■美濃の正倉院,その伽藍を巡る
三重塔を巡る、近現代に建立されたものではなく中世造営の歴史ある三重塔を巡るという事で至りましたのは岐阜県平野部は美濃地方にもある山間部です。
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横蔵寺。三重塔が美しい佇まいの山寺は最澄が大陸留学を経て、桓武天皇により重視された天台宗の天台教学を天台山より持ち帰りますが、その後の全国行脚に際して美濃に立ち寄った事で縁を結んだ寺院です。この縁から美濃の正倉院、西の正倉院の一つともいう。
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三重塔が一際輝きますが、その造営は寛文3年こと西暦1663年というもので、また本堂も寛文11年の西暦1671年、仁王門は延宝3年で西暦1675年完成、何れも岐阜県指定重要文化財となっています。ここに奉じられる大日如来像は国の重要文化財に指定されている。
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大日如来像は平安朝末期の寿永2年、西暦1183年の彫像と記されています。また伽藍は江戸時代初期のものが多いですが、此処に収められる金剛力士は、建長8年こと西暦1256年の彫像、山頂に在ったお寺が中世の時代に当地へ本堂を遷した事を恰も物語るようですね。
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本尊薬師如来像、建立当時の御本尊は実は横蔵寺には在りません、するとどこに在るのかになるところですが、実は比叡山延暦寺に在ります。何故移動したのかと云いますと、戦国乱世元亀2年つまり西暦1571年、かの有名な織田信長による比叡山焼討が関係している。
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比叡山焼討により伽藍を全て焼失した延暦寺、近くに三井寺もありますが織田信長本陣が置かれていました。ここからの復興を目指した延暦寺は同じ天台宗の横蔵寺に延暦寺本尊と同じ霊木から彫像の最澄自作の像があるとして、新しい延暦寺御本尊となった構図です。
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薬師如来像、いまの横蔵寺御本尊は御菩薩池より引き上げられた仏像となっています。当たり前ですが適当に拾った仏像ではなく、延暦寺焼討の際に池に投げ込まれて難を逃れたもの、この御菩薩池は深泥池、京産大の近く、そして北大路駅からもそうはなれていない。
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最澄と所縁ある寺院は美濃の正倉院、さて木造薬師如来坐像、木造大日如来坐像、木造四天王立像、木造十二神将立像、木造深沙大将立像、木造金剛力士立像、板彫法華曼荼羅、と数多あり、延暦寺とのこの御縁による。そして、横蔵寺には即身仏も奉じられています。
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即身仏、横蔵寺は所謂“ミイラの御寺”とも知られている所でして、これは厳しい修行の末に五穀絶ちから始め、徐々に食事を絶って行き入定するという、命を懸け更に越えた修行の一つ、これにより亡くなった方を即身仏という。妙心法師という方御本人なのですが。
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妙心法師という方、生まれはここ横蔵の村で天明時代の18世紀後半の僧侶でした、文化年間の19世紀初頭に齢36歳にて今の山梨県都留市は御正体山にて断食に居たり、即身仏となりました。しかし受難は明治時代の愚行、廃仏毀釈により妙心法師は叩かれる身となる。
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廃仏毀釈というものは、寺社仏閣巡りを重ねれば重ねるほど、いやな歴史というものにほかなりません、それは破壊行為というものもその一端ですが、なによりも価値観の逆転を背景としまして、新しい権力者への忖度も含めて、守り手出会った人々が破壊側に回った。
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廃仏毀釈、此処に違和感を感じるのは、私たちの場合は一つ二つ上の世代が“昭和二十年八月十五日”というものを経験しているものでして、これはあの戦争の価値観という簡単な話ではなく、二度ある事は三度ある、考えると同胞の事ながら憂鬱と成らざるを得ない。
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上人堂、山梨県都留郡鹿留村の御堂に江戸時代は信仰と崇敬の対象となった妙心法師は廃仏毀釈により、今度は博覧会の見世物となり、次は山梨県病院で医学資料となります。この扱いは酷いといい、漸く廃仏毀釈落ち着いた明治23年こと西暦1890年、転機が訪れた。
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横蔵寺は妙心法師出身地に在り、親族が見世物や標本ではなく信仰の対象として出生地へ戻してほしいとの嘆願が出され、これが漸く受け入れられたという。そして昭和末期まで本堂にて拝観者を迎えていました。平成の御世からは妙心法師は舎利堂へと遷られている。
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御堂も拝観料を収める事で拝観できるのですが、御堂に手を合わせるだけでも、とも思う次第です。しかし、価値観の一転は恐ろしいものだとも改めて考えさせられるものですね。三重塔や本堂は自由に拝観できますが、なお紅葉の季節は駐車場が有料となり、混雑する。
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西美濃三十三霊場第一番札所、それは岐阜県の平野部と云われる美濃地方にもこんな山奥が在るのかという立地にあります。ただ田舎ではなく、歴史は最澄に織田信長と緑に包まれたには更に鬱蒼と広がり、拝観へ歩み進めますと道程に上廻る清涼感を感じられます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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三重塔を巡る、近現代に建立されたものではなく中世造営の歴史ある三重塔を巡るという事で至りましたのは岐阜県平野部は美濃地方にもある山間部です。
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横蔵寺。三重塔が美しい佇まいの山寺は最澄が大陸留学を経て、桓武天皇により重視された天台宗の天台教学を天台山より持ち帰りますが、その後の全国行脚に際して美濃に立ち寄った事で縁を結んだ寺院です。この縁から美濃の正倉院、西の正倉院の一つともいう。
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三重塔が一際輝きますが、その造営は寛文3年こと西暦1663年というもので、また本堂も寛文11年の西暦1671年、仁王門は延宝3年で西暦1675年完成、何れも岐阜県指定重要文化財となっています。ここに奉じられる大日如来像は国の重要文化財に指定されている。
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大日如来像は平安朝末期の寿永2年、西暦1183年の彫像と記されています。また伽藍は江戸時代初期のものが多いですが、此処に収められる金剛力士は、建長8年こと西暦1256年の彫像、山頂に在ったお寺が中世の時代に当地へ本堂を遷した事を恰も物語るようですね。
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本尊薬師如来像、建立当時の御本尊は実は横蔵寺には在りません、するとどこに在るのかになるところですが、実は比叡山延暦寺に在ります。何故移動したのかと云いますと、戦国乱世元亀2年つまり西暦1571年、かの有名な織田信長による比叡山焼討が関係している。
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比叡山焼討により伽藍を全て焼失した延暦寺、近くに三井寺もありますが織田信長本陣が置かれていました。ここからの復興を目指した延暦寺は同じ天台宗の横蔵寺に延暦寺本尊と同じ霊木から彫像の最澄自作の像があるとして、新しい延暦寺御本尊となった構図です。
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薬師如来像、いまの横蔵寺御本尊は御菩薩池より引き上げられた仏像となっています。当たり前ですが適当に拾った仏像ではなく、延暦寺焼討の際に池に投げ込まれて難を逃れたもの、この御菩薩池は深泥池、京産大の近く、そして北大路駅からもそうはなれていない。
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最澄と所縁ある寺院は美濃の正倉院、さて木造薬師如来坐像、木造大日如来坐像、木造四天王立像、木造十二神将立像、木造深沙大将立像、木造金剛力士立像、板彫法華曼荼羅、と数多あり、延暦寺とのこの御縁による。そして、横蔵寺には即身仏も奉じられています。
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即身仏、横蔵寺は所謂“ミイラの御寺”とも知られている所でして、これは厳しい修行の末に五穀絶ちから始め、徐々に食事を絶って行き入定するという、命を懸け更に越えた修行の一つ、これにより亡くなった方を即身仏という。妙心法師という方御本人なのですが。
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妙心法師という方、生まれはここ横蔵の村で天明時代の18世紀後半の僧侶でした、文化年間の19世紀初頭に齢36歳にて今の山梨県都留市は御正体山にて断食に居たり、即身仏となりました。しかし受難は明治時代の愚行、廃仏毀釈により妙心法師は叩かれる身となる。
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廃仏毀釈というものは、寺社仏閣巡りを重ねれば重ねるほど、いやな歴史というものにほかなりません、それは破壊行為というものもその一端ですが、なによりも価値観の逆転を背景としまして、新しい権力者への忖度も含めて、守り手出会った人々が破壊側に回った。
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廃仏毀釈、此処に違和感を感じるのは、私たちの場合は一つ二つ上の世代が“昭和二十年八月十五日”というものを経験しているものでして、これはあの戦争の価値観という簡単な話ではなく、二度ある事は三度ある、考えると同胞の事ながら憂鬱と成らざるを得ない。
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上人堂、山梨県都留郡鹿留村の御堂に江戸時代は信仰と崇敬の対象となった妙心法師は廃仏毀釈により、今度は博覧会の見世物となり、次は山梨県病院で医学資料となります。この扱いは酷いといい、漸く廃仏毀釈落ち着いた明治23年こと西暦1890年、転機が訪れた。
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横蔵寺は妙心法師出身地に在り、親族が見世物や標本ではなく信仰の対象として出生地へ戻してほしいとの嘆願が出され、これが漸く受け入れられたという。そして昭和末期まで本堂にて拝観者を迎えていました。平成の御世からは妙心法師は舎利堂へと遷られている。
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御堂も拝観料を収める事で拝観できるのですが、御堂に手を合わせるだけでも、とも思う次第です。しかし、価値観の一転は恐ろしいものだとも改めて考えさせられるものですね。三重塔や本堂は自由に拝観できますが、なお紅葉の季節は駐車場が有料となり、混雑する。
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西美濃三十三霊場第一番札所、それは岐阜県の平野部と云われる美濃地方にもこんな山奥が在るのかという立地にあります。ただ田舎ではなく、歴史は最澄に織田信長と緑に包まれたには更に鬱蒼と広がり、拝観へ歩み進めますと道程に上廻る清涼感を感じられます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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