田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

道北の旅を振り返る №4 北海道遺産「稚内北防波堤ドーム」

2022-07-08 13:17:23 | 北海道遺産関連

 稚内はその昔(太平洋戦争以前)、南樺太が日本領土だったころに樺太(サハリン)と北海道(稚内)を結ぶ航路の北海道側の始発港だった。その始発港に造られたのがギリシア建築を思い起こさせるという「稚内北防波堤ドーム」である。

     

 実は、私は5年前にこのドームのすぐ傍まで行っていながら、その存在を知らなかったために見逃したという失態を演じていた。というのも2017年の6月に利尻山登山に向かうとき、車を「稚内道の駅」駐車場に停めてフェリーに乗ったのだが、その駐車場というのがこのドームから歩いて5分もしないとこにあることを知らなかったのだ。

 今回、私はその「稚内道の駅」駐車場で車中泊をするために車を停め、その足で「稚内北防波堤ドーム」に向かった。

 すると歩いて数分もしないのに、その威容が目に入ってきた。

 この防波堤は昭和6(1931)年から5年間かけて建設されたそうだが、その形状が単なる防波堤ではなくドーム状になっていることから「稚内北防波堤ドーム」と名付けられたという。ドームの高さは約14m、長さ427mでその形容が古代ギリシア建築を彷彿とさせるところが注目されたようだが、なるほどいわゆるエンタシス状のコンクリート柱が70本並んでいる様は壮観である。私はせっかくの機会だったのでありとあらゆる方向から写真を撮った。

 それではそれらの写真の全てを若干のコメントを交えながら紹介することにします。

     

     ※ 「稚内北防波堤ドーム」全体を眺めたところです。このドームの柱が70本だということです。

     

      ※ コンクリート製の円柱は上部にかけて徐々に細くなるエンタシス状の柱なのが特徴です。

     

     ※ ドームの長さが427mとなると向こう端が確認できないほどです。

      

      ※ ドームの中央付近に写真のような「稚泊航路記念碑」が建てられていました。

     

     ※ ドームの背後がどうなっているのかと、見ようとしたのですが…。

     

     ※ これ以上は無理でした。写真のように海が背後に迫っているのが分かります。

     

     ※ 柱を手前から順にみてください。途中から柱にヒビが入っているが確認できると思います。     

     

     ※ 近づいてみると、ご覧のように海水の影響でしょうか?全体にヒビが入っています。

     

     ※ ヒビが入り老朽化した柱は修繕工事が施されていました。

     

     ※ ドーム前の岸壁には海上保安庁の巡視船が係留されていました。

     

     ※ こちらは稚内駅構内にあった現在の鉄路の最終地点を表す表示です。

     

     ※ 後ろの建物はJR稚内駅です。隣の道の駅とは繋がった構造になっていて、昔の鉄路が今より延びていたことを表す図です。

     

     ※ 鉄路の向こうを見てください。さらに鉄路は伸び防波堤ドームまで延びていたことを表しています。

 「稚内北防波堤ドーム」は、その特異な形容と共に日本最北の地に立地しているということから多くの人々から関心を寄せられている。防波堤は樺太への始発点という役割を終えた後、戦後は利尻・礼文行きのフェリー乗り場として利用されていたようであるが、現在はその役割も終え、単なるモニュメントとなっている。しかし、85年あまりの歴史を有して今や稚内市にとってはなくてはならない市のシンボルとなっているようだ。

 

◇稚内公園

 稚内公園は稚内港のあるところの平地から、いきなり立ち上がるように稚内市街地を一望できるような高台(ここがすでに宗谷丘陵の周氷河地形の一部である)に公園が展開している。案内では、その高台のもっとも高い地点に「稚内市開基百年記念塔」が建っていて、その展望台からは「周氷河地形」を見ることができるというので訪れることにした。ところが当日は生憎の海霧が発生して、まったく見通しが利かなく、記念塔の頂上部などは霧の中に隠れてしまうという残念な天候となり諦めざるを得なかった。

 しかし、稚内が樺太との交通の要衝にあったことや、寒冷の地だったという特異な街ということもあって、公園内には稚内ならではの記念碑などが数多く点在していた。それらを一応チェックしてきたので、それらを写真と共にお伝えしたい。

     

     ※ 「稚内公園」の丘の途中まで上った時に、「稚内北防波堤ドーム」の全体像を写すことができました。

     

     ※ 同じくドームの全体像ですが、霧のためにクリアな映像とはなりませんでした。

【稚内市開基百年記念塔】

     

     ※ 稚内公園の最上部、海抜170mのところに建つ高さ80mの「稚内市開基百年記念塔」は先端の方が海霧のために霞んでいました。(下の写真も)

           

    

【南極観測樺太犬訓練記念碑】

      

 

【測量の碑】

      

 

【樺太犬供養塔】

      

 

【望郷の樺太】碑

      

 

【樺太島民慰霊碑(氷雪の門)】

 かつて日本領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑として彫刻家・本郷新の手によって製作された碑である。映画「氷雪の門」が全国的な評判を呼んだことも人々の記憶に残っている。

      

 

【九人の乙女の碑】

 1945年8月20日、樺太真岡へのソ連軍侵攻に際して、真岡郵便電信局で連絡業務に当たっていた電話交換手の女性12人のうち9人が青酸カリを飲んで自決した事件の犠牲者を傷み建立された記念碑である。

     


道北の旅を振り返る №3 北海道遺産「天塩川」

2022-07-07 15:07:36 | 北海道遺産関連

 天塩川というと、北見山地の天塩岳を水源として天塩町まで流れる長さ256kmに及ぶ北海道第2位(日本第4位)の長さを誇る河川である。私はこの長大な川をどのように把握するか思案しながら旅立った。

 今回、旅立つ前に経路を検討していたところ、天塩川の河口近くで橋を渡るところが一か所あった。さらに音威子府を通過する際にも天塩川に近づくので中流域で眺めることができるのではと思っていた。そして全体像は天塩町にある「天塩川歴史資料館」で把握することができればと考えて旅立った。

◇天塩川歴史資料館 

 まず経路からいって「天塩川歴史資料館」を訪れることが第一となった。

   

   ※ レンガ造りの資料館は、前天塩庁舎を活用したものだそうです。格式を感じます。

 資料館では、天塩川についてその沿岸を調査した松浦武四郎らの足跡が図示されていたが、いずれも相当な苦労をしながらの探査行だったことが偲ばれる。そうした資料の中に天塩川全体を図示したものがあった。それを見ると天塩川沿いに美深、名寄、士別などの地名があり、それらの市町は私が帰路に南下する経路と重なっていることが判明した。もしかすると、私は天塩川をところどころでチェックすることができるかもしれないという期待を抱くことができた。

   

   ※ 天塩川の流域図です。これを見て、私は何ヵ所かで天塩川がチェックできそうだと思いました。

   

   ※ 天塩川流域には松浦武四郎と前後して3人の探検家が探査したということです。

      

   

   ※ 天塩川を行き交った舟ですが、武四郎が用いた舟は子れより小型の二人乗りだと言われています。

◇天塩川

 肝心の天塩川であるが、私は天塩から道々106号線を海岸沿いに北上するルートを取った。すると天塩川の河口からおよそ6kmのところで天塩川を横断する橋を渡る。ここでまず一枚の写真を撮った。今思い返すと、天塩町の街中で日本海に注ぐ本当の河口の様子も見たかったと思ったのだが、後の祭りだった。

 この後、天塩川に接するのは翌日、稚内からの帰りに音威子府町に入った時だった。「音威子府橋」のところでチェックしたが、天塩川はまだまだ大きな流れだった。

 音威子府では、「音威子府橋」より8キロほど下流になる松浦武四郎の「北海道命名之地」碑のところと、次は「音威子府橋」から10キロほど上流にあたる「天塩川温泉」のところでチェックすることができた。

 その後は「名寄大橋」のところ、そして最後は上士別のところに架かる「士別橋」のところでチェックすることで天塩川に別れを告げた。さすがに「士別橋」までくるとやや流れの幅は狭くなったかな?と思わせられた。流れが中流域に入ったということだろう。いずれにしても天塩川は大河である。

 天塩川の下流から撮影が可能だった士別橋までを順に並べていくこととする。

  ※ 天塩川河口に近い「天塩大橋」から撮った天塩川です。(上が上流を、下が下流を撮ったものです)

   

   

   ※ 音威子府筬島の「北海道命名の地」碑のところで撮ったものです。

   

   

   ※ 音威子府大橋のところから撮ったものです。

   

   ※ 川の向こうに音威子府市街が見えています。

   

   ※ 宿泊した天塩川温泉にところで撮ったものです。

   

   

   

   ※ その天塩川温泉のところでは、カヌーで遊ぶ人たちが休憩するこのようなポートが設けられていました。

   

   ※ 天塩川温泉のカヌーポートです。(木が払われ芝生が張られています)

 

    ※ 名寄大橋のところで撮ったものです。(少し川幅に変化が…)

   

   ※ 最後、士別橋のところで撮ったものです。かなり川幅が狭くなっています。

   

   

 

◇「北海道命名の地」碑

   

 江戸時代の探検家・松浦武四郎は当時蝦夷と呼ばれていた北海道に計6度もの探検・探査を実施した人として知られている。その蝦夷探検の5度目になる安政4(1857)年に行ったのが天塩川を遡り、そして下った24日間の探査行である。武四郎は河口からアイヌの手助けを得ながら丸木舟で遡り、現在の和寒町奥まで分け入り、水源である天塩岳を確認して帰路に就いたという。その間、上流に向かうこと17日間、帰路は下流に向かうことで7日を要して河口に着いたという。都合24日間の探査行だったという。

   

 その途中、現在の音威子府から8キロほど下流になる筬島(おさしま)という地で、武四郎はアイヌの長老から、この大地に生まれた人を「カイ」と呼ぶことを聞き、「北にあるアイヌの人々が暮らす大地」という意味を「北加伊道」に込めたとされるが、そのことを聞いたところが筬島だったことから、この地に木製の「北海道命名の地」碑が天塩川沿いに立てられていた。その傍を天塩川がゆったりとした流れを見せていた。

                           

※ 音威子府特別編

 音威子府村は北海道内で最も人口が少ない自治体(本年5月現在679人)として知られている。しかし、特色ある事柄が数々あることでも知られている。私はこの機会にそれらを訪ねてみることにした。

◇音威子府駅の「黒い駅そば」

 JR宗谷本線の音威子府駅の駅そばは「日本一うまい駅そば」とも称されて人気を博してきた。その駅そばは「常盤軒」が経営していたが、開業は昭和8(1933)年というから凄い。開業以来80年を超していたが、三代目の西野守さんが病気に罹り休業を余儀なくされ、さらに西野さんがお亡くなりになったことで2021年2月に閉店してしまい音威子府の駅そばの歴史は閉じられた。

   

   ※ JR音威子府駅です。

   

   ※ 「常盤軒」が営業していたときのまま店舗が遺されていました。

 しかし、そのことを惜しむ声が大きかったのだろう。「音威子府道の駅」でラーメン店を開業した「天北龍」さんが「音威子府の黒いそば」を提供していると知って、私はそこで「かき揚げ入りそば」(650円)を食することができた。黒いそばに一瞬ギョッとしたが、食してみると野趣たっぷりの風味としっかりとしたコシが感じられ美味しくいただくことができた。

   

   ※ 音威子府道の駅です。

   

   ※ その道の駅で「音威子府そば」を食することができました。

◇おといねっぷ美術工芸高校

 音威子府の特色の一つに、「工芸科」だけに特化した高校がある。音威子府を離れようとしたとき、高校の名を目にしたので寄ってみることにした。

   

 同校は、美術工芸に興味関心がある高校生が全道・全国から集まることで有名である。私が高校を訪れたのは3日の日曜日だったが、学校祭の準備ということで生徒の姿もあり、一人の生徒さんとお話することができた。すると、全校生は現在110名で、そのうち村内出身者はわずか1名で、道外から23名、道内から86名という構成だと聞いた。

   

 生徒の学ぶ意識は高いようで、以前札幌での展示会で見た生徒たちの作品のレベルが相当に高かったことを記憶している。また、同校は地域の自然を生かしたクロスカントリースキーの強豪校として名を知られ、全国大会の常連校である。オリンピック選手も二人排出していて、その面でも注目の高校である。

◇エコミュージアムおさしまセンター(旧砂澤ビッキ記念館)

 音威子府というと、アイヌ民族出身の木造彫刻家だった故砂澤ビッキ氏が廃校々舎をアトリエにして精力的に創作活動を展開し、その作品を展示する施設がある子ことで知られている。私が記憶していた「砂澤ビッキ記念館」を訪れることを楽しみにしていたのだが、村の案内に「砂澤ビッキ記念館」の名は見当たらなかった。しかし、よく見てみると、その後継施設が「エコミュージアムおさしまセンター」だと知った。センターのある筬島地区は音威子府本町から約8キロ天塩川沿いを下流に下ったところにあった。外観はくたびれた木造の建物で、とてもミュージアムとか、記念館とか思えなかったが、駐車場の表示があったのでなんとかそこが目的地だと認識できたほどだった。

   

   ※ 旧筬島小学校々舎を利用したエコミュージアムです。

   

   ※ エントランスにも目立つ表示がありませんでした。

 しかし、内部は素晴らしかった。砂澤ビッキの大胆さと、繊細さを併せ持った作品の数々が廃校校舎全体に展示されていた。

   

   

        

 砂澤ビッキは廃校となった旧筬島小学校々舎で1958年から約10年間創作と生活拠点にしたという。旧校舎内にはそうした砂澤ビッキの息吹が今も感じられるようであった。

   

   ※ 砂澤ビッキさんが使用した木工器具の数々が展示されていました。

        

 ※ 砂澤さんの死後、仲間の手によって砂澤さんのデスマスクが作成されたそうです。

   ケースの中の白い石膏製のものが砂澤さんのデスマスクです。


道北の旅を振り返る №2 北海道遺産「留萌のニシン街道」

2022-07-06 14:49:53 | 北海道遺産関連

 これまで私は何度かニシン番屋を見てきた。しかし、今回訪れた小平町の「旧花田番屋」は、これまでのどこよりも広壮で豪華な造りだった。また、留萌市の「旧佐賀家漁場」もニシン漁場の全体像がよく分かる造りとなっていた。しかし「旧岡田家番屋」は…。

 北海道のニシン漁は江戸時代の中期ころより盛んとなったようだが、当時は松前藩によって漁が厳しく制限されていた。明治の世になって自由にニシン漁が行えるようになると、留萌地方を中心に網元を中心とした大人数による定置網漁が盛んになったそうだ。その始まりが弘化元年(1844年)に留萌の礼受にニシン漁場を開いた佐賀家だという。

 今回は「北海道遺産」に登録された「旧佐賀家漁場」、「旧花田番屋」、「岡田家」を訪ねた。

 ところで私はリード文でも触れたが、これまで何度かニシン番屋を見たことがある。記憶に残っているだけで余市町の「旧余市福原漁場」、小樽市の「鰊御殿」、北海道開拓の村に移築・復元された「旧青山家漁家住宅」などである。これらに共通するのは、網元と呼ばれる親方とヤン衆と呼ばれる出稼ぎの漁夫たちが一つ屋根の下で起居する形態を取っていることである。もちろん住む部屋などは厳然たる違いがあったが、非常に珍しい形ではないだろうか? 今回訪れた番屋も同様であった。

◇名もなき番屋 

 ナビを頼りに国道231号線を走り留萌市の礼受地区に入った。それらしきところを探しながら車を進めていると道路傍に大きな建物が見えた。「これなのでは?」と思い、車を停めて建物の周りを伺ったが何の表示も見当たらなかった。ちょうど地元の方らしい人が自転車で通りかかったので、「これが佐賀家の漁場だろうか?」と伺うと、「そうだと思います」との答えを得たので、建物の写真を撮り、周りを写した。

   

   ※ 私はすっかり「旧佐賀家漁場」のニシン番屋だと思ったのですが…。

 

   

   ※ 横から見てニシン番屋の様相を呈しています。

   

   ※ 建物の横にはニシンを茹でた釜や錨のようなものが置いてありました。

 「これで一つゲット!」と思い車を走らせたところ、そこから間もなく本物の「佐賀家漁場」が現れたのだ。つまり確かにこの建物もニシン番屋の一つなのだろうが、後世には特に伝えられていない番屋の一つだったのだろうと思われた。

 そういえば、増毛町の「千石蔵」で国稀酒造の社員とお話をしたとき、「街道には名前の知られていない番屋もけっこうありますよ」と言っていた。そうした番屋が街道筋にはもっと他にもあるのかもしれない。

 

◇旧佐賀家漁場

   

   ※ こちらが本物の「旧佐賀家漁場」のニシン番屋の母屋でした。屋根が青いトタン葺きになっているのが…。   

 「旧佐賀家漁場」の前には「ニシン街道」と書かれた標柱が立てられていて、今度は直ぐに「北海道遺産」に登録された漁場の一つであることが確認された。ここは番屋の母屋だけでなく、佐賀家が営んでいたニシン漁に関する倉庫や舟の倉庫など全てが一体となって保存されているところに価値がある。さまざまな家屋を取り巻く中心部は広場のようになっていて、当時はニシンの干場だったという。そこに座って往時を懐かしんでみるのも一興かな、と思った。

  

  ※ こちらはウェブ上からお借りした漁場全体の様子です。

 ただ一つ残念だと思ったことがあった。それは母屋であるニシン番屋の屋根がトタン葺きになっていて、青いペンキが塗られていたことだ。建物を保存するための止むを得ない措置だろうが、せめて柾葺きに近い色に塗ることはできなかったのだろうか?青い屋根には若干興覚めさせられたのも事実である。

   

   ※ ニシン番屋の母屋です。親方やヤン衆が起居を共にした家屋です。

   

   ※ 加工したニシン製品を保管する倉庫「トタ倉」です。その手前の広場はニシンを干す広場だったようです。

    

   ※ 舟の倉庫「舟倉」です。舟の先端が倉庫の壁から突き出しています。 

   

   ※ 漁場の後方の高台には漁の安全を祈願する稲荷社が建っていました。

   

   ※ 漁場である日本海を遠望すると浜辺には、沖揚げしたニシンの一時保管場所の「廊下」の建物が見えます。

 

◇旧花田番屋 

 「旧花田番屋」は国道231号線から続く232号線に乗り、小平町本町を通り過ぎて「小平道の駅」と隣り合わせで古色蒼然といった面持ちで建っていた。こちらにも建物からはちょっと離れていたが「ニシン街道」の標柱が立っていた。

   

   ※ 旧花田番屋の道路向かいに立てられていた「ニシン街道」り標柱です。

   

   ※ 堂々として広壮な旧花田番屋の全体像です。

        

    ※ 番屋の入口には、ニシンを運ぶ背負子を背負った女性の像が立っていました。

 花田番屋は明治37年頃建造され、現存している番屋としては道内最大規模と言われ、国の重要文化財に指定されているという。

 こちらは内部が公開されていて、入場料500円を払って内部を見せてもらった。

 この内部が素晴らしかった。まずはニシン漁で使う網やロープ、あるいはニシン粕を作る道具などが陳列されていた。そして「だいどころ」と呼ばれる漁夫〈ヤン衆〉たちの居間に導かれた。そこは広い空間になっており漁夫たちが食事をしたり、寛いだりする空間だと思われた。そしてその周囲には漁夫たちが寝るところが上・中・下段となって相当数の漁夫が起居できる空間となっていた。

   

   ※ 母屋の内部の物置に展示されていた漁網です。

   

   ※ こちらはロープ類と、奥の方に漬物などを入れた樽が見えます。

   

   ※ 舟から陸へニシンを運ぶための背負子(しょいこ)です。

   

   ※ 漁夫(ヤン衆)たちの食事処であり、寛ぎの場だった「だいどころ」です。奥に寝床が見えます。

   

   ※ これは「だいどころ」に造られた「いろり」ですね。ここで漁夫たちは一服したのでしょう。

   

   ※ だいどころの一角に展示されていたニシン舟です。時には帆も使っていたんですね。

 豪華だと思えたのは、「にわ」という土間を挟んだ親方の居室であった。中央には「中の間」と呼ばれる畳敷きの親方の部屋があり、その左右に「帳場」、さらに「奥の間」と呼ばれる金庫のある部屋、そして「仏間」も別に設えてあった。一方で「はなれ」と呼ばれる親方の家族が住んだところだろうと思われる畳敷きの部屋が二つ並んでいた。ことほど左様に当時の豪勢な生活ぶりが伺える旧花田家番屋だった。

   

   ※ こちらは「親方の間」です。

   

   ※ 親方の家族などが生活していたと思われる「はなれ」です。

   

   ※ 花田家の前浜です。写真のモニュメントの意味は分かりませんでした。

   

   ※ 旧花田家番屋の隣に建つ「小平道の駅」です。花田番屋を意識した荘厳な外観です。

 

◇苫前町郷土資料館(岡田家番屋)

 「北海道遺産」に登録された平成13(2001)年には「ニシン街道」の三つの番屋の一つとして「岡田家番屋」は現存していたのだが、老朽化によって平成26(2014)年に解体されたという。解体によって残された漁具などが地元の苫前郷土資料館に保存・展示されているということで訪れてみたのだが…。

   

   ※ 旧苫前町役場庁舎を活用したという「苫前町郷土資料館」の外観です。

        

    ※ 資料館の入口でいきなり羆の歓迎を受け、「あゝ、羆事件の町だ!」と思い出しました。

   

   ※ 開拓民8人が殺害された三毛別羆事件の様子を再現した展示がありました。

   

   ※ 確かにニシン漁の関する用具も展示されてはいたのですが…。

 期待は大外れだった。苫前町というと吉村昭の小説「羆嵐」で有名になったが、開拓農民が8人もヒグマに殺害された町である。資料館の展示もそのことが中心だった。また作家・三浦綾子の出身地ということでその展示にもかなり割かれていた。私が期待した岡田家の漁具は確かに展示されていたが、そこに岡田家の表示はなく一般のニシン漁の漁具としての展示だった。私はせめて建物が健在だった当時の写真が掲示されていたり、岡田家のミニチュア模型のようなものを見ることができるのではと期待していたのだが、欠片も見ることができなかったのは残念だった。

 苫前町にとっては旧岡田家が「北海道遺産」の一つとして登録されたということに特別の価値を見出していないということなのだろうか?考えてみれば、「北海道遺産」とは言ってもNPO法人「北海道遺産協議会」が指定・登録したということであって、そこに価値など見出せないという向きもあるのかもしれないが、それにしても腑に落ちない思いである…。


道北の旅を振り返る №1 北海道遺産「増毛の歴史的建造物群」

2022-07-05 19:02:15 | 北海道遺産関連

 けっして大きくはない増毛町になぜこれほど歴史的な建造物が数多く現存しているのかと不思議に思いながら見て回った私だった。

 この日(7月2日)私が札幌を発ったのが午前6時過ぎだったこともあり、増毛町に着いたのは午前8時を過ぎたばかりで、街はまだ動き出す前だった。したがって、歴史的建造物の内部を見学することは叶わなかったが、外部から見るだけでも十分に価値あるものだった。(もっとも内部見学が可能なのは、「旧商家丸一本間家」だけだったようだが)

 私は旧増毛駅前の駐車場に車を停めて見学したが、建造物群のほとんどは徒歩圏内にあった。それでは写真を提示しながら、感想を綴っていくこととします。

◇旧多田商店(風待食堂) 

 旧多田商店は高倉健主演の映画「駅 ステーション」で「風待食堂」として重要な役割を果たした場所である。食堂のおかみさん役の倍賞千恵子との場面は私も忘れることができません。

   

 現在は観光案内所になっているとともに、映画当時のセットがそのまま残っているという。ところが開館が午前9時30分とあって断念せざるを得なかった。

   

   ※ この観光案内所(旧多田商店)で観光情報を得ようと考えていたのだが、朝早くて叶わなかった。

◇旧冨田屋旅館

 旧多田商店の隣に立っているのが木造3階建ての「旧冨田屋旅館」である。当時の繁盛ぶりがうかがわれる大きな建物だ。旅館廃業後も内部を公開していたらしいが、老朽化が激しく現在は閉鎖されていた。そこで増毛町が建物の管理保存をすることになったということで、現在は修復工事が行われていた。

   

   ※ 旧冨田屋旅館は修復工事が行われていました。

   

   

 

◇旧増毛駅

 旧多田商店と旧冨田屋旅館の向いにあったが、あまり古さを感じさせない外観だったために、当初はその存在に気付かなかったほどだった。こちらも内部の見学は叶わなかったが、窓から中を覗くと廃線となった増毛線などの資料が展示されているようだった。

   

   

   

 

◇増毛館

 旧商家丸一本間家の隣にレトロな建物が建っていたが、それが「増毛館」だった。「増毛館」は現役で、現在は「ぼちぼちいこか増毛館」という名前で民宿形態で営業しているそうだ。

  

◇旧商家丸一本間家

 こちら旧商家丸一本間家は「丸一本間」の屋号で、呉服商に始まり、ニシン漁の網元、海運業、酒造業など時代としもに多岐にわたり事業を展開し、家屋もそれに伴って増築していったという。今ある建物はその当時の勢いを誇るような重厚な様相を呈して建っていた。

   

 内部が公開されているようだったが、ここも時間が早いために内部の見学は叶わなかった。入り口前に本間家の建物が「卯建壁(うだつかべ)で造られていることに対する説明書きが立てられていた。そこに書かれていた一部を再現してみた。

   

「卯建の語源は社寺建築の梲(うだつ)であり、中世からの町家建築で隣家に接する外壁の防火と装飾を兼ね富豪の象徴とされた。 この卯建壁も同様の目的で旧雑貨屋店舗の東西の石造外壁に設けられたものである。昭和6年10月、弁天町1丁目の大火(26戸30棟消失)で火は東の隣家まで及んだが、卯建壁によって類焼は防止され大事に至らなかった。(後略)」

   

    ※ 本間家の片側の壁は一部が引きはがされたように見えますが、はたして真実は?   

◇千石蔵

 千石蔵は昭和12(1973)年建築の石造りの倉庫である。かつてはニシン粕の保管庫として使われていたようだが、現在は(株)国稀酒造が維持管理しているという。私が訪れた時にちょうど国稀酒造の社員が蔵のカギを開放したところだったので、内部も見せていただくことができた。内部には当時のニシン漁に使われたニシン舟の現物が陳列されていた。かなり大きな舟を人力で操船し、漁をしていたというから、当時ヤン衆たちの苦労がしのばれる思いだった。内部はかなりに大きさがあり、ニシン舟を展示してもなお余りある空間では、地域のさまざまなイベントが開催されているということだった。

   

   ※ 千石蔵はかなり大きな建物に見えました。

   

   ※ 蔵の中の片側には写真のようにニシン漁に使われたニシン舟が展示されていました。

   

   ※ そのニシン舟を上から見た図です。櫂の大きさ、太さが分かります。

   

   ※ ニシン漁の様子をミニチュア化して展示していました。二艘のニシン舟で囲い込むように漁をしたようです。

   

   ※ 千石蔵の片方のスペースです。ここで地域の各種イベントが催されるとお聞きました。

 

◇国稀酒造

 国稀酒造は、今や増毛町だけの酒蔵ではなく北海道の酒蔵という感じで、札幌なども商圏に入れて手広く事業を展開している。その本社はやはり歴史を感じさせる趣きで、そのところは酒造された日本酒の即売所となっていた。日本酒はからきしダメな私であるが、記念にと小ボトルを3本ほど購入させてもらった。

   

   ※ 国稀酒造本店の入口です。(下の写真も)

   

 

◇旧増毛小学校

 最後は市街からやや離れた高台に建っていた「旧増毛小学校」である。旧増毛小学校は昭和11(1936)年建築された北海道で最大最古の大型木造校舎として有名だった。平成24(2012)年に旧増毛高校校舎に移転したために、現在は無人校舎となっている。果たしていつまで現在の姿を保っているのか?おそらく早晩取り壊しの運命になるのではないかと思うが、はたして?

   

   

   ※ 旧増毛小学校の前庭(or グランド?)です。維持管理も大変なことと思います。

   

   ※ どうも私は平衡感覚が可笑しいのでしょうか?時々子のようなかしがった写真がお目見えします。

   

   ※ こちらはトイレと何か特別教室でしようか?

   

   ※ 懐かしいです。私が学んだ校舎の体育館もこのような補強のためと思われる支えがありました。

 以上、増毛町における主な歴史的建造物群を眺めてきたが、歴史が浅いといわれる北海道においてはいずれも貴重な建築群であり「北海道遺産」に登録されたのも当然のことと思えた。

 さて、リード文の私の疑問に対する私の考えだが、最盛期の昭和30(1955)年頃は人口が16,700人余もいたという。それが現在では3,900人と往時の約23%である。北海道、中でも留萌・増毛地方のニシン漁の最盛期は大正、昭和前期である。ニシン漁で沸いた増毛町は右肩上がりで人口が増えていったと思われる。ニシン漁が衰退したとしてもその熱はすぐには冷めやらず人口増加が続いたのだろう。

 そうした背景の中、商家や旅館などが豪奢な建物を次々と建てていったと考えられる。ところが、その後人口急減期に入って、その変化に対応できないまま現在に至ったのではないか?と私は考えたのだが…。いずれにしても今となっては貴重な歴史的建造物である。町が旧富田屋旅館を管理保存することになったそうだが、ぜひ他の歴史的建造物についてもその保存に努めることが増毛町の存在価値を高めることに繋がるように思えるので、その方途を探ってほしいと念願しながら増毛町を後にした。