今日は、某所で宮沢賢治の読書会があり、その中で『二十六夜』の課題があり朝読んでいたが、ふと今の月は如何なものかと気になり調べたら今日は月齢約27日。ひょっとして見えるかもしれないと早朝に起きだした。久しぶりの快晴で八王子も確実に氷点下であったが、月が・・・と寒い戸外に飛び出した。
Google skyを見て太陽の近く、やや右上あたりに鎌形の月が見えればと眼を皿のようにして探したり、写真でとって拡大したりしたが、日が随分登っていたためか判らなかった。残念。
とは言え、幸せなことに、富士山は寒さにかかわらず一層美しく輝いていた。
大栗川沿いに観える丹沢山系と富士山のハーモニーもいつもに増して美しい。
大栗川が蛭が岳に向かっているところは感動的だ。この景色は近く(多摩境)の縄文晩期のストーンサークルからも見える景色だからだ。
さて、縄文土器(八ヶ岳山麓の土器等)には、半人半蛙像などよく描かれるが、それは月を中心に蛙や水、女性をイメージしたもののようで、最近図像学的に解釈が進んでいるようだ。勉強していくと、縄文人には、かなり正確な月の観測に基づく知識があり、驚いてしまう。太陰暦的世界観がそこにはあるようだ。
しかも、半人半蛙像は日本だけでなく、中国をはじめヨーロッパ等の世界の新石器時代の土器等にも描かれているのも興味がつきない。
話は「二十六夜」に移るが、主人公が穂吉というフクロウであるが、新月の前の鎌形の月のイメージが穂吉という名前に繋がるのは驚きだ。そして、フクロウに象徴される他の命を殺して生きる禽獣の罪深さ、罪悪感のテーマは、死と再生の物語により解決されるようだ。
それは賢治の仏教思想とのつながりが大きいと思うが、キリスト教の十字架の贖罪の思想も彷彿させ、さらに新石器時代の神話(例えばオオゲツヒメの話など)なども彷彿とさせる。宮沢賢治の童話が普遍的なんだなと思う。今の殺伐とした現状を賢治はどう思っているのだろうか。
縄文からの風① 7/10