■宇迦之御魂大神への信仰
日本社会で営む人々は先進国で最も神の実在を確信する割合は低いとされるものの神様がいてくれればなあと考える比率は一番たかいそうだ。
宇迦之御魂大神を奉じる伏見稲荷大社、伊奈利と創建当初は崇められました稲荷さんですが、転じて稲成り、となりまして、五穀豊穣を祈る社殿として崇敬を集めました。商売繁盛を御利益としますのは大宮能売大神への信仰が転じたとも考えられているのですが。
大宮能売大神は家内安全といいますか君臣の間を取り持つ神でもあり朝廷などの調和を図る神という位置づけでもあり、江戸時代ごろに、要するに接客の神様だ、といいますか超解釈が成立ちまして商売繁盛のご利益があるに違いないのだろうなあ、となったわけです。
佐田彦大神と田中大神と四大神、五柱の総称としまして稲荷大神と称します訳です。キツネ様で有名なお稲荷さんですが、このキツネさんは元々船岡山あたりで住んでいたキツネさんの夫婦が良くしてくれた人間へお返しの為に伏見稲荷大社へ出仕、神使となったもの。
田中大神、こちらもその名の通り田圃を司る神様ということでして、五穀豊穣に繋がるとなります。しかし、神使のキツネさまは穀倉をネズミさんから護るという、干支のネズミは方位神の御使いで有る筈なのですが、御キツネ様には相応の役割があるのもたしかです。
清少納言も枕草子に伏見稲荷大社へ参詣した事を記していますし、蜻蛉日記や今昔物語にも記されていますのが伏見稲荷大社ですので、朝廷の崇敬や奉幣使の巡幸というだけでなく、広く平安時代の頃から親しまれていた社殿である事も確かではあるのですが、さて。
五穀豊穣を司る、実のところ商売繁盛は五穀豊穣があってこその余剰が商売につながるものですので、五穀豊穣から商売繁盛へ信仰が移りましたのは江戸時代ごろからといいますので、やはり日本は江戸時代まで食うや食わずの時代も長く続いたことを示すのでしょう。
鎌倉時代までは、ここ伏見稲荷大社は山頂の社殿となっていまして、神仏習合の独特の信仰と共に平安朝の時代から崇敬の在り方をかえていたようです、そして五穀豊穣から商売繁盛へと信仰が広まります時代に先んじまして、稲荷山を御神体としまして、広がります。
五穀豊穣から商売繁盛へ信仰が変りゆきます少し前に、その社殿は広く山麓へ、つまりいまの時代の神域へと広がりを見せてゆく事となる。宇迦之御魂大神を奉じる伏見稲荷大社ですが、こうして神域が広がります背景には朝廷の保護よりも寄進のほうが背景が大きい。
稲荷山を上りますと一之院はじめ、もともとの社殿の位置へと千本鳥居の参道は連綿と続いているのですが、広がりました社殿は、遷座というかたち永享10年こと西暦1438年、後花園天皇の勅命を受け室町将軍足利義教の手で社殿を山麓へ正式に遷座する事となった。
応仁の乱はくじ引き将軍として横暴を重ねた足利義教の治世下が終わりますと生じた権力空白とともに京都を覆い、ここ伏見稲荷大社も山頂から山麓まで灰燼に帰す事となるのですが勧進により復興が始まり、豊臣秀吉は天下人となった際、楼門を造営し寄進しました。
足利義教が折角寄進して広げた神域が、陣地の適地だったかどで応仁の乱にて山頂まで焼かれてしまうのは困ったものですが、しかし、改めて考えますと長期の戦争が共倒れとならず継続した背景には、やはり短期激戦の人口減少とは異なる背景、五穀豊穣が在る訳で。
豊臣秀吉が造営した楼門は言い換えればその後の江戸時代と瓦解の明治維新に昭和の太平洋戦争、厳しい時代を幾つも挟むのですが太平であった時代も長かった訳です、そこでもう一度、神域から俗世に戻ります際に改めて宇迦之御魂大神へ一礼し、散策を続けました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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日本社会で営む人々は先進国で最も神の実在を確信する割合は低いとされるものの神様がいてくれればなあと考える比率は一番たかいそうだ。
宇迦之御魂大神を奉じる伏見稲荷大社、伊奈利と創建当初は崇められました稲荷さんですが、転じて稲成り、となりまして、五穀豊穣を祈る社殿として崇敬を集めました。商売繁盛を御利益としますのは大宮能売大神への信仰が転じたとも考えられているのですが。
大宮能売大神は家内安全といいますか君臣の間を取り持つ神でもあり朝廷などの調和を図る神という位置づけでもあり、江戸時代ごろに、要するに接客の神様だ、といいますか超解釈が成立ちまして商売繁盛のご利益があるに違いないのだろうなあ、となったわけです。
佐田彦大神と田中大神と四大神、五柱の総称としまして稲荷大神と称します訳です。キツネ様で有名なお稲荷さんですが、このキツネさんは元々船岡山あたりで住んでいたキツネさんの夫婦が良くしてくれた人間へお返しの為に伏見稲荷大社へ出仕、神使となったもの。
田中大神、こちらもその名の通り田圃を司る神様ということでして、五穀豊穣に繋がるとなります。しかし、神使のキツネさまは穀倉をネズミさんから護るという、干支のネズミは方位神の御使いで有る筈なのですが、御キツネ様には相応の役割があるのもたしかです。
清少納言も枕草子に伏見稲荷大社へ参詣した事を記していますし、蜻蛉日記や今昔物語にも記されていますのが伏見稲荷大社ですので、朝廷の崇敬や奉幣使の巡幸というだけでなく、広く平安時代の頃から親しまれていた社殿である事も確かではあるのですが、さて。
五穀豊穣を司る、実のところ商売繁盛は五穀豊穣があってこその余剰が商売につながるものですので、五穀豊穣から商売繁盛へ信仰が移りましたのは江戸時代ごろからといいますので、やはり日本は江戸時代まで食うや食わずの時代も長く続いたことを示すのでしょう。
鎌倉時代までは、ここ伏見稲荷大社は山頂の社殿となっていまして、神仏習合の独特の信仰と共に平安朝の時代から崇敬の在り方をかえていたようです、そして五穀豊穣から商売繁盛へと信仰が広まります時代に先んじまして、稲荷山を御神体としまして、広がります。
五穀豊穣から商売繁盛へ信仰が変りゆきます少し前に、その社殿は広く山麓へ、つまりいまの時代の神域へと広がりを見せてゆく事となる。宇迦之御魂大神を奉じる伏見稲荷大社ですが、こうして神域が広がります背景には朝廷の保護よりも寄進のほうが背景が大きい。
稲荷山を上りますと一之院はじめ、もともとの社殿の位置へと千本鳥居の参道は連綿と続いているのですが、広がりました社殿は、遷座というかたち永享10年こと西暦1438年、後花園天皇の勅命を受け室町将軍足利義教の手で社殿を山麓へ正式に遷座する事となった。
応仁の乱はくじ引き将軍として横暴を重ねた足利義教の治世下が終わりますと生じた権力空白とともに京都を覆い、ここ伏見稲荷大社も山頂から山麓まで灰燼に帰す事となるのですが勧進により復興が始まり、豊臣秀吉は天下人となった際、楼門を造営し寄進しました。
足利義教が折角寄進して広げた神域が、陣地の適地だったかどで応仁の乱にて山頂まで焼かれてしまうのは困ったものですが、しかし、改めて考えますと長期の戦争が共倒れとならず継続した背景には、やはり短期激戦の人口減少とは異なる背景、五穀豊穣が在る訳で。
豊臣秀吉が造営した楼門は言い換えればその後の江戸時代と瓦解の明治維新に昭和の太平洋戦争、厳しい時代を幾つも挟むのですが太平であった時代も長かった訳です、そこでもう一度、神域から俗世に戻ります際に改めて宇迦之御魂大神へ一礼し、散策を続けました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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