津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■井田衍義・十四ヶ條 會所定法 廿二(12)

2018-09-19 11:31:55 | 史料

 〇着類之儀御定法之通堅相守可申事
 七九八
一在中百姓之衣類、前々より無紋之染布木綿を用ひ、帯・
 襟・袖口に至迄絹類一切御停止被仰付置候處、近年自然
 と内證奢ニ長し、勝手宜敷者共之妻子等不都合成風俗ニ
 相成、不勝手成末々之百姓共其見眞似を仕、婚禮又は常
 式一類寄合振廻等も随分之称すニ相聞、不届之至候、畢
 竟世につれ自然と右之通成行候てハ困窮之基ニ付、今度
 儉約之品々左之通被仰付候條、諸御郡村々小百姓無高者
 至迄不洩様急度申渡、此書面寫取、一村限村庄屋居宅へ
 張置、常々無断絶相改、御制法之趣堅相守候様可有御沙
 汰候事
一村庄屋・頭百姓を初、惣百姓之衣類萬ニ布木綿無紋之染
 を着用仕、帯・襟・袖へりに至迄一切絹之類御停止ニ候
 事
一右妻子等之衣装、萬ニ布木綿を用、染模様之儀は勝手次
 第、帯・手紐ハ不及申、襟・袖口たりとも絹類堅用ひ申
 間敷、萬一内證ニて成共下着ニ絹類着し候ハヽ、見合次
 第役人はき取、村庄屋・五人組迄急度過怠可被仰付候事
一婚禮之儀、古來之通随分輕ク取遣相極、村庄屋又は勝手
 宜敷筋目有之百姓白木長持一ッ、其外末々ハ半櫃又ハ皮
 籠一ツ宛、櫛箱等至迄春慶塗等相應/\ニ麁抹成下直成
 品を用可申候、尤婚禮道具遣候節は村庄屋は其段相答、
 庄屋・五人組立合衣類道具相改可申候、筋目有之勝手宜
 敷頭立候百姓之婚禮ハ御惣庄屋へ相達、役人差出右之通
 相改、不都合之儀無之様入念可申事
一祝言・凶禮等之節、一類寄合申節ハ一汁菜随分輕仕肴一
 種ニて、晝過より寄合候ハヽ暮前ニ相仕廻、暮時分より
 寄合候ハヽ五ッ時を限り相仕廻可申候、右之通無據押立
 候寄合ハ前以村庄屋へ相答可申候、其外常々振廻ヶ間敷
 儀堅仕間敷事
一祭禮・雨乞・風祭等、向後萬事勘略仕、随分輕執行可申事
一惣百姓傘合羽一切御停止ニ候、妻子共之笠絹類之くけ紐
 付申間敷候、勿論櫛かうかひ鼈甲都て之類御停止ニ候、
 木櫛角類鯨かくかひ等は勝手次第ニ候
 右之通上方染之衣類一切御停止之事ニ候間、在町え上方
 幷自他國之呉服屋・小間物賣等一宿たり共入込不申、尤
 村々徘徊仕せ申間敷事
一勝手宜敷百姓たりとも、佛檀又は家財道具衣類等、下方
 幷他所え調達候節は、其品付御惣庄屋元え書附を以相達、
 吟味之上、分限不相應器物等不相調様吟味可仕事
  附、近年ハ勝手宜敷者共は婚禮ニ遣候節、着用ハ不仕
  候ても箔付之小袖帷子をもかさりに遣、夫ニ應して道
  具等迄、分限不相應之様子ニ相聞不届千萬ニ候、身上
  任宜左様之奢長候てハ、末々迄おのつから結構なる見
  眞似を仕、風俗亂れ申事ニ候間、此以後萬一相背候者
  於有之ハ、其者は不及申に、庄屋五人組迄越度可被仰
  付候事
一御惣庄屋・一領一疋・地侍其外在役人共之儀は、支配之
 方をも仕役柄之儀ニ候ヘハ、別て萬端相慎妻子等迄専      扌偏に乄=
 勘略仕、諸事質麁ニ仕見せ候て、末方之り無怠慢心懸
 相勤候儀第一ニ候、若向後不心得之もの有之候ハヽ、追
 々御横目をも被指廻、御吟味之上、急度越度可被仰付旨
 候事
 右は近年別て在中及零落、風俗は奢ニ長し候様子ニ付、
 為御救此度御改、儉約之品々被仰付事ニ候條、一統ニ堅
 相守諸事銘々進上を計、夫々勘略仕、連々持立取續御百
 姓相勤農業仕候儀肝要ニ候、在町ハ町廻り町役人・横目
 役、村々ハ村庄屋・頭百姓常々無怠慢心を付相改、最寄
 /\一両一疋・地侍・役人仁柄相極折々打廻り遂吟味、
 若右御法度を相背候者も有之候ハヽ、早速御惣庄屋迄相
 達、御郡奉行中詮議之上、急度町方商賣人ハ身上相應之
 過役可被申付候、依之常々村庄屋為五人組左様なる不都
 合無之様可相改儀を、ゆるかせに仕置候故之事ニ候間、
 是又急度過怠可被申付候、不心得之品ニより籠舎又は御
 追放をも可被仰付候條、末々男女ニ至迄堅相慎候様、可
 有御沙汰旨候事
  元文元年辰十二月      郡 方

 七九九
 同三年八月御達ヶ條之内
一去々年、在中儉約之品々被仰付候御ヶ條之内、村庄屋を初
 惣百姓之衣類、萬ニ布木綿無紋之染を着用可仕旨及沙汰
 候處、持懸之衣類紋付を消候てハ、質物等ニ召置候節質
 屋共も其上多候古着新物を求候て着用仕儀ニ御座候處、
 是又差支却て不勝手之筋、下方迷惑仕由相聞候ニ付て猶
 又今度被相改、紋付之儀ハ被成御免候間、向後ハ勝手次
 第着用可仕候、形付之儀ハ寛文八年従公義御法度御觸之
 通彌堅相守、惣百姓夏冬共諸色形付之衣類着用仕間敷候、
 勿論此段は在中紺屋共へ被及沙汰、此以後若誂候共形付
 之染仕間敷旨」、急度可被申付置事
    右之外、ヶ條不相替候ニ付省置候事

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■忘れられたお墓

2018-09-19 05:59:22 | 歴史

 細川家の筆頭家老松井家の二代目康之の嫡男与八郎興之は文禄の役に出陣、文禄元年九月疵を蒙り、肥前名護屋に帰還したが、二年八月十五日同地で18歳の若さで死去した。
故郷久美浜(現京丹後市)の海の見える場所に葬ってほしいとの遺言により、久美浜の宝泉寺に葬られている。

天明年間初頭、何故か細川家の京都屋敷から久美浜の宗運寺(康之の父・廣之夫妻の墓所)に、松井家のお墓についての問い合わせがあったという。
死後150年ほど経過している。
宗運寺からの返書が残されているが、この時期はまったく疎遠になっており、興之のお墓は顧みられることもなかった様だ。

           松井佐渡守殿康之公御先祖松井山城守殿正之(廣之)公等由来之儀、
           細川越中守殿御家臣京都詰吉村長左衛門殿より尋来ル節返書控

           先達は預御芳尋ニ御細翰飛来、落手致披見候、如来命尚未得貴意候得共、時節寒冷増貴殿御堅勝にて御勤役、
           珍重の御事に御座候、然者松井康之公之御先祖松井正之公之由来、御伝聞被成義に付、今般御尋被下候趣、
           致承知候、早速拙子、古記等吟味仕候所、正之公の儀は、元の葬処は山城国松井小郷にて御座候得共、康之
           公松倉の城に移居被成、拙寺中興玄甫和尚に御帰依の由、殊に内縁親敷訣も御座候、依之康之公改葬の思召
           にて、幸に二十五回忌法事の次、拙寺にて御替葬御座候て、御塔造立、焼香玄甫三長老被相勤、国中貴賤老
           若御葬式拝見仕候事と、古来申伝へ候得共、年代久敷儀に御座候得ば、記録と申も別段に無御座候、只今証
           拠と仕候は、玄甫和尚の自筆の法語集壱巻御座候、其中に正之公の二十五回忌の拈香法語、其外、霊松寺殿
           の一周忌、三回忌等の法語共全備仕残り居申候、扨又正之公の奥方法寿大姉の義ハ古来より骨塔と申伝へ、
           正之公の御塚の左脇に小五輪塔御造立にて、即春洞院殿延室法寿大姉と申、慶長五年庚子年三月二十一日逝
           去の由申伝へ來候、霊松寺殿の義も分骨塔御座候、此者即佐渡守康之朝臣の御息松井与八郎殿と申候て、太
           閤秀吉殿下朝鮮御征伐の節、御供にて朝鮮御陳の中にて御卒去被成候、即文禄二年癸巳(三年甲午の誤)八
           月十五日三回忌等の記録中にも、慈親康之公御施主にて、於拙寺ニ御法事御座候故、拈香法語委細に三長老
           法語集の内に記出之、拙寺末宝泉寺の儀は、其後御造営に御座候哉、拙寺にハ一向三回忌已來之記録相見へ
           不申候、先達貴殿より御加筆之趣申聞候所、返答に霊松寺殿の由来記録と申ハ無御座候得共、凡古来伝聞候
           趣共、先達て幸便御座候由申上セ候、第一宝泉寺にて証拠に仕候は、玄甫三長老自賛の霊松寺院殿の御画像
           壱幅幷松井佐渡守康之施主書キの古ル打敷壱片迄に御座候、塔も御座候て、宝泉寺の上へ大木の松壱本、塚
           印と申伝へ候、扨又拙寺に、宗運禅定門法寿大姉の塔の脇に御先祖御類家の塔と申伝へ、五輪塔数ヶ本立居
           申候、文字摩滅して難見へ、勿論五輪も不様に相成り候事、先者大略如此御座候、若余事相知候ハヽ、後音
           に可申上候、恐慌不備
                                          宗雲寺
                                            正巌(花押)
              十月廿日
             京都細川越中守殿御屋敷
              吉村長左衛門殿
                    用事貴酬

 また「宗雲記」にはその後の経緯と思われる次の様な記事が見える。
                 初代・松井廣之
           前城刕太守清月宗雲大禅定門 永禄六癸亥年九月廿六日逝去、至天明二年壬寅年二百十年也、即今肥後八代
           八代・主水       八代春光寺
           営之公、内々ニテ菩提寺十州和尚幷主水殿下ノ家臣蓑田喜兵衛御両人、宗雲居士の由来聞合実否見届に當寺
           拝見申候、尤今般ハ京都迄ハ宗雲居士の院号の儀、本山江御願被成、即 天性院殿と院号ヲ造建ニテ有之事、
           今年至天明三癸卯年十月、御代香御使者西垣庄大夫殿御代参被相勤事、即御使者庄大夫殿にも五拾石今般御
           加賜にて、京都迄帰京被成候所、御国元より申送り被置候、以上

天明二年、松井家当主・営之は八代春光寺住職十州と営之の家来・蓑田喜兵衛を内々派遣して、初代廣之公に関する事柄を調べ宗雲寺を訪れ見聞した。又京都へ登り本山を尋ね「天性院殿」の院号を得て、石碑の造建をなした。
天明三年に至り営之の代参として、西垣庄大夫が訪れ御代香したというものである。

つまり、天明二年に至る迄、宗雲寺の廣之公ご夫妻及び末寺宝泉寺にある興之公のお墓は忘れられた存在であったことになる。
二代・松井康之は秀吉の時代母法寿宛に八瀬村が宛がわれ、さらに「松井は常に茶道に志深きゆへ茶料にすへし」として、あわせて神童子村を知行された。

           一、百六拾石壱斗七升  本地城州神童子      (現在の京都府木津川市山城町神童子)
           一、拾三石壱斗弐升   母地同 八瀬村      (現在の京都京都市左京区八瀬)
               合百七拾三石弐斗九升
             右令扶助之訖、可全領地候也
               文禄二年十一月十一日  御朱印
                  松井佐渡守とのへ

八代松井家は細川家家臣であるが、徳川の時代になってからもこの扶持は受け継がれている。(場所は変わっているか?)
その為、将軍家の代替わりがあると必ず御礼のために江戸城へ上がっている。
これ等の領地を訪れることはなかったのだろうか。久美浜と神童子の地は京都府の北と南と離れてはいるが、墓参くらいは可能ではなかったのか。
上記記録からすると、すっかり忘れられた存在であったことが伺える。細川家が介在したことも謎ではある。

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                                           神童子村
                                         (現・木津川市)


 

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