七九二
天罰起請文前書
一私共儀村町横目役被仰付候ニ付、随分正道ニ相勤可申候
若公義御法度之條々・御國之御法度相背申者御座候ハヽ、
何者不依少も依怙贔屓即刻可申上事
一餘地片付方しらへ、私共も立合精々廉直ニ仕、重て餘地
出來不申様委心を付、必多度見聞仕、萬一不都合之様子
御座候ハヽ即刻御達可申上事
一御郡御格式少も被不申、毎月晦日、小ノ月ハ廿九日朝罷
出、村町之善悪可申上事
一村町之内孝心之者、幷農業出精御年貢諸出米銀諸公役等
手全成勤方之者、兼て心掛見聞仕可申上事
一右同断、不精ニて村町之妨ニ相成申者御座候ハヽ、是又
急度可申上事
一追々御達筋堅相守、若相背申者御座候ハヽ急度可申上事
一他國者は不及申、他支配之者村々へ留置、猶又紛敷品持
來候儀承付候ハヽ、御達可申上事
一村中へ喧嘩口論等仕候ハヽ、早速御達可申上事
一御侍様方・御役人様方へ慮外ヶ間敷儀無之、諸事慇懃ニ
仕可申事
一御手永御會所御役人・村町庄屋・御山口・頭百姓・拂頭
・帳書・肝煎ニ至迄、猥成儀御座候ハヽ急度可申上候、
尤諸事手全ニ相勤申者御座候ハヽ、其段可申上候事
一御年貢方幷諸出米銀其外之儀共、滞り申様子見聞仕候ハ
ヽ可申上事
一在中え御免賣物之外、聊之品なり共持來る商人有之候ハ
ヽ、庄屋へ預置即刻可申上候、且又札所持不仕商人は見
合次第押置、是又即刻可申上事
一在中御免無之揚酒仕候者ハ勿論、密々酒商賣仕候者御座
候ハヽ、名付を以御達可申上事
一問屋・旅人宿有之所々別て心を付、若相替義御座候ハヽ
早速可申上事
一村町は勿論、其外之所ニても博奕ヶ間敷手遊等仕候者、
又は右之通之宿主仕申者御座候ハヽ、慥ニ見届候段、夫
々名付を以御達可申上事
一御山藪共不■ニて猥成儀御座候ハヽ急度可申上候、御用 ■扌偏に乄=締
竹木剪出申節、猥成儀も御座候ハヽ是又可申上事
一藝者等村町え入込、踊なと仕せ候歟、又は村町不似合奢
ヶ間敷風俗仕候者御座候ハヽ、急度可申上事
一村町へ烏亂成躰之者入込申候ハヽ、心を付居、紙面を以
早速御達可申上事
一御會所御役人・庄屋・小頭・頭百姓・拂頭・帳書・肝煎
此外役付之面々村町打廻之節、造佐ニ相成不申様被仰付
置候、萬一心得違之面々も御座候ハヽ、即刻御達可申上
事
一村町役人より御達申候上ニて、諸出米銀割賦仕候様被
仰付置候ニ付、萬一心得違ニて村町より取立不申筈之米
銀、内證ニて割賦仕候所も御座候ハヽ、即刻可申上事
一村町庄屋・頭百姓申合、御年貢方幷諸出米銀を以商ヶ間
敷手廻等仕者御座候ハヽ、即刻可申上事
一庄屋・頭百姓中ニ對、町村之者とも不依何事依怙贔屓な
る仕法も御座候ハヽ、即刻可申上事
一海邊筋村々共、平日心を附、若相替義も御座候ハヽ早速
可申上事
一村町ニ頼物無心等敷儀申掛間敷事
一私之宿意を以、村町ニ手障悪敷儀仕間敷事
一村町より手入まひなひ振廻ヶ間敷儀、堅受間敷事
一潮塘・川塘・道・橋・土手・石垣・井樋・堤・井手筋等
之損所、見聞候筋御達可申上事
一乍恐御為又は御百姓為ニ相成申義御座候ハヽ、庄屋・頭
百姓申談御達可申上事
一御用筋幷密々御聞繕等之儀、親子兄弟ニも堅洩申間敷事
一寺社方幷御家人衆中、對御百姓非儀被申掛候歟、又は不
宜儀ニ御百姓之尻押、工ミヶ間敷儀被仕候衆御座候ハヽ、
承繕即刻有筋か申上事
一火用心入念候様可申談事
右之趣堅相守可申候、他人は不及申、親子兄弟雖為親類
縁者、少も依怙贔屓不仕有躰歟申上候、尤御手附役人中
幷御百姓中えも内談不仕、直ニ罷出、いか様之儀ニても
少も不隠置、有筋か申上事
右之條々若偽於申上は
忝茂
梵天帝釋四大天王惣而日本六十餘州大小之神祗別而熊野
大權現春日大明神天満大自在天神當國之鎮守阿蘇大明神
藤崎八幡大菩薩各罷蒙御罰於今生者受白癩黒癩重病於來
世随在無間地獄更不可有浮世者也仍起請文如件
年號月
會津百万石(実92万石)の太守であった蒲生氏郷の死去(40歳)後は、息藤三郎秀行(13歳)が家督した。処が家中は渡(亘理)八右衛門と蒲生四郎兵衛の二派が反目し、秀行が八右衛門に心を寄せ、秀行の舅・徳川家康も同様であったとされる。一方四郎兵衛は石田治部少が肩入れして公事となった。
なかなか埒が開けぬ中上聞に達し、八右衛門は切腹が被仰付、四郎兵衛五畿内追放の処置がとられた。
秀行の家中取り締まりが不甲斐ないとして、秀吉は會津を収公し宇都宮18万石に移封となった。
ここでも三成対家康の構図が見て取れる。四郎兵衛は肥後へ下り、加藤清正の元に召し置かれた。
以上は「細川忠興軍功記」は記す処だが、「蒲生家のお家騒動」として意見を異にする論考も見える。
一方、関ヶ原戦が始まると三成に恩義を感じた四郎兵衛(郷安)は小西行長の居城・宇土城に妻子を託し、養嗣子・忠兵衛と共に関ヶ原へ向かうが途中で西軍の敗北を知った。急ぎ妻子を助けるために宇土へ引き返すが、妻子が捕らえられたため自らの命と引き換えに妻子の助命を願って切腹したとされる。
共に切腹して果てた郷安の養嗣子・忠兵衛室和久が、孫女・松をつれて志水元五に「被下候」とある。
志水元五とは一族が多く細川家に仕えた志水伯耆守清久の息・日下部五助のことである。
日下部五助も先に細川興元と口論し細川家を離れ清正のもとにあった。「被下候」とあるのは清正の命か。
日下部五助の肝煎により旧加藤家家臣が細川家に召し抱えられたという。
蒲生秀行の供養塔が横手安国寺に存在する。加藤忠廣の室・崇法院は秀行と振姫(家康三女)の娘であることによる。
秀行供養塔
また同寺には甲冑を着たまま埋葬された武人のお墓があるが、地元では秀行のものだと言われている。これは大変な眉唾ものである。
私は蒲生郷安のお墓ではないのかとひそかに考えているが、これとて証明できるものは微塵もない。