
府中には大國魂神社があり、毎年5月のはじめには「くらやみ祭り」がある。今年は、残念ながら行く機会を失ったが、来年は是非しっかり見たい。その府中なのだが、昨日浅間山の武蔵野キスゲを見に友達と登った。ちょうど見頃であり感動したが、頂上付近にひっそりと浅間山神社があり、手を合わせると、いろいろ想いが巡った。
今は、飛鳥・奈良時代のことをあれこれ考えているのだが、当時の日本書紀を読んでいくと、エミシやクマソなどの日本の辺境に関する記述に出会う。
当時のヤマト政権は、中国の文化を取り入れているので、当然ながら中華思想的に東国などを東夷のように考えていたところがある。米国の西部開拓史のように、日本にも東国開拓史があった。
大國魂神社は武蔵野国の国府がある場所につくられたが、創立は景行天皇の頃、日本武尊命の時代と言われている。坂東という言葉があるが、この坂(山)は東海道では足柄山。東山道では碓氷峠を意味しているらしい。この坂の東、辺境の地はこの時代にどんどんヤマトの支配下になっていったのだろう。
大國魂神社は、ヤマトの影響下で祭神は出雲大社のオオクニヌシノミコト、大國魂大神である。そして、前九年の役では東国出兵の際、源頼義・義家が欅の苗を寄進したりする。征服する側の神社である。
さて、昨日行った、浅間山の浅間神社。設立は調べていないが、浅間神社は富士山信仰と関わりがあり、歴史は縄文時代まで遡ると言われている。当然ながら、初期のヤマトにとっては異国の地、毛の国、東夷の神々だったろう。その土着の神々を祀っているのではないか。
栄枯盛衰。今の日本も米国の西部開拓史の中、海をわたって日本への影響力が強められている時代だ。同じく中国からみれば、今も日本は東夷かもしれない。
こうした中、かつての日本の辺境の地の文化や敗者の記録が意外に活力のもとになるかもしれない。そうした眼でもう一度自己をみつめるとどうなるのか?これは、もののあはれ、なのだろうか?
歴史から自分を知る 6/10