私の母親の一番下の弟…つまり叔父さんだ。
叔父には男の子二人の子供が居て、当時たしか5歳と3歳くらいだった。
最初は、ある商売をしながら店構えのある一軒家に住んでいたが
商売が上手くいかず、家は手放し妻は温泉街に働きに出て
お決まりの男と一緒に行方をくらました。
叔父は市内の6畳一間だったか、薄暗い湿った感じのアパートに住んで
居なくなった妻の代わりに子供の世話をしている姿は惨めの他に言葉が見つからなかった。
叔母は妻として母親として生きるよりも女として生きる道を選んだ。
叔父が男と姿を消した妻を捜しに関西のほうへ行っている間
一時期、その子供たちは親戚をたらい回しされてた時期があって…。
うちにも何ヶ月か居た事があってよく遊んだものだった。
ただ、ご飯の時になると切ない思い出があって
上の子はわりとハッキリした子で、可愛がられていたが
したの子はなんと言っても、まだ3歳でご飯の時のおかわりが言えなかった。
私の父親も自分には甘く人には厳しい人だったから
いつも下の子に向かって、おかわりが言えなければおかわり出来ないと言っていた。
すると、上の子は元気におかわりが言えたけど
下の子は言えなくて、下を向いてモジモジしているのが
いまだに鮮明に覚えている。
なんと言っても母親の庇護が必要な年頃で
母や私たちが庇っても、なかなか打ち解ける事が出来ずにいた。
あれから、二人の子供たちは叔父の居る関西へと越して行ったが
何年か経って、母と二人で叔父の居るところへ行った事があった。
先に送れば良いのに、馬鹿みたいに米を持って野菜を持って
当時新幹線も通っていなかったので夜行列車で出かけた。
上野の駅に早朝に着いて、電車を何度か乗り継いで
叔父一家が住んでいた所へ着いたのは夕方になっていた。
古ぼけたような長屋仕立ての家で、相変わらずに三人で暮らしていた。
妻は母親は、近くにいるようなのだが一緒には暮らしてはいなく
次の日の明け方には、上の子は新聞配達のアルバイトに出かけた。
母は弟の暮らしに会津へ帰るように説得をしたが
叔父にしてみれば未練があったのか、ただただ意地だったのか…。
会津へ帰ることなく、かと言って妻とよりを戻すことなく
がむしゃらに働いて、息子二人を大学にまで出し
息子二人はそれぞれ独立し、現在に至っている。
二人の息子たちも、確か私が長女を出産した頃に
一度だけ会津へ来た時に顔を出してくれた事があったが
あれ以来、何処でどうしているのだろう。
年に一度の年賀状が、まだ元気に暮らしているであろう叔父の唯一の証だった。
今はどうしているのだろうか?
今日見たテレビに、叔父の住むすぐ近くの場所が映っていた。
年賀状によれば、近所の人たちが良くしてくれる…少しの酒とカラオケとが
悠々自適な独り身の生活だと。
人の生き方には、いろんな生き方がある。
順風満帆に幸せな一生を送る人もいる。
叔父のように、妻に逃げられ子供と妻の住んでいるであろう土地に移り住み
よりを戻す事もなく、それでも男手一つで子供を育て上げ
傍から見れば、不幸を背負ったような生き方かもしれないが
それはそれで、自分で納得して完全燃焼した生き方だったのかな…と思う。
今度叔父に手紙でも書いてみようかと思った。
何日か前の夕暮れに一瞬だけど見えた磐梯山。