「日本切支丹宗門史」にとりつかれている。下手な小説よりもずっと面白く、真実が紡がれた歴史の迫力を感じる。
その中から細川家に関わる文章を抽出してご紹介する。
1600年(慶長五年)
・内府様の旗下には、丹後の長岡越中殿(細川忠興)がゐた。其夫人ドンナ・ガラシヤ(忠興夫人、明智光秀の女、秀林院)は、
典型的のキリシタンで大坂に滞留し、夫の家老之一人小笠原殿(小笠原少齋)が護っていた。此家老は、
若し夫人の名誉が危機に瀕した場合には、日本に習慣に基いて、先づ夫人を殺し、次いで他の家
臣と共に切腹せよとの命令を受けてゐたのであつた。奉行達は、人質の名義で夫人の引渡しを要求
し、且つ其邸宅を圍んで、夫人を奪取すると脅した。小笠原殿は、夫人に夫の命令を傳へた。
ドンナ・ガラ̪シヤは運命に忍従して祈禱所に入つて祈り、次いて侍女達には、後に残るやうに言
含めた。事實、侍女達に館を引下らせた。一方家臣の面々は、誤つた武士の面目といふ事に心
を惹かされて、自殺すると言つて聞かなかつた。ガラ̪シヤは、跪いて劔の前に首を延べた。家臣
達は、隣室に行つて、城に火をかけた後に切腹した。總ての物が皆灰になつた。
ガラシヤ夫人は、總ての道徳の完全な鑑であつた。彼女は前から如何なる事變に遭はうとも、
それに對する覺悟が出来てをり、又神の思召に從つて死ぬ事を一種の贖罪として進んで受け容れ
たのであつた。彼女は、息子と二人の娘をキリシタンの教の中で育てゝ來たのであつた。彼女は、
若干の棄子を邸内に引取り、又常に五六人のイエズス會の會員を世話すると申出ていた。
心から彼女を愛していた夫は、何時までも深く心残りがしてならなかつた。オルガンチノ師は、
夫人の遺骨の一部を集めさせて、彼等に荘厳な葬儀を執行はせた。為に領主は、この慈愛に満ち
た行為にいたく感激した。
1601年(慶長六年)
・長岡(細川忠興)は、丹後を譲つて、豊前とそれに隣接する豊後三分ノ一を拝領した。彼は、ドン・ヒ
エロニモとその子ドン・トマス、並にその子達、平戸の追放者達を召抱へた。この大名は、快く
グレゴリオ・デ・セスペデス師の意見を容れた。夫人を思ふにつけ、當時彼が宣教師に對して抱
いてゐた感謝の念は、盡きる處を知らなかつた。彼の弟や息子並に女二人は、皆キリシタンであ
つた。
・オルガンチノ師は長岡越中殿の希望に依り、其面前で夫人ドンナ・ガラ̪シヤの靈魂のために
荘厳な葬式を營んだ。それは、特に必要の場合か或は讒誣を避ける為に、教皇廳から與へられた
特権によつて、未信者の面前で聖なる祭式を執行する事が出来たからであつた。式後、殿は引出
(一クルザドは約三フラン)
物として黄金五枚、即ち二百クルザドスを贈つたが、師等はそれを貧しい人々に分けてやった。
1602年(慶長七年)
・豊前の傳道所には、四人の宣教師がをり、之等の宣教師が三百人の人に洗禮を授けた。そして
二年前よりも更に厳粛に、ドンナ・ガラ̪シヤの三年目の記念祭が執行された。
(つづく)