今日の朝日新聞に「佐村河内氏問題への自戒」という氏に取材して記事を書いたことのある、Y記者の記事が載った。
それによると交響曲「Hirosima」の専門家の評価は必ずしも高くなかったらしい。ということは専門家はある程度きちんと曲のレベルを分かっていたのかもしれない。専門家の評価のことは分かった。
問題はその評価を知りながら、あるストーリを記事にしたり、放送番組にした担当者の識見が問われる。
なんでもあるストーリの記事をつくったり、番組を編成するにはそれは曲を鑑定をした専門家の仕事ではない。担当の記者の役割であったり、ディレクターの役割であろう。ある重要な役割をその担当をした人は担っている。
朝日新聞のそういうコラムの担当者ともなれば、私のような音楽の素人であるとは考えられない。NHKの番組のディレクターもそうであろう。そのときに自分の構想とは違った意見も聞いたのであろうが、自分の記事や番組のためにはそれらを切り捨てないことには記事や番組ができない。
そういうことがあるのである程度はしかたがないが、それでも常に報道に携わる者としてはいつでもそのストーリから外れた意見や考えにも注意しておかなくてはならない。
Y記者は書く。「しかし、音楽を聴くことは、そうした評価を越える、極めて個人的な体験である。」と。そのときにご自身の個人的な体験まで含めておられるのであろうか。そこら辺が知りたい。
一般にいろいろなストーリに私たちは惑わされやすい。それでできるだけそういうストーリを知らない方に音楽を聴いてもらい、その方々の意見を参考にする方法でしか惑わされた自分を正す方法がない。
朝日新聞の記事を書いたY記者やNHKの担当だったディレクターを糾弾するというそういう意図を私はもっていない。
いつでも私たちはそういう間違いをする可能性をもっているのだから、いかにそれから逃れる術を身につけたらよいかということについての一提言にしかすぎない。
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