■天龍寺塔頭寺院の初冬紅葉
紅葉は晩秋を越え初冬に最後の輝きを魅せる、儚くではなく渾身の美麗、そうした心象を感じますね。
宝厳院、京都嵐山は有名な渡月橋を少し上流へ散策し、紅葉を眺めていますと程なく佇む寺院に至ります。ここは京都五山として崇敬を集める寺院、天龍寺の塔頭寺院であり、寛正年間の1461年に室町幕府管領の細川頼之が聖仲永光上人を招聘し建立した寺院です。
十一面観音を本尊に崇め、脇仏に三十三観世音菩薩と地蔵菩薩が安置されています。獅子吼の庭、として独特の世界観に基づく庭園美が有名となった宝厳院ですが、本年は紅葉夜間特別拝観が行われ、市内に多くの掲示が並びました。しかしこの寺院、歴史が興味深い。
室町時代に宝厳院が開かれた当時はもう少し都の中心に位置しており、細川頼之ものちに四国管領と中国管領を命じられた際にも拝観をしたと伝わる一方、室町時代の戦禍、1467年からの応仁の乱が勃発すると程なく戦火に巻き込まれ、創建当初からの伽藍を全て失う。
豊臣秀吉により、天正年間に応仁の乱を百年を経て御朱印料三十二石の付与を受け再興を迎え、江戸時代にも徳川幕府により幕末に至るまで外護を受ける事となりました。しかし、幕末の動乱は再度全てを打ち壊し、宝厳院は荒廃したまま、天龍寺塔頭として移転します。
渡月橋と大堰川の情景が美しい嵐山の風情ですが、この大堰川整備も天正年間に再建された宝厳院に影響します、即ち、大堰川の護岸工事のために宝厳院の旧寺領はかなりの部分が削られ、天龍寺内へ移転を強いられ、寺領は今や大堰川の水の底となっているのですね。
京都の情景は古くて新しい、とはよく耳にする表現ですが、実はここ宝厳院については間違いのない表現です、幕末に荒廃した宝厳院はそのまま田畑に転じられ明治時代に鋤き耕され、大正時代に入り日本郵船重役林民雄が別荘地として買い上げ漸く建物が建ちました。
妙智院庭園として江戸期に都林泉名勝図会に順ぜられた名庭園が、別荘地となってからも維持されてり、獅子吼の庭、現在はこう呼ばれる、宝厳院庭園は策彦周良による借景回遊式庭園で、獅子岩や岩と松の木が合わさる破岩の松が常緑の美を伝えると共に紅葉も輝く。
中山別荘として昭和時代に庭園が再整備され、書院として大正時代の別荘建築が維持されています。この書院は2002年に宝厳院が再建される事となる際に仮本堂を担っていました。本堂再建後に当初取り壊しが考えられましたが大正期の文化財、見送られ今に至ります。
本堂再建は2008年、再建から十年を経ていません。無畏庵や青嶂軒と多くの建物が大正時代に建てられ、今日では宝厳院の情景となっています。しかし、その本堂が建て替えではなく再建、新世紀に入ってからの建物である、というものは、ある種驚きといえましょう。
嵐山の風景と共に宝厳院の紅葉と晩秋初冬の陽光を見上げると、どこか懐かしい風情を感じる、とは東京の友人がふと口にした感慨ですが、当方もそう思います、こういうのも、宝厳院は数多時代劇に登場する舞台であり、BSデジタル放送により日々描かれているゆえ。
水戸黄門、暴れん坊将軍、鬼平犯科帳、必殺仕事人、剣客商売、長七郎江戸日記、大岡越前、三匹が斬る、半七捕物帳、銭形平次、御家人斬九郎、八丁堀の七人、伝七捕物帳、宝厳院が時代劇にて描かれている情景は名作の数ほど多く、知らぬ内に劇中で拝観している。
東映、大映の撮影所が程近い当地では、京壬生中将邸に京都公家屋敷として描かれていることは勿論、尾張城下邸宅や加賀藩藩士邸宅、大聖寺藩城下愚公庵や玄海藩城下豪商邸宅と鳥取城下国家老別邸、鎌倉の茶屋や米沢城下町に八戸城下町と様々な役割を演じ、この為にどこかで視たような懐かしい風景を醸し出しています。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
紅葉は晩秋を越え初冬に最後の輝きを魅せる、儚くではなく渾身の美麗、そうした心象を感じますね。
宝厳院、京都嵐山は有名な渡月橋を少し上流へ散策し、紅葉を眺めていますと程なく佇む寺院に至ります。ここは京都五山として崇敬を集める寺院、天龍寺の塔頭寺院であり、寛正年間の1461年に室町幕府管領の細川頼之が聖仲永光上人を招聘し建立した寺院です。
十一面観音を本尊に崇め、脇仏に三十三観世音菩薩と地蔵菩薩が安置されています。獅子吼の庭、として独特の世界観に基づく庭園美が有名となった宝厳院ですが、本年は紅葉夜間特別拝観が行われ、市内に多くの掲示が並びました。しかしこの寺院、歴史が興味深い。
室町時代に宝厳院が開かれた当時はもう少し都の中心に位置しており、細川頼之ものちに四国管領と中国管領を命じられた際にも拝観をしたと伝わる一方、室町時代の戦禍、1467年からの応仁の乱が勃発すると程なく戦火に巻き込まれ、創建当初からの伽藍を全て失う。
豊臣秀吉により、天正年間に応仁の乱を百年を経て御朱印料三十二石の付与を受け再興を迎え、江戸時代にも徳川幕府により幕末に至るまで外護を受ける事となりました。しかし、幕末の動乱は再度全てを打ち壊し、宝厳院は荒廃したまま、天龍寺塔頭として移転します。
渡月橋と大堰川の情景が美しい嵐山の風情ですが、この大堰川整備も天正年間に再建された宝厳院に影響します、即ち、大堰川の護岸工事のために宝厳院の旧寺領はかなりの部分が削られ、天龍寺内へ移転を強いられ、寺領は今や大堰川の水の底となっているのですね。
京都の情景は古くて新しい、とはよく耳にする表現ですが、実はここ宝厳院については間違いのない表現です、幕末に荒廃した宝厳院はそのまま田畑に転じられ明治時代に鋤き耕され、大正時代に入り日本郵船重役林民雄が別荘地として買い上げ漸く建物が建ちました。
妙智院庭園として江戸期に都林泉名勝図会に順ぜられた名庭園が、別荘地となってからも維持されてり、獅子吼の庭、現在はこう呼ばれる、宝厳院庭園は策彦周良による借景回遊式庭園で、獅子岩や岩と松の木が合わさる破岩の松が常緑の美を伝えると共に紅葉も輝く。
中山別荘として昭和時代に庭園が再整備され、書院として大正時代の別荘建築が維持されています。この書院は2002年に宝厳院が再建される事となる際に仮本堂を担っていました。本堂再建後に当初取り壊しが考えられましたが大正期の文化財、見送られ今に至ります。
本堂再建は2008年、再建から十年を経ていません。無畏庵や青嶂軒と多くの建物が大正時代に建てられ、今日では宝厳院の情景となっています。しかし、その本堂が建て替えではなく再建、新世紀に入ってからの建物である、というものは、ある種驚きといえましょう。
嵐山の風景と共に宝厳院の紅葉と晩秋初冬の陽光を見上げると、どこか懐かしい風情を感じる、とは東京の友人がふと口にした感慨ですが、当方もそう思います、こういうのも、宝厳院は数多時代劇に登場する舞台であり、BSデジタル放送により日々描かれているゆえ。
水戸黄門、暴れん坊将軍、鬼平犯科帳、必殺仕事人、剣客商売、長七郎江戸日記、大岡越前、三匹が斬る、半七捕物帳、銭形平次、御家人斬九郎、八丁堀の七人、伝七捕物帳、宝厳院が時代劇にて描かれている情景は名作の数ほど多く、知らぬ内に劇中で拝観している。
東映、大映の撮影所が程近い当地では、京壬生中将邸に京都公家屋敷として描かれていることは勿論、尾張城下邸宅や加賀藩藩士邸宅、大聖寺藩城下愚公庵や玄海藩城下豪商邸宅と鳥取城下国家老別邸、鎌倉の茶屋や米沢城下町に八戸城下町と様々な役割を演じ、この為にどこかで視たような懐かしい風景を醸し出しています。
北大路機関:はるな くらま
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