イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

心の流れはどうでしょう?(心をみつめる方法 6/10)

2015-11-17 | 第三章「無意識の世界」

 先日、私にとって衝撃的なことがあった。いつも定期で通勤するのだが、私鉄系のカードを紛失してしまったのだ。深夜に届け出て、カードを止め再発行していただき全く被害はなく、また定期も使えてほっとした。

 その時に、娘に紛失の経緯などをはなして自分の何年も続いたへんな行動に気が付いた。私は定期カード(PA〇MO)を財布から出して改札にカードをかざし通っていて、そのカードを時に財布にすぐに戻さずポケットにいれたりし、今回はハンカチを出す時にカードを誤って落としたようだ。そんなことを話すと、疑惑の眼をあびた。お財布から出すというのが信じられないようだった。ふつうはお財布を改札でかざすという。

 言われて気が付くへんな私の行動。出さなくてもよい定期を出して、そして落とす、さらに届けたり、笑われたり・・・。たぶん私は、昔の紙の定期券のイメージを持ち続け、現在の常識からすればとてもへんだったに違いない。

 さて、こころの健康にも、この手の流れが問題になる。ロジャースのプロセススケールの<体験過程>だ。

 先日の、定期事件では定期の流れがおかしかったが、私のこころの流れはまだ健康で、たぶん定期事件もしばらくする忘却のかなたに流れさるだろう。私のことだから、そんなことはあるものだとどこかで認めている(受容)からだ。

 ところが、生育史を考えると、小学校のある時期とか、青年期のある時期とか心の流れがヘンな時があった。それは、今となっては原因はわかるのだが、おそらく小学校1年のときのある事件で、ちょっとへんな罪悪感が潜在していたからだと思う。

 でも、いまそれを思い出すと、もう少し高い位置で俯瞰すると、そういうことも成長する上であって当然かなと、だって私だからさと受容できる。

 時々、こころの流れはどうか・・・こんなことふつうは考えないものだが、たまには大事なことだと思う。

心をみつめる方法 6/10

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聖地、大栗川の効用!(こころを見つめる方法 5/10)

2015-11-15 | 第二章「五感と体感」

  11月に入ってから、特に忙しかったこともあり、ブログや写真もおろそかになりがちだったが、本日一段落ができ、夕方大栗川周辺を散策した。

 忙しいと、確かに心を亡くすところがあり、感情生活が枯渇してくる。自分なりに生活の中で、生き抜きをする時間をとってはいるものの、このところ天気も悪く・・・枯渇していたようだ。

 枯渇すると感動のない生活になってしまう・・・

 そして、2時間くらい、秋の大栗川周辺をカメラを持って散策したが、天候に恵まれ、富士山付近に夕日が沈む姿までしっかりと見させていただいた。

 写真は、大栗川の番場公園周辺で撮ったものだが、ここが聖地など誰も考えないだろうが、私はかってに聖地ではないかと想像している。そして、この入日を見るときの何とも言えない感動(アースフィーリング)。素晴らしいものがあった。

 何故、ここが聖地ではないかと思ったかであるが、この場所は堀之内の愛宕神社の真南であり、この周辺は縄文遺跡が非常に多い。72、446、・・・さらに、このあたりは、丹沢の最高峰蛭が岳と富士山が綺麗に見え、しかも、冬至に蛭が岳に入日が沈むライン近辺である。

 このラインには、大國魂神社、8世紀の8角形墳の稲荷塚古墳、縄文後期の都内で唯一と思われるストーンサークル(田端遺跡)が線上に乗っている。

 このあたり、戦後の住宅地の開発前は田舎で、私も信じられなかったのだが、時代をさかのぼると江戸時代以前は武蔵野国の中心地で、東海道等の主要街道が集まるところだった。東京の祭りといえば三社祭りが有名だが、時代をさかのぼると大国魂神社のくらやみ祭りが武蔵の国の祭りとして有名だったりする。

 さて、人間忙しくなると、何かに執着し続けるというか、固執しがちになる。すると、心の自由が奪われてしまう。こんなとき、聖地に行くと、何かが違う。聖地は、ある意味無時間的である。先に述べたように10000年前も1200年前も、500年前も聖地といった場所である。そこが、なにか自分の中の執着をほんわかと解凍してくれるようなのだ。

 聖地は、五感体感をうるおす。入日を観る。小鳥やそよ風の音を聴く、・・・リフレッシュとは、五感・体感と実に関係が深いと思う。そして、気の合った人との会話があればもっとよい。さらに、祈りの場所に行くというのも良い。

 祈りの場所は、リフレッシュと関係ないと昔は思っていたが、年を重ねると、すごく関係があると思うようになる。実際、地域の活性化、コミュニティの活性化と神社・仏閣・教会は関係が深いそうだ。

それでは、今日の写真を以下に・・・

  

  

  

 

  

  

  

心をみつめる方法 4/10

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幽玄の美を縄文の祖先たちも感じたのだろうか?(こころをみつめる方法 4/10)

2015-11-13 | 第二章「五感と体感」

 亡くなった祖父は戦後、栄養失調になるような生活をしたが、その中でも能を習っていた。祖母がそんな祖父に文句を言っても、受け付けなかったらしい。そして、幼いころ祖父の家に行くと鼓が転がっていたりしたものだ。

 そんな私にとっての能であるが、今まで特に興味をもつこともなく過ごしてきた。しかし、生き甲斐の心理学の同志たちが能にはまって、さて、どんなものかと、この2-3年落ち着きのない時間を過ごしてきた。

 といって、この2年縄文時代に凝っていたので、能まで手をだせなかったのも事実。一方、、縄文時代を題材に下手な小説を最近書いていたのだが、縄文時代の真善美を考えるなかで、日本の伝統芸を考えざるを得なくなり、また日本の音に関心をもつようになった。

 この二日、ブログも書かずにもんもんとしたが、それは縄文時代の祖先たちの幽玄の美の問題だったかなと今朝ふと思ったりした。

 どの時代も、理不尽なことがあり、さまざまな感情が湧く。そうした中、自己を表現する芸術は確実に存在し、他者に何とも言えぬものを伝え、互いに昇華してきたのだろう。それは、確実に生きる智慧である。

 善悪とか理知の世界とは別に、美の世界がある。もちろんお互いに関係しあっているのだが、美にも独特の世界がある。そして、思ったのだが理知や善悪といった物差しでは実にグレーな部分に、美の世界は不思議な力を発揮し切り込むことができると。

 かつて、奈良で見たたくさんの天女が書かれている曼荼羅図。怒ったり、笑ったり、さまざまな感情が表れている世界が、全体として調和している美。

 日本の伝統美。昔、カトリックの神父さんが書かれた、信仰と美学の問題についての本を思い出した。美とは何か?小説が一段落したら、もう一度思索したいものだ。自己表現の問題とからめて。

心をみつめる方法 4/10

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教える仕事を湧き起る感情から再考する・・・(心をみつめる 3/10)

2015-11-09 | 第一章「意識と知覚」

 特に先生という職業につかなくても、人生のいろいろな場面で教えるという役割を担うことがある。職場の先輩であれば、仕事のやりかたを後輩に教えたり、セミナーや講座の先生をつとめたり、・・・・・まあ、いろいろである。

 私も、生き甲斐の心理学で世話人を務めたりするので、気になる役割である。

 そんな中で、湧き上がる感情をどう考えるか。これはとても大事なことだと思う。ここで、大事なのは他者の感情ももちろん気にするわけであるが、特に意識するのは自分の感情(他者に反応する自分も大いにある)である。自分は今、怒っているのか、奢っているのか、自虐的か、あきらめているのか・・・、感情がわからない状態か・・・などである。

 感情の意味を考える。たとえば、怒っているときは、何か自分の理想を伝えたいのに伝わらないということがあったりする。しかし、それが上から目線になっていると、他者から見るとますます反発したくなるものである。感情はつたわるものなのだ(転移しやすい)。さらに、上から目線は他者否定的なところがあり、どこか自分でも内省する必要があるのだ。

 そして、最近思うのだが、自分は教えるのが上手と思っているより、教えるのは難しいことだと謙虚で反省しているときのほうが、教えるという役割を考えるとよいようにも思われる。

 そのほかに、原初感情の好き嫌い、怖い怖くないという分類で、自分は人嫌いなタイプだとか、人に恐怖心を抱くほうだなど、基本的な自分の傾向を理解することも大事だと思う。

心をみつめる方法 3/10

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ストレスを楽しむ方法② (心をみつめる方法 2/10)

2015-11-08 | 第三章「無意識の世界」

 自分の中では、普通に成長し普通に学校に行き、普通にサラリーマンになり、普通に家庭をもち・・・という人生を40歳台まで送ったように思う。しかし、生き甲斐の心理学に49歳の時に出会い大きく人生は変わってくる。その最大の驚きは「感情の意味」だったように思う。

 それまでの私は、日常の中では思考・感情・行動という人間の基本の中で、思考重視だったように思う。感情は時には煩わしくおもうことも。

 生き甲斐の心理学は、臨床心理系の学びで意識の世界だけでなく無意識の世界も大切にする。そして、自分の中の閉ざされた世界について、扉を開いてくれる知恵を提供してくれたようだ。

 無意識の世界というと、日々の意識された世界と関係ないように思うのだが、例えば私が今日のブログ用にアップした一枚の写真でも、自分の意識した世界のほかに何か無意識の世界を投影した彩があるように思えてならない。

 かつては自分というものは意識の世界の中心にポンとあるような感覚を持っていたが、信仰も関係あるのだろうが、無意識の世界も含め、意識の中心点ではない大きな世界に中心点を持つようになっていったようだ。

 そうなると、意識にのぼるものはわかりきったものではなく、違う様相をもってくる。端的なのは感情である。何故か湧きおこってくる不安感ひとつでも、新鮮な感覚で見つめることができるようだ。

 さて、無意識の探索のポイントは、思考ではなく感情である。感情をどうとらえるか先輩たちはいろいろ研究したようだが、理想と現実のギャップが感情という見方がある。これは単純だが私にはとても役に立つものだう。ある時は、自分の悩みをこれから解決したりした(特に意識の世界が大半の問題はわかりやすい)。

 

 そして、なかなか分かりにくい無意識の世界からくる感情。例えば、私は小学校1年の時に友達が交通事故で亡くなるという経験をしたのだが、そのときの感情を再体験(同じ場所で別のタイミングではあるが)し、感情を見つめる経験をした。その結果、体験の解釈が変わり一時はちょっと病的な世界に陥ったことがあったが、それを開放した経験をもった。

 これは、過去の感情であったが、感情の意味を考えることで頭で考えても分らない原因を捕まえたようだった。

 感情は、今ここにという場でしか現れない。そして、湧きおこる感情をみつめることで、例えば、自分はXXしている。それはXXXという理想をもち現実がXXXと考えているからだ。そんな風に思考で展開すると、いろいろなことが見え始め、次の行動に役立つことになる。

 ちょっと、今朝から頭に浮かんだことを以上にまとめさせていただいたが、昨日の続きを・・・

 いくつ問題があるかを数える効果をお話ししたと思うが、次のステップは、その問題の行方を考えることである。例えば、小説を早く仕上げねばということで焦っているという問題があるとする。このとき、単に焦るのではなく、ゆっくりと最善の結果。そして最悪の結果を予測することである。私の場合は、すぐには予測不可能だったので、もう一度、スタートポイントにもどりデータを整理し予測できるようにした。その結果最善は11月中旬。最悪は12月中旬。そんな予測がでた。レンジで考えるようになると(一般には最善だけを考えたり、最悪だけを考えたりする傾向があるようだ)とても平安感が増す。

 つまり、この最善と最悪のシミュレーション思考の中で、自分の理想と置かれている現実の見方が変わるようなのだ。思い込みというのは、自分の理想とか現実の把握を狂わせ、それによって生じる感情に巻き込まれるような結果をまねきがちだ。冷静に最善と最悪を考えることは、大きな知恵である。

 心をみつめる方法 2/10

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