本日私はとうとう60歳の誕生日を迎えました。
妻が私の好物を並べてくれ、二人でささやかに、ささやかに60歳を祝い(?)ました。
60歳を迎えたといっても、特別の感慨を抱かないのは年齢による衰えと共に、感情曲線まで衰えてしまったせいなのでしょうか。
ここで思い出したことがありました。それは、私が50歳を迎えた時に書いた文章です。その文章を引っ張り出してみようと思いました。
その文章の見出しは「半世紀を生きる」と題して書いたものです。以下転記します。
最近、さまざまな分野の論文を目にする時、「変貌する日本…」とか「激動する現代…」などという枕詞が使われています。確か本校の研究主題の設定理由の中でも似たような言葉が使われていたはずです。
ところで、若い先生方はこの言葉をどれくらい実感として感じているでしょうか。
別に世代間論争をしようとしているわけではありませんが、若い先生方が生まれ育った頃には、既に日本社会は激しく変貌を続け、相当豊かになっていましたから、きっとその感じ方にはかなりの開きがあるような気がするのです。
私が生まれ育った昭和20年代の日本、それは今から見ると何もなかったと言えるような状況でした。その頃の貧しい社会は、時代の進展も今から見るとゆっくりしたものでした。
一般の家庭には、テレビも冷蔵庫も、もちろん車もない時代でした。道路のほとんどは未舗装のガタガタ道でした。
それが今では当時を思い起こすことも困難なくらいの変わりようです。まさに激変というに相応しいほどの変わりようです。
人々のライフスタイルは一変し、私たちは今の日本の豊かさを何の疑いもなく享受しています。
敗戦国という重荷を背負った貧しい国が、この50年間で世界でも最も豊かな国の一つに駆け上がったのですから、世界でも最も変化の激しかった国と言えるのだと思います。
さて、こうして変わり続けてきた社会が、今まで以上の速度で変貌を続けるというのです。
先日、NHKTVで「電子立国」というシリーズ物が放送されていました。そこでは、過去の技術を振り返りつつ、今後の進展の予測がされていました。それは今からは想像できないような社会の到来を予測していました。
50年間、激変の中に翻弄(?)されてきた私などは、正直「もういいんじゃない」という思いがあります。しかし、時代や社会はそれを許してくれそうにありません。
ますます、時代を見る目が求められ、その中で主体的に生きていくことが求められるということなのでしよう。
私たち庶民は何の疑いもなく現在の豊かさを享受していると書きました。もちろん私もその中の一人です。50年間生きてきた私には、この豊かさと繁栄がいつまで続くのかという不安とおののきがあります。
8月24日、私はある種の感慨と見えない不安を感じながら50歳の誕生日を迎えました。
前記したようにこの文章は私の50歳の誕生日に記述したものです。
次回、それから10年を経た思いを語ってみたいと思います。
妻が私の好物を並べてくれ、二人でささやかに、ささやかに60歳を祝い(?)ました。
60歳を迎えたといっても、特別の感慨を抱かないのは年齢による衰えと共に、感情曲線まで衰えてしまったせいなのでしょうか。
ここで思い出したことがありました。それは、私が50歳を迎えた時に書いた文章です。その文章を引っ張り出してみようと思いました。
その文章の見出しは「半世紀を生きる」と題して書いたものです。以下転記します。
最近、さまざまな分野の論文を目にする時、「変貌する日本…」とか「激動する現代…」などという枕詞が使われています。確か本校の研究主題の設定理由の中でも似たような言葉が使われていたはずです。
ところで、若い先生方はこの言葉をどれくらい実感として感じているでしょうか。
別に世代間論争をしようとしているわけではありませんが、若い先生方が生まれ育った頃には、既に日本社会は激しく変貌を続け、相当豊かになっていましたから、きっとその感じ方にはかなりの開きがあるような気がするのです。
私が生まれ育った昭和20年代の日本、それは今から見ると何もなかったと言えるような状況でした。その頃の貧しい社会は、時代の進展も今から見るとゆっくりしたものでした。
一般の家庭には、テレビも冷蔵庫も、もちろん車もない時代でした。道路のほとんどは未舗装のガタガタ道でした。
それが今では当時を思い起こすことも困難なくらいの変わりようです。まさに激変というに相応しいほどの変わりようです。
人々のライフスタイルは一変し、私たちは今の日本の豊かさを何の疑いもなく享受しています。
敗戦国という重荷を背負った貧しい国が、この50年間で世界でも最も豊かな国の一つに駆け上がったのですから、世界でも最も変化の激しかった国と言えるのだと思います。
さて、こうして変わり続けてきた社会が、今まで以上の速度で変貌を続けるというのです。
先日、NHKTVで「電子立国」というシリーズ物が放送されていました。そこでは、過去の技術を振り返りつつ、今後の進展の予測がされていました。それは今からは想像できないような社会の到来を予測していました。
50年間、激変の中に翻弄(?)されてきた私などは、正直「もういいんじゃない」という思いがあります。しかし、時代や社会はそれを許してくれそうにありません。
ますます、時代を見る目が求められ、その中で主体的に生きていくことが求められるということなのでしよう。
私たち庶民は何の疑いもなく現在の豊かさを享受していると書きました。もちろん私もその中の一人です。50年間生きてきた私には、この豊かさと繁栄がいつまで続くのかという不安とおののきがあります。
8月24日、私はある種の感慨と見えない不安を感じながら50歳の誕生日を迎えました。
前記したようにこの文章は私の50歳の誕生日に記述したものです。
次回、それから10年を経た思いを語ってみたいと思います。