「2014年の人工知能」というタイトルで作家の高村薫さんが岩波のPR誌『図書』8月号で書かれている。
それはこのブログでも紹介したことのあるディープ・ラーニング(deep learning: DLと略称)のことである。
DLは多量の情報を読み込み、学習するというソフトである。無作為かつ大量の情報を読み込んで文法を見出し、意味づけをしていく(ほぼ上記記事より引用)。
前にも指摘したのだが、これは武谷三段階論の本質論的段階に多量のデータから一挙に迫るものなのかどうかということを考えたいというのが前のブログの趣旨であった。
たぶん、一挙に本質に迫ることはできず、現象論的段階の一つの法則を見つけるという位置づけでいいのではないかと考えている。
そういう手法でまとまった法則がもし本質論的な段階のものであるとするならば、武谷のいう実体論的段階はいらないということにでもなろうか。
しかし、そういう考え方で本質へとはなかなか迫れないのではないか。
だから、「コンピュータの知性が軽々と人間の知性を越えていく世界が絵空事ではなくなった」とは考えてはいない。もちろん、ある種の感慨を抱くことはまちがいないが。
それで、DLをつくっている人間がどういう思想でDLを構築しているのかが知りたいところである。
コンピュータに支配される人間というのは確かに考え得る未来世界ではある。しかし、もしそういう世界が嫌ならば、人間はそういうコンピュータを破壊してしまうことだってできるはずだ。
もちろんそれはコンピュータにとって、原始的段階に留まることを意味するのかもしれないけれど。
映画などのフィクションの世界ではすでにそういうことが考えられているのではないか。
数学者、新井紀子さんの研究は「コンピュータの不得意は何かを明らかにする」である。そして人間の仕事はコンピュータの不得意なことに特化すべきだという主張とも関係しているテーマである。
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