不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■井田衍義・書抜しらへ 郡府舊記 十八(9)

2018-07-29 09:04:31 | 史料

一乗馬所持之面々ハ、壹疋ニ付飼料大豆拾俵宛右之通被渡
 下、代米ハ手取米之内より差引被仰付、右望差出ハ六月
 廿九日限惣銀所え被相達、乗馬所持之面々飼料大豆之儀、
 銘々より惣銀所え望差出被相達、馬數何疋所持との儀銘
 々より書付一組限被取揃、頭々より各別ニ御奉行所え可
 被相達候事
一御郡代中出在之度々被渡下候御加扶持米幷勤渡之儀、寶
 暦三年八月より左之通
 拾人扶持
  但、五人扶持被渡下候處、已後右之通被渡下候
 拾枚
  但、七枚宛被渡下候處、向後右之通被渡下候
一御郡代在役料之儀、本知貮百石内之面々ハ貮百石迄被足
 下、貮百石以上ハ都て右役料ハ不被渡下候事
一江戸幷御當地御用雑穀品々割賦之内、向後大麥・上大豆・
 中小豆・粟・蕎麥・同干大米・黑大豆ハ割賦被差止、上
 小豆・白小麥・稗・十六寸ハ已後共割賦被仰付筈候事
一御郡間納之新地山方御年貢御開徳米、畝物上り開野開米
 銀等、前々より二季御算用帳幷皆濟目録、正月十一日目
 六共調出候、外ニ在中より相納候稜々を別帳ニ〆、皆濟
 目六差出候様達之事
一御郡奉行之儀、寶暦六年八月より御郡代と役名被改候事
一御山奉行之儀、同年同月より御山支配役と役名改候事
  塘方助役之一領一疋・地侍之儀も右ニ准し支配役と改
  可申候
一野方へ被遊御出之節、御郡代御供罷出來候得共、御免方
 御用等差支候ニ付、此已後八月より十二月迄ハ御郡代御
 供被成御免、御惣庄屋も罷出候ニ不及、一領一疋之内壹
 人罷出御用筋は承り加申旨被仰出候事
一寺社幷町在共見せ物芝居依願被成御免興行之儀、時節無
 構興行仕來候得共、向後十二月より明ル三月迄四ヶ月ノ
 間興行可仕候、右之時節外ニは都て興行難成候事
一右御免之見せ物芝居、又ハ神事祭禮の芝居共、夜芝居興
 行之儀遠在たり共向後被差止候事
一御國より他所へ出候女、御境目罷出候出切手之内自餘之
 女紛無之段、書付出候上其趣を以出切手調相渡來候得共、
 相改、自餘と申儀調不申、御國者ニ紛無之と出來之筈ニ
 候間、受人立之書物、且又添手形等も僧俗男女共ニ右之
 通調加候事
一諸御浦々御番所御番宅等御繕之儀、且又所々御茶屋其外
 御客屋又ハ寺社方之儀、支配方々々より達有之候へハ、
 御繕之儀及達、御郡拂之品々も其時々ニ割賦ニ相成候得
 共、在中間敷時分ハ速ニ拂込も難成、自然と其分ニて押
 移候儀も有之候付、御郡拂有之所々ハ、御繕之儀急成儀
 は格別、其外ハ霜月比より翌三月比迄之内御繕被仰付度、
 秋在中間敷時分ハ御郡拂之沙汰用捨仕、御繕之儀、十月
 比ニも被相達候ハヽ見分等及達、冬春之内致出來候様可
 仕候、御郡拂之品々差紙前無滞拂込候様可有之候事
一御隣國之御衆様御領内御通之節、御宿拵等ニ御役人被差
 出來候、然處相改、右御宿拵之儀ハ一式御郡受被仰付
 候、且又浦御番御用間又は遠方御番所御繕等之儀も、御
 郡受被仰付、右御繕之儀御惣庄屋引受、御入目等積書小
 前等相調差遣加申事
 託麻郡春竹村共、牢舎之掃除幷御仕置者有之節、井
 手口・下河原両所之御用其外一切勤來申候處、近年及
 零落候ニ付遠在之共も御用向一統ニ相勤候様、若遠
 在之者とも右之御用難罷出候ハヽ、御國中村々より
 一竈ニ付五匁宛之出銀、四月八日両度ニ受取候様被仰付
 被下候様、願之書付託麻御郡代より被相達及参談、五匁
 宛之出銀は難叶、一竈ニ付貮匁宛受取様及達、依之春竹
 村共在々打廻申談候處致納得候村も有之、一向受付
 不申村も有之候ニ付、一統ニ出銀相渡候様被仰付被下候
 様、尚又春竹村頭書付託麻御郡代より被差出候ニ
 付、寶暦四年四月左之通相究
 鯰手永    中嶋手永   甲佐手永   上同     坂下手永
一中六ヶ村 下大川村 仁田子村 下早川村 川崎村
 小田手永   上同     荒尾手永  中富手永  上同
 東北帳村 下坂下村 増永村 藤井村 久野村
 右村々共ハ、御年貢幷諸公役共惣百姓並ニ相勤候ニ
 付、貮匁宛出銀ハ不申筈候事
 高田手永   上同      野津手永
一宮地村 一上白置村 一宮原村
 右村々共、八代御城下一切之御用相勤候ニ付右同断
 中山手永     佐敷手永
一中小路村 一白岩村
 右貮ヶ所村へハ共纔ニ居申候得共、無高者ニて百姓屋
 敷内又は高地之端差置、乏敷様子ニ付右同断
 上益城     同     下益城     同      葦北
一馬水村 一平田村 一水上村 一下宮地村 一濱村
 同      山本     山鹿     同      同小字田村之内
一馬場村 一宮原村 一松原村 一國瀬村 一嶋村
 同下吉田村之内 合志            同               同                    同
一嶋村  一原田村 一弘生村 一南弘生村 一中代出分村
  内牧            坂梨             高森            布田            下益城
一村 一村 一村 一村 一巣森村
 宇土     菊池
一高良村 一西寺村
 右村々共之儀、前々より御年貢上納等も致來候穢共、
 諸公役は相勤不申由ニ付、春竹村共へ之出銀相渡申
 筈ニ候事 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「日本切支丹宗門史」と細川家(2)

2018-07-29 06:55:19 | 史料

   1602年(慶長七年)
    ・或日御殿の中で、天下の大々名二人、即ち豊前の大名越中殿(細川忠興)と、長崎奉行カンズエドノ
     (當時の長崎奉行は寺澤志摩守にしてカンズエドノとせるは誤なるべし)との間に、大喧嘩がもち上がった。カンズエドノは、越中殿が領内で
     イエズス會の神父等を優遇し、種々便宜を與へたことを特に非難し、キリシタンに對して嘲罵を
     浴せた。豊前の大名は、カンズエドノの無法を憤り、刀に手をかけるに至り、若し大々名の一人が中に入
     つて両者を宥めなかつたら、修羅場を現出したに違ひない。
    
    ・豊前と豊後の一部を領有する長岡越中殿(細川忠興)は、己が本城であり常住の治であつた小倉に、司祭一
     人と修士二人を置いてゐた。京都付近では、越中殿の息子二人があり、各々一國の大名で、其夫
     人と共に洗禮を受けたが、公方様故にそれは秘密であつた。

   1603年(慶長八年)
    ・二年前から城下町に定められ、人口六・七千人あつた豊前の小倉では、長岡(細川忠興)は、常に好意
     を寄せていた。この町には、イエズス會員が三人ゐる一つの駐在所があつた。四百人の生年の受
     洗者があつた。
      長岡の女二人は、キリシタンであつた。彼女等は、母の勧めによつて、秘密に洗禮を受けてゐた。
     彼女等は、父の取締が厳重なので、宣教師には一切話が出来なかつたが、堅く身を守つて日
     を送り、聖靈が彼女等を導き守つてゐた、といふことであつた。彼女等は、キリシタンの人々の
     仲介で、神父と往来した。長岡は、彼女等の生活の安全なことで、彼女等がキリシタンであると
     判つたが、黙認した。

   1604年(慶長九年)
    ・豊前の小倉には、三人の修道者がゐた。漸く二年前に出来たばかりで、而も既に七千戸もある
     この町には、四百人の成年者が洗禮を受けた。この町のキリシタンは、支那船の難破のために宣
     教師が文なしになりはせぬかと懼れ、彼らのために米六百俵の喜捨を集めた。
      陰暦七月十七日にドンナ・ガラシアの年忌が行われた。この機會に越中殿は、素晴しい
     慈善を行った。彼は、死刑の宣告を受けた者七人を特赦して神父に引渡し、なほ之でも足らず、
     翌日更に、他の死刑の宣告を受けた者二十人を全部釋放した。教會に感謝してゐた之等憐れな人
     々は、説教を聴くことを願ひ、そして洗禮を受けた。越中殿も、キリシタンになりそうに見え
     た。然し、政治的の利害關係と、第六戒(貞節)を守ることの困難とが、この大名の改宗に何時も邪
     魔になつた。

   1605年(慶長十年)
    ・豊前の小倉には、一人の司祭と二人の修士がゐた。大名長岡越中殿は、若し第六戒がなか
     つたならば、キリシタンになつたことだろう。十九歳になる彼の子供内記殿(忠利)は、随分好意を寄せ
     てゐた。     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする