御中小姓という家格があるが、これは世禄ではなく原則一代限りである。(新・熊本の歴史4 近世(上)p189 松本寿三郎氏) 代々御中小姓があり、これは非常に功労のある家だとされる。宝暦八年の「御中小姓之内代々相續被仰付候御書之写」によると38家が記されており、ここでご紹介する中西家もそうである。
http://www.shinshindoh.com/daidai.html
丹後以来の家であると共に、初代・太兵衛、二代・善助はともに田邊城に籠城した。
1、太兵衛
丹後石川と申所にて浪人居申候、幽斎君・忠興君へ折々被召候、今度之
御籠城に粮米塩噌等指上、籠申度由、太兵衛申上候処、御満足之旨にて
御米等少差上候由 八木田丹右衛門・桑原主殿関東江御供にて罷越候、
両人の妻子従類十八九人山小屋へ差置候処、小野木勢乱入いたし、及難
儀候、太兵衛善助駆付、弓鉄砲を以防き、小野木か者共二三人討捕、其
外追払、右妻子無難に引取、田辺城江籠申候 (中略)其節丹右衛門妻よ
り鑓一本、主殿妻より長刀一振、守り道具之由ニ而、今度の礼に遺し候由、
忠興君御帰陳之上、右之趣、達御耳、御褒美被下候豊前国江被召連、太
兵衛とひの口之御櫓被成御預候、御知行も可被下旨、御座候得とも、当時
迄、身楽ニ居申候ニ付、御知行拝領仕候てハ、勤のほと如何奉存、御断申
上候へは、御合力米三十石十人扶持被下、宇佐郡之内、大村と申所ニ被
差置無程病死いたし候、
2、善助
善助も、右同一ニ被召出、御合力米廿石被下、同郡小平村と申所ニ被差置、
御郡奉行、御物成御取立をも被仰付、其後忠利君御代、御家中いつれも御
合力米等減少被仰付候節、奉願拾石三人扶持拝領、追而御加増可被下旨
にて当御国江被召連候
切米人数 十石三人 (於豊前小倉御侍帳)
3、傳兵衛 御中小姓被召出候 (綿考輯録・巻五)
平野弥五左衛門組 三人扶持廿石 (御侍帳・元禄五年比カ)
4、儀大夫
5、善助 著書:石垣秘伝書(寛保三年、加藤家築城の時穴生職であった北川
家の秘伝書を懇望して写したもの)
6、亀之允(養子 実・志水牛右衛門長房三男 格助)
寛政八年六月~寛政九年六月 上益城郡郡代
寛政九年六月~寛政十一年六月 八代郡郡代
寛政十一年六月~文化三年二月 芦北郡郡代
明和五年・御近習御目付--寛政二年・御郡方御目付、御郡代
中西大閑 名は安福、格助と称し、大閑と号す。藩に仕へ食禄百石、近習目付、
郡方目付及び郡代を勤む。性亢直にして果敢決断の人なり。又義父に仕へて善
く孝養を盡せり。文政十一年正月に十五日没す。享年八十五、墓は子飼松雲院。
7、太膳 細川斎樹公御書出(文化九年)百石
8、太次郎 御番方・遠藤関内組 高百石之御擬作
9、太兵衛
http://www.shinshindoh.com/daidai.html
丹後以来の家であると共に、初代・太兵衛、二代・善助はともに田邊城に籠城した。
1、太兵衛
丹後石川と申所にて浪人居申候、幽斎君・忠興君へ折々被召候、今度之
御籠城に粮米塩噌等指上、籠申度由、太兵衛申上候処、御満足之旨にて
御米等少差上候由 八木田丹右衛門・桑原主殿関東江御供にて罷越候、
両人の妻子従類十八九人山小屋へ差置候処、小野木勢乱入いたし、及難
儀候、太兵衛善助駆付、弓鉄砲を以防き、小野木か者共二三人討捕、其
外追払、右妻子無難に引取、田辺城江籠申候 (中略)其節丹右衛門妻よ
り鑓一本、主殿妻より長刀一振、守り道具之由ニ而、今度の礼に遺し候由、
忠興君御帰陳之上、右之趣、達御耳、御褒美被下候豊前国江被召連、太
兵衛とひの口之御櫓被成御預候、御知行も可被下旨、御座候得とも、当時
迄、身楽ニ居申候ニ付、御知行拝領仕候てハ、勤のほと如何奉存、御断申
上候へは、御合力米三十石十人扶持被下、宇佐郡之内、大村と申所ニ被
差置無程病死いたし候、
2、善助
善助も、右同一ニ被召出、御合力米廿石被下、同郡小平村と申所ニ被差置、
御郡奉行、御物成御取立をも被仰付、其後忠利君御代、御家中いつれも御
合力米等減少被仰付候節、奉願拾石三人扶持拝領、追而御加増可被下旨
にて当御国江被召連候
切米人数 十石三人 (於豊前小倉御侍帳)
3、傳兵衛 御中小姓被召出候 (綿考輯録・巻五)
平野弥五左衛門組 三人扶持廿石 (御侍帳・元禄五年比カ)
4、儀大夫
5、善助 著書:石垣秘伝書(寛保三年、加藤家築城の時穴生職であった北川
家の秘伝書を懇望して写したもの)
6、亀之允(養子 実・志水牛右衛門長房三男 格助)
寛政八年六月~寛政九年六月 上益城郡郡代
寛政九年六月~寛政十一年六月 八代郡郡代
寛政十一年六月~文化三年二月 芦北郡郡代
明和五年・御近習御目付--寛政二年・御郡方御目付、御郡代
中西大閑 名は安福、格助と称し、大閑と号す。藩に仕へ食禄百石、近習目付、
郡方目付及び郡代を勤む。性亢直にして果敢決断の人なり。又義父に仕へて善
く孝養を盡せり。文政十一年正月に十五日没す。享年八十五、墓は子飼松雲院。
7、太膳 細川斎樹公御書出(文化九年)百石
8、太次郎 御番方・遠藤関内組 高百石之御擬作
9、太兵衛