私にとって、この3箇月ちょっとのアフター 3.11は知覚(五感・体感を基礎としての知的解釈?)の変化をもたらした、人生にとって大きな意味のある時期だったように思う。
昨日は、四谷の勉強会に参加したあとで、夜駅の近くの本屋さんに立ち寄り、「大津波と原発 内田樹X中沢新一X平川克己」(朝日新聞出版)を衝動買いしてしまった。
平川克己さんは初めて知ったが、3名とも1950年生まれの方である。いつもながら、1951年生まれの私たちと一年の差だけなのだが、微妙であるが何か違いを意識してしまう。何だろう?それはとにかく、この本のはじめのほうに、「日本の近代史がボキッと折れた」という中沢新一氏の表現があって、こころに残った。
ちょうど、昨日は直木孝次郎氏の「持統天皇」を読了し、飛鳥での日本の原型にこころを寄せていたので響いたのだと思う。
妄想かもしれないが、持統天皇が、今回の福島原発事故の顛末を知ったらどう行動したのだろうか?そんなことを考えてしまう。壬申の乱の思い出の深い吉野への、何回もの行幸。東国の神社への配慮・・・政治権力と宗教(日本の宗教)が、今より密接に結びついていた。そんな持統天皇が、不可解なテクノロジー、危険な原発という、生態系の常識を超えたものに出会ったら、どう行動しただろうか。
先のように、近代史はボキッおれたとしても、古代からの日本のコアは折れなかったのだろう。天皇・皇后が被災地におとづれた時に、涙した人は多かった。
では、3.11でボキッとおれたもの。それをさかいに知覚が変わり、見えてきたものは何か。
通常の議論は、どのように思考が変わったとか、どのように思考を練り直していくかに焦点が向かう。しかし、「生き甲斐の心理学」(現代の臨床心理の知識をベースにした)を学ぶ私にとっては、思考も興味があるものの、それ以上に、知覚がどう変わったかに興味がある。
K大臣やマスコミの原発に対する、昔とあまり変わらない言説を、どう自分が知覚し、それがどう変わったか・・・
CO2削減や地球温暖化の議論の報道を見てどう感じるのか。
はっきりいって、こころにうつものがだんだん失くなっていくことを強く感じる。私だけの知覚の変化だけなのだろうか?それとも、多くの日本人の知覚の変化なのだろうか?そして、こうした知覚の変化は新しい時代にどう関与するのか?
新鮮 2/10