前回の投稿で私は50歳を迎えた日に書いた「半世紀を生きる」という文章を紹介しました。
それから10年、社会は、自分自身は、どのように変わったのでしょうか。
私自身はこの10年間で勤務地が4回変わり、職業的な地位も変わって、職務に対する責任だけはずいぶん増したように思いますが、年齢的に10歳の年齢が加わったことによって、体力的な面のみならず、脳力的(入力ミスではありません)にも衰えを自覚しなければならないことが多くなってきました。
さて社会の方はどうでしょう。
ひと言で言うと、「『半世紀を生きる』で記した社会の変動がそのまま続いている」と言えるのではないかと私は思っています。技術革新はますます進み、それと軌を一つにするように社会的な矛盾もますます露呈されてきているように思われます。
その社会的な矛盾とは、これも私が「半世紀を生きる」で記した漠然とした不安が、いよいよその輪郭を現し始めたといえるのではないかと思っています。
環境問題、核の問題、年金問題etc…、これらの問題は今や識者が語る未来の問題ではなく、私たち一般大衆が目の前の不安として意識しなければならない問題となってきています。
私たちはこれまで追求してきた「豊かさや便利さの追求」をひとまずストップし、いやもうあきらめて、多少貧しくてもいい、多少不便でもいい、と方向転換すべきなのではないかと思います。
そして私たちの不安要素の除去のため、社会全体が立ち向かうべきではないのか、というのが60歳を向かえた田舎おじさんの考えなのだが…。
それから10年、社会は、自分自身は、どのように変わったのでしょうか。
私自身はこの10年間で勤務地が4回変わり、職業的な地位も変わって、職務に対する責任だけはずいぶん増したように思いますが、年齢的に10歳の年齢が加わったことによって、体力的な面のみならず、脳力的(入力ミスではありません)にも衰えを自覚しなければならないことが多くなってきました。
さて社会の方はどうでしょう。
ひと言で言うと、「『半世紀を生きる』で記した社会の変動がそのまま続いている」と言えるのではないかと私は思っています。技術革新はますます進み、それと軌を一つにするように社会的な矛盾もますます露呈されてきているように思われます。
その社会的な矛盾とは、これも私が「半世紀を生きる」で記した漠然とした不安が、いよいよその輪郭を現し始めたといえるのではないかと思っています。
環境問題、核の問題、年金問題etc…、これらの問題は今や識者が語る未来の問題ではなく、私たち一般大衆が目の前の不安として意識しなければならない問題となってきています。
私たちはこれまで追求してきた「豊かさや便利さの追求」をひとまずストップし、いやもうあきらめて、多少貧しくてもいい、多少不便でもいい、と方向転換すべきなのではないかと思います。
そして私たちの不安要素の除去のため、社会全体が立ち向かうべきではないのか、というのが60歳を向かえた田舎おじさんの考えなのだが…。