〇御郡間舊記書抜之事
五三六
寛文五年五月
一水前寺御茶屋御繕作事被召仕候夫方、一日壹人ニ壹升飯
米被渡下候事
五三七
同六年三月
一玉名鹽浜反積、上壹反ニ付鹽壹石三斗、中壹反ニ付壹石
貮斗、下壹反貮付壹斗、前々之反當貮て候處、只今ハ右
二五割増也
五三八
一保田窪ハ銀壹匁ニ拾五把宛
一麻生田・黒石・仁連木・花立・兎谷は、銀壹匁ニ貮拾把
宛
一合志郡弘生村・須屋村・枝薪壹匁ニ拾貮把、柴薪壹匁ニ
拾貮把宛
一大津新町ハ銀壹ニ拾五把宛
同五年
右之通松枝直段相極候事
但、小山瓦焼買申候ハ、右之直段ニ壹割五分増被渡下
候事
五三九
寛文六年五月
一久住新町ニて請酒仕候者、宿町之儀ニ付運上銀御免之事
五四〇
従前々御知行割之事
一妙解院様御代、寛永十八年より正保二年迄ハ右同断
一正保三年より寛文四年迄ハ前三ヶ年之秋免之内、下免一
ヶ年除、殘ニヶ年之秋免を撫し四ツ成ニ割被遣候事
一寛文五年より土免割ニ被仰付候事
五四一
寛文六年九月
一菊池山奥村々、熊本御蔵入三斗六升入ニて相拂候處、依
願左之村々三斗入拂ニ被仰付候事
虎口村・半尺村・白木村・小楠野村・染土村・南小野
村・永野村・原村・生味村・雪野村・市ノ瀬村
五四二
同七年三月
一御暇被遣候侍衆抱置候下女之儀、惣て女は他國者ハ不被
遣筈、併乳抔ニてはなし候事不成者は付ヶ被遣候、尤下
女親共より付遣候て支申候段相達候上、其通被仰付、重
て隙を遣差返候との受人立候也、何ものにても此通也
五四三
同年三月
一熊本ニ居候者共在郷ニて御誅伐被仰付候ハ、郡馬ニ乗せ
遣候也、在郷より被召籠候者を、御郡ニて御誅伐被仰付
候も、御郡馬乗せ遣候也、御追放者ハ右之譯不構町馬ニ
乗せ遣候也
五四四
同八年七月
一御國中今迄之釣懸舛を被改、當八月朔日より京舛ニ被仰
付候事、且もめ壹俵今迄ハ三斗六升入ニて候處、三斗五升
入ニ被仰付候事
但、京舛壹石ハ釣懸舛ニては壹石六升四合ニて候事
一米大小豆三斗五升入之事
但、今迄三斗入ニて有來候所ハ其通之事
一小麥三斗五升入之事
一大麥 粟 蕎麥 胡麻 荏子 稗 四斗入之事
寛文八年七月
右之通俵入實之儀、御觸相成候事
五四五
同年八月
一庄屋給米高千石ニ釣懸壹石五斗宛ニて候得共、今日舛ニて
差引無ニ京舛壹石五斗宛被渡下候事
五四六
同九年四月
一川限境目之事、川中境目也、洪水ニて川筋違候とても、
川ニ付候て境目前より相極候由扣有之候事
五四七
同十一年三月
一阿蘇谷宮地村之内、社家中耕作仕來候田畑、御百姓並ニ
御内檢を受候得共、依願寛文元年より十ヶ年撫ニて、定
免ニ被仰付候事
五四八
同十四年二月
一飽田郡立田本村之内、常樂寺屋敷四畝貮拾四歩、藪貮畝、
前々より無高地にて、藪ニも御年貢懸不申候事
五四九
同年十月
一御暇を被遣候衆、田畑手開被仕候も、出作ニ作せ置候分、
其百姓手前より早速相達候得ハ、毛上三ヶ一之作徳を作
主へ被下、三ヶニハ上納被仰付、若不相達候ヘハ、毛上
不殘上納ニ被仰付候、御暇被下衆ハ以來右之通相極候事