物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Bolgna process

2009-06-26 11:42:35 | 受験・学校

ヨーロッパでボローニャ課程(過程?)というのが始まったが、それが機能しないということが問題になっている。ヨーロッパの大学でどこの大学で単位をとってもそれが認定されて大学を卒業できるということを想定した制度であったが、実際にはそれが機能しないらしい。

それで学生がそれに反対するようになってニュースになっているらしい。大学の学長の中でもこのボローニャ課程(過程?)が機能しないということに気がついて学生の反対運動を支持することを表明した人もいれば、まだそれに気がつかないで依然としてこの制度を推し進めるという学長とに分かれているらしい。

学部課程が3年でその後に修士課程2年の5年で学業を終えるという目論見だったらしいが、どうも3年の学部課程で辞めるという学生もいて、カリキュラムは複線になっているところもある。それで教授たちも忙しくなっているのはヨーロッパも全世界の例外ではないらしいが、それでも大学に入ればよっぽどのことをしないと卒業が出来るような日本の大学とは違う。

教授の権威は高く、単位認定権は強い。それで教授によってはなかなか単位を認定しない人もいる。すなわち、厳しく学問を取っている教授も多いということである。

ボローニャ過程がどういうものかとかその問題点がどういうものかは当事者でもまだよくはわかっていないという。どうも嫌な時代になってきている。


教育の崩壊

2009-06-20 13:28:12 | 受験・学校

教育の崩壊が始まっている。まだ完全には教育の崩壊が起こっているわけではないが、それがいま準備されている段階であろう。

午前中に久しぶりに小学校の先生方を中心とする学習会に参加した。そこで先生方から語られることはこういうことではこれからの教育はどうなるであろうという心配であった。具体的には先生方の日常業務が以前と比べてとてつもなく忙しくなっており、そのために授業のための学習教材の研究の時間はほとんど取れなくなっている。

また、無意味な数値目標の達成のための計画を立てることに時間をとられる。これはそういう計画を出すことが教育委員会から要請されるのだが、そのときに明らかに意味のないと思われる数値目標がないと計画が絶対に承認されないのだそうだ。

それでしかたなく文字的に数値目標を入れるが、それはどうやって客観的に検証できるようなものかといえば、どう考えてもそんなことはできない。かなり主観的な評価しか出来ないようなものだという。

これは教育委員会の問題かといえば、どうもそうでもないらしい。もっと上の文部省から来ているらしいという。そういう要請を出している文部省の官僚もむなしいかもしれないが、それを阻止することが出来るどころかむしろ促進しているという。

改革と称してつぎからつぎへと新しい制度とか試みが上から課されてくるが、これは本当文部省への批判を封じ込めるために出されているのではないかと邪推したくなるとまで言う先生もいる。

それに10年ごとに教員資格の検証が行われるようになっているが、これは職業としての教師を続けることができるかどうかを危ぶまれることになってさえいるという。これはある意味では優秀な人材は教職にはつかないことを意味すると思う。そういうことでいいのかどうか。

もちろんあるごくごく少数の教師の中には問題の教師もいるかもしれないが、ほとんど大部分の教師はそんなことはないだろう。それだけならず、独立志向で優秀な学生や教師を抑えるためという意図があるのではないかという。

これでは早晩、日本の国力は衰退するであろう。人の言うことだけ素直に聞く人だけつくってもしょうがない。


私立中学校入試問題

2009-05-28 11:34:30 | 受験・学校

姪の子が小学校5年だが、私立中学校の試験の準備で塾に通っている。先日東京に行ったときに姪の家を訪問したら、その塾の数学か理科の問題を姪の子がやっていた。それを見ていたのだが、なかなか一あたり量(内包量)が出てくるので難しい。それでもなんとか問題を解くことはできていたようだが、問題をFaXで送ってもらい、今朝解いて送ってやった。

さあ、役に立つかどうか。面積図(かけわり図)とテープ図を用いて説明をしておいたが、分かるかどうか。わかれば、図は描かなくてもいいのだが、説明だから図を繰り返して描いておいた。

二男がやはり中学入試を受ける頃に入試問題を解いて以来の中学入試問題であった。もちろん一あたり量がわかれば、問題はそれほど難しくはないだろうと思う。だが、小学生にはなかなか一あたり量は難しい。


大検

2009-04-13 11:40:59 | 受験・学校

大学検定試験で大学に入ったという学生がいま私の教えている学生にいる。先週第一回の講義の後にやってきて3次関数を知らないという。2次関数は知っているがという。私などは2次関数がわかっているのなら、3次関数だって同じようなものだと思うのだが、そうではないらしい。

人はなんでも自分のはじめに出くわしたものには面食らうらしい。それは私自身の経験でもそうだと思える。だからなんでもなじみになるには時間がかかるということだろう。学習の転移が起こりやすいものと反対に起こり難いものがある。

外国語でもフランス語の複数は例外はあるが、基本はsをつければいい。これは英語からの経験からはなじみやすい。だが、ドイツ語ではもちろんsをつけて複数になる語も外来の語等にあるが、基本的にはsをつけて複数にはしない。子どもはdas Kindだが、複数はdie Kinderでerをつける。女性を表すdie Frauはそれを複数にするにはenをつけて、die Frauenとしなければならない。

もっともこれなどは大して難しいことではないが、ドイツ語の特徴の一つである、文の枠構造などは英語的な頭からはとてもなじむことができなかった。いや、これは私の経験なので普通に人にはどうってことがないのかもしれない。

英語の先生にIch (habe) mein Herz in Heidelberg (verloren).というようにhabeとverlorenとが分離するのでドイツ語は難しかったといったら、英語でも古い英語はそういう表現があるのですと教わった。だから、その道の達人にとってはなんでもないことなのかもしれない(注)。

(2020.5.29 注) Ich (habe) mein Herz in Heidelberg (verloren). イッヒ ハーベ マイン ヘルツ イン ハイデルベルク フェアローレンとは歌の文句らしいが、ハイデルベルクで失恋したという意味らしい。文字通りの訳では「私の心をハイデルベルクで失った」とでもなろうか。なお、habeとverlorenにつけたかっこは、この二つ語でで文章の枠ができているということを強調するためであり、それ以外の意図はない。

Ich habe verloren mein Herz in Heidelberg. とは絶対にドイツ語ではならないことに注意しよう。英語だったら I have lost my heart in Heidelberg.となるのであろうが。


learnとstudy

2009-04-09 15:14:38 | 受験・学校

learnとstudyとを私は長い間勘違いしていたようだ。先日NHKのリトルチャロのテストの時間でlearnは言葉などをある程度習得していることをいうと説明があった。だからちょっと勉強したくらいだとstudyを使うのだと説明があった。

昔、学校で説明を聞いたのではstudyは大学で学ぶことを指すといわれたと思う。だから高校や中学校で学んだことはlearnを使うのだと。これは間違っていたのだろうか。例文はI learned French.との例文だったので話がちょっと違うのかもしれないが、どうも混乱を起こしてしまった。


新学期の授業プリント

2009-03-19 12:41:02 | 受験・学校

M大学の新学期の授業のプリントをやっと教務課にもって行くことができた。例年講義のノートと称するプリントとその中の演習問題の解答とその他の副教材である。

これは物理のe-Learningの資料ともしているが、そちらの方はどうなったか分からない。W先生に講義のノートを渡してあるのだが、入力をしてくれたかどうか。

M大学への非常勤講師も今年で4年目だろうか。はじめの年はある有名な方の本を教科書としたが、これは難しすぎた。それで反省して自分で講義ノートを作ってそれを使うことにした。


外国人留学生への日本語教育

2008-11-13 11:21:40 | 受験・学校

知り合いの女性が外国人留学生への日本語教育への手伝いをしている。ときどき話をもれ伺うところでも結構面白い話があるらしい。

他の文化の中で育った人がその文化圏から出て他の文化圏に住むだけでもいろいろのことがあるが、まして言語では思わぬ反応があり、日本語に関してでも日本人である私たちがうんとうなってしまうようなことがあるらしい。

文化が違うとその人の考え方も違ってくる。以前に人の考えていることがわかる超能力をもったという触れ込みの人がいたりしたが、これなどは絶対にありえない話である。というのは文化が違うと感覚も思考も違ってくるからである。だから、そういう超能力などは存在し得ない。これが異文化を、異言語をしっかり学んだ人の見解である。本当は別に異文化、異言語を学ばなくともわかっている話ではあるが。

ヨーロッパで電車の切符を窓口で買おうとして売ってもらえなかったという友人のいたが、彼はひょっとしたら、何かを考えて窓口の人の顔をよく見なかったからかもしれない。

これは私の子どもが小さいときにドイツでのことだが、小学校の友達が家の前を通りかかった。言葉ではKomm, komm hier !(こっちに、おいで、おいで)といったのだが、手招きが日本風であっちへ行けという風に取られたので友達は彼のところにはこなかった。私も挨拶を隣人に返さなかったというので、隣人の不興をかったことがあった。これは言葉の問題ではなくて、文化とか動作とか習慣の問題である。

10年くらい前にもうなるが、フライブルクの近くの町のレストランに入ったときに挨拶をしなかったら、不穏な空気が流れたこともある。これにはそのときどうしてだか理由がわからなかった。でもかならず「今日は」と挨拶すべきであった。そういう失敗はかなり多い。友人の言語学者はやはりそういう失敗の例をいくつか話してくれたことがあったが、内容は忘れてしまった。

私たちは郵便局や銀行等へ用事で行ったときに日本では「今日は」とは挨拶しないが、外国では絶対に挨拶をしないといけない。そうはわかっているつもりだが、実際になると挨拶の言葉が出るかというと自分でもあやしいものである。ああ、長年の習慣はなかなか変わらない。


フリースクール

2008-11-12 12:37:05 | 受験・学校

フリースクールも学校に入るのだろう。だが、普通の学校ではない。字を書けないし、読めない人や計算ができない人に小学校や中学校の教育を与えようとする学校である。または学校に行けなくなってしまった人にいつでも好きなときに学びにいけるようにする学校でもある。

先日テレビで見たフリースクールは子どものときに何らかの理由で小学校へ行けず、字を書けず、読めない人が字を習うという話であった。そして字が書けるようになって宿題での文章として原稿用紙に50ページもの文を書いてきたという感動的な話しである。題は「生きていてよかった」であった。いつも死にたいと思ってきたのに、いま字が書けるようになって「生きていてよかった」という。

マンツーマンで教えるボランティアの努力はあまり描かれていなかったが、人のこういう変化を見たら、ボランティアの努力も報われたと感じられる。もっとも教材はもちろん難しいものではないが、普通の教材であったように思う。もっと工夫された教材であってほしいというのは私の欲張った考えだろうか。


ITと教育

2008-11-01 11:45:10 | 受験・学校

昨夜、NHKの教育テレビで音楽をやっているかと思ってつけてみたら、アメリカのITの教育への普及の実態と討論の番組を見た。

わたしはある人と共同でe-Learningのコンテンツをつくっているのだが、そういうちゃちな話ではなくもっとITが教育に入り込んでいるという話らしい。

これにはコンピュータ会社(SUN)や出版社(Wilely)やその他の企業が乗り出してきている。

Sparknotes, CliffsnotesとかCurrkiとかいうようなものがあるらしい。こういうものが無料で使えるということになると教育の世界が変わってしまう。

もちろん、通常の学校教育の場もその必要性はなくならないのだが、先生の学生への宿題もインターネットで検索してそこから資料を取り、コピーアンドペーストしてレポートでも簡単にできてしまう。

先生の方もそういう安易な学生のやり方に対してその対策は講じてはいるが、それを十分に見破ることは難しいという。

特に難しいのはいつも数学とか物理のような学問のIT化ではあるが、それらもいつかは出来上がってしまうかもしれない。

e-Learningに関して以前から有名なのは金沢工科大学であって、ここは何十年か前から入学生の学力不足をe-Learningとそれを補助する教員たちで補ってきているはずだ。

また、数学のe-Learningでは私の知っているのは高知工科大学の数学の先生の作ったシステムが完備している。これはまだ発展途上であって、将来はもっとすぐれたものになるだろう。

私もいくつかのアイディアをもってe-Learningのシステムをつくろうとしているが、なにせほとんど一人でつくっているので、仕事が遅々として進まない。いい協力者が欲しい。


電子辞書

2008-10-25 12:41:19 | 受験・学校

若い高校生に聞くとこの頃はみんな電子辞書を使っているという。これはもうページを繰るという労力から解放されること、外国語の学習が辞書を引くことではないという状況を作り出したということで大いに歓迎されることである。

まだ電子辞書を私はもっていない。しかし、若いときに新聞で読んで知った、「辞書を引いたら、その語に赤線を入れた方がよい」というアドバイスをいまもって実行している。これは主に英語やドイツ語の辞書を引くときに行っている。電子辞書にはそういうことをすることができるのだろうか。多分いまのところそれはできないのではないか。将来的には以前にその語を検索したことを示すこともできるようになるだろう。

辞書に赤線を引くというのは以前にその語を引いたことがあれば、それを思い出すことにもなるし、第一たくさんある語の中で目立つことになるというのが、学習心理学上の利点である。私の英語の辞書ではまだ赤線が引いてある箇所は少ない。

これは英語の文を読むときにはほとんど辞書を引かないで、山勘で読むというのが普通であるからであるが、Dysonの「反抗としての科学(Science as rebel)」を読んだときは夜遅くに仕方なく辞書を引きながら読んだ。物理の書ならあまり使わないような凝った語が使われており、意味の見当が付かないことが多かったからである。現在ではこの本の翻訳がでているそうだが、まだ購入していない。


講義の面白さとは

2008-08-24 08:26:32 | 受験・学校

昨日の徳島科学史研究会年総会である講演者に「先生、講義で面白ってことはどういうことですか」という質問があった。講演者の答えははっきりとは覚えていないのだが、「面白いというのは面が白いと書きますから、思考がまったくできなくなるというか頭真っ白になるという感じですかね」いうような答えだったと思う。

その後の懇親会で私にとって面白いとは「驚き」を意味するといったら、それではそのときだけびっくりするだけで頭には残らないだろうといわれた。そうかもしれないが、びっくりするということの内容をそのときは話さなかったので、少し補足的に述べてみたい。

原子核の中には電子は定常的に存在するわけではないが、それにもかかわらず原子核から電子が飛び出してくるという現象がある。ベータ崩壊である。

そのことについて授業で問題提起してしばらく考えてもらう。電子が原子核から放出されるからには、そこに定常的に電子が存在するに違いないと誰でも素人的には考える。だけどそうではないといわれるとどんな可能性があるのか。論理的に困ってしまうのではないか。

少なくともそんなことが起こるのはどうしてかと疑問が生じて欲しい。そういった概念上の驚きを経験して欲しいというのが私の「講義ではびっくりして欲しい」という意味である。

すでに現代物理学を学んでいる人にはその答えは難しくはないが、やはり一時でも人類の出くわした難問について考えて欲しいのだ。

答えを現代物理学に詳しくない人のために記しておくと、それはベータ崩壊で電子はつくられて原子核の中から放出されるのである。もっと正確にいうと原子核の中では中性子という粒子として定常的に存在しているのだが、その中性子が陽子と電子とニュートリノに変換されて電子とニュートリノは原子核から放出されるのである。

答えを聞けば、「なあんだ」ということであるが、一瞬でもいいから疑問に思うという、そういう思考経験をして欲しいというのが、私の長年の授業をする者としての願いであった。

蛇足だが、朝永さんの物理の本、「量子力学 I, II」(みすず書房)とか「物理とはなんだろうか」(岩波新書)を読むとそういう問いがところどころにあって、それに対する答えはどうなるのだろうかとひきずられて読むという趣がある。朝永の書が名著といわれる所以はこのミステリーを読むような感じがするところにあるのではないかと思っている。


劇場型か自動車学校型か

2008-08-02 10:20:38 | 受験・学校

「学校は将来的には劇場型か自動車学校型のどちらかになる」といったのは数学者の遠山啓である。

私のM大学での講義はいくらか劇場型である。これは長年勤めていたE大学での講義とはまったく考えを異にしている。

E大学では気持ちとしては自動車学校型の講義をしていた。

自動車学校型の講義は実利的ではあるが、面白いはずがない。もっとも面白くなくても車の免許をとろうとしている者にとっては免許をとるまでの一時的な在籍だから、それほど文句は出ない。

いや、私の講義は文句をいっぱいもらった。ひどい学生には死ねとまでののしられた。もっともこれは直接言葉として言われたわけではなく、授業アンケートにおいてこう書かれていた。

授業中の不真面目な態度を注意したり、私の独特の言い回しで授業で学生に皮肉を言ったりしたのだから、この仕返しは当然ともいえる。

彼らにとってはなぜ学ばなくてはならないのかわからないことを講義で聞くのだから、それも当然だったろう。

学生に少し洞察力があれば、私の講義の重要さはわかっただろうが、そういった洞察力をもった学生はいたとしても少なかった。電気電子工学には量子力学など学ばなくてもいいと教官でさえ思っている人もいたかもしれない。

電磁気学は目に見えず難しいというが、量子力学はそれにもまして抽象的でつかみどころがない。これは初期の私の学生の述懐である。

そうかといって量子力学を朝永の「量子力学 I 」(みすず書房)みたいな風に短い時間内で講義をするわけにはいかない。量子力学を学ぶにはもっと近道をすることができるはずだ。ということで即物的な講義となる。

私自身は原子物理といったいわゆる量子力学の前段階を学んだ後で、さらに量子力学へと進んだ。解析力学のHamiltonの正準方程式も学んでいた。

だが、工学部の学生にはそういうことは知らないで量子力学を学ぶので、Hamiltonianを系の全力学的エネルギーとして定義し、その式でSchr"odinger流の量子化を行う。

すなわち、運動量p_{x}を x での微分演算子に、エネルギーEを時間 t での微分演算子に置き換える。いわゆるSchr"odinger流の量子化である。そうやって、Schr"odinger方程式を導く。後は一見したところ数学の微分方程式の解法のようである。

計算はできるだけ簡単になるように目的に沿うようなアレンジはしたが、学生には面白くない。何か式の計算だけをやっているような印象をもったであろう。

多くの人がどのような量子力学の講義を学生のときに聞いたかは知らないが、私自身の聞いた量子力学の講義もそのようなものであった。

自分ではずいぶんと苦労をして数式演算の部分を簡略化したつもりだが、学生にとっては私の量子力学が、はじめでかつ最後の量子力学だったので、ずいぶんと複雑で面倒との印象をもったらしい。

朝永の「量子力学 II 」(みすず書房)では朝永自身がはしがきで、「この II 巻では物理が数学の陰に隠れたかのようである」といったことを述べている。量子力学の講義はどうしてもこのような印象から逃れることは難しい。


試験の答案から

2008-07-31 11:34:30 | 受験・学校

28日に試験を行った。正規の問題を3問出したが、それでは心もとないので3問救済問題を出した。正規の問題に答えられなかったときに1問だけ救済問題から選択をして答えられる。

昨年も同じように出題をした。救済問題は2問は純然たる物理の問題で1問だけ講義を受けて印象に残ったことを述べよという問題である。残念ながら、昨年同様にこの設問を選択したがほとんどであった。

しかし、そのためにある程度授業の評価がわかる。辛口の批評を書いたからといってそれがよくできた評ならば、悪い点を与えたりはしないが、誰もそういう危険を犯す学生はいないようだ。それでこの試験の答案はもちろん大割引で読まなければならないのは承知している。

だが、物理を高校で学んだことがない人でも物理的な考え方を知って楽しくなったとか興味をもったとかいってくれると少しは教師として役に立ったのかなと慰められる。というのは授業の後のアンケートではわからないという学生が3-4割いたと思うからである。

もちろん、授業アンケートでもよくわかったといってくれた学生も3割か4割はいた。中には授業の後でそのアンケート用紙を整頓してくれた学生もいつもではないがいた。

微分積分の初歩を教えてから物理の授業に入ったが、今年はあまりそれに対して反発はなかった。むしろそれが棒暗記をしなくていい方法なのだとその意図を正しく理解をしてくれた学生もいた。

微分積分も数学でやるような教え方ではない。もっと即物的に教えている。物理と数学とは不即不離の関係にはあるが、やはり数学とは違うと思う。

授業プリントの注釈をわさびのようだと評価をして楽しんでくれた学生もいたし、ある演習問題の解答をつけずに参照する書物だけを書いておいたのにそれを探して読んでくれたと思える感想もあった。それは授業で教えたことではないが、その意図を十分に汲んでくれたという点で評価できる。

力のモーメントで回転式のドアの回転軸のところから取っ手のところまでの距離を示すためにチョークで線をドアに書いたが、そういう教え方を評価してくれた人とか机をひょいと持ち上げて斜めに傾けてその斜面上でチョークを転がせて見せたことなどが印象に残っているという学生もいた。

慣性質量の概念を理解させるためにプリントで私のスズキワゴンRを何人かで押してみようとかいてそれを実際にやってみたらいいのですがねといっておいたらそれが面白かったといってくれた学生もいた。

エントロピーも何回も質問の出た事項だったが、最後の試験のときは出席番号順に座席が指定されているので、こういうときはエントロピーは小さいのだなと思ったという感想もあった。

もちろん、これは彼らが単位を取るための一つの方便であって、全部が全部をまともにうけとめるべきではないだろう。しかし、先生というのはいつも暖簾を押しているようなものであるから内心ではうれしくないはずがない。

しかし、彼らの好意的な反応にもかかわらず、試験を通してみた物理の理解度は残念ながらまだまだ低いと思う。でも、彼らの心に物理に対する恐怖心を打ち破る小さなひび入れることができたかなと思う。


授業の終わり

2008-07-14 13:20:15 | 受験・学校

なんでも始まりがあれば、終わりがある。早いもので私のM大学での基礎物理学の授業も今日で終わりとなった。再来週に試験があって終わりとなる。

さすがに今日は最後の授業だったので質問をされても答えることはできませんと断っていたら、質問はなかった。ねぎらいの言葉とよくわかったという人が半分とやはりよくわからなかったという人が半分に分かれた。

そもそも理解を要する講義で講義を聞いていただけでわかるなんてことは私は信じない。自分でわかろうとする努力なくしてわかることなどないと思う。

でもわかったといってくれた人が半分近くいたということは高校時代とか大学入学のための受験勉強で自分がいくらかわかろうとして勉強したことがあったからに違いない。そういう予備知識があれば、理解可能だったということだろう。

一方、難しかったとかわからなかったという人には私の授業をよく聞いてかつ教材のプリントを読んだりして努力をしなかったのなら、わかることは難しかろう。もっともそうしてもわからなかったという人がいるのならば、謝るほかはないが、そういう人にとっては理解のヒントは十分に与えたつもりである。

いつも思うが、なんでもわかろうと思う意思をもっていない人にはものごとをわからすことなどできはしない。これはわかるという行為がとても個人的な行為だということから来ていると思う。

来年この授業をすることができるのかどうかはわからない。講義をするという人生は今年で終わるつもりでいる。


知的堕落

2008-06-23 16:03:57 | 受験・学校

今日から基礎物理学で「電気と磁気の現象」に入る。電気と磁気の範囲に入る用語をいくつかか書き出してそれを電気と磁気の現象として5つの種類に分けたうちのどれに入るかという設問を出しているが、その答えを略として書いていない。そうしたら、答えを教えてくれというアンケートの要望が多かった。なんでも自分で調べてみるという考え方はないのだ。

また調べなくてもいいし、自分の知っている範囲で判断すればいいのだ。問があるとその正解があり、それを覚えてテストをクリアしようという知的堕落があると思う。あえて答えを与えないという積極性を認めていない。熱のところでも図を描いて考えてみるところの解答を略と3問ほど書いたのでそれに対する反発もあるのだろうが、これは授業でやって見せたところなので、解答が略でも許されるはずである。それにその解答を自分でして見なくても以後の授業の理解には困らない。

どうもなんにでも模範解答があってそれを見ればよいという考えが強い。嘆かわしいことよ。