(大垣市墨俣町)
美濃路の起宿と大垣宿の間にある宿場町。古来鎌倉街道の宿場でもあった。
またこの地は長良川墨俣の渡しと、川湊でも栄えた。墨俣城が一夜城といわれるのも、水運によって築城資材の調達が容易だったからである。
「すのまた」の名の由来も、揖斐川や長良川が網目状に分流合流を繰り返した中洲の付け根であったことから「洲俣」と名付けられたものである。故に古くから洪水で苦しめられた地であり、治水対策によって輪中が形成された。
街道筋には随所に往時の風情がみられ、光受寺、廣専寺、等覚寺、本正寺、満福寺、明台寺といった寺町が形成され、その一角には延喜式神名帳にも名が見える、墨俣神社が鎮座する。
大正時代、犀川事件と呼ばれる治水問題が発生した犀川の堤防には、この時期ならではの桜並木がその存在を主張していた。
美濃路の起宿と大垣宿の間にある宿場町。古来鎌倉街道の宿場でもあった。
またこの地は長良川墨俣の渡しと、川湊でも栄えた。墨俣城が一夜城といわれるのも、水運によって築城資材の調達が容易だったからである。
「すのまた」の名の由来も、揖斐川や長良川が網目状に分流合流を繰り返した中洲の付け根であったことから「洲俣」と名付けられたものである。故に古くから洪水で苦しめられた地であり、治水対策によって輪中が形成された。
街道筋には随所に往時の風情がみられ、光受寺、廣専寺、等覚寺、本正寺、満福寺、明台寺といった寺町が形成され、その一角には延喜式神名帳にも名が見える、墨俣神社が鎮座する。
大正時代、犀川事件と呼ばれる治水問題が発生した犀川の堤防には、この時期ならではの桜並木がその存在を主張していた。