北大路機関

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【京都幕間旅情】平野神社,平成最後の満開桜花迎える上七社一社で台風倒壊の拝殿復興へ誓い

2019-04-24 20:01:12 | 写真
■観桜発祥の地,平野神社
 梅花名所北野天満宮、その隣には観桜発祥の地である平野神社の社殿が西大路通沿いに広がります。

 平野神社、京都で桜名所はと問われれば筆頭に挙げる神社の一つです、京都には観桜の名所が多々あり御所の桜も二条城の桜も東山の桜も嵐山の桜も素晴らしい、しかし筆頭に此処を挙げる、何故ならば桜の花見とは桜が神紋の此処平野神社から始まったのですから。

 桜の神紋、武家政権の時代と共に貴族政治の時代には花見の代名詞は梅花の見物が風情とされていました。そして驚く事にこの平野神社創建の当時は桜並木は無く、実は桜とは山里に佇む山桜、人知れず咲く桜花の観桜が、平安朝での観桜様式であったようなのですね。

 桜花溢れる花見は大陸起源、とは隣国はじめ起源主張趣味の諸国が日本文化へ主張するものですが、山桜は日本の原種であり、人知れず咲く桜花を武者修行の最中に愛でる武者の心の休が、花見を梅花から桜花へ移ろい、そしていつか並木が植えられるようになった。

 二十二社は上七社の一社である平野神社は古来、天変地異等の騒擾に際し朝廷から直視を以て鎮撫の祈祷を行う神社の一つです。現在は神社本庁の別表神社の一つに列せられていまして、また神仏霊場巡拝之道94番且つ京都14番札所としても位置付けられています。

 源頼朝の武家政権の時代に入りますと、清和源氏足利氏始め桜を家紋に取り入れる勢力の台頭と共に公家との区分から花見に観桜を嗜む流れが広がり、ここ平野神社の神紋が花見と観桜という二つの異なる理念が合流し、平安朝後期に平野の観桜を定着させました。

 観桜の名所である平野神社、ここは桜並木だけではなく桜苑が境内に広がり、喧騒を隔てた観桜を愉しむ事が出来ます。桜苑は花山天皇が寛和年間の985年に植樹した千年以上の歴史を湛える由緒がある。古木というよりも、この地が観桜の始まりといえる場所という。

 魁桜、本殿に至る東神門に隣接し花枝を広げ、四殿二棟第一第二殿連結第三第四殿連結構造の平野神社独特の本殿へと至ります。しかし、昨年の今頃までは、いや夏を過ぎるまでは東神門から本殿に至る境内に拝殿が江戸時代建築の美しい情景を醸し出していました。

 台風21号災害、平野神社の平成最後の観桜は同時に昨年西日本を襲った相次ぐ豪雨災害と台風被害から復興の決意を固めるものといえるかもしれません。平成30年の京阪神は、大阪府北部地震を合せ、猛暑酷暑と共にほぼすべての災害が襲うという、試練の一年でした。

 拝殿倒壊、台風21号では大阪市を中心に強風暴風が甚大な被害を及ぼしましたが、此処平野神社も例外ではなく17世紀の造営以来連綿と受け継がれてきました拝殿が強風被害により完全に倒壊してしまうという災厄に見舞われています。今は取解き式が終わったばかり。

 接木の拝殿とも親しまれる倒壊した拝殿は慶安年間1650年に東福門院徳川和子により寄進された京都府指定文化財です。今年は取解き式を終えた拝殿が復興に向け端緒に就いたばかり、寄進を募る提灯が並ぶ様子は平成最後の年に訪れた試練の一年を恰も物語るよう。

 平野神社、観桜へ桜苑は有料となっていますが静謐が保たれています、そして出店が本格的な居酒屋の雰囲気を醸成する桜並木、所謂どんちゃんさわぎ系花見もその出店にて愉しむ事が出来ます。無粋な、と思われるかもしれませんが、花見は進化している訳ですね。

 平野神社、残念ながら今年の観桜は終盤です。平成最後の観桜の次は令和年間の観桜が始ります。平野神社へは京都駅から市バス205系統、若しくは山陰線円町駅から北へ西大路通りを北上し、北野白梅町を少し北へ歩みを進めれば、桜花に代え青葉が迎えてくれます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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