■無準師範と聖一国師円爾
寺院というのは出会いの場所なのだなあ。
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東福寺、三連休の初日に拝観へと歩み進めました。九条道家が開基となり、聖一国師円爾を開山に招いて造営しました臨済宗の寺院です。円爾さんはヴァスバンドゥの仏教宗派解説書であるアビダルマコーシャカーリカーの翻訳阿毘達磨倶舎論を幼くして学ぶ。
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アビダルマコーシャカーリカー、というとなにか格好いいですが、三蔵法師こと玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典で、日本へは遣唐使として派遣された法相宗の僧侶道昭が西暦653年に玄奘三蔵本人に拝謁した際に訳版を託され、日本に伝えられた。
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園城寺にて得度し東大寺で受戒した円爾さん、この頃は弁円と名乗っていまして、上野国長楽寺、現在の群馬県太田市に現存している長楽寺の栄朝に師事し、そして臨済宗を学ぶべく鎌倉寿福寺の行勇に師事したのち、大陸は宋にわたっています。
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臨済義玄の拓いた臨済宗、悟りにいたるために数回の殴り合いと暴力が絡む黄檗三打という過程があって、黄檗三打も三回くらい叩かれたのかと思ったらば黄檗老師を訪ねたところ30発棒で殴られたといい、師匠に数発腹にぱんちとか、すごいのなんの。
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河北省に臨済寺が現存していて、もっとも臨済義玄さんは咸通7年頃つまり貞観6年、西暦ですと866年に入寂されています、あの富士山貞観大噴火の翌年くらいですね。円爾さんが生まれたのは建仁2年、つまり西暦1202年ですので実のところ接点はない。
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黄檗三打という歴史を知った上で中国拳法なんかをみていると、臨済寺もなにか拳法ができそうな配置となっていまして、昔の中国の寺院はバトルが起こっていたのか、と懸念するとともに、日本からの留学僧にもバトルがしかけられていたのではないか。
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禅宗、臨済宗も禅宗なのですが、大陸の新しい仏教となっています。そして当時日本の仏教界でも変革を模索する動きがありまして、いや言い換えれば宋に渡ればなんとかなるという、2000年代のアメリカ留学ブームのようなものが鎌倉時代に起こっていた。
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渡米か渡宋か、ともあれ我が国は渡るの大好きだなあと思いつつ、英語能力に限界があって日常会話しかできないのにアメリカ留学を行って何も専門研究を学べなかったという方がいた通り、実際当時の宋への留学僧も中国語が駄目だった人は多かったらしい。
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渡宋の語学問題は、当の宋で受け入れた寺院や官僚の、いや語学ができた日本からのりゅう学僧の日記にさえ嘆かれていて、しかしそうしたなかで円爾さんは径山寺の無準師範に師事しました、径山寺、ここは宋時代に醤油を日本に伝来させたともいわれる。
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無準師範、宋時代禅林中の巨匠と言われる方で兀庵普寧と西巌了恵と別山祖智と断橋妙倫の高弟を四哲として宋時代に大きな影響を及ぼした僧侶で、また絵画の才能にも秀でていたという。与円爾尺牘というやりとりの当時の親書が東京国立博物館に現存する。
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与円爾印可状、えんににあたういんかじょう、と読むのですが無準師範さんが円爾さんに書き与えた印可状が今も東福寺に現存していまして、意志を持って学ぶものと教えるもの、仏教徒は哲学的なものなのですが、そのつながりを今に見ることもできるのですね。
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径山寺も臨済寺も現存しているのですが、臨済寺は戦後荒廃した時期があり、その際に手を差し伸べたのが日本の数多ある禅林寺院であったという。考えれば八百年の出会いか、そう歴史と共に拝観しますと、また違ったものが見えてくるようにおもうのだ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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寺院というのは出会いの場所なのだなあ。
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東福寺、三連休の初日に拝観へと歩み進めました。九条道家が開基となり、聖一国師円爾を開山に招いて造営しました臨済宗の寺院です。円爾さんはヴァスバンドゥの仏教宗派解説書であるアビダルマコーシャカーリカーの翻訳阿毘達磨倶舎論を幼くして学ぶ。
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アビダルマコーシャカーリカー、というとなにか格好いいですが、三蔵法師こと玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典で、日本へは遣唐使として派遣された法相宗の僧侶道昭が西暦653年に玄奘三蔵本人に拝謁した際に訳版を託され、日本に伝えられた。
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園城寺にて得度し東大寺で受戒した円爾さん、この頃は弁円と名乗っていまして、上野国長楽寺、現在の群馬県太田市に現存している長楽寺の栄朝に師事し、そして臨済宗を学ぶべく鎌倉寿福寺の行勇に師事したのち、大陸は宋にわたっています。
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臨済義玄の拓いた臨済宗、悟りにいたるために数回の殴り合いと暴力が絡む黄檗三打という過程があって、黄檗三打も三回くらい叩かれたのかと思ったらば黄檗老師を訪ねたところ30発棒で殴られたといい、師匠に数発腹にぱんちとか、すごいのなんの。
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河北省に臨済寺が現存していて、もっとも臨済義玄さんは咸通7年頃つまり貞観6年、西暦ですと866年に入寂されています、あの富士山貞観大噴火の翌年くらいですね。円爾さんが生まれたのは建仁2年、つまり西暦1202年ですので実のところ接点はない。
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黄檗三打という歴史を知った上で中国拳法なんかをみていると、臨済寺もなにか拳法ができそうな配置となっていまして、昔の中国の寺院はバトルが起こっていたのか、と懸念するとともに、日本からの留学僧にもバトルがしかけられていたのではないか。
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禅宗、臨済宗も禅宗なのですが、大陸の新しい仏教となっています。そして当時日本の仏教界でも変革を模索する動きがありまして、いや言い換えれば宋に渡ればなんとかなるという、2000年代のアメリカ留学ブームのようなものが鎌倉時代に起こっていた。
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渡米か渡宋か、ともあれ我が国は渡るの大好きだなあと思いつつ、英語能力に限界があって日常会話しかできないのにアメリカ留学を行って何も専門研究を学べなかったという方がいた通り、実際当時の宋への留学僧も中国語が駄目だった人は多かったらしい。
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渡宋の語学問題は、当の宋で受け入れた寺院や官僚の、いや語学ができた日本からのりゅう学僧の日記にさえ嘆かれていて、しかしそうしたなかで円爾さんは径山寺の無準師範に師事しました、径山寺、ここは宋時代に醤油を日本に伝来させたともいわれる。
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無準師範、宋時代禅林中の巨匠と言われる方で兀庵普寧と西巌了恵と別山祖智と断橋妙倫の高弟を四哲として宋時代に大きな影響を及ぼした僧侶で、また絵画の才能にも秀でていたという。与円爾尺牘というやりとりの当時の親書が東京国立博物館に現存する。
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与円爾印可状、えんににあたういんかじょう、と読むのですが無準師範さんが円爾さんに書き与えた印可状が今も東福寺に現存していまして、意志を持って学ぶものと教えるもの、仏教徒は哲学的なものなのですが、そのつながりを今に見ることもできるのですね。
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径山寺も臨済寺も現存しているのですが、臨済寺は戦後荒廃した時期があり、その際に手を差し伸べたのが日本の数多ある禅林寺院であったという。考えれば八百年の出会いか、そう歴史と共に拝観しますと、また違ったものが見えてくるようにおもうのだ。
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