鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

予報どおり雨です、

2017-06-21 14:36:28 | 思いつくまま

 

 (午前9時15分頃。高いビルが霞んでいます。)

 朝からどんよりとした空。いつ降り出してもおかしくない天気。ポツポツ降り出したのは午前9時45分頃でしたか。 最初は弱い降り方、徐々に粒も大きくなり、耳からだけでも降っているなとはっきり分かります。昼頃からは風も出てきました。

             

 

 今日か明日あたりみちのくは梅雨入りになるかもしれないときのう言っていましたが、どうなのでしょうか。まだ梅雨入りとなったということは聞いていません。 まあいずれにしても今年の梅雨入りは平年よりも10日くらい遅いようです。  ≪※追記 きょう梅雨入りしました。≫

             

 きょうあすの降雨でどのくらい水量が増えるのか、大変興味があります。この際川底のゴミ等を洗いざらいきれいに一掃してくれることを願っています。降っても今週くらいにしてもらって、来週は強い日差しとなって川底の石には新鮮な苔が着いてくれたら最高ですね。

 

       

 

          (本流のカモ) 

 きのう広瀬川分流の魚の映像をお示しして、これは鮎ではないかと問いかけたところ二人の方から鮎だろう、鮎に違いないというありがたいお言葉を頂きました。ありがとうございます。

 水量の極めて少ない分流でさえこれだけの鮎がいるのか!ならば本流には放流鮎や天然遡上鮎は一杯いるのではないかと思った方もおられるかもしれません。そうであれば全く問題がないのですが、少なくともきのうまでの状態からはそうは言えないのではないかと悲観的否定的にならざるを得ません。

 実はきのうはじめて広瀬川の水中探査を実施してきました。なんのことはない、ウエダーを履いて、2年前に買った瀬渡杖を持って広瀬川に入ってきただけです。場所は西道路のトンネルが切れているところの少し上流の、今はだだっ広い平瀬となっているところです。

 ここは変な改修や大水でまったく変化に乏しい面白くない流れとなってしまいました。こういうところです。

 

(右岸寄り) 

 さぞかし驚くようなハミ跡があるだろうと思って入ったのですが・・・・・。ご覧ください。写真は以前から使っている水中でも使えるコンパクトデジカメでの撮影です。もう5,6年以上経つからそろそろ水が入ってくるのではないかと、冷や冷やしながら使っています。

 

               

 

              

 

              

 

              

 

              

 こういうところです。

 

            

 写真は一つの石で1枚というわけではありません。同じ石を方向を変えたりしても撮っています。川に入って感じたのは、これで大丈夫だろうかという不安心配です。結構いい天気が続いていましたし、深いところでもないのできれいなコケが一面についてもおかしくはないと思っていました。

 しかし現実はコケ自体が新鮮な、鮎がとびつきたいような、食らいつきたくなるようなコケはこの付近では皆無でした。 だからハミ跡はありましたが、いずれも古い感じがするものばかりです。 そして大きさも大きくはないです。なかには少し大きいかなというのもありましたが、概して小さいハミ跡です。

 この結果に驚きました。意外でした。一目見て惚れ惚れするような大きなハミ跡は一つも見つかりませんでした。(あくまでも昨日午前中現在) 解禁まであと10日というのに、このような状態では今年の解禁日も””鮎は釣れない””ということになるでしょう。

 どこか深いところに溜っているのでしょう。もしかしてすべて分流だけに集まったりしたのかも・・・なんて悪い冗談さえ言いたくなってしまいました。 見て回った場所が丁度牛越橋と澱橋の中間点付近で、この場所自体にアユの放流はしていないはずです。鮎が散らばっていないと考えられないこともないですが。

 そういうこともあって今度は牛越橋や澱橋付近に入ってみようかなと思っていたら、この雨ですので、当分は無理かなと思っています。

 

 そうそう大物を見つけました。川底の砂地に横たわっていました。70余年の風雪ならぬ水量に耐えてきたということですか。私にとっては物言わぬ平和の象徴とでもいうべきか、こういうものを国民が背負わなくてもいいような世の中になってほしいという”無言の訴え”と受けとりました。

 何だと思いますか?

 

 (旧日本陸軍の鉄砲でしょう。とっても重いです。)

 それにしても敗戦時にいくらくらい川に捨てたのでしょうか。命令で捨てたのか、やけになって個人的に捨てたのか、今となっては知る由もありません。捨てる時兵隊はどういう思いで捨てたのでしょうか。こういうことは正式な記録として残されているということはないでしょうね。歴史にうずもれている事例ということになるのでしょう。

コメント (1)
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