■本来の平和主義へ
ゴールデンウィークが昨日終了しましたので今年の憲法記念日特集もいよいよ本日で区切りといたしましょう。
武力行使という概念、国際法上では経済制裁など影響力を行使するものを含むが、日本では武力行使という概念は軍事攻撃だけと理解している。いやたとえば、警察官の拳銃使用も警察官職務執行法ではホルスターから取り出した時点で拳銃使用ですが一般には発砲で初めて拳銃使用と考えられている、こういう部分と同じでは、と。
国連憲章二条四項のように憲法九条はかりに大きな防衛政策の変更があった場合でも併存することは可能ですし、どんな防衛政策を進めるのかはまさに民主主義により選挙民が定めている、陰謀論や不正選挙の主張があるがそれならば選挙制度のたとえば投票用紙保管方法の強化などを行えば、国の道を決めるのは主権者なのだから。
看板としての平和主義ですが、こう考えますと無理に捨てる必要はないように思えまして、逆に内容多寡に係わらず世界には平和憲法を改正した、という部分だけが広がり改正の内容までは精査することはないでしょう、日本だって憲法九条は日本国憲法だけ注目されるのであってドイツ基本法九条とか合衆国憲法九条は注目しません。
アイディンティティという視点ではもう一つ、日本国民であれば自衛隊が存在する事を知らない方は恐らく居ないでしょうし憲法九条についても知っていることでしょう、その上で、平和主義という国是を動かしてしまいますと、奈良時代の日本のように、日本とは何者か、なにが正義かという問いに答えられなくなるようにも思うのです。
国家の構造を示すという意味での憲法なのですから、このあたりの視座を、日本は自衛隊こそ保有するけれども平和主義の国家であり、必要な防衛は行うが対外領土獲得などはおこなわず文字通り平和主義を堅持し人類文明が宣そうと軍事力を必要としない高い次元まで進むのを見守っている、と国民の価値観を示すことができるでしょう。
平和趣味ではあってはならない、ということと同時に日本の平和憲法はその制定とともに、戦後復興の必要という、この資材捻出は容易ならざるものがあったのですが、一種の特需のようなものが醸成された時期のものであり、そして期せずしてここが一段落する前に朝鮮戦争が勃発、これは朝鮮特需という好景気を醸成しました。
資本主義国の工場として、日本には朝鮮特需を端緒として高度経済成長期という1973年まで、景気変動の波こそ確かに存在しましたが好景気と経済成長が続いていました、逆に日本は朝鮮特需と高度経済成長が一種の歴史的要素として認識されているのですが、世界を観れば戦後すなわち好景気、という認識はそれほど一般ではない。
冷戦構造とともに欧州ではハンガリー動乱やキューバ危機にベルリンの壁、プラハの春といった激動に対応するべく、北大西洋条約機構の立ち上げとともに膨大な国防費を捻出する必要に見舞われ、高度経済成長のような戦後の平和の配当という恩恵は考えられなかったのですね。しかし日本の場合はここを平和憲法により逆手に。
石油危機とともに日本の高度成長は1973年に終焉を迎えるのですが、これもいまみますと鈍化したとはいえ年間経済成長は5%や8%という数字を維持していましたのでいまの中国経済よりは成長が大きかったわけです、しかし、平和憲法、日本の認識ではアメリカが押しつけた、この非武装平和主義のような主張で軍事費を抑制できていた。
事業評価、という平和憲法がどの程度世界平和のために機能しているかを、日本の平和主義意外の世界からの視点で冷静に分析する必要があるとは前述しました通りですが、同時に、憲法をアメリカから押しつけられた、GHQというべきでしょうか、少なくとも大正デモクラシーの時代まで戻す憲法の松本案はGHQに棄却されている。
日本が決めたわけではないものに従っているのだからここで急な軍事力の出費を強要するのは、という認識がいまでも一部知識人と世論の一部に存在することは理解していますが、しかし、結局日本国憲法は帝国議会での改正手続きを経て制定されたという、なにしろ国家の基本制度を戦勝国が勝手に変えるのはジュネーブ条約違反だ。
帝国議会において改正が決議された憲法である、というのが世界の認識です。これが外圧によるものと反論するのであれば、同じように外圧が当事者の立場では少なくとも感じられた日韓併合も、非合法、ということになりかねません。日韓併合の手続きと日本国憲法への帝国議会決議は、そういう意味で同質なのですから。
憲法を理由として防衛力に制約を加えることは、とにもかくにも国連憲章二条四項のように、すでに周辺国へ領土併合を目的とした軍事攻撃を行わないというものが一種の国際公序となっているのですから、整合性はとれるわけです。するともう一つここで認識しなければならないのは、平和憲法を理由に非合理的な防衛政策は、と。
非合理というのはたとえば武器輸出、これを行わないことで国産装備が費用面でたかどまりしている現状や国際装備共同開発への制約などの現状、防衛費が結果的に非効率となり高くなることを国民は、憲法を平和の結果ではなく手段とすることを黙認することで間接的に容認していることになるのです、そのコスト、容認すべきなのか。
平和趣味ならば、趣味というものはお金がかかるものなのだ、という認識なのかもしれませんが、結果的な平和を求める本来の平和主義に立ち返るならば、平和へ残すと認識というものを、なにしろ民主主義の国なのですから、もう少し防衛産業や世界情勢と軍事技術に関心を持って、観てゆく必要があるようにおもうのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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ゴールデンウィークが昨日終了しましたので今年の憲法記念日特集もいよいよ本日で区切りといたしましょう。
武力行使という概念、国際法上では経済制裁など影響力を行使するものを含むが、日本では武力行使という概念は軍事攻撃だけと理解している。いやたとえば、警察官の拳銃使用も警察官職務執行法ではホルスターから取り出した時点で拳銃使用ですが一般には発砲で初めて拳銃使用と考えられている、こういう部分と同じでは、と。
国連憲章二条四項のように憲法九条はかりに大きな防衛政策の変更があった場合でも併存することは可能ですし、どんな防衛政策を進めるのかはまさに民主主義により選挙民が定めている、陰謀論や不正選挙の主張があるがそれならば選挙制度のたとえば投票用紙保管方法の強化などを行えば、国の道を決めるのは主権者なのだから。
看板としての平和主義ですが、こう考えますと無理に捨てる必要はないように思えまして、逆に内容多寡に係わらず世界には平和憲法を改正した、という部分だけが広がり改正の内容までは精査することはないでしょう、日本だって憲法九条は日本国憲法だけ注目されるのであってドイツ基本法九条とか合衆国憲法九条は注目しません。
アイディンティティという視点ではもう一つ、日本国民であれば自衛隊が存在する事を知らない方は恐らく居ないでしょうし憲法九条についても知っていることでしょう、その上で、平和主義という国是を動かしてしまいますと、奈良時代の日本のように、日本とは何者か、なにが正義かという問いに答えられなくなるようにも思うのです。
国家の構造を示すという意味での憲法なのですから、このあたりの視座を、日本は自衛隊こそ保有するけれども平和主義の国家であり、必要な防衛は行うが対外領土獲得などはおこなわず文字通り平和主義を堅持し人類文明が宣そうと軍事力を必要としない高い次元まで進むのを見守っている、と国民の価値観を示すことができるでしょう。
平和趣味ではあってはならない、ということと同時に日本の平和憲法はその制定とともに、戦後復興の必要という、この資材捻出は容易ならざるものがあったのですが、一種の特需のようなものが醸成された時期のものであり、そして期せずしてここが一段落する前に朝鮮戦争が勃発、これは朝鮮特需という好景気を醸成しました。
資本主義国の工場として、日本には朝鮮特需を端緒として高度経済成長期という1973年まで、景気変動の波こそ確かに存在しましたが好景気と経済成長が続いていました、逆に日本は朝鮮特需と高度経済成長が一種の歴史的要素として認識されているのですが、世界を観れば戦後すなわち好景気、という認識はそれほど一般ではない。
冷戦構造とともに欧州ではハンガリー動乱やキューバ危機にベルリンの壁、プラハの春といった激動に対応するべく、北大西洋条約機構の立ち上げとともに膨大な国防費を捻出する必要に見舞われ、高度経済成長のような戦後の平和の配当という恩恵は考えられなかったのですね。しかし日本の場合はここを平和憲法により逆手に。
石油危機とともに日本の高度成長は1973年に終焉を迎えるのですが、これもいまみますと鈍化したとはいえ年間経済成長は5%や8%という数字を維持していましたのでいまの中国経済よりは成長が大きかったわけです、しかし、平和憲法、日本の認識ではアメリカが押しつけた、この非武装平和主義のような主張で軍事費を抑制できていた。
事業評価、という平和憲法がどの程度世界平和のために機能しているかを、日本の平和主義意外の世界からの視点で冷静に分析する必要があるとは前述しました通りですが、同時に、憲法をアメリカから押しつけられた、GHQというべきでしょうか、少なくとも大正デモクラシーの時代まで戻す憲法の松本案はGHQに棄却されている。
日本が決めたわけではないものに従っているのだからここで急な軍事力の出費を強要するのは、という認識がいまでも一部知識人と世論の一部に存在することは理解していますが、しかし、結局日本国憲法は帝国議会での改正手続きを経て制定されたという、なにしろ国家の基本制度を戦勝国が勝手に変えるのはジュネーブ条約違反だ。
帝国議会において改正が決議された憲法である、というのが世界の認識です。これが外圧によるものと反論するのであれば、同じように外圧が当事者の立場では少なくとも感じられた日韓併合も、非合法、ということになりかねません。日韓併合の手続きと日本国憲法への帝国議会決議は、そういう意味で同質なのですから。
憲法を理由として防衛力に制約を加えることは、とにもかくにも国連憲章二条四項のように、すでに周辺国へ領土併合を目的とした軍事攻撃を行わないというものが一種の国際公序となっているのですから、整合性はとれるわけです。するともう一つここで認識しなければならないのは、平和憲法を理由に非合理的な防衛政策は、と。
非合理というのはたとえば武器輸出、これを行わないことで国産装備が費用面でたかどまりしている現状や国際装備共同開発への制約などの現状、防衛費が結果的に非効率となり高くなることを国民は、憲法を平和の結果ではなく手段とすることを黙認することで間接的に容認していることになるのです、そのコスト、容認すべきなのか。
平和趣味ならば、趣味というものはお金がかかるものなのだ、という認識なのかもしれませんが、結果的な平和を求める本来の平和主義に立ち返るならば、平和へ残すと認識というものを、なにしろ民主主義の国なのですから、もう少し防衛産業や世界情勢と軍事技術に関心を持って、観てゆく必要があるようにおもうのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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