(御山前城 豊田市保見町御山前 1990年4月25日)
伊保西城から御山前城へと足を運ぶ。
愛智郡岩崎城主丹羽氏次は、慶長五年(1600)所領地であった加茂郡上伊保の地に城(陣屋)を構え知行に当たった。寛永十五年(1638)氏次の子氏信のとき、恵那郡岩村城に転封し、その後43年間は三河代官鳥山精元の知行となった。続いて幕府領となったが、天和元年(1681)陸奥浅川より本多忠晴が移封し、宝永二年(1705)には石高が加増され一万五千石の大名となった。そして延享三年(1746)忠如のとき、遠江相良、更には奥羽泉に転封されたのを機に廃城になったという。
城跡に住む方が、その祖父に聞いた話によると、城跡の真中を通る道の北側に城屋敷(二枚目写真)と斬首場(三枚目写真)があり、南側には武家屋敷があったのだという。城跡の東側に高さ2m、幅2m、長さ8m程の土塁が突き出ているところがあるが、以前は囲んでいたということであり、その囲まれた場所で敵の捕虜の首を斬り、血の付いた刀を同所にあった井戸の水で洗ったということである。然しその井戸は残っていない。
「敵の捕虜」の首を斬ったということであるが、この城は前述したように関ケ原以後、丹羽氏が転封して築いたものであり、敵の人物があるとすれば、それ以前の三宅氏の城、伊保西、東城に織田、松平勢が攻め落城した際に三宅氏残党を斬首した場所ということになる。
何れにせよ、長い年月言い伝えられたものであり、明確なことは表せないが、丹羽氏以後ではない伝承と思われ、それ以前に前身となる城があったとも考えられよう。
城の南端には高さ1m強の石垣の一部が残っている。言い伝えによると、石垣上と建物との間には「犬走り」程の空間があったのだという。そしてこの石垣は、南西側城域全体に施されていたそうで、現在それら石材は周辺民家の庭石、城跡南端にある秋葉神社の土台等、用途を変えて使用されている。