風邪も良くなり、天気も快晴・・・今朝は久しぶりに多摩センターの埋蔵文化センターに寄った。少し前まで縄文中期にフォーカスしすぎていたが、今はそれほどでないので、展示もゆっくりと拝見させていただき、いろいろな気づきを得た。展示は「先祖と生きる」で通年同じテーマであるが、内容が程久保の勝五郎さん(江戸時代に生まれ変わりで有名)が全面にでており楽しかった。
死者が生まれ変わる。これは何も江戸時代とか仏教オンリーの思想ではない。実は縄文時代も、そのような思想が脈々と流れているようだ。縄文時代中期の村など、村の住居も楕円状に広場を中心に立てられるのが普通だったが、墓も同じようで広場の中に作られ、死者と生者が混然一体となって暮らしているようなのだ。
展示を拝見してから、遺跡公園「縄文の村」をのんびりと散策。今日は小学生等の団体見学もなく、縄文の秋を独り占めしてしまった。最近縄文時代の洗濯にも果実が使われていたとされるムクロジを実際に見たり。落葉樹ばかりの埴生を楽しんだ。コナラの木の下には拾われなかったどんぐりがたくさんおちていたり、きっと縄文の人が生きていたらもったいないとおもうだろなと想像したりした。
さて、素晴らしい縄文の雰囲気を感じつつ、日本人の美意識についていろいろ考えてしまった。四季があり移ろう森羅万象。侘び寂、もののあはれ、等日本人の神髄と思われる美意識はひょっとしたら縄文までさかのぼるのではないかと。岡本太郎さんが指摘したように、縄文は美的に優れている。
今より厳しい環境の中で生き抜くの縄文の人は大変だが、美しい自然はどれほど人のこころを憩わせたのだろうか。防衛機制として昇華、投影をはじめ14種類あると見抜いたのはフロイトだが、縄文の人たちも理論とは別に生きるための知恵を積み重ねてきたと思う(芸術等)。侘び寂、もののあはれ・・・これらは日本の中世に起源があるというより、ひょっとすると縄文までさかのぼるのではないだろうか。
こころの柔軟体操 9/10