北区歴史と文化の八十八選巡りの第5弾はまだまだ北大関連である。それだけ北区にとって北大の存在は大きなものということだろう。今回は「北大イチョウ並木」、「母子像」、「恵迪寮歌『都ぞ弥生』歌碑」、「北大遺跡保存庭園」の4ヵ所をレポートする。
〈17〉北大イチョウ並木
※ 北13条門側から北大中央部方向に見たイチョウ並木です。
「ポプラ並木」と並んで北大の観光名所の一つとして知られる「イチョウ並木」は北13条通りの道路の約380mの両側に70本のイチョウの木が頭上を覆うように並んでいる。このイチョウ並木は夏の青葉より、10月下旬から11月にかけてイチョウの葉が黄葉するときが人気である。私が今回訪れた5月初旬はあの独特の形のイチョウが小さな葉を付けたばかりのようであった。
※ こちらは反対に北大中央部から北13条門方向を見たところです。
このイチョウ並木の歴史を調べてみると、北13条通りは最初からイチョウ並木ではなく、大正11年頃はサクラとカエデの並木だったという。さらに昭和14年頃にはイチョウも植栽され、サクラ、カエデと小さなイチョウが混在した並木だったが、やがてサクラとカエデは病害で枯死したり、伐採されたりしてイチョウだけが残され、現在の姿になったそうだ。
※ 秋の黄葉のイチョウ並木です。
〔住 所〕 北区北13条西5丁目~7丁目 北海道大学構内
〔訪問日〕 5月10日
〈18〉母子像
この「母子像」を見つけるのにやや苦労したが、北大病院の正面の西5丁目通り沿いに北大医学部の先駆者たちの胸像が並ぶ隣に立っていた。
※ 北大病院の正面付近に「母子像」は建てられていました。
「母子像」は1986(昭和61)年、財団法人協共会(北海道大学附属病院)が創立65周年を迎えた時、彫刻家・本田明二に依頼し制作して寄贈したものである。
※ 母子像の周辺に雑草が多いのが気になりました。
「母子像」の傍に立てられていた説明板には「全身の愛と力を両脇に込めて、いとし子をしっかりと抱くその姿は、訪れる人たちや患者の心を強く引き付ける」と書かれてあった。
※ 本田明二作「母子像」です。
〔住 所〕 北区北14条西5丁目 北海道大学構内
〔訪問日〕 5月10日
〈19〉恵迪寮歌「都ぞ弥生」歌碑
この歌碑は北図書館のところから平成ポプラ並木に向かう道路脇に建てられている。そこは以前に恵迪寮があった入口のところと思われる。寮歌「都ぞ弥生」は寮歌として大変有名であるが、その経緯に著した文書を見つけることができたので参照していただきたい。なお、この「都ぞ弥生」歌碑の近くには「寄宿舎跡の碑」という石碑も建てられていた。
※ 「都ぞ弥生」の歌詞が刻まれた歌碑です。
※ その歌詞を大写ししました。
歌碑の位置を確認したので、現在の「恵迪寮」を訪ねた。現在の恵迪寮は北大構内の北西端に建てられている。やや隅に追いやられているような印象も受けてしまうが、致し方のないことか?
※ 現在の恵迪寮の門柱です。整備が行き届いていないのは学生の自主管理のせいでしようか?
※ 大きな恵迪寮の一部です。
次の文書が「都ぞ弥生」歌碑と「寄宿舎跡の碑」にまつわることが記された文書である。
札幌農学校の寄宿舎「恵迪寮」の寮歌として作られた「都ぞ弥生」。日本三大寮歌の一つで、今なお学生たちに歌い継がれています。
恵迪寮の歌碑を尋ねて、恵迪寮を目指すと、道端に「恵迪寮歌歌碑」が出て来た。「都ぞ弥生」の碑文には「横山芳介作詩 赤木顕次作曲 明治四十五年恵迪寮歌 都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵 盡きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の 夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸 想ひを載せて 星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ」と5番ある内の1番が刻まれていた。
次に、恵迪寮跡の「寄宿舎跡の碑」が現われる。碑文は送り仮名がカタカナで昔風だ。
碑文には「北海道大学桑園学寮は、昭和24年/札幌市北3条西14丁目に創設され、/昭和36年北海道大学構内のこの地に/移転した。昭和58年3月その歴史を閉じたが、/その間学部男子学生512名がその青春を/謳歌した。/平成11年10月 記念碑建立委員会」と刻まれている。
※ 「寄宿舎跡の碑」です。
〔住 所〕 北区北16条西9丁目 北海道大学構内
〔訪問日〕 5月5日
〈20〉北大遺跡保存庭園
私は今回の「北区歴史と文化の八十八選」めぐりをすることによって、はじめて北大構内に「遺跡保存庭園」があることを知った。そのこともあり、その位置を見つけるのにやや手間取ったが、北大の陸上競技場の横を辿っていくと「遺跡保存庭園」という表示が目に入った。
ここは遺跡保存地区だから手つかずの自然がそのまま残っている。私はその鬱蒼とした庭園に足を踏み入れ、竪穴住居跡らしい窪みを見つけることができたので、深入りはせずに早々に庭園を後にした。札幌市内にはこの他にも数か所竪穴式住居跡が保存されているが、北大の庭園のように当時の面影を残したものは少ない。(もちろん下草刈りなどは定期的にされてはいるが)それだけにここの庭園は貴重なのではないかと思われる。
※ 微かに窪みがみられ竪穴住居跡と思われます。(下の写真も)
下の文章は、私と同じようにこの庭園を訪れた人の文章である。
かつて、この一帯は多数のメム(アイヌ語で「泉」)がわき、古代人の漁猟基地でした。竪穴式住居跡があります。「遺跡保存庭園」がグランド脇の奥にあったので寄ってみる。入口には門柱があり、中に入ると草を刈ったばかりだったので、竪穴住居跡の窪みの遺跡が見えた。遺跡をぬうように小道が延びているが、カラスの縄張りになっていて、歩くのが怖い。
※ 庭園内にはこうした古木然とした木が生い茂っていました。
〔住 所〕 北区北17条~18条西11丁目 北海道大学構内
〔訪問日〕 5月5日