昨日の続きで縄文時代の河の神様のことを考えたり、時代は下がるが河や水辺に関係する奪衣婆像や十一面観音のことを考えたりしていた。そして、縄文は新石器時代ということで世界の文化、源流の文化とも深く関係するので、ギリシャ神話の美しいナルキッソスの話も思い浮かべてしまった。ナルキッソスは河の神ケピソスとニンフ・リリオペの子供でもあり、物語の最後には水辺の水仙となるのも象徴的だ。
ナルキッソスは、ナルシストとして日本でも有名であるが、心の勉強をしている人にとっても自己愛の問題を考える教科書となっている。自分を愛することができるが、他者を愛せないという問題だ。そして、ナルキッソスに恋をしたエコーの悲劇は悲しい。美しいエコーは、女神ヘラに嫉妬されたこともあるが、ナルキッソスに愛されないためにコダマになってしまうのだ。そして、最後にはナルキッソスも水辺のほとりに咲く水仙になってしまうという悲しい話である。
いつもは、このナルキッソスの話をすると、自己肯定・他者肯定、自己否定・他者肯定、自己肯定・他者否定、自己否定・他者否定の四つのクライテリアを考えたりしてしみじみしたり、自己愛パースナリティ障害のことに想いを寄せるのだが。
今日は、ちょっと見方を変えて、本当は他者をしっかり愛しているのに愛していないと思ってしまう。・・・そういうエコーのすべてではないが背後にありそうな問題について考えを巡らせたい。
この問題を考えるとき、「生き甲斐の心理学」のテキストにもあるが、実はしっかり愛しているのに、相手が愛していると感じないとケースに想いを馳せる必要がある。
これは、実は生育史に謎が秘められている。Aさんにとって、愛と感じるものは、例えばAさんが3歳のころ両親からしてもらった家でのクリスマスパーティが愛の原型だったりする。一方、Bさんにとっては、忙しい家内工業の現場(家)を離れ、皆で楽しく外食した料亭Cでの会食がそうであったりする。こうした場合、AさんがBさんを愛情表現として自宅に招いて、家庭料理をふるまっても、Bさんにとっては、意外と苦痛だったりするのだ。愛の原型の違い。こういうことは、結構あるように思う。
適切な例ではなかったかもしれないが(単純化しすぎて)、人それぞれ愛の原型は違う。そのことを頭にいれとくと、ヘンに自分を責めたり他人を疑うことも少なくなるようだ。
縄文からの風② 8/10