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紀伊沖トルコ海軍艦沈没追悼行事(日本トルコ友好120周年)へ護衛艦せとゆき派遣

2010-05-31 22:50:08 | 海上自衛隊 催事

◆ひえい、こんごう派遣が理想

 呉地方総監部によれば、海上自衛隊は来る6月3日に和歌山県串本町で執り行われますエルトゥールル号追悼行事へ護衛艦せとゆき、音楽隊の派遣を決定したとのことです。

Img_7424_1  日本とトルコ、アジアの東端と西端の両国の関係は非常に古くまでさかのぼることが出来ます。その始まりとなったのは1890年のトルコ海軍艦エルトゥールル号遭難事件を挙げる事が出来るでしょう。イスラム諸国の盟主という地位を担っていたオスマントルコは、帝国主義時代、欧米列強への国威発揚を目的として艦艇の遠洋航海を計画、当時日本からの皇族のトルコ訪問を控え友好関係を模索していた日本へオスマンパシャ提督指揮下のフリゲイトエルトゥールル号を日本に派遣しました。提督以下横浜へ入港するとともに明治天皇に拝謁、日本でも同じアジアの艦艇来航を大歓迎して答えました。

Img_6824  エルトゥールル号は、見事日本トルコ友好関係の第一歩を記したのですが、滞在三ヶ月後9月15日に横浜を出航、翌16日、帰国途上不運にも台風に遭遇、和歌山県串本沖で座礁、沈没という不運に遭います。乗員656名のうち、69名を残し提督以下多数が沈没したエルトゥールル号と運命を共にしたのですが、当時、串本の寒村では少ない備蓄食料を全て生存者に供して村民は生き残ったトルコ海軍の乗員69名を手厚く保護しました。トルコ海軍艦の沈没はトルコ国内のみならず日本でも大きな事件として扱われ、当時に串本村民の献身的な救助活動には称賛が集まりました。

Img_9922  巡洋艦比叡、金剛のトルコへの親善訪問が予定されていた事もあり、明治天皇はエルトゥールル号生存者を巡洋艦比叡、金剛に乗艦させ、トルコのイスタンブールへ帰国させました。当時日本海軍もトルコへの艦隊派遣は初めての試みであり、日本海軍の航海技術と日本国民の高い倫理観が称賛されるとともに、この生存者帰国について、同時に日本国内でもエルトゥールル号の生存者や遺族への弔慰金が広く集められ、トルコへ送り届けられました。このことがトルコ国民への日本への好印象へとつながり、今日の日本・トルコの友好関係へと繋がっていった訳です。

Img_7657  串本町はこの時から友好の地としてトルコ国民に広く記憶される事となり、五年ごとにトルコ領事館員とともに追悼記行事を執り行い、追悼碑や友好記念館などが立てられているとのことです。エルトゥールル号遭難から今年は120周年にあたるということで、来月3日にその追悼式が串本町にて行われるのですが、海上自衛隊からは護衛艦せとゆき(満載排水量4200㌧)が呉基地から派遣される、とのことです。また、儀じょう隊、音楽隊が呉基地から派遣され、追悼記念行事に参加するとのことが報道発表されています。

Img_7700  この式典なのですが、こんごう、ひえい、どちらか参加させることは出来なかったのかな、と思いました。巡洋艦比叡、金剛は、太平洋戦争にて高速戦艦として空母直衛をはじめ多くの海戦に活躍した金剛型戦艦の先代にあたる二隻ですが、偶然にして海上自衛隊には三代目こんごう、ひえい、がそれぞれ呉基地、佐世保基地にて任務に当たっている訳です。写真は護衛艦ひえい。はるな型の二番艦で、今年度を以て護衛艦いせ、に任を譲り除籍されますが、まだ現役ですので、日本トルコ友好となった艦の名を継ぐ一隻として行事に参加してくれれば、と思いました次第。

Img_6906  こんごう、はイージス艦として任務に当たっています。海上自衛隊の護衛艦部隊は任務が増大していて、一方で護衛艦が削減されているのですから、ローテーションの厳しさはもちろん分かるのですけれども、何とかならなかったのか、と。練習艦隊の近海練習航海に護衛艦ひえい、が参加していましたのでそのまま遠洋航海でトルコ訪問があるのでは、とおもったのですがありませんでしたし。日本ではあまり知る人がいないというエルトゥールル号ですが、トルコでは広く知られており、日本への親近感にも繋がっているとのこと。こうした友好関係は得難いもの、大事にするべきでしょう。

HARUNA

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コメント (2)
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