう一方の単縦陣を一枚に収める事が出来、すると迫力が凄い。

 伊勢湾展示訓練2010ですが、当方は多用途支援艦えんしゅう艦上にて、上部構造物の搭載艇とファンネル付近、煙突と書くべきか、この位置にて撮影する事としました。右舷と左舷を往復しやすい位置にありまして、搭載艇が真夏の伊勢湾の直射日光を防いでくれます。

 横須賀地方隊の展示訓練のみならず、真夏に行われる展示訓練は灼熱の太陽との戦いです。雨天の場合は中止もあり得るので、雨天との戦いでもあるのですが、直射日光を多少避けられて、しかし見晴らしの良い場所を確保する選定も、撮影の一つの技巧といえましょう。

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