(知立市八橋町)
業平塚から城跡へ足を運ぶ。
周囲より一段高いところに城跡は存在し、郭とみられるところは耕地と「葦香城跡公園」になっている。
平安初期、村上兼利居城といい、来迎寺城の村上兼房と同様、寺社奉行ではなかったかとされている。
村上氏の後、斎藤氏居城とされるが、平成2年(1990)郭内における、範囲確認調査が行われ、戦国時代の堀、土塁、焼土を検出、斎藤氏はこのとき居城かと推定できる。
また、付近には城下、登城の地名があり、旧字には葦香城(あしかじょう)が存在した。
大正7年の三河鉄道敷設の際には、土取りしたこの地から一石五輪塔等が出土し、城跡石碑の横に置かれている。
城跡南西側には「夜なき石」がある。城が存在した当時、往来に邪魔になると、無量寿寺に村人六人で運び、庭石にしたところ、石が毎晩のように泣き出したという。そこで元のところへ戻そうと、村人六人で運ぼうとすると、二人で運べるほど軽くなっていたのだという。
更に南側には「高井治右衛門輝勝邸阯」という碑が立つが、詳細なことはわからない。
業平塚から城跡へ足を運ぶ。
周囲より一段高いところに城跡は存在し、郭とみられるところは耕地と「葦香城跡公園」になっている。
平安初期、村上兼利居城といい、来迎寺城の村上兼房と同様、寺社奉行ではなかったかとされている。
村上氏の後、斎藤氏居城とされるが、平成2年(1990)郭内における、範囲確認調査が行われ、戦国時代の堀、土塁、焼土を検出、斎藤氏はこのとき居城かと推定できる。
また、付近には城下、登城の地名があり、旧字には葦香城(あしかじょう)が存在した。
大正7年の三河鉄道敷設の際には、土取りしたこの地から一石五輪塔等が出土し、城跡石碑の横に置かれている。
城跡南西側には「夜なき石」がある。城が存在した当時、往来に邪魔になると、無量寿寺に村人六人で運び、庭石にしたところ、石が毎晩のように泣き出したという。そこで元のところへ戻そうと、村人六人で運ぼうとすると、二人で運べるほど軽くなっていたのだという。
更に南側には「高井治右衛門輝勝邸阯」という碑が立つが、詳細なことはわからない。



