鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

あの日から、9年11か月

2021-02-11 13:57:27 | 思いつくまま

 

もうすぐ午後2時になろうとしています。外はとっても明るいです。眩しいです。朝の7時、8時ころは氷点下ではないですが、結構冷えました。不思議な気温の推移でしたね。午前5時で4.3度と暖かかったのに、7時では1.9度、8時では2.7度まで下がり、9時になって5.1度まで上がりました。その後は漸増といいますか、少しずつ上がっています。お昼で6.4度でした。

きょうは「あの日」の月命日です。もう9年と11か月が経過しました。来月は10年目となります。今マスコミでは10年前のいろんな出来事等を記事にしたり放送したりしています。その中できのうから始まった南三陸町の佐藤仁町長のインタビューが強烈です。

  

新聞の半分近くを占めるくらいのすごい量で、きのうは「上」、きょうは「中」となっていますので、あしたは「下」ですか。三日間にわたるようです。迫力のある発言、記事となっています。私にはそう感じました。

 

佐藤仁町長は10年前の3月11日には防災庁舎の屋上にいました。その時の様子です。

 

『目の前で、役場と男性職員の家がつぶれていく。家の中に奥さんがいるんです。女性職員が奥さんの名を金切り声で叫ぶ、そこへ津波。波が引いたら職員がたった10人しか残っていなかった。』

 

『最初は海側にいましたが、様子を見ようと階段側に移動した時、波をかぶってフェンスに押しつけられました。もし元の位置にいたら、みんなと同じように流されていたでしょう。津波がせり上がり、屋上の私たちをのみ込むまで、まばたきする間でした。』

 

『怖かったのは自動洗車機です。震災2年目でしたか、車を洗おうとした時、前から水が迫ってくる様子を見て津波を思い出し「止めろ!」と叫んで外に出てしまいました。』

 

『我々が情報発信しなければ誰が避難を呼びかけるのですか。町民がいっぱい死ぬ。そんなことはできない。公務員はいざという時逃げられない。』

 

『危機管理の中枢と防災無線の放送設備が防災対策庁舎にしかなかった以上、誰かが踏みとどまり、避難を呼びかけないといけませんでした。』

『あの日、三浦毅(危機管理課長補佐)と遠藤未希(職員)が必死で「避難して」と言い続けました。平時なら自動放送でもいいのですが、町民の命を左右する非常時は、おのずとその重大性に合わせ、緊迫感を持って放送しないといけない。2人はそれを全うしました。』

『私は震災後、役場職員の採用面接の際、必ず「公務員をなめるなよ。災害に遭ったら、自分の家がつぶれても仕事しなければならないんだぞ」と言います。』

『どこの自治体も、災害対応を住民と話し合うとき、安易に「役場でやる」と答えがちですが、できることとできないこと明確に線引きしておかないといけません。』

『むしろ我慢できないのはトイレです。発災直後はそれが一番切実な問題になるでしょう。。・・・。もう一つ大事なのは「近助」。講演に行った町で、保健師の方から教えていただいた言葉です。その方は、こんな風に言っていました。「近所と仲良くしてください。優しい人、文句ばかり言う人。1人しか助けられない場合、どちらを助けますか?」』

『震災後に採用した職員の数は、プロパーの4割を超えました。実は役場の中でこそ、記憶の風化が進んでいる言えます。職員への伝承は、大きな課題です。』

とっても重い訴えですね。

 

亡くなった遠藤未希さんのことをうたった詩です。

            「高台へ」  和合亮一

南三陸。役場に勤めているある女性は、必死になって、マイクの前で、最後まで、避難を呼びかけた…。
南三陸。黒い波があらゆるものを奪っても、女性は必死になって、呼びかけた。「高台へ、高台へ」…。

そして女性はそのまま帰らぬ人となった。最後まで、最後まで、津波を知らせ続けた…。
女性のご両親は後日に、正に津波が押し寄せて来た時の、記録映像を見ていた。波は激しい勢いで、いま正に、南三陸の街を飲み込もうとしている…。

〈 高台へ避難して下さい、高台へ避難して下さい 〉。美しい凜とした声を聞いて、お母さんはぽろぽろと泣いた。「まだ言っている、まだ言っている」…。

さらに黒い波。あらゆるものがなだれ込んできた。〈 高台へ避難して下さい、高台へ避難して下さい 〉。美しい凜とした声を聞いて、お母さんはぽろぽろと泣いた。「まだ言っている、まだ言っているよ」…。

〈 高台へ避難して下さい 〉。騒然とした非常な南三陸の街で、美しい凜とした声は、何百人もの命を救った。声の明かりを頼って、高台へ行こう、高台へ行こう、と…。

高台へ。そこには緑が群れなす、初夏の草原。何も求めない、ただ、胸いっぱいに吸うことの出来る、空気と風が欲しい。雲の切れ間。

高台へ。振り向けば、海原がまぶしい、初夏の太平洋。何も求めない、ただ、胸いっぱいにあふれてくる、幸せの涙が欲しい。雲の切れ間。

高台へ。ついその先の濁流の恐怖。震えながら、人々は想う、凜とした声明かりがもっと、欲しい、もっと心の高台へと、誘って欲しい、全てを飲み込む、怒りと悲しみの渦、南三陸。

身を削るようにして、乳を搾り出して、限られた草を食べて、涙を流している、母牛も、凜とした女性の声を、聞いているのかもしれない…。
〈 高台へ 〉 黙礼。

 

実は、というほどのことではないのですが、2011年の「サントリー1万人の第九」に私も仙台から参加しました。朝からずーと会場の宮城学院女子大学にいたのですが、第九の合唱が始まる前に、須合正一さんが寒風吹きすさぶ南三陸の防災庁舎から上記の詩を読んだのです。

いやあ、参りました。圧倒的に聞いている人たちの心に訴えてくるのです。響いてくるのです。こころがぐちゃぐちゃにかき回されてしまったかのようでした。

その時の模様は2011年12月5日と6日のこのブログで詳しく紹介していますので、ぜひともそちらもご覧ください。みちのくの合唱団は、岩手宮城福島の3県からの歌手で構成されていました。

あの伝説的とも言っていい指揮者、佐渡 裕さんが仙台にも来て、指導してくれました。

 

          ・・・・・もうすぐ午後2時46分になります。


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