田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

小泉元首相の脱原発論

2017-03-11 23:01:38 | 講演・講義・フォーラム等
 小泉元首相が首相を退いた後、脱原発論に転じたことはメディアなどでも度々報じられている。その小泉氏が札幌にやって来た。小泉氏は淀みなく、時にユーモアを交えながら明快に脱原発論を語った。小泉節は健在だったが、現役当時の迫力にはやや陰りがみえたようだ…。 

               

 本日、3月11日(土)午後、札幌共済ホールにおいて「泊原発の廃炉をめざす会」主催による「小泉純一郎氏講演会」が開催されるのを知って、受講を申し込んだところ聴講が許されたので参加してきた。

               

 本日は3.11東日本大震災が勃発してちょうど6年目ということで、参加者650名の黙とうの後、「鎮魂の調べ」と題して札幌市在住のヴァイオリニストの小林佳奈さんがヨハン・セバスチャンバッハ作曲の「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番より シャコンヌ」が演奏された。
 このシャコンヌは、鎮魂の曲としてはかなり有名だということで小泉氏も大好きな曲だと登壇してから語った。30分近い難曲を独りで弾きこなした小林佳奈さんは相当の実力の持ち主のようだ。

               

 そして小泉氏が登場した。小泉氏は持ち時間の90分間いっぱいを使い「日本の進むべき道」と題して、脱原発論を語った。
 その主たる論点は2つに絞られていたと私には映った。

 一つは、原発はもはや経済的にも採算の合わない産業だという点。
 もう一つは、未だに核廃棄物の処理方法が見つかっていないという点。

 以上、主として2点にわたって、さまざまな角度から論じた講演会だった。
 一つ目の点については、福島原発はその後処理に数兆円(詳しい数字はメモをし忘れた)を要しながら、未だに解決の目途さえ立っていない現状である。さらに現行の原発を今後廃炉するにも相当の処理費用がかかることを考えると、経済的に見合うものではないと強調した。

 そして2点目である。核廃棄物が、ウラン鉱石並みの放射性レベルに低下するには10万年という途方もない年数を必要とすると言われている。それも地下深くに埋め込んで漏れ出さないように厳重に保管できたとしてである。10万年などというのは現実離れした年数であり、誰も責任の持てる話ではない。さらに、活断層の上に立地している日本に地下深くに埋め込むような敵地もないという。

 以上、私が記した論拠はまったく粗いもので突っ込まれる余地がたくさんありそうだが、小泉氏の話はもっと細やかであり、科学的根拠に基づいたものであったと私は聞いた。

 小泉氏は言う。日本において自然エネルギー由来による発電量がどんどん増えているという。2013年以来、原発の発電量はほんの僅かであると…。
 積極的に自然エネルギー由来の発電に切り替えて、自然エネルギーで発展する日本の姿を世界に見せるべきである、と主張した。

 しかし、小泉氏の主張には往年の迫力にやや陰りがみえるようにも思えた。それは年齢のせいだろうか?
 いや、そのことより発信力に絶対の自信をもっていた自身の主張が意外に広がらないことにやや疲労を感じているのではないだろうか?
 政界を引退したとはいえ、まだまだ影響力の大きい小泉氏である。是非とも息長く持論を訴え続け、世論を変える原動力になってほしいと思った。

初体験!人形浄瑠璃の観劇

2017-03-10 17:34:39 | ステージ & エンターテイメント
 初めて人形浄瑠璃なるものを観る機会を得た。テレビなどを通して伺うには、難解なのではと想像していたが、意外にも興味深く観ることができた。今回は太夫、三味線がプロ、人形遣いがアマという組み合わせだったが、本格的なものも一度体験してみたいと思った。 

              

 知人のH氏から誘いがあり、初めて人形浄瑠璃を観劇する機会を得た。
 3月5日(日)午前、教育文化会館小ホールにて、「さっぽろ人形浄瑠璃芝居あしり座公演」が開催された。
 「あしり座」について、私は全く不案内なのであるが、配布された資料によると1995年に札幌市内在住の有志によって誕生し、プロの指導を受けつつ、年に1回の定期公演や道内公演を行い今年で33年目を迎える団体だそうだ。「あしり座」の命名の由来は、アイヌ語で「新しい」という意味があるそうだ。

 今回の演目は、
  ◇三人三番艘(舟編が無い字)
  ◇壺坂観音霊験記~沢市内より山の段~
  ◇大黒屋光太夫ロシア漂流記~アムチトカ島の段~

の三演目が上演された。

               

 「三人三番艘(さんにんさんばそう)」は、御祝儀舞といって、舞台の成功とお客様の健康や幸せを願い、舞台の幕開きに演ずるものだそうだ。三体の人形がおおよそ同じ舞いを演じた。今回は太夫や三味線が付かず、バックの演奏に依ったが実際はどうなのだろう?

 続いて「壺坂観音霊験記(つぼさかかんのんれいげんき)」であるが、盲人の夫とその妻の夫婦愛を描いた世話物であるが、明治時代に創られ人形浄瑠璃だけではなく、歌舞伎や講談、浪曲の演目として取り上げられた人気演目だそうだが、私も見入ってしまうほど面白い人情ものだった。

 最後は「あしり座」のオリジナル作品として取り組んでいるという「大黒屋光太夫ロシア漂流記(だいこくやこうだゆうろしあひょうりゅうき)」である。江戸中期1782年に大黒屋光太夫らを乗せた「神昌丸」がロシアのアムチトカ島に漂着し、苦難の末に帰国したという実話を物語化したものである。
 今回は、昨年演じた「神昌丸遭難の段」に続いての第二幕(?)「アムチトカ島の段」ということで、光太夫らと島のロシア人たちとの交友場面を中心に描き、やがて島を離れるまでの様子が描かれた内容だった。

         

 「壺坂観音霊験記」も「大黒屋光太夫ロシア漂流記」も、物語を語る「太夫」と三味線が付いたことでより本格的となり、雰囲気も盛り上がった。
 人形浄瑠璃は、太夫、三味線、人形遣いの「三業(さんぎょう)」で成り立つ三位一体の演芸ということだが、特に太夫は舞台の最初から最後まで淀みなく口演を続けるところに大変さがあるように感じられた。

 今回の公演では、舞台演出(西川古柳師匠)、人形制作(沢則行氏)、太夫(竹本信乃太夫)、三味線(鶴澤弥栄)という、この世界の第一人者が携わった。そして人形遣いはあしり座の団員が担当した舞台ということだった。(太夫の一部もあしり座団員が担当した)

               
               ※ 舞台は写真撮影NGだったが、最後の舞台挨拶は許されるだろうと撮ったたった一枚の写真である。

 とても興味ある舞台だったが、観劇初心者から観て、人形の脚の動きにちょっと不自然さを感じてしまったのだが…。人形遣いが脚の動きを意識するあまり不自然な動きとなって私たちに見えてしまうのではないかと感じたのだが、どうなのだろう?
 一度プロの技を観てみたいと思った。

 しかし、とても良い体験だった。紹介してくれたH氏に感謝の思いである。

片岡球子のスケッチ-知られざる創造のあゆみ

2017-03-09 20:03:01 | 講演・講義・フォーラム等
 「人間の内面をどうえぐり出すか」というのが片岡球子の終生のテーマだったと、講師の土岐美由紀氏は言う。日本画の大家・片岡球子を追い続ける道立旭川美術館土岐美由紀学芸課長の話はなかなか興味深かった。

                    
                    ※ 講師の土岐美由紀氏たちの研究の成果をまとめた冊子が参加者に配布されました。 
                     冊子の画は、片岡球子が描いた徳川家康像のスケッチだそうです。

 3月4日(土)午後、道立近代美術館においてタイトル名のような講演会が開催され、受講した。
 講師の土岐氏は、片岡球子が北海道出身だったこと、そして何よりその特異な画風に惹かれて片岡球子を研究対象としたようだ。
 そこで土岐氏は一見奔放にも見える片岡の画の制作プロセスや世界観に迫るために、片岡が残した350冊にも及ぶスケッチブックを調べる作業に着手したそうだ。
 片岡の養女の協力のもと、共同研究者たちと共に調査を開始したが、その膨大な量のスケッチのために時間的にも資金的にも相当に困難だったようだ。しかし、幸いにも研究助成金を得たり、共同研究者も増えたりと、幸運も重なって膨大なスケッチの中から500カット以上のスケッチを画像として記録できたという。

               
               ※ 会場の道立近代美術館の講堂です。ほぼ満員の受講者でした。

 土岐氏の話はそうした片岡のスケッチの研究を通して氏が感じたこと、明らかになったことをさまざまな角度から語るものだった。
 まず土岐氏が強調したことは、片岡は一つの作品を完成させるために驚くほど多くのスケッチをしているということだ。それも単なる下書きというレベルではなく、中には彩色を施したものも数多く残されているという。そこには対象の内面まで迫ろうとする片岡の執念のようなものを感じたそうだ。

                 
                 ※ 在りし日の片岡球子さんです。

 片岡の画風が大きく変わったのは、歌舞伎役者を描写した「歌舞伎南蛮寺門前所見」(1954年)だとされている。この画を完成させるまで、片岡は徹底して役者のさまざまな表情、舞台での様子や所作を実に140図を超える夥しいスケッチを重ねたそうだ。

            
            ※ こちらは1954年に描かれた「歌舞伎南蛮寺門前所見」の本画です。

               
               ※ こちらはその歌舞伎画を描くために何枚も描かれたスケッチの一枚です。

 片岡のスケッチを探っていくと、「スケッチって何だ?」と考えさせられたという。それはスケッチそのものがすでに本画に使いイメージをもち、そこからは臨場感が立ち上ってくるようだと土岐氏は表現している。

 片岡の晩年の画を代表する「富士山」のスケッチも何十枚と残されているが、そのタッチは激しく、画面から絵が溢れ出すような躍動感に満ちている。そこからは「今、ここにいる」、「今、自然を感じている」というメッセージを伴って観るものを圧倒させる。

               
               ※ スケッチブック見開きいっぱいに溢れんばかりに描かれた富士山のスケッチです。

 片岡球子の想像を絶するような激しいタッチの画が出来上がるまでには、何十枚ものスケッチをしたうえで初めて一枚の絵が完成していることを土岐氏は能弁に語ってくれた。

期待外れ?南スーダンPKO第10次隊長講演

2017-03-08 21:27:33 | 講演・講義・フォーラム等
 テーマがテーマだけに、多くを期待していたわけではないけれど、ちょっと期待外れだった。もう少し実際を体験した方ならではの声を期待したのだが…。それも本人の立場になってみれば難しい…、ということなのか?

               
               ※ 第10次隊の活動の様子です。(ウェブ上から拝借しました)

 3月2日(木)夜、教育文化会館において防衛問題セミナー「南スーダンにおける国際平和協力活動」と題して、第10次派遣施設隊の隊長を務めた中力修氏のお話が聴けるとあって、お話を聴こうと参加した。

 セミナーは、2部構成となっていて、講演1として「国連PKOの概要」と題して内閣府のPKO本部事務局次長の石川武氏が講演した。
 石川氏のお話は講演題どおりPKOの概要について説明するものだった。
 そのお話の中で主だったことは、国連のPKO活動が国連憲章の中には謳われてないということだった。したがって、国連PKO活動は憲章の第6章と第7章の間に位置付けられているとのことだった。そのような状態のPKO活動を石川氏は〔第6章半〕というような言い方をしていた。

 その国連が定めている基本三原則について紹介された。その基本三原則とは、①主たる紛争当事者の同意、②普遍性・公平性、③自衛・任務防衛以外の実力の不行使、ということだ。
 さらに日本は、その三原則に加えて独自の五原則を定めているという。その五原則とは、①紛争当事者間で停戦合意が成立、②日本の参加に現地政府や紛争当事者が同意、③中立の厳守、④以上のいずれかが満たされなければ撤収可能、⑤武器使用は必要最小限、という原則が定められているそうだ。

 PKOミッションはこれまで世界の71地域で展開されてきて、現在は16ヵ所で世界各国の軍隊117,000人の隊員によってPKO活動が展開されているという。
 日本は1992年以来27回、12,000人以上の自衛隊が派遣され、主として施設建設や輸送の分野で活躍しているということだった。

 続いて、講演2として私が期待していた第10次派遣隊長だった中力修氏が「南スーダンにおける派遣施設隊の活動」と題して話されたのだが…。
 第10次派遣隊は昨年5月から半年間にわたって派遣されたのだが、派遣期間中の7月に首都ジュバにおいて政府軍と反政府軍の激しい衝突があったと伝えられた。この際、中力隊長の適切な指示で隊員が危機に瀕することがなかったと伝えられたことを記憶していたが、その点についてはまったく触れられなかった。
 また、今年に入って第10次派遣隊の日報の中で「戦闘」の記述が「あった」・「なかった」ということについて国会での論戦があったことは記憶に新しいが、そのことについてももちろん言及することはなかった。

 中力氏の話は、道路などを建設したことや、現地の方々と交流したこと、あるいは現地での隊員の日常生活などについて触れるだけだった。
 PKOについては、常に国会論戦のテーマとなるデリケートな問題だけに、当事者は軽々にコメントすることはできないことは十分理解できたし、仕方のないこととはいえ、本音を言えば当事者ならではのお話を少しは聴きたかったなぁ、というのが偽らざる思いだった…。

日本の世界遺産「明治日本の産業革命遺産」

2017-03-07 21:48:43 | 「めだかの学校」関連

 長崎県の端島、通称「軍艦島」に代表される「明治日本の産業革命遺産」は2015年に世界遺産に登録されたが、8県・11市・23件の構成資産からなる。あまりにも地域が点在し過ぎている点がどうなのかな?という素朴な疑問を持ったのだが…。

               
               ※ 世界遺産「明治日本の産業革命遺産」を象徴する「端島(通称:軍艦島)」の全景です。

 「冬の石狩川を遡る」を振り返るシリーズを綴っている間に時間が経過してしまったが、体験したことを記録に残していこうと思う。
 2月27日(月)午後、「めだかの学校」の2月の2回目の講座があった。月の2回目の講座としてはイレギュラーなのだが、2月と3月は「日本の世界遺産」が取り上げられることになった。
 ということで、今回は「明治日本の産業革命遺産」が対象となった。
 
 2015年に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」は、リード文でも触れたとおり8県・23件もの構成遺産が対象となっている。
 対象を詳細に見ると、23件のうち16件が九州の各県(5県)に分布している。さらに山口県に5件と、実に23件のうちに21件が西日本に集中している。これなら残る2件(静岡県・岩手県)を外して「西日本の産業革命遺産」としたほうがすっきりするのでは、と考えるのは素人考えと笑われるのか?
 以前に伺った話では、世界遺産登録の場合は「いかに選考側を納得させるストーリーを描けるか」が大切だと聞いた。おそらく「明治日本の産業革命遺産」の場合、23件の構成遺産は一つも外すことができなかったということなのだろう。

                
                ※ 「めだかの学校」において世界遺産について学ぶ受講生です。

 さて、視聴したDVDは最初に山口県萩市の6件の遺産が紹介された。造船所跡、反射炉、製鉄遺跡などとともに「松下村塾」、「萩城下町」が遺産の一つになっているのが特徴である。これら二つは近代日本を創った鉱工業の遺産ではなく、明治の産業革命を興した背景に着目したものと言えるようだ。
 幕末において討幕派を牽引した長州(山口県)、薩摩藩(鹿児島県)は、鉱工業においても先進的な取り組みをしていたことが偲ばれる。

               
               ※ 「明治日本の産業革命遺産」の中で特異な存在の「松下村塾」跡です。

 続いてDVDは、長崎県の構成遺産を紹介している。その中でも、この遺産の象徴的存在である端島(通称:軍艦島)に焦点を当てて紹介している。
 軍艦島の場合、明治日本の重工業の発展を下支えした石炭産業の象徴的意味合いと、その特異な島の形態が脚光を浴びているということだろう。
 軍艦島ばかりに焦点を当てているが、長崎の場合は造船所関連5件が含まれている。中には現役で稼働している「三菱造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン」も紹介された。

               
               ※ 今回の講座のナビゲーター役を務めた「めだかの学校け代表のS氏です。

 DVDは最後に、福岡県北九州市の「官営八幡製鐵所」を紹介して終わっている。
 90分のDVDでは23件の構成遺産全てを紹介することを企画側は最初からあきらめ、焦点を絞った紹介方法を取ったようである。ナビゲーターの榎本孝明の適切なナレーションにより楽しく視聴することができた「明治日本の産業革命遺産」だった。


「冬の石狩川河岸を遡る」を振り返る 5

2017-03-06 16:28:04 | 冬の石狩川河岸遡行スノーシュートレッキング

 振り返るシリーズの最後は、今回の「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクト実施に際しての装備や携行品について記録として留めながら最後としたい。 

 装備として、先ずは肝心のスノーシューであるが、ブログの中でも何度も触れているように、私の所持するスノーシューはいわゆる中級品である。私が贔屓(?)にするmont-belで買い求めたものではなく、スポーツ量販店で買い求めたもので「TUBBS」というメーカー名が入っている。
 中級品ではあったが、2010年末に買い求めて以来、かなり過酷な使用に耐えながら、これまで何の故障もなく使い続けられた。このことはある意味幸運だったと言えるかもしれない。同時に買い求めたストックもまた同じである。
 ただし、持ち運びに使うスノーシューのケースはmont-bel製である。

               
               ※ 私の愛機をあらためて床の上で撮ってみた。右からストック(縮めた状態で)、スノーシュー、ケースの順です。

 スノーシューを付ける靴であるが、これにはmont-bel製の登山靴を使用している。記録によると豊平川を遡っていた当時は長靴を使用していた時期もあったようだが、いつからか登山靴になった。登山靴に防水スプレーをかけ、スパッツを使用することで、防水対策もバッチリである。

 続いて身に着けるウェア類であるが、基本的には上下ともに三枚である。
 上半身は、アンダーウェア、ミドルウェア、そしてアウターの三枚で行動している。寒さが心配される場合は、ミドルとアウターの間にフリース素材のミドルを着用するが、行動を開始するといつも直ぐに脱いでいた。
 私の場合は、アウターがかなりしっかりした素材でできているため、その下は薄着でも寒さを感ずることはなかった。
 対して下半身は、ロングタイツの上にジャージーの下(あるいは登山用パンツ)、そして風除けのためレインウェアの下、という恰好である。

 続いて携行品であるが、いつも必要以上に携行していたのが食料である。厳寒の外ではおにぎりなど水分を含むものは不適である。私の場合は「調理パン(ホットドック系)」をいつも携行していた。その他に北海道のソウルフード?「ビタミンカステーラ」、さらに行動食としてコンビニなどで購入できる「スニッカーズ」のようなものを携行した。
 さらに、粉末状のスープも携行したが、今年は特にそれらを食することは持ち帰ることが多く、これらは「もしも」のための食料としていつも携行していた。

               
               ※ 左側は残っていた行動食、塩飴など、右側はスープやインスタントコーヒーなどです。
              
 携行品の特徴としては、二本のステンレスボトルに入れた熱湯である。一本は甘味を加えた紅茶を、一本はスープやコーヒー用のための白湯である。この二つをどちらも専用にケースに入れた上に、さらにタオルでぐるぐる巻きにして温度が下がらないように工夫した。
 紅茶の方は、寒い中でホッと一息できる飲料として重宝したが、もう一本の白湯はいつもそのまま持ち帰ることがほとんどだった。寒い中でゆっくりとスープなど作っている間がなかったというのが実状である。こちらも「もしも」のために最後まで携行することを忘れなかった。
 少し大げさなのではと思う向きもあるかもしれないが、あくまで“万が一”に備えてという気持ちを忘れなかった。

               
               ※ 右側はケースに入れただけのステンレスボトル。左側はそれをタオルで包んだ状態のボトルです。

 その他で携行したものは、緊急の寒さ対策のためのライトダウン、雨対策のザックカバー、さまざまな状況で重宝するトイレットペーパーなどである。
もちろんカメラ(コンデジ)、スマホ(GPS)、地形図は必携品です。
 それに、宿泊を伴う場合は洗面道具、替え下着が加わった。

                     
               ※ 私は自撮りというものをほとんどしない。この写真も息子が現地まで送ってくれた際に、撮ってくれたものです。
                この時は腰にウェストポーチを付けているようですが、今年は全く付けませんでした。

 ここまで5回にわたって「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクトに取り組んできた22日間を振り返ってきた。私にとっては記念碑的(少しおおげさ?)な石狩川河岸遡行だった。
 本来であれば、河口から源流まで辿って初めて記念碑的取り組みと称するのが適当かもしれない。しかし、それは私のような素人にはあまりにも難しすぎることだ。私にとっては旭川まで至っただけで十分に記念碑的なことだと思っている。

 この取り組みが終わった時、書店へ出向いて、旭川から石狩川の源流である石狩岳までの地形図は購入してきた。しかし、それは私が取り組んだことの延長線上にこうした経路があるということを認識したかったことと、私自身の記念品として買い求めたということだけである…。


「冬の石狩川河岸を遡る」を振り返る 4

2017-03-05 17:11:51 | 冬の石狩川河岸遡行スノーシュートレッキング

 今回の「冬の石狩川河岸を遡る」の22日間を振り返ってみたとき、最も危険を感じたシーンは、プロジェクト初日の石狩川河口での一件ではなかったのか、と振り返っている。 

 今回のプロジェクトに独りで取り組んでいると話すと、「独りじゃ危険じゃないか」とか、「もし、何かあっても誰も助けてくれないぞ」などと取り組み自体を危険視する方が多かった。だから私は極力危険な目に遭わないように細心の注意を払いながらトレッキングを続けた。
 それでも不案内な初めての地を歩く旅である。ましてや極寒の冬である。振り返ってみると、何回かはヒヤッする場面に遭遇した。そんな場面を思い出してみると、最も今もってゾッとするのは、このプロジェクト初日の石狩川の河口で遭遇した一件である。
 その模様を私は次のように描写している。

 危うく我が身を石狩川に晒すところだった(冷汗) 間一髪だった…。踏み込んだ足元の雪が崩れ石狩川の川面が姿を現したのだ。足元をすくわれた私だったが、必死に残った雪にしがみついて難を逃れた…。 

               
               ※ 写真の向こう岸の雪面が崩れているが、そこは私が踏み外したところである。間一髪!私は向こう岸に
                倒れこんで、必死に雪壁にしがみつき、なんとか川に落下せずに済んだ。

 この時は本当に間一髪だった…。写真を見ると、川の深さもかなりありそうだ。
もし、落下したとしたら下半身はずぶ濡れ状態だったかもしれない…。そうなっていたら、このプロジェクト自体からも早々に撤退していただろう。幸運だった…。

 続いてのヒヤリは、今シーズンの3日目の’16/12/29の〔尾白利加川河口 ⇒ 江竜橋〕間のトレッキングだろう。身の危険を感ずることはなかったが、石狩川に注ぐ掘割にズボッとはまってしまった私は、そこから抜け出すのに大変な苦労をした。
 その時の様子を次のように記している。

 流れの両端を結ぶようにして木が倒れているのが目に入った。「あるいは渡れるのでは」と思い、近づいてみると何とか行けそうな感じがした。
 ストックで確かめながら慎重に、慎重に進んだ。全体の2/3ほど進んだときだった。ズボッと深みにはまった。体全体が木の枝の間に沈んでしまい、体の自由が利かない。どうやら私は木の幹ではなく、枝の部分に乗ってしまい、そこから落ちたようだった。
 スノーシューを付けた靴は水面に接していた。なんとか体を幹部分に乗せようとするだが自由が利かない。こうした時に年齢を感じてしまう。若ければもっと身体を縦横に動かせることができたはずなのだが…。そのうち、靴の中に水が浸み込んでくるのを感じた。これには焦りを感じた。
 何度も何度も繰り返し、少しずつ体を動かした末に、なんとか幹部分にしがみついた。どれほどの時間格闘したのだろうか?私にはずいぶん長い時間に感じた。ようやく体勢を立て直し、幹の部分に立ち上がることができた。
 そこから前へ進むことはできなかった。私は元来たところを慎重に戻って、心の底からホッとしたのだった。
 

               
               ※ 掘割を迂回するのを嫌い、写真のようなスノーブリッジを渡ろうとしたのだが…。今考えると無茶だった?

               
               ※ 私がはまってしまい、苦労して脱出し、後退を余儀なくされたところです。

 別な意味でヒヤッとしたのは、同じく今シーズン7日目だった ‘17/01/24の〔深川橋 ⇒ 納内橋〕間の畑地をトレッキングしている時だった。畑地に危険なところなんてないだろうと、安心して私はトレッキングを続けていたのだが…。

 その上天気は快晴ときて、気分は上々で歩を進めていた。
 そのときである! 私の体が突然ズボッとはまってしまった。何ごとが起きたのだろうと、一瞬事態を把握できなかった。幸い体にはどこも異常がなかった。落ち着いて周りを見てみると、どうやら私は畑の中に造られていた灌漑溝にはまってしまったのだった。
 背丈の半分くらいが埋まっていたので、苦労してそこから脱出することができた。
 迂闊だった。周囲をよく見ると、灌漑溝がある部分は明らかに少し凹んでいた。私の注意力が散漫だったゆえに起こった出来事だった。
 

               
               ※ 好天気のために注意散漫となり、ズボッと嵌ってしまった灌漑溝です。よく観察していれば地形の膨らみがあり防げたのですが…。

 このように確かにヒヤッとした場面には遭遇したが、それは自然を相手にした場合には多かれ少なかれそうしたことは覚悟しなければならないことである。私はこれまで登山をしていて、こうしたケース以上に危険な場面に遭遇したことが何度かあった。
 だから、そのことを理由に断念することなど考えられない。そんなことなら初めからこうしたことを企てたりはしない。
 肝心なことは、そうした事態に遭遇しないように最善を尽くし、慎重の上にも慎重を期すことだと私は肝に銘じている。

 そうした事態を乗り越え、22日間を終えた今、私は大きな達成感に浸っている。


「冬の石狩川河岸を遡る」を振り返る 3

2017-03-04 20:29:37 | 冬の石狩川河岸遡行スノーシュートレッキング

 おーっと、恐れていた掘割に遭遇した!そこを渡るべきか、それとも迂回すべきか? 目の前に密生する灌木帯があり直進はとても無理だ!ギリギリ川沿いを進むか、それとも川岸から離れるか? 冬の早い日没が迫っている。まだ目的地に届いていない。ここでトレッキングを中断すべきか、進むべきか? 私はそのときどきに判断を求められた。全ての判断が自己責任。私はその判断を楽しんだ…。 

               
               ※ 大いなる石狩川の河原を独り往く代表的な一枚の写真かもしれません。

 私が一人旅を志向するようになった訳を考えてみると、これまでのいくつかの経験に起因していることに気が付いた。
 
 高校2年のときだった。親しかった1年下のT君と道東地方を巡る一週間の自転車旅行をした経験があった。
 大学1年のときだった。高校の同窓で、同じ大学に進学したS君と、今度は北海道内一周の自転車旅行をした。
 どちらも楽しい思い出として私の中には残っている。しかし、旅行中にT君とも、S君とも気まずい思いをしてしまったことも忘れられない。それはお互いに体力的にきつくなったときに、どう対処するかという方法を巡って対立してしまうことが多くあり、しこりを残してしまったことが忘れられない。

 一方、私は大学3年を終えたときに、1年間休学してヨーロッパ・アジアをヒッチハイクで彷徨する一人旅に出た。
 その旅は、一日一日が、一瞬一瞬が判断を求められる連続だった。明日はどこへ向かおうか? 所持金が残り少なくなり、この後どうしようか? ヒッチハイクで思うように進めなかったとき、どこに宿泊しようか? 等々…。
 私は一人で判断しなければならなかった。判断したことに責任を持たねばならなかった。誰にも文句を言えない。誰にも責任を押し付けることができない。すべては自己責任に帰する旅を続け、両親と約束した1年後に無事に帰国することができた。
 この一人旅は私を強くした。私に自信を与えた。そして何より、一人旅の醍醐味を知ってしまった。

               
               ※ 掘割に張った氷の上にうっすら積もった雪。はたして渡れるのか否か。真剣に検討しました。

 「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクトにおいても、私は当然のように一人旅を選択した。(というよりも、誰一人こんな酔狂な企てを一緒にしようなどという者は現れない)
 今回のプロジェクトにおいては、リード文でも触れたように一瞬一瞬の判断が求められた。さらには五感を研ぎ澄まして、行く先々の危険を事前に察知することが求められた。
 雪の上に立ったら、考えることは“この先をどう進もうか?”、“危険な個所はないか?”、“昼食はどこで摂ろうか?”等々…、考えることは目の前で生起する問題をどのように判断し、処理するか、だけに忙殺される。そこに日常の雑事は全て忘れ去られている。

               
               ※ 私の行く手に立ちはだかる風倒木の塊。この先をどう進もうか?大いに頭を悩ませました。

 さらに一人旅は…。
 大いなる石狩川の河岸に、広い雪原に、唯一人…。聴こえてくるのは風の音、時に聴こえる川の流れの音…。自然の中にどっぷり浸かっている自分を感ずる…。
 こんなシチュエーションに、相手の話し声、仲間の歓声など必要ない。独りでいることに無上の喜びを感ずる。
 私のブログに度々登場する超人おじさんsakag氏は言う。「孤独感は心地良いが、孤立感は侘しい」 と…。
 まさに私の「冬の石狩川河岸を遡る」旅は、孤独感を楽しんだ22日間だったのだ。

 もう少し22日間を振り返ったみたい。


「冬の石狩川河岸を遡る」を振り返る 2

2017-03-03 17:06:30 | 冬の石狩川河岸遡行スノーシュートレッキング

 恐る恐る踏み出した「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクトだったが、記録を振り返るとシーズンを追って取り組む日数が増えていることが分かる。特に4年目となった今シーズンは実に10日間もこのプロジェクトに費やした。 

          
          ※ 全てはこの一枚の写真から始まった…。石狩川が日本海に注ぐ先端部分です。

 このプロジェクトにかけた日数をシーズン別に振り返ってみると、
 ◇2014シーズン   3日
 ◇2015シーズン  4日
 ◇2016シーズン  5日
 ◇2017シーズン  10日(※ ‘16/12/15 ‘16/12/28~12/30 も含む)

 私はこのプロジェクトに取り組んだ第1日目のレポートに次のように記している。

 正月以来、初○○と称して、山登りやスキー、クロカンなどを体験してみたのだが、「もっとも今の自分に相応しいのはスノーシューかな?」との思いを強くしていました。スノーシューといっても山には危険が伴います。その点、河原を歩くことは迷う心配がなく、冬を楽しむには最適なのでは?と私一人が思っていることです。
 そこで思い出したのが、2011~2012年にかけてスノーシューで豊平川河口から定山渓まで河原を遡行した体験でした。
 まさかあれと同じようなことを石狩川でやろうとは思っておりません。あのとき体験したように少しだけ石狩川でもやってみようか、と思い立ったのです。
 

 つまり、このプロジェクトに踏み出した時には、豊平川河岸を遡った時の充実感が忘れられず、石狩川を舞台に“ちょっとだけ”やってみようか、という思いだった。
 だから2014シーズンは3日を費やしただけだった。この3日間、レポートを読み返してみると、その日の終盤には必ずと言って良いほど大腿部の痛みに悩まされている。なのに私は懲りずにその後も石狩川に向かっている。

 2014シーズンの最終日のレポの終わりに私は次のように記している。

 これだけ辛い思いをしてもスノーシューを止めようなどとは全く思わない。それほど私は今、スノーシューにはまっている。 

 最初は“ちょっとだけ”と思って始めたにもかかわらず、わずか3日間の取り組みで心境はがらりと変わり、「止めようなどとは全く思わない」と言い切っている。
 いかに私がスノーシューの魅力に憑りつかれたかを如実に言い表している一文である。

          
          ※ 「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクトは、ある意味石狩川に架かる橋との出会いの連続だった。写真は江別市近くに架かる「美原大橋」です。

 そんな私は翌2015シーズンには4日間、石狩川河岸に通い上流に歩を進めた。
 転機はその年の夏、超人的おじさんsakag氏との出会いだった。
 氏と話す中で、この「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクトのことについて、私が漏らすと「誰もやっていないオリジナルな取り組みだから、頑張りなさい」と激励を受けたことだった。
 そうした激励もあって2016シーズンは取り組む日数がさらに増え5日間となった。
 その2016シーズン最後のレポの終わりは次のような言葉で締め括られている。

 この日が今シーズンのスノーシュートレッキングの最後と決めた。シーズン前には、今シーズンの目標を「滝川まで!」と内心思い定めていたが、残念ながら目的地には届かなかった。しかし、今シーズンはこのプロジェクトを始めて3年目だが、最も多い5日間をこのために費やした。
 その一日一日は、私にとって何にも代えがたい充実した日々だった。それでいいではないか!
 届かなかった滝川、そしてその向こうまで…。来シーズンまた取り組めばいいのだ。石狩川はいつも待っていてくれるはずだ。私の体調、意欲が今シーズンと変わらなければ、という但し書き付きだが…。今シーズンは一応の終止符を打とう。
 

 そして今シーズンである。
 なんとこれまでとは比較にならない10日間もこのプロジェクトに費やすことになった。
 その要因はいろいろ考えられるが、まず第一には目標が近づいてきたことが大きいと思う。日数さえ費やせば密かな目標としていた旭川に到達できると…。
 二つ目は、私の体調が意外に良かったということがあげられる。これまで必ずといってよいほどその日の後半に感じていた大腿部の痛みを感ずることがなかったことだ。体力が増強したとは考えられないが、一日の距離が適当だったという幸運に恵まれたのかもしれない。

          
          ※ このプロジェクト最後の一枚は、目的地の旭橋をバックにしたわが愛機(というほど立派なギアではないが)です。

 今シーズン前までの取り組みと比較すると、宿泊を伴ったこともあるが充実した最後のシーズンとなった。
 さて、私は何故これほどまでスノーシュートレッキングにはまってしまったのか、その辺りについて明日考えてみようと思う。


「冬の石狩川河岸を遡る」を振り返る 1

2017-03-02 17:07:29 | 冬の石狩川河岸遡行スノーシュートレッキング

 それはA4版95枚にもなった。2014年1月23日に投稿を開始してから、2017年2月21日に最後の投稿まで、私が取り組んだ「冬の石狩川河岸を遡る」の22日間のレポートをプリントアウトしてみたところ95枚になっていたということだ。石狩川河口から旭川市の旭橋までの22日間を何度かに分けて振り返ってみることにする。 

     
     ※ 石狩川だけを抜き出して描いた概念図です。石狩川の源流である石狩岳まで描かれています。

 まず22日間の行程とその実施日を振り返ってみることにする。
 ◇第 1日目 (‘14/01/22) 石狩川河口 ⇒ 石狩河口橋
 ◇第 2日目 (‘14/01/30) 石狩河口橋 ⇒ 札幌大橋
 ◇第 3日目 (‘14/02/09) 札幌大橋 ⇒ 新石狩大橋
 ◇第 4日目 (‘15/01/29) 新石狩大橋 ⇒ 美原大橋
 ◇第 5日目 (‘15/02/05) 美原大橋 ⇒ 川下集落
 ◇第 6日目 (‘15/03/01) たっぷ大橋 ⇒ 月形大橋
 ◇第 7日目 (‘15/03/12) 川下集落 ⇒ たっぷ大橋 
    ※ 6日目と7日目は事情によって逆順となった。
 ◇第 8日目 (‘16/01/22) 月形大橋 ⇒ 札比内
 ◇第 9日目 (‘16/01/28) 札比内 ⇒ 美浦大橋
 ◇第10日目(‘16/02/19) 美浦大橋 ⇒ 奈井江大橋
 ◇第11日目(‘16/03/06) 奈井江大橋 ⇒ 於札内
 ◇第12日目(‘16/03/07) 於札内 ⇒ 砂川大橋
 ◇第13日目(‘16/12/15) 砂川大橋 ⇒ 徳富川河口
 ◇第14日目(‘16/12/28) 徳富川河口 ⇒ 尾白利加川
 ◇第15日目(‘16/12/29) 尾白利加川 ⇒ 江竜橋
 ◇第16日目(‘16/12/30) 江竜橋 ⇒ 石狩川第一橋梁
 ◇第17日目(‘17/01/03) 第一橋梁 ⇒ 向陽橋
 ◇第18日目(‘17/01/23) 向陽橋 ⇒ 深川橋
 ◇第19日目(‘17/01/24) 向陽橋 ⇒ 納内橋
 ◇第20日目(‘17/01/25) 納内橋 ⇒ 神納橋
 ◇第21日目(‘17/02/14) 神納橋 ⇒ 観魚橋
 ◇第22日目(‘17/02/15) 観魚橋 ⇒ 旭川・旭橋

          
          ※ 石狩川だけでなく、石狩川に注ぐ支流も描き、周りの地名を入れた図です。

 こうして並べて振り返ってみると、あらためて「長い道のりだったなぁ~」と思う。
 と同時に、関心のない向きには「なんてバカバカしいことを企てたのだろう」との思いもよぎるのではと思われる。

 そのことについては、この「冬の石狩川河岸を遡る」プロジェクトから、さらに遡ること3年前に、私は2年間をかけて「冬の豊平川河畔を遡る」というプロジェクトを敢行した。その初日の‘11/02/10に次のように投稿している。

 道なきところに踏み出せるスノーシューで何かをしてみたい。さりとて不案内な山は危険が伴う。そう考えたときに、「そうだ河原を歩こう!」というアイデアが閃いた。冬だからこそ近づける河原を辿りながら、川を遡ろう!私の小さな冒険は豊平川の上流を目ざした。どこまで行けるのか、事前踏査をまったくしていないのだから皆目見当が付かない。何日かに分けて無理なく行けるところまではと思っているが…。

                

 私にとってはこの一文が原点であり、石狩川河岸を遡っている時もその思いは変わらなかった。

 寒さが厳しい冬の路だった…。
 何が待ち構えているか分からない河岸の路だった…。
 しかし、私は嬉々として石狩川の河岸に向かった…。
 「冬の石狩川河岸を遡る」22日間を振り返ってみたい。