■徳川家康十七年間の居城
浜松城、ここは新幹線と東海道本線拠点駅浜松駅から航空自衛隊浜松基地へ向かう道中に見上げる勇壮な城郭です。
浜松城。濱松城とも慕われる城址は浜松市中区に所在する美しい城郭であり、望楼型三重四階鉄筋コンクリート造模擬天守閣を冠する故に過去の天守閣は破却されいまは現存しませんが、梯郭式平山城構造の城郭であり、徳川家康の出世城として知られる城郭です。
曳馬城や出世城としての名を有するお城、造営は今川貞相とされ、詳しい歴史には諸説があるようですが概ね永正年間の西暦1504年頃から1520年頃に掛けて造営されたものと考えられています、曳馬城という名はこの初期の浜松城の名と云いまして位置も少し東に。
今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長に敗れ戦死した後、今川家の系譜は落日の時を迎え揺らいだ団結により今川家家人城主飯尾連竜に謀反の疑いありとして今川氏真に包囲されましたが、この際に防衛を維持できました。しかしこの揺らぎが今川家の生命を絶つ事に。
徳川家康、浜松城という名は元亀元年の1570年に徳川家康が曳馬城に入城した際に改めたもので、浜松城へと改称したものです。もともと曳馬とは現在の浜松基地東方を示し、この一帯は古くから濱津郷即ち浜津郷と呼ばれ平安後期には濱松荘という荘園も造営された。
天龍川支流に程近いこの地は防衛上の要衝であり、築城の要はあったのです。徳川家康はこの視点から浜松城を拡張しており、土塁の拡張を主として縄張りを広げています。ただ、石垣が荒々しい現在の城郭と違い、家康は石垣や瓦屋根構造物は設けなかったともいう。
三方ヶ原の戦い。元亀時代の1573年には徳川家康は甲斐の覇者武田信玄の侵攻を受けます、一時籠城により家康は信玄との全面衝突を避けようとしますが、このままでは徳川の権威を維持できないとして攻勢に転じ、しかしこれを予見し待ち構えていた武田氏に大敗する。
関ヶ原の戦いで家康は防御堅固な大垣城と西軍主力陣取る南宮山前を素通りし、焦った石田三成に決戦を強要し、戦機を手中に収める事が出来ましたが、考えればその着想の下が家康自身が素通りに耐えかねて戦機を見誤った三方ヶ原、浜松での経験があるのでしょう。
天正年間1582年に浜松城の拡張は完了しますが、同年に盟友織田信長が本能寺で討たれ、時代は大逆人明智光秀を討った豊臣秀吉の時代となります。そしてその頃のその頃の1586年に徳川本営は駿府に本拠を遷し、在城期間17年間の内目一杯を拡張に費やしたことに。
太閤秀吉の治世下では徳川家康は駿府はじめ徳川家所縁の東海道から当時最果ての江戸に移封する事となり、秀吉家臣堀尾吉晴の居城となります。しかし、実に17年の城主を務めた浜松城へ思い入れが在ったのか、関ヶ原の戦いの後は早速奪還、徳川頼宣を入城させた。
出世城と親しまれたのは、歴代城主は尼崎の桜井松平家松平忠頼に高力忠房と大給松平家松平乗寿に太田資宗と青山宗俊、本庄松平家松平資俊と大河内松平家松平信祝に井上正経と水野忠邦と井上正春と、入城した大名が次々と出世階段を駆け上った為といわれます。
幕府重役に取立てられる出世城の城主たち、しかし浜松城の城主はその分、次々と変わる事を意味しまして、江戸時代は265年間、この間に藩主は22回代わり、平均して12年間を経ずして代わる事となっています。楽器にバイク、浜松の新しいもの好き根底はここか。
天守閣は1959年に再建されました。実は浜松空襲により延べ560機のB-29が四回に分け空襲し、終戦二週間前には戦艦サウスダコタ、マサチューセッツ 、インディアナ 、キング-ジョージ5世による艦砲射撃も受け城郭は勿論全市が灰燼に帰しますが、戦後市街地とともに復興しました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
浜松城、ここは新幹線と東海道本線拠点駅浜松駅から航空自衛隊浜松基地へ向かう道中に見上げる勇壮な城郭です。
浜松城。濱松城とも慕われる城址は浜松市中区に所在する美しい城郭であり、望楼型三重四階鉄筋コンクリート造模擬天守閣を冠する故に過去の天守閣は破却されいまは現存しませんが、梯郭式平山城構造の城郭であり、徳川家康の出世城として知られる城郭です。
曳馬城や出世城としての名を有するお城、造営は今川貞相とされ、詳しい歴史には諸説があるようですが概ね永正年間の西暦1504年頃から1520年頃に掛けて造営されたものと考えられています、曳馬城という名はこの初期の浜松城の名と云いまして位置も少し東に。
今川義元が桶狭間の戦いにて織田信長に敗れ戦死した後、今川家の系譜は落日の時を迎え揺らいだ団結により今川家家人城主飯尾連竜に謀反の疑いありとして今川氏真に包囲されましたが、この際に防衛を維持できました。しかしこの揺らぎが今川家の生命を絶つ事に。
徳川家康、浜松城という名は元亀元年の1570年に徳川家康が曳馬城に入城した際に改めたもので、浜松城へと改称したものです。もともと曳馬とは現在の浜松基地東方を示し、この一帯は古くから濱津郷即ち浜津郷と呼ばれ平安後期には濱松荘という荘園も造営された。
天龍川支流に程近いこの地は防衛上の要衝であり、築城の要はあったのです。徳川家康はこの視点から浜松城を拡張しており、土塁の拡張を主として縄張りを広げています。ただ、石垣が荒々しい現在の城郭と違い、家康は石垣や瓦屋根構造物は設けなかったともいう。
三方ヶ原の戦い。元亀時代の1573年には徳川家康は甲斐の覇者武田信玄の侵攻を受けます、一時籠城により家康は信玄との全面衝突を避けようとしますが、このままでは徳川の権威を維持できないとして攻勢に転じ、しかしこれを予見し待ち構えていた武田氏に大敗する。
関ヶ原の戦いで家康は防御堅固な大垣城と西軍主力陣取る南宮山前を素通りし、焦った石田三成に決戦を強要し、戦機を手中に収める事が出来ましたが、考えればその着想の下が家康自身が素通りに耐えかねて戦機を見誤った三方ヶ原、浜松での経験があるのでしょう。
天正年間1582年に浜松城の拡張は完了しますが、同年に盟友織田信長が本能寺で討たれ、時代は大逆人明智光秀を討った豊臣秀吉の時代となります。そしてその頃のその頃の1586年に徳川本営は駿府に本拠を遷し、在城期間17年間の内目一杯を拡張に費やしたことに。
太閤秀吉の治世下では徳川家康は駿府はじめ徳川家所縁の東海道から当時最果ての江戸に移封する事となり、秀吉家臣堀尾吉晴の居城となります。しかし、実に17年の城主を務めた浜松城へ思い入れが在ったのか、関ヶ原の戦いの後は早速奪還、徳川頼宣を入城させた。
出世城と親しまれたのは、歴代城主は尼崎の桜井松平家松平忠頼に高力忠房と大給松平家松平乗寿に太田資宗と青山宗俊、本庄松平家松平資俊と大河内松平家松平信祝に井上正経と水野忠邦と井上正春と、入城した大名が次々と出世階段を駆け上った為といわれます。
幕府重役に取立てられる出世城の城主たち、しかし浜松城の城主はその分、次々と変わる事を意味しまして、江戸時代は265年間、この間に藩主は22回代わり、平均して12年間を経ずして代わる事となっています。楽器にバイク、浜松の新しいもの好き根底はここか。
天守閣は1959年に再建されました。実は浜松空襲により延べ560機のB-29が四回に分け空襲し、終戦二週間前には戦艦サウスダコタ、マサチューセッツ 、インディアナ 、キング-ジョージ5世による艦砲射撃も受け城郭は勿論全市が灰燼に帰しますが、戦後市街地とともに復興しました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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