■金華山に極彩色の信長岐阜城
岐阜と云えば川重と岐阜基地、そして岐阜基地が見上げるのが織田信長天下布武の宣言の地である岐阜城です。
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岐阜城。岐阜県岐阜市の城郭は隣県愛知県や滋賀県と三重県より望見出来る山頂の城郭で、織田信長の斎藤龍興との戦いを経て攻略した当地の稲葉山城縄張りを破却し新たに造営した城郭で独立式望楼型三重四階の天守はRC構造の復興天守で1956年再建されたもの。
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信長の城郭、織田信長が岐阜城を居城とした歴史はその後の安土城造営により安土入城となった為に永くはありませんが、城址として居館跡地の発掘と歴史公園としての整備が進むために山頂の復興天守閣を見上げつつ山麓にも四季折々の美しい情景が広がっています。
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金華山の山頂に白い復興天守が威容を示す情景は、この近くに小山の頂上を城郭とした犬山城や小牧城も在りますが標高が高く一際遠望に存在を示します。岐阜基地航空祭でもその存在は大きい。また伊吹山へ登山しました友人曰くその滋賀側からも望見できたという。
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井口。岐阜県岐阜市のこの地は織田信長平定前には井口という地名であり、この岐阜城の頂きも稲葉山の稲葉山城となっていました。この地に城郭が造営されたのはしかし遥かに古く二階堂行政鎌倉幕府源氏家令により砦が築かれた建仁元年の西暦1201年まで遡ります。
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稲葉山城、室町時代の美濃守護代斎藤利永は文安年間1445年に砦を城郭へ拡張します。最初の砦は二階堂家を継いだ二階堂行藤の頃に既に遠見台となっていましたが室町時代に幕府内政の不安定化が全国へ及びますと斎藤利永は眺望豊かな山頂へ城郭を造営した構図だ。
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斎藤道三の治世下、天文年間の1533年に入城すると共にその城郭の強化を進めます、まだ道三が長井新九郎規秀と呼ばれた頃で堅固な山城は天文年間1547年に織田信秀により攻撃を受けますが逆襲され惨敗する加納口の戦い等があり、山頂城郭は当時有効だったのです。
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金華山山頂、実は登山道がありそれ程時間を掛けずと上る事が出来ますしロープウェーによりいち早く登山も出来るのですが、山頂を目指さずとも紅葉の季節には意外と美しい情景が広がります。2018年には山頂部分での発掘も進み歴史の紐解きははじまったばかり。
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織田信長が本能寺の変で没すると、しかし美濃の地は緊要地形となっており、遠方を眺める城郭は維持、一時は池田輝政の居城となった時代もあり、また慶長5年西暦1600年には福島正則により落城し、これが天下分け目の合戦となりました関ヶ原の戦いへ直結します。
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徳川家康の治世下に成りますと、岐阜城は廃城とされ城郭は岐阜駅前の加納城と大垣駅前の大垣城に移築され歴史から姿を消します。しかし石垣の土台は残り明治時代の1910年、模造天守が造営されます。これは戦時中の1943年に防空疎開にて取り壊されるのですが。
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戦後の1956年に現在の復興天守が造営、戦時中は岐阜空襲や大垣空襲、岐阜基地周辺の航空産業を狙う各務原空襲により荒廃した岐阜ですが親しみ込めて岐阜城は歓迎され、1975年には山頂に城郭櫓様式の隅櫓岐阜城資料館が建設され、また史跡として再注目されます。
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信長居館跡発掘、稲葉山を金華山と名を改めた織田信長は山麓に広大な居館を造営していまして、廃城から江戸明治大正を跨いだ時代を経ていますが1984年より発掘が本格化、近世城郭遺構が多数見つかり2011年に岐阜城跡として国の史跡に指定される事となりました。
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紅葉に溢れる岐阜城址は今まさに次の発掘が進む最中でして、居館には金箔模様の痕跡が瓦などから確認されると共に土塁や櫓の遺構も新たに発見されるものがあり、実のところ一部が立ち入る事が出来ないのは残念でしたが、その風情と歴史を愉しむ事が出来ました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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岐阜と云えば川重と岐阜基地、そして岐阜基地が見上げるのが織田信長天下布武の宣言の地である岐阜城です。
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岐阜城。岐阜県岐阜市の城郭は隣県愛知県や滋賀県と三重県より望見出来る山頂の城郭で、織田信長の斎藤龍興との戦いを経て攻略した当地の稲葉山城縄張りを破却し新たに造営した城郭で独立式望楼型三重四階の天守はRC構造の復興天守で1956年再建されたもの。
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信長の城郭、織田信長が岐阜城を居城とした歴史はその後の安土城造営により安土入城となった為に永くはありませんが、城址として居館跡地の発掘と歴史公園としての整備が進むために山頂の復興天守閣を見上げつつ山麓にも四季折々の美しい情景が広がっています。
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金華山の山頂に白い復興天守が威容を示す情景は、この近くに小山の頂上を城郭とした犬山城や小牧城も在りますが標高が高く一際遠望に存在を示します。岐阜基地航空祭でもその存在は大きい。また伊吹山へ登山しました友人曰くその滋賀側からも望見できたという。
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井口。岐阜県岐阜市のこの地は織田信長平定前には井口という地名であり、この岐阜城の頂きも稲葉山の稲葉山城となっていました。この地に城郭が造営されたのはしかし遥かに古く二階堂行政鎌倉幕府源氏家令により砦が築かれた建仁元年の西暦1201年まで遡ります。
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稲葉山城、室町時代の美濃守護代斎藤利永は文安年間1445年に砦を城郭へ拡張します。最初の砦は二階堂家を継いだ二階堂行藤の頃に既に遠見台となっていましたが室町時代に幕府内政の不安定化が全国へ及びますと斎藤利永は眺望豊かな山頂へ城郭を造営した構図だ。
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斎藤道三の治世下、天文年間の1533年に入城すると共にその城郭の強化を進めます、まだ道三が長井新九郎規秀と呼ばれた頃で堅固な山城は天文年間1547年に織田信秀により攻撃を受けますが逆襲され惨敗する加納口の戦い等があり、山頂城郭は当時有効だったのです。
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金華山山頂、実は登山道がありそれ程時間を掛けずと上る事が出来ますしロープウェーによりいち早く登山も出来るのですが、山頂を目指さずとも紅葉の季節には意外と美しい情景が広がります。2018年には山頂部分での発掘も進み歴史の紐解きははじまったばかり。
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織田信長が本能寺の変で没すると、しかし美濃の地は緊要地形となっており、遠方を眺める城郭は維持、一時は池田輝政の居城となった時代もあり、また慶長5年西暦1600年には福島正則により落城し、これが天下分け目の合戦となりました関ヶ原の戦いへ直結します。
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徳川家康の治世下に成りますと、岐阜城は廃城とされ城郭は岐阜駅前の加納城と大垣駅前の大垣城に移築され歴史から姿を消します。しかし石垣の土台は残り明治時代の1910年、模造天守が造営されます。これは戦時中の1943年に防空疎開にて取り壊されるのですが。
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戦後の1956年に現在の復興天守が造営、戦時中は岐阜空襲や大垣空襲、岐阜基地周辺の航空産業を狙う各務原空襲により荒廃した岐阜ですが親しみ込めて岐阜城は歓迎され、1975年には山頂に城郭櫓様式の隅櫓岐阜城資料館が建設され、また史跡として再注目されます。
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信長居館跡発掘、稲葉山を金華山と名を改めた織田信長は山麓に広大な居館を造営していまして、廃城から江戸明治大正を跨いだ時代を経ていますが1984年より発掘が本格化、近世城郭遺構が多数見つかり2011年に岐阜城跡として国の史跡に指定される事となりました。
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紅葉に溢れる岐阜城址は今まさに次の発掘が進む最中でして、居館には金箔模様の痕跡が瓦などから確認されると共に土塁や櫓の遺構も新たに発見されるものがあり、実のところ一部が立ち入る事が出来ないのは残念でしたが、その風情と歴史を愉しむ事が出来ました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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