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5-6年前の私は山田寺のことを全く意識していなかった。飛鳥に何回か足を運んだり、新聞を読んでいたはずなのに山田寺のことは記憶の外であった。
恐らく、奈良や飛鳥に行かれる人で山田寺を意識化している人はまだ少ないと思う。飛鳥の東から安倍文殊院に向かう山田道の近くに山田寺があるが、古代史、特に天武・持統天皇を語るときには外せないお寺だと思う。
残念なことに、その大切な宝物や遺跡等はいろいろなところに点在している。山田寺に行ってそこで体感したいものがそこには無いのが残念だ。
白鳳時代の仏像の傑作とされている丈六の仏像の仏頭は興福寺の宝物館。
当時安置されていた阿弥陀三尊像は国立博物館
1980年代の大発見。日本で最古の木造建築の遺跡、山田寺の東回廊を始めとする出土品は飛鳥資料館
こんな感じなのである。
しかし、山田寺は私の最大の関心の一つである。何故なら、日本の実質的な建国時に貢献した持統天皇の性格形成上もっとも衝撃的な場所であるからだ。
641年 蘇我石川麻呂が山田寺建設に着手する
643年 金堂が完成
645年 乙巴の変で蘇我の入鹿が殺害される。この年持統天皇が誕生
649年 蘇我石川麻呂が、藤原鎌足と天智天皇(持統天皇の父)の謀略と思われる事件に巻き込まれ、山田寺で一族(三男一女と共に)と共に自害する。この時、石川麻呂の娘達は難を逃れるが、その後越智媛は持統天皇や大津皇子の母である大田皇女を産み、姪媛は御名部皇女(高市皇子の妻)や元明天皇を産む。祖父が子孫を守ったとも取れる自害であった。
さらに、石川麻呂の遺体の首を追っ手が切ったりし、越智媛は、それが元で心を痛め(夫が父、母、男兄弟を亡きものにしたためと思われる)数年後に亡くなる。そのときの衝撃はどれほどだったろう。そして、4-5歳の持統天皇への影響はどうだったか(その後の性格形成にどういう影を与えたか)。
673年 心柱立つ、五重塔だった。この年天武天皇即位、持統天皇皇后即位。
678年 丈六仏鋳造
685年 仏眼を点ず (天武天皇ご病気の時)
10世紀末~11世紀前半 火災により消失 講堂残る
1187年 興福寺の僧兵により講堂に設置されていた丈六三尊像を奪われる
山田寺東回廊や灯篭は何を見ていたのだろうか、人間の興す悲惨さ、それもあるだろう。しかし、それを乗り越えた女帝達、そして日本にとってはどうだったのだろうか。前向きなパワーとしての事件だったかもしれない。
前向きなパワーが何故生まれたか。それは持統天皇が悲惨を意識化して山田寺再興の努力から生まれたのではないかと思うが、いかがだろうか?
自己開示力 1/10