津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・中西(太兵衛)家

2009-10-25 11:25:37 | 歴史
 御中小姓という家格があるが、これは世禄ではなく原則一代限りである。(新・熊本の歴史4 近世(上)p189 松本寿三郎氏) 代々御中小姓があり、これは非常に功労のある家だとされる。宝暦八年の「御中小姓之内代々相續被仰付候御書之写」によると38家が記されており、ここでご紹介する中西家もそうである。
         http://www.shinshindoh.com/daidai.html
丹後以来の家であると共に、初代・太兵衛、二代・善助はともに田邊城に籠城した。

  1、太兵衛 
     丹後石川と申所にて浪人居申候、幽斎君・忠興君へ折々被召候、今度之
     御籠城に粮米塩噌等指上、籠申度由、太兵衛申上候処、御満足之旨にて
     御米等少差上候由 八木田丹右衛門・桑原主殿関東江御供にて罷越候、
     両人の妻子従類十八九人山小屋へ差置候処、小野木勢乱入いたし、及難
     儀候、太兵衛善助駆付、弓鉄砲を以防き、小野木か者共二三人討捕、其
     外追払、右妻子無難に引取、田辺城江籠申候 (中略)其節丹右衛門妻よ
     り鑓一本、主殿妻より長刀一振、守り道具之由ニ而、今度の礼に遺し候由、
     忠興君御帰陳之上、右之趣、達御耳、御褒美被下候豊前国江被召連、太
     兵衛とひの口之御櫓被成御預候、御知行も可被下旨、御座候得とも、当時
     迄、身楽ニ居申候ニ付、御知行拝領仕候てハ、勤のほと如何奉存、御断申
     上候へは、御合力米三十石十人扶持被下、宇佐郡之内、大村と申所ニ被
     差置無程病死いたし候、
  2、善助  
     善助も、右同一ニ被召出、御合力米廿石被下、同郡小平村と申所ニ被差置、
     御郡奉行、御物成御取立をも被仰付、其後忠利君御代、御家中いつれも御
     合力米等減少被仰付候節、奉願拾石三人扶持拝領、追而御加増可被下旨
     にて当御国江被召連候
        切米人数 十石三人 (於豊前小倉御侍帳)
  3、傳兵衛  御中小姓被召出候  (綿考輯録・巻五)
        平野弥五左衛門組 三人扶持廿石 (御侍帳・元禄五年比カ)
  4、儀大夫
  5、善助   著書:石垣秘伝書(寛保三年、加藤家築城の時穴生職であった北川
                     家の秘伝書を懇望して写したもの)
  6、亀之允(養子 実・志水牛右衛門長房三男 格助)
        寛政八年六月~寛政九年六月 上益城郡郡代
        寛政九年六月~寛政十一年六月 八代郡郡代
        寛政十一年六月~文化三年二月 芦北郡郡代
        明和五年・御近習御目付--寛政二年・御郡方御目付、御郡代
 
    中西大閑 名は安福、格助と称し、大閑と号す。藩に仕へ食禄百石、近習目付、
    郡方目付及び郡代を勤む。性亢直にして果敢決断の人なり。又義父に仕へて善
    く孝養を盡せり。文政十一年正月に十五日没す。享年八十五、墓は子飼松雲院。
  7、太膳   細川斎樹公御書出(文化九年)百石
  8、太次郎  御番方・遠藤関内組 高百石之御擬作
  9、太兵衛

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相州本牧表警備配備に関する書状

2009-10-24 18:21:11 | 歴史
       ぺりー艦隊の来航(嘉永六年)から明治維新までを幕末と呼ぶ。    
          ja.wikipedia.org/wiki/黒船来航
          www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu03.htm

       細川藩に於いても慌しい様子が諸資料で伺える。


    「九月二日上々早打御飛脚、同十二日着」
   以別紙申達候、御側備之御人数御呼登之儀付而ハ、追々御取遣も及候通候処、右付而ハ段々、
   御沙汰之旨被為在、何分只今通り之御人数てハ御備立も六ケ敷、二番手迄被差出候跡、重
   士と申候も纔(ワズカ)両三人位て、其外御近習手計相成、たとへ御出馬不 被仰立しても、
   来春又異船渡来之見込ニて、御膝元之儀候へハ、万々一事望候ハ、其儘可相済様無
   之事付、先来年之処左之通被仰付旨御座候
一、御側備重士八十人計り御見込を以、被差登候様
一、大炮打人之儀、先達 御直書被成下候通候処、其後段々被仰段之趣、委細被仰越候通ニ
   も候へとも、今度出来者多く村井流之儀ニ而、其打ちニ者西洋流も加り居候へハ、人気之儀、成丈
   ヶ御取押之御仕法被附、財津勝之助引廻て二十人、池辺彌一郎引廻ニて二十人被差登候様、
   左候へハ双方向合之人数ニ而、異論も有之間敷候間、宜敷被仰談候様
一、御側足軽之儀、御弓組十人・御筒組八人程被差登候様
    御側足軽・御長柄之者事ハ選局根廻しいたし候へハ、長柄之者ハ当冬五十人不時登有之
    由、其上三十人入候哉、同局より江戸問合成候処、五十人登り候へハ、其上ハ入サルよ
    し也

一、御長柄組之儀、先ツ三十人程も被差登候様
   右之通候間、夫々被及御達、年内追々御当地着いたし候様、尤右之通被 仰付候てハ、先達
   差進置候御役々増登之儀、悉皆御押付ハ難相成方可有之、其上諸家様之御人数、別紙
   之通追々参着、其外ニ茂少々宛ハ、何れ之御方々様ニ茂登り込候由付、此元ニ而見込之趣、十
   平出立之節、委細申含置候間、直御承知候様存候、且又今度新規出来之御筒玉目等、別紙之
   通御座候、地金之儀、先便被仰越候通候処、最早別段御配慮及不申、右之趣為可申達、早
   打御飛脚差立候事御座候、已上
       (嘉永六年)
           八月晦日           小笠原備前(長洪)
                            有吉頼母(立道)
              御家老
              御中老 宛
      
        猶々本行之通候へハ、弥以御小屋賦六ヶ敷、是迄之御人数にてさへ治り兼候程有之、
        旁木挽町・八丁堀御屋敷之方、少々宛混地も有之、双方ニ而、大概御小屋数三十五六軒
        程之処ハ、重畳心痛至極仕候得とも、何分ニ茂致方も無之、実当惑此事御座候、
        已上
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鑑能

2009-10-24 16:32:23 | 徒然
 午後から「金春流若楠会結成記念鑑賞会」に出かける。関係者のご努力であろう、ほぼいっぱいの入りに一安心する。「箙」を演じられた中村一路氏は、肥後金春流中村家のご子息で、本田光洋先生(前・能楽協会長)の下で修行をしてこられたが、プロの道に入られた。光洋先生のご子息、芳樹氏・布由樹氏ご兄弟と中村一路氏のお三方で、この会を結成された。このような催しを通じて、かって熊本二於いて隆盛を極めた文化遺産が、再度市民の身近な存在になることを願ってやまない。関係者の間に「能楽堂」建設についての機運が芽生えてきた。息の長い活動になるのだろうが、是非とも作り上げたいものだ。そのとき「文化都市熊本」が本物になる。良い時間を過した。
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細川治年と姉様女房埴姫(揺臺院)

2009-10-23 17:21:18 | 歴史
 +---細川重賢--------------治年===斎茲----斎樹=======斎護・・・・・・・・→細川宗家
 |                    ∥
 +---幾姫(清源院)         ∥
      ∥               ∥
      ∥           +--埴姫             +---立政(斎護
      ∥           |                  |
 +---細川興里===興文---+----立礼(斎茲)---立之---+---行芬・・・・・・・→宇土細川家      
 |           ↑                     
 +-------興文----・
         
 治年は生まれ(宝暦九年・1759)ながらの虚弱体質だったらしく、明和七年(1770)になってようやく嫡子届け出が提出された。綿考輯録の編者・小野武次郎が傳役を勤めた。宇土細川家の興文女・幾姫が輿入れしたのは天明二年(1782)である。しかしながら治年は天明九年(1789)29歳で亡くなる。幾姫は四歳年上の姉様女房であった。結婚生活は七年である。跡継ぎには幾姫の弟・立礼(宇土支藩・七代藩主)が指名されたが、立礼は新田藩を慮ってこれを固辞したが、興里公夫人・清源院(重賢同腹妹)の強力な説得でこれを受けることと成った。細川斎茲である。宇土支藩は嫡男・立之がわずか四歳で跡式相続した。宗家を継ぐのは、斎茲が宗家を相続した後に誕生した二男斎樹である。
 治年の死をもって、ガラシャ夫人の血が途絶えた。
幾姫は二本木(熊本市)屋敷に住まいして、享和三年49歳で没した。共に妙解寺に葬られている。
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細川重賢夫人・有隣院

2009-10-23 07:13:43 | 歴史
 細川重賢夫人由婦姫は久我右大臣通兄卿女である。細川家と久我家の縁は綱利養女(実・細川利重女)具姫が久我右大臣惟通卿に嫁いだ事に始まる。

   +--綱利---+==宣紀---+--宗孝====重賢---治年・・・・・・→細川宗家
   |       |      |        ∥
   |       |      +--重賢    ∥
   |       |                ∥   
   |       +==具姫           ∥
   |           ∥            ∥
   |          久我惟通---通兄---由婦姫
   |
   +--利重---+--利昌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→新田藩
           |
           +--利武(宣紀
           |
           +--具姫

 二人の婚儀は寛延三年(1750)二月廿七日、重賢31歳・由婦姫21歳である。ところが宝暦の中ごろ由婦姫は眼疾にかかり失明している。世子のないことを憂いた由婦姫は重賢に側室を迎えることを進めたという。金沢氏此井に胤次(治年)が生まれた。宝暦九年(1759)のことである。由婦姫は寛政六年(1794)十一月に竜口邸で亡くなった。享年六十五。賢夫人の名に恥じないお方である。
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細川宗孝夫人・静證院

2009-10-22 14:31:05 | 歴史
 細川宗孝の結婚は寛保元年(1741)十一月廿二日、お相手は紀伊中納言宗直卿息女友姫、当時21歳である。しかしながらその結婚生活は長く続かなかった。宗孝が江戸城内で寄合板倉修理勝該に切り付けられ、亡くなるという大事件が発生した。延享四年(1747)八月十五日の事である。即死に近い状態であったとされる。友姫27歳である。静證院と号した。

 急養子として跡をついだ重賢は、義姉であり養母である静證院に対し、終生孝養を尽くしたという。安永二年の「細川重賢御側日記」をみると、この年熊本に在った重賢は参勤之為に熊本を発し五月七日白銀邸に入った。九日には静證院に挨拶、以降八ヶ月弱に35・6回「御機嫌伺い」に訪れている。宝暦元年の「大積目録」をみると、「米壱万弐千百八十石、銀百四貫六百目--上々様江被進分」と記されている。物心両面での重賢の思いが見て取れる。重賢の同母妹清源院も、宇土支藩・細川興里に嫁いだが、こちらはわずか十ヶ月で死別している。そんな二人が一緒に重賢を訪ねたり、静證院の居室に重賢を招き食事をしたりしている。暖かい交流が窺えてほっとさせられる。
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買うべし

2009-10-21 23:14:00 | 書籍・読書


織田信長という歴史―『信長記』の彼方へ

 
著者:金子 拓 (東京大学史料編纂所助手)
www.hi.utokyo.ac.jp/personal/kaneko/index.htm

発行:勉誠社
定価:3990円(本体3800円)
刊行日 2009年10月(予定)

いつ発刊になるのか、気になってしょうがない。

【内容紹介】
・解説 信長の生涯はいかに記録され伝わったか――
    信長の家臣太田牛一が著した『信長記』。
    複数残る自筆本や写本の系統分類と比較検討をとおして、成立・伝来に関わった
    中世末から近世にかけての人びとの歴史に対する向きあいかたに迫る。

【目次】
    はじめに

   序章 『信長記』とは何か
     一 歴史叙述としての『信長記』
       『信長記』の史料的性格/『信長記』の信憑性/近代歴史学と『信長記』/
       「物語り文」と『信長記』
     二 『信長記』研究の歴史
   第一章 『信長記』の諸伝本と系統
       『信長記』の完成形態/十五巻本の二系統/「首巻」の位置づけ/
       『信長記』関係の異本群/残闕本・抄写本・不明本

   第二章 軍記作者太田牛一
     一 信長以前・信長時代の牛一
       太田牛一の人物像/牛一の生い立ち/「武衛臣下」としての牛一/
       信長家臣としての牛一/牛一の名乗り
     二 秀吉時代の牛一
       太田家系図のなかの牛一/太閤検地と牛一/朝鮮出兵と牛一/
       「太閤御代度々御進発の記」/秀頼付としての牛一
     三 記録作者としての太田牛一
       牛一の著作歴/牛一の死と彼の子孫/記録作者としての太田牛一/
       太田牛一の「軍記」

   第三章 池田家本系『信長記』の諸本
     一 自筆本池田家本
     二 池田家本系の写本(一)―聖藩文庫本系
     三 池田家本系の写本(二)―非聖藩文庫本系

   第四章 『信長記』を求めた人びと
     一 池田家と『信長記』
       牛一著作の享受者たち/『信長記』が池田家に入った経緯/
       改装された池田家本 他

     二 『信長記』の評判
       小瀬甫庵と『甫庵信長記』/最初の『信長記』批評/大久保彦左衛門の
       『甫庵信長記』評/『信長記』への不満/『信長記』を求めて 他

   第五章 建勲神社本系『信長記』の諸本
     一 自筆本建勲神社本について
       建勲神社本伝来に関する史料/芝村織田家に『信長記』が入るまで/
      「首巻」の位置づけ/建勲神社本に残る謎/その後の建勲神社本
     二 建勲神社本系の写本について
       建勲神社本の直系の写本/「首巻」と十五巻の問題 他

   第六章 ふたつの太田家とその伝本
     一 個人蔵本/二 太田家本/三 加賀太田家に伝来された本

   第七章 『信長記』と織田家
     一 織田長清と牛一自筆本の出会い
       織田長清の『信長記』蒐集/牛一自筆本の代償
     二 佐々宗淳と『信長記』
       佐々宗淳と織田家/史臣佐々宗淳/佐々宗淳と織田長清/大和穴師坐
       兵主神社の復興/織田氏系譜と宗淳/織田長清と学問/牛一自筆本の
       奥書執筆/織田家と妙心寺・龍安寺/信長肖像画をめぐって/長清の
       師としての佐々宗淳
     三 『織田真紀』と織田長清
       『織田真紀』という書物/芝村織田家所蔵の『織田真紀』/『織田真紀』
       の出版過程/『織田真紀』回収騒動/『織田真紀』の刊行意義

   終章 『信長記』の彼方へ
     一 『信長記』の成立
       素材から草稿へ/改稿の諸段階/併存する稿本/牛一著述の特徴/カード
       システムについて/「首巻」について/書名について
     二 『信長記』に関わった人びと
       『信長記』という「歴史叙述」/牛一にとっての歴史/歴史と「生きてい
       るシステム」のはざま/織田家に取り戻された歴史/『信長記』から歴史
       へ

   あとがき
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柿(かき)と柿(こけら)

2009-10-21 10:21:32 | 徒然
 「柿」好きの妻が、友人のお宅から枝付きの「柿」を頂戴してきた。小振りだが中々いける。熊本に住んでいると、時折こんなこともあって有りがたいことだ。「柿」をいただきながら、妻にちょっと薀蓄をたれた。

 柿は「かき」、柿は柿葺(こけらぶき)の「こけら」、実はまったく別物の文字なのだそうだが、こうしてタイピングすると同じ文字が表記される。
「かき」は木編に亠を書いて巾で九画、「こけら」は木編に一、そして巾の縦棒を一の上から突き抜けるよう書いて八画・・・これが正解。以前ある講座の講師を務めたときに話をしたら、殆どの人がご存じなかった。「杮葺」とは板葺きのことを言うのだが、この材料には「柿=かき」も使っていた。(このあたりで怪しくなる)「こけら落し」と言う言葉があるが、新しく出来た舞台の木っ端(こけら)を掃除して完成を祝うという意味がある。「杮葺」のこけらは、薄くへいだ「木っ端板」ということになる。瓦の仕様が許されなかった時代、庶民の住まいに多く使われた。お江戸の幾たびかの大火の原因は、この燃えやすい長屋の屋根にあったことは、間違いない。(熊本はといえば、柿葺きよりわら葺きが多かったようだ)

 あと一月もすれば渋柿を手に入れて、お正月用の干し柿を作らなければならない。母が亡くなってからは妻の仕事になったが、別に面倒がることもなく4・50個ほどを作っている。あちこちのお宅の軒先に赤黄色の玉すだれが見られるようになる。今年も二ヶ月ちょっととなった。
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細川家家臣・荒木(山城)家

2009-10-21 09:41:36 | 歴史
  (註)こちらの荒木氏は荒木山城を祖とする荒木氏で、荒木攝津村重流とは全く関係ない。
■山城(左助 高則)【丹後以来】 
   荒木高則朝鮮にて両度軍功を励し、弟荒木太郎助高基文禄二年二月朔日討死
                         (綿考輯録・巻11-p113)
   岐阜戦功・首取候衆
   田辺衆・高則、後号山城助左衛門并外斉等か親なり、今の助十郎小助運次等か祖なり
   高則ハ、高麗・関ヶ原にても戦功有、慶長の末故有て浪人いたし播州にて病死
                         (綿考輯録・巻14-p257)
  (慶長六年)七月七日、於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応
  (一書)・・・荒木左助ハ此時まて与十郎殿ニ居たりしか、高木貞盛之中脇差・御帷子ニ被
    下候、後御直ニ成山城と名付られ候、父ハ民部大輔と云、祖父を山城と云、丹波士也、
    藤孝君・忠興君・明智氏と共ニ嶺山の城御踏潰し被成候時、民部明智氏へ居候而振
    舞悪しく候間、民部か事ハ何の仰もなく、祖父ニも負ぬ働したれは、荒木山城と御付被
    成候との事なりと云々、荒木助十郎か家記ニハ、荒木山城守高子丹波の国荒木の城
    を守り、其子民部大輔高兼共ニ甚武功を彰し、後明智光秀ニ属し、光秀生害の時、左
    馬助光春安土より坂本に帰る道筋にて危きを助け、父子共ニ討死いたし候、高兼子高
    則此時十四歳、纔に残兵三人を随て愛宕山下坊ニ入、其後丹後ニ赴く、藤孝公ニ仕て
    田辺ニ在、又忠興公ニ仕へ朝鮮にて両度軍功を励、岐阜の城攻に両度鑓を合、関原ニ
    て武功有、此働を御感賞、其日の晩に及御腰物を被下と云々、翌年拝領の事ハ見江不
    申候                          (綿考輯録・巻17-p411)
・1代、助左衛門 高則の子太郎助十三歳にて田辺城籠城  
     (1)御鉄炮五拾挺頭 五百石 丹後 「源」 (於豊前小倉御侍帳)
     (2)御添頭衆 五百石 (肥後御入国宿割帳)
     (3)御使番・續団右衛門組二百石、京都詰ノ間八木百石被下之
                         御使番列高百ノ物成被下之
                                (御侍帳・元禄五年比カ)
・2代、助十郎・元依 (後・左次馬) 正徳元年十月~正徳五年八月(病死)用人
・3代、左次馬・元雅(初・又次郎) 
     (1)八百石 御着座大組付 屋敷・山崎
     (2)御留守居御番頭 八百石
    享保八年六月(大組附)~享保十四年十二月 中小姓頭(留守居番頭)
    享保十四年十二月(中小姓頭)~延享四年二月 留守居番頭(番頭)
    延享四年二月~宝暦六年八月 番頭
・4代、助十郎 
     (1)御使番 六百石 宝暦十一巳二月十八日当役
     (2)御鉄炮廿挺頭 六百石
・5代、新左衛門
・6代、熊八(後・助左衛門) 御鉄炮三拾挺頭・清水組 五百五十石
・7代、恒次郎(後・助十郎) 新知五百五十石
・8代、長次郎(後・左次馬) 
・9代、猪熊(後・慎十郎)  下間求馬組御番方二番組 四百五十石(又・五百石トモ)

      
次郎大夫(外斉 助左衛門弟)
   山城項より
   外斎とハ助左衛門弟次郎大夫か事なり、三百石被下置候処、御暇被下松平越中殿へ有
   付候へと又致浪人、後小笠原備前にかかり病死いたし候(綿考輯録・巻14-p257)

 荒木山城流略系図 (責・津々堂)
   +--山城---+--助左衛門----+---十次郎・・・・・・・・・→慎十郎家
   |       |          |
   |       |          +--・一郎左衛門・・・・・・→七十郎家
   |       |
   |       +--次郎大夫(外斎)
   |       |
   |       +--貞右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→太平家
   |       |
   |       +--佐助 300石 承應元年12月御暇  (兄弟関係の順不明)
   |
   +===四郎右衛門(彦大夫 実・市村四郎三郎子) 
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見上げてごらん夜の星を♪♪

2009-10-21 00:33:40 | 徒然
 オリオン座流星群を見ようと0時前からベランダに出て東の空を見上げる。周りがあかるくて七つ星を見つけるのも容易ではない。目が慣れてきて三つ星と、源氏・平家星を発見、乱視の私には夫々が二つずつ見えるというおまけつきである。日が変わって随分冷え込んできた。明け方は昨日より7℃ばかり気温が下がると予報されているが、あながち間違いでは無さそうな感じである。妻は二三個見つけたようだが、私は首が痛くなって撤退、このタイピングを終えたら今一度空を見上げて、寝ることにしよう。一両日「見上げてごらん夜の星を♪♪」である。
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加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ 番外

2009-10-20 11:53:05 | 徒然
 幕府に対して「上書」を上げた捧庵について考える。
捧庵は権大納言右大将正三位久我通興(通堅)の三男で、生母は飛鳥井大納言雅綱女である。幼年の頃出家し京都鹿苑寺の住持となった。加藤清正の要請を受けて還俗し、宮中作法御指南として熊本入りした。祖秀捧庵と称して苗字は使わなかったとされる。下津捧庵とするのは誤りであり、後の人たちが便宜的にそうしたのであろう。(息・宗政から「下津氏」を名乗ることになる)

 かって私は当サイトに「時慶記にみる下津棒庵」をUPした。
京都・大坂においての彼の活躍ぶりが窺えて興味深い。まさに清正の名代としての外交官的働き振りである。

 さて上書における彼の署名は「捧庵」とされている。熊本城の「棒庵坂」の表示などで「棒」とあるなど、私も今迄いろいろな所で「棒庵」としてきたが、「捧」が本当ではないのかと考えている。「捧げる」という意味合いからも「捧」の方が適当ではないのか。
ただ下津家の先祖附をみると、これはどうやら「棒」である。真実は如何に・・・?
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加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ Ⅳ

2009-10-20 07:53:28 | 歴史
      その結末

     公事之覚
一、加藤肥後守家老、馬方・牛方と申候事ハ、初ハ小性中ニて少々手わけ、後二ハ大小
   名町人迄も二ツニ成申候、雖然家老共諸事相談之自分ハ、間悪敷様ニも無御座候処、
   正月乗物之時ニ馬乗場ニて、奥村清左衛門と申候者と加藤太郎作とからかひ少仕候、
   太郎作は丹後弟ニて、美作子ニて候、宿ニ帰り、太郎作、清右衛門ニ状を付、清右衛
   門宿へおしかけ申候を、中途ニて人々おさへ、其後あつかひ相済申候、夫より已後、
   弥わかりつよく成申候、其後間久敷、忠廣縁辺之儀付而、家老之内江戸へ参候様ニ、
   右之縁辺可被仰渡との儀ニて候之処、馬之丞ハ其身可参と申、美作ハ其身可参候付
   而、弥二ツ之わかりつよく成申候
一、美作事ハ清正とハ親類と申、太閤ニて傍輩ニ而御座候故、其已後肥後へ参候、是又
   久敷ものニ而候之故、忠廣も後々ハ美作を贔屓ニ思召候
一、下津捧庵と申候者ハ、忠廣御前をはなれす奉公申候処、不出申(ママ)ニ付而、内々不
   足ニ存、江戸へ相詰、日々ニ屋敷を出、藤堂和泉守(高虎)様を頼、目安を上申候、其
   刻肥後ニ在之家老共、江戸江被召寄、雅楽頭(酒井忠世)様ニ而両度対決御座候、其
   両度之御穿鑿二ハ美作方かち申儀ニ而御座候、其以後 御前ニて御穿鑿之時ハ、右
   之目安ニてハ無御座候而、 大阪謀叛仕候様ニ目安作差上、其穿鑿にて候へハ、不
   存寄儀、又ハ大坂御陣之年ハ、肥後御目付ニ阿部四郎五郎殿・朝比奈源六郎殿御出
   御座候、此両人を証拠人ニ仕候故、両人被仰候ことく成行、まけ申ニ付而方々御預ケ
   ニ被成候

     外聞書
一、右ニ書申候大坂事之儀ハ、肥後守家来ニ斎藤采女と申候者居申候、是ハ秀頼公御局
   之子ニ而御座候故、大坂陣之節抜出、大坂江籠申候、其砌美作・丹後諸事心を付、大
   坂へ送申、其上大坂落城已後も上方辺ニ而逢申候と、後之目安ニ書申候
一、大坂事之儀を申さハ、馬之丞二ハ数多有之候へとも、美作存候ハ、互に水かけあいニ
   申出、両家老共ニつぶれ候ハゝ肥後守身上いかゝと存候故不申出、まけ二仕候

     元和四年八月八日(ママ)、公事落着之時、方々江御預之覚 
一、越後村上堀丹後守(直義)様江       加藤美作守
一、信州中嶋酒井宮内(忠将)様江       加藤丹後守
    当地御所替之時、其儘眞田伊豆守(信之)様江御預
一、信州諏訪諏訪因幡守(頼水)様江      中川周防(正辰)
    右三人共ニ江戸より直ニ御預ケ
                           肥後より直に御預(以下同)
一、美濃岩村松平和泉守(乗忠)様江     和田備中
一、奥州中村相馬大膳(利胤)様江       生駒主水
                            同子 八兵衛
                            同子 七郎右衛門
一、奥州白川丹羽五郎左衛門(長重)様江  寺西伊豫
                            同子 左門
                            同子 二郎介
                            同子 名失念

                           江戸へ証人に参居候故、江戸より直に御預(以下同)
一、参州苅屋水野隼人(忠清)様江      加藤信濃 丹後子
                       肥後より 同チ丹後守 後改、助之丞
                           其時分は伊地知河内と云
一、参州伊保丹羽式部(氏信)様江      近藤作右衛門
                            弟一人 御預之後早死
                      
一、美濃苗木遠山久兵衛(友政)様江    伊地知傳六 河内弟
                           同三郎 
一、和州郡山水野日向守(勝盛)様(江・脱)   加藤太郎作
                              同出雲後庄之助・丹後子
                              同鶴千代後十大夫・太郎作子
一、奥州会津加藤式部少輔(明成)様江   玉目丹波
一、筑後柳川立花飛騨守(宗茂)様江    立花三左衛門
                           同子主馬
      府内
一、豊後舟井竹中伊豆守(重義)様江    堤権右衛門
                           同子権六

  切腹
   八矢傳右衛門
    同子勘兵衛
   名失念 矢兵衛
   後藤又兵衛子 奥村弥八郎
   大坂事ニ付橋本掃部
   同弟 勘右衛門 東武実録作大夫ニ作ル
   横井清四郎 東武実録横江ニ作ル
   
  暇出 長坂甚五兵衛
       同弟半兵衛
   同  山岡三郎右衛門
   同  吉村橘左衛門

                       (完)
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加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ Ⅲ

2009-10-19 18:09:50 | 歴史
   (下津)捧庵  目安返答書之事

一、今度肥後守ニ拙者暇を乞罷出申候様子ニ付而、美作守・丹後守如申上候、家中之者、
   肥後守ニ不理罷出候事、法度之儀者其通御座候、然者松平下野殿、肥後守つか織田
   兵部少輔(信良)所江御出候、振舞出候付而、拙者子共かよひをもさせ可申候間、め
   しつれ見廻可申之由、兵部少輔申越候間、則丹後守ニあひ申、右之通談合仕候へハ、
   尤他所二ハ相ちかひ、其上肥後守ニ目見仕事候間不参之由、兵部少輔ニも可申由申
   候処、子共めしつれ参、則せかれ共肥後守前江出申候処、肥後守罷帰腹立被仕、せ
   かれ共おひ出す之由被申候、其段丹後守承、物書渋谷三郎兵衛を以、拙者ニ申聞候、
   右ニ丹後守ニ理申通をも肥後守ニ於申聞者、肥後守も聞はけ申候儀も可有之哉、結句
   肥後守、丹後ニ理可参事と被申候由ニ候、其上下野殿なとへハ、肥後主用所ニ者、右
   之一両日已前ニも肥後守ニ不理参候、然上者丹後ニことハり、肥後守ニ目見被仕、兵
   部少輔所ニ御座候間、くなしおちさま(ママ)と存候へ共、其段丹後不申分候、か様之処
   を以、此後ハゆるす之由被申候、然共せかれ共存分者隙を出候処、屋敷ニ罷居候へ
   者、拙者めしつれ参候故、せかれ共ハとかなき通申わけ度様ニ罷成候事、迷惑ニ存、
   未明ニ罷出候、其段相田内匠迄申候処、後三郎兵衛ニ扶持をはなし候由ハ、丹後不
   申渡文ニ仕候得と申候、左様之儀丹後ニたてづき、右之通有様ニ申候儀ハ迷惑ニ存、
   後三郎兵衛罷出候、拙者跡ニ而丹後理不尽を申かけ糾明なと仕候へ者、拙者迷惑に
   存、三郎兵衛罷出候事は存候へ共、其分ニ仕召置候事
一、伊藤吉大夫と申者走候事、拙者不存候事
一、先年大坂申事之時、肥後守、十月廿四日ニ伏見ヲ罷立、兵庫へ下申候、拙者儀、肥
   後之様子可被聞召儀、又様子可被仰遣之御意ニて、二條御城絵残り申候、国中城々、
   他国境目、道之のり、城持、其外証人出し(候・脱カ)者共被成御改候て、其段書立可
   申之旨、上野殿被 仰聞、其節並河志摩主伏見被召置ニ付、和田備中守相添、攝州
   郡山より多人(数・脱カ)伏見江戻り申候、然者右両人、伏見屋敷之留守仕候横地助
   之丞・河本平太夫、此者共談合仕書立上申候、則下(上カ)野殿被掛御目、其上ニ而
   被仰出者、何も今迄証人出し申候者、いや人質可出候、境目之城々丈夫ニ仕、熊本城
   ニ人数たふ/\と召置、何之城機遣之時も、右之うき人数遣候様ニして、其外五百、千
   ニ而も、隣国立次第、肥後守大坂江可参御意ニ候、其時拙者存候者、美作守役所無之
   候間、関之城二美作守有之、わかく候間、丹後ハ御陣之供仕可然かと、上野殿迄申上
   候、尤可然思召候間、国之年寄共と相談可仕之旨被仰候、肥後守大坂江罷立候へハ、
   何茂家中人質を取、熊本城ニ召置、美作守大坂江ハ機遣存候故、人質共又左衛門ニ
   預置可然かと存、上野殿迄拙者右之通申上候、然者河本平大夫・横地助之丞・飯田覚
   兵衛ハ美作を熊本二置申度と談合仕候哉、美作守熊本城ニ無之候へハ国中迷惑之由、
   津田平左衛門を頼、上野殿不被仰出事を拙者申候様ニ、上野殿へわるさまニ申上之由
   ニ候、其ニ付而、上野殿被成御腹立之通、罷上御理可申之通、肥後年寄共へ申候処、
   右之仕置尤敷、右之仕置存候条、不及申分ニと、年寄共、中川周防をはしめ申候二付
   而堪忍仕候、其段ハ於駿河、上野殿江右馬允申上候処ニ、被分聞召之由ニ候、一昨日
   も其御礼上野殿江申上候

      元和四年七月晦日                 捧庵
  
  
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夜もおちおち眠れない

2009-10-19 16:00:45 | 徒然
 地震で本の下敷きになって儀性になられた女性の方とか、先の北海道での本屋さんの本棚が倒れて下敷きになられた子供さんとか・・・どうも近頃本や本棚での事故が続いて身につまされている。

 いろいろ作業をするには本棚が近くにあるのがベストである。大揺れが来たら、100%やられるなと思いながらも、本棚に囲まれて過している。寝るところとて・・危ない。本を一冊手にしてベッドに入る小生としては、本棚が近くにないと不便この方ない。高さの高い本棚の上には、天井まで袋に入れた資料がずらりと並んでいて、これが落ちてきたらと思うと「夜もおちおち眠れない」。本棚の位置を動かすのが一番だが、これは一仕事だ。机の位置を変えるにはこれまた窓の位置とか、コンセントとかインターネットの関係とか・・簡単には行かない。せいぜい転倒防止の金具を取り付けて、本棚の下敷きになるのは防止しなければならない。本の方はいつもお世話になっていることだし、少し痛い目にあっても仕方が無いかとも思っている。
DIYに適当な金具を見つけに出かけなければ成らない。
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寛文四年六月「御侍帳」より

2009-10-19 14:11:42 | 歴史
 細川綱利時代の役職者で、家禄千石以上の人たちを拾い上げてみた。(藩主綱利・21歳)
          (朱書きは 慶安元年の 「真源院様御代御侍免撫帳」 による)

   人持衆
一、三万石           細川丹後守 (細川帯刀 30,000石)  宇土支藩二代藩主・行孝
一、弐万五千石        細川将監    細川刑部家二代・興之(寛文八年没・25歳)
                                  (細川刑部 15,000石 刑部家初代・興孝 寛文四年閏五月致仕)
一、現米弐千七百石余    細川左京    細川光尚・弟 尚房 寛文五年六月・新知二万石
一、千石            長岡与八郎     細川内膳家二代・忠恒
一、千石            長岡半左衛門   細川内膳家三代・忠春(与八郎弟)
一、千石            柏原新左衛門

    長岡監物組
一、壱万石           長岡監物 (長岡監物 10,000石) 家老・米田興季(三代)
一、四千石           南条左近    細川興秋女婿
一、六千石           志水伯耆
一、千五百石         谷嶋之丞
一、千石            尾池伝右衛門   足利道鑑・嫡男
一、千五百石         米田新十郎
一、千石  御物奉行    中村伊織
一、二千石 御番頭     木下三郎左衛門  日出藩主・木下延俊甥

    長岡帯刀組
一、現米三千三百石     長岡帯刀
一、六千石           小笠原民部少 小笠原備前家三代・長之
                                 (小笠原備前 6、000石 二代長光)
一、四千石           山名弥三右衛門
一、三千六十六石      坂崎清左衛門
一、千石  十挺       大河原仁右衛門
一、千五百石         松野主殿助
一、千石            乃美新右衛門

一、千石  御番頭      松野八郎左衛門
一、千石            竹内吉十郎
一、千二百石         斎藤勘助

    有吉内膳組
一、壱万八千五百石    有吉内膳   家老有吉貞之(五代)
                         (有吉平吉 18,500石 有吉家四代・英貴)
一、三千九百石       平野茂左衛門
一、千五百石  三十挺  出田作左衛門
一、千石    廿挺     小坂新八
一、千石    御弓廿張  志方半右衛門
一、千石    御番頭   槙嶋半之丞
一、二千石          浅山清右衛門

一、千五百石  御番頭  三宅百助
一、千五百石         寺尾孫四郎

    沢村宇右衛門組
一、壱万石          沢村宇右衛門 (沢村宇右衛門 6,000石)  沢村大学介吉重・養嗣子 二代
                          (沢村大学 5,000石 慶安三年九月死去 91歳)
一、千石           下津縫殿助
一、千石           丹羽亀之丞
一、千三百五十六石余   横山五郎大夫

一、千石           中根平兵衛
一、千石   御弓廿張   沢村八郎右衛門
一、千石           国友半右衛門

一、千三百石  御番頭  松野亀右衛門
一、千石           奥村安大夫

    清田石見組
一、三千三十五石     清田石見
一、三千石         氏家志摩
一、二千石         藪 小吉
一、千石           住江求馬
一、千二百七拾九石六斗   西山八郎兵衛

一、千石   御番頭   牧四郎右衛門
一、千石           坂崎金三郎
一、千石           芦村惣兵衛

    有吉頼母允組
一、三千四百三十五石八斗余  大木織部
一、三千八石        奥田権左衛門
一、千石           楯岡孫四郎
一、千石           佐久間七兵衛
一、千百五十石  五拾挺  益田弥一右衛門
一、千石    三十挺  長谷川久兵衛

一、三千石   御番頭  尾藤金左衛門

一、二千八百廿弐石余 御小姓頭  朝山次郎左衛門

一、千石     御小姓頭  寺本八郎右衛門

一、千石     御小姓頭  田辺平助

一、千石     御小姓頭  平野九郎右衛門

一、千石     御小姓頭  松山権兵衛

    志水久馬介組
一、千石            志水久馬介(御側組外衆・重複)

    御側者頭衆
一、千石    御側筒十五挺  山本三郎右衛門
一、千百石  歩使番頭     和田主膳
一、千石    御長柄頭     春木主税

    御留守居衆 田中左兵衛与
一、四千百五十石      田中左兵衛
一、千百石          長岡主水
一、千石            松下市進
一、千石            中路内蔵助

    八代御城附衆
一、三万石          長岡佐渡 (長岡佐渡 30,000石 寛文元年跡目相続)
                        家老松井寄之(細川忠興六男)寛文六年正月没・50歳
一、千五百石         立石市兵衛
一、千五百石         岩越惣右衛門

    佐敷 藪図書組
一、二千石          藪 図書

 ・ (長岡勘解由 5,000石)
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