津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「日本切支丹宗門史」と細川家(1)

2018-07-27 15:03:25 | 書籍・読書

 日本切支丹宗門史」にとりつかれている。下手な小説よりもずっと面白く、真実が紡がれた歴史の迫力を感じる。
 その中から細川家に関わる文章を抽出してご紹介する。

 1600年(慶長五年)
  ・内府様の旗下には、丹後の長岡越中殿(細川忠興)がゐた。其夫人ドンナ・ガラシヤ(忠興夫人、明智光秀の女、秀林院)は、
   典型的のキリシタンで大坂に滞留し、夫の家老之一人小笠原殿(小笠原少齋)が護っていた。此家老は、
   若し夫人の名誉が危機に瀕した場合には、日本に習慣に基いて、先づ夫人を殺し、次いで他の家
   臣と共に切腹せよとの命令を受けてゐたのであつた。奉行達は、人質の名義で夫人の引渡しを要求
   し、且つ其邸宅を圍んで、夫人を奪取すると脅した。小笠原殿は、夫人に夫の命令を傳へた。
   ドンナ・ガラ̪シヤは運命に忍従して祈禱所に入つて祈り、次いて侍女達には、後に残るやうに言
   含めた。事實、侍女達に館を引下らせた。一方家臣の面々は、誤つた武士の面目といふ事に心
   を惹かされて、自殺すると言つて聞かなかつた。ガラ̪シヤは、跪いて劔の前に首を延べた。家臣
   達は、隣室に行つて、城に火をかけた後に切腹した。總ての物が皆灰になつた。
    ガラシヤ夫人は、總ての道徳の完全な鑑であつた。彼女は前から如何なる事變に遭はうとも、
   それに對する覺悟が出来てをり、又神の思召に從つて死ぬ事を一種の贖罪として進んで受け容れ
   たのであつた。彼女は、息子と二人の娘をキリシタンの教の中で育てゝ來たのであつた。彼女は、
   若干の棄子を邸内に引取り、又常に五六人のイエズス會の會員を世話すると申出ていた。
    心から彼女を愛していた夫は、何時までも深く心残りがしてならなかつた。オルガンチノ師は、
   夫人の遺骨の一部を集めさせて、彼等に荘厳な葬儀を執行はせた。為に領主は、この慈愛に満ち
   た行為にいたく感激した。

 1601年(慶長六年)
  ・長岡(細川忠興)は、丹後を譲つて、豊前とそれに隣接する豊後三分ノ一を拝領した。彼は、ドン・ヒ
   エロニモとその子ドン・トマス、並にその子達、平戸の追放者達を召抱へた。この大名は、快く
   グレゴリオ・デ・セスペデス師の意見を容れた。夫人を思ふにつけ、當時彼が宣教師に對して抱
   いてゐた感謝の念は、盡きる處を知らなかつた。彼の弟や息子並に女二人は、皆キリシタンであ
   つた。
  ・オルガンチノ師は長岡越中殿の希望に依り、其面前で夫人ドンナ・ガラ̪シヤの靈魂のために
   荘厳な葬式を營んだ。それは、特に必要の場合か或は讒誣を避ける為に、教皇廳から與へられた
   特権によつて、未信者の面前で聖なる祭式を執行する事が出来たからであつた。式後、殿は引出
               (一クルザドは約三フラン)
   物として黄金五枚、即ち二百クルザドスを贈つたが、師等はそれを貧しい人々に分けてやった。

                  「加賀山隼人」の画像検索結果

 1602年(慶長七年)
  ・豊前の傳道所には、四人の宣教師がをり、之等の宣教師が三百人の人に洗禮を授けた。そして
   二年前よりも更に厳粛に、ドンナ・ガラ̪シヤの三年目の記念祭が執行された。

                  (つづく)

 

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■井田衍義・書抜しらへ 郡府舊記 十八(7)

2018-07-27 07:07:24 | 史料

 六一〇
  明和八年三月
  飽田       八代      八代     葦北
 立田山御山 松求麻御山 高田御山 茂道御山
  山本     玉名     玉名     玉名     玉名
 植木御山 長須御山 晒御山  半高御山 臼間御山
  阿蘇谷
 小代御山
 右之山々前々より御留山と申傳候得共、屹ト御留山と申
 儀相分不申、彌以御留山被仰付被圍候旨、萬一杣取不
 仕候て難叶節は相達差圖を受、立枯不時折木は今迄之通
 相心得候様、尤御山々々差繁候様、容易ニ御惣庄屋・御
 山支配役幷村役人共取計不仕様御達ニ成候事
  奥物書所覺書有之ス郎事
 外
  小田手永   水俣手永   菅尾手永             水俣手永
 杉ノ谷御山 櫻野御山 馬見原御山之内二ヶ所 大崎御
    湯浦手永
 山 湯沼御山

 六一一
  明和九年十一月
 右両所御郡代衆、依願御留山被仰付奥物書所日帳ニ扣有
 之候事

 六一二
  寛政三年六月
一在中之者共訴訟之筋有之儀ハ何品よらす筋々可申出儀、
 有前ニ候得共上ハ役/\訴訟之筋を差押候歟、又は非
 分を申出候歟、何分村庄屋へ達難成譯候ハヽ御惣庄屋へ
 申出、右も難成候ハヽ御郡代へ申出、夫も難成候ハヽ御
 郡間又は御奉行所え相達候様之事

 六一三
  同五年正月
一御郡代直觸無苗之者、天明六年已來ハ村人數日差加置候
 處、已來其身迄村人數日差放、附属ハ村人數日召加置候
 段達之事

 六一四
  同年七月
一御郡間御米銀鹽御算用之儀、是迄小物成方へ所々御蔵よ
 り御算用仕出來候を、以來御本方同様御算用所へ仕出方
 被仰付、手永御算用も是迄御郡間へ仕上來候も、本方同
 様ニ御算用所へ仕上候様被仰付候事
  右は御郡間當用方大覺帳之内書抜候也

 六一五
   小物成方覺帳之内抜書
  寶暦五年三月
一御郡奉行衆へ五枚宛被渡下候造作銀月限之儀、二月より
 三月限相渡、以後所替又は御役替被仰付候ても、跡役へ
 ハ譲ニ不及候、年内より正月之内先取仕候衆、二月より
 前御役替又は所替仕候ハヽ先取分も跡役へ譲渡筈ニ候、
 尤二月已後被仰付候衆ハ其年之渡方不及、翌年より被渡
 下候事

 六一六
  同六年正月
一御奉行所ニ手調脇々え仕出候紙面之内、御一門方・御家老
 中は今迄何某殿と書來候得共、此已後御一門方ハ何かし
 殿、御家老中ハ何ノ何某方と調加申候由、尤殿文字ハ此
 を書、御家老中ハ手ニ葉ニより方ノ字をも差除、何ノ
 何かしと調申候由候事

 六一七
  同年八月
一御郡奉行之儀、御郡代と役名替改、座席外様御醫師觸役上
 座被仰付候事

 六一八
  寶暦六年閏十一月
一再春館居寮賄米拾八石、御郡間御米之内年々相渡候事
  右之通候處、寛政九年より御本方渡相成候事

 六一九 
  同七年正月
一諸御郡御代官御算用之儀、三月十三日両度仕上來候處、
 御年貢米十二月廿日限皆納被仰付、皆濟目六差出、受米
 は利境御算用相立申品迄ニ候、依之三月中御算用被差止
 利境御算用迄被仰付候事

 六二〇
  同年四月
一獨禮已下御奉公差出ハ不被相達事候得共、當六月朔日よ
 り御奉公之趣、銘々より六月朔日より三日迄之内、分職
 又ハ御頭名當にして封印を以相達候様ニ成候事

 六二一
  同九年十月
一判屋共金子包判賃下方二ては百両ニ貮匁五分宛受取、御
 用金子は包方被仰付候ても判賃不被渡下候得共、向後包
 金被仰付候節は百両ニ壹匁宛被渡下候事

 六二二
  同十二年二月扣・同九年正月相究
一御用貮付在中へ被差出候外様足輕・御長柄之者へ晝飯米
 差別有之候得共、已來は足輕已下無苗之者共壹人半扶持
 宛被渡下候事

  右小物成方覺帳之内書抜也
 

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