昨晩は、テレビで宮大工の棟梁が弟子が、どう仕事に就き、仕事を覚え成長していくかということを語っていた。
その影響か、朝起きてから、自分の仕事選びの歴史をいろいろ思い浮かべた。考えてみれば、今までの人生は天職を求める旅のような気もする。この場合天職とは単なる食べるための仕事以上のものを意味している。
自分の長い歴史の中で核となる、渇望と傾向に沿って天職も追求されているようでもある(ロジャースの第4の命題に似て)。
20歳台のアイデンティティが確立していく(はず?)の時期に、自分はマーケティングの仕事をしたいと考えた。営業の仕事をしてから(キャリアパスを作ったつもり)、そして計画どおりマーケティングの仕事についた。30歳台のころである。しかし、仕事に着くと、見えなかったものが見えてくる。
今から考えると、当時の仕事は、きちっと目標にしたがってきちっと抜けのない計画を作り、実行していくようであった。そんな中で、良い仕事をした時期もあれば、うまく行かない時も沢山あった。うまく行かない時のことを考えると、その原因は、今考えると基本的な能力や成育史に原因があったようだ。そんなことは、他人は判らない。
50歳台になり、会社をやめて、福祉や生涯教育の方向を目指し、仕事を探した時期があった。そのとき、職業選びのためのコンピュータによる診断を受けてみたことがあった。
最もむいていない仕事の中に、やりたい(やるべき)仕事があった。自分の傾向と渇望を、どう判断するかは、自分でもなかなか難しいが、こうした客観的と言われている診断や検査もあまり参考にならないこともある。
仕事は、現在進行形でやっていくうちに、知覚が変わり、仕事の価値感も変わっていくものだからである(教育の本質にも似ているし、人生全体にも似ている)。
では、今、やっている仕事は天職なのであろうか?意外と難しい問題である。2-3年くらい経つとほとぼりも冷めて客観的な眼も働くが、≪今ここ≫はそれこそ、現在進行形で知覚も毎日変わるものだからである。
昔からよく言われているが、「石の上にも三年は」この辺のこと言っているのだろう。ただ、三年しないでも辞めなければならないこともあるので注意は必要だ。
そんな中、天職とは何か?(何のために生きているのか?生き甲斐は何か?自分を大切にしているか?の自己実現のタメの3つの質問に似てもいる)という自問自答は、時折してみる価値があるようだ。自分の渇望と傾向を刺激し、元気になることも多い。正中線の意識は大事である。
新鮮 3/10