津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ Ⅱ

2009-10-18 18:22:03 | 歴史
馬方 捧庵二度目の上書

  二度目之目安
    上申候三ヶ条之書付理之事

一、肥後守祝言ゆい入之儀、御輿請取之事相談ニ不付、美作守ほしきまゝの事
一、斎藤采女と申者、秀頼おち右京大夫、おいなから子ニ仕候、古肥後守かゝへ召置候、
   先年大坂籠城之刻、大坂江走入申候、彼者、美作守・丹後守・周防守引廻シ申者ニ
   御座候故、大坂江采女はいり候跡、知行万肝煎遣候事    
一、木村長門守弟左兵衛と申者、古肥後守時より召置候、大坂被 仰事之時、長門守弟之
   義ニ御座候間、大坂江走入候義可有之と、加藤丹後守ニ両度迄心付仕相届申候処、丹
   後守目をかけ申者之事候間、はしらせ申間敷之由、慥請乞候へ共、次之年御陣之刻、
   大坂江走入申候、旁以美作守親子、逆心之様ニ御目付衆も御覧被付ニ付而、拙者ニ被
   仰聞段御座候事
一、大坂申事之砌、肥後守船共兵庫江廻シ申候、大船三艘舟子無之付而大坂川口残置候、
   右馬允申付、引出させ候歟、出候事於不成者焼わり候様ニと申候処ニ、丹後守、秀頼ニ
   左程にくミを請候事不入事と達而申、吉村橘左衛門・相田内匠其座ニ居申候、丹後守同
   前ニ橘左衛門も申ニ付、多分背かたく船其儘置候事
一、下川古又左衛門所ニ而、年寄共寄合之刻、立身を存候ハゝ証人を可捨と、美作守親子
   誓文ニて申候事
一、美作守太閤譜代之者ニ御座候、其上関ケ原之時、被成御改易候橋本掃部・寺西伊豫
   (次郎助)・伊(生)駒主水・新宮安房守か様之者、別而美作親子目をかけ申候、其内新
   宮相果候跡ニ、大坂江遣状出候、此外国侍返(迄カ)引入之事
一、橋本掃部・井上茂大夫公事之儀ニ付而、去月霜月ニ目安肥後主上申候処、玉目丹波
   請取、周防ニ相渡、美作親子計ニ申聞、残年寄二ハ当年二月二申聞せ候、如此之仕合
   不相届候様ニ存候事
一、桑原少斎と申者、何茂年寄共談合ニて国を払候処ニ、残年寄共も不存、今迄国ニ居申
   候、美作守親子・周防守・備中守ハ存召置候事
一、和田備中守、中川周防守妹縁辺之儀、古肥後守申候筋目相違之事
一、丹後守知行高違之事
一、玉目丹波守ニ知行遣候時、国中えり取ニ仕候、古肥後守給人之知行取上、蔵人ニ付
   仕候をも遣候、此知行所二ハ段々申分御座候事
一、丹波守新屋敷申候普請之儀、家中役目之者并諸百姓ニ申付こし大垣外かいまてつき
   まはし、杣とめ仕候山をも切あらし、材木とらせ并植付迄も諸百姓ニ申付、数人つかひ
   候故、百姓迷惑候事
一、柴山五兵衛と申者ニ、知行高二百五拾石あき跡可遣之候旨、肥後守被申出し(候)、
   然所三百余遣候、此段美作守親子、丹波ハ存、残年寄共ハ不存候、山岡杢太夫と申
   者、不相届儀御座候て、肥後守知行取上召置候処に、于今至而所務仕候、美作親子・
   周防目をかけ候者ハ、か様之仕度尽之儀数多御座候事
       (天和四年)
          七月廿三日           捧庵

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加藤家お家騒動 「牛方 vs 馬方」 ・・ Ⅰ

2009-10-18 11:37:15 | 歴史
 加藤家公事言上書・処分書 「向山誠斎丙午雑記」 新熊本市史資料編第三巻より

 ■馬方 捧庵上書(第一回)
   謹而言上仕候
一、肥後守(加藤忠廣)年寄六人之内四人同心、美作守親子ハ一所ニて諸事談合之砌も
   多分ニ付不付(申カ)、依怙のミ申通り、下々迄弐ツニ罷成候、然遠国と申、方々境
   目二て御座候へハ、自然之時、上様御用之砌も肥後守家中互ニ身かまへニて、御奉
   公之筋目はか/\しからす御座候へハ、肥後守為ニも不罷成と存候事
一、大坂一巻砌も、上様江肥後守抽御奉公仕せ申度と存候者共ハ、美作守親子ニ対而
   機遣仕候、其子細重々御座候、其砌之御目付衆、定而被及御覧之儀可有御座之事
一、美濃(作)守親子、肥後守おち玉目丹波守、此三人肥後守為ニも不罷出(成カ)、依怙
   のミ仕、 上様江肥後守御奉公之道も相違仕と存、左様之儀、拙者申ニ付、肥後守さ
   ゝへ、万事隔心を仕様ニ罷成候、私儀、上様御厚恩おろそかに不存候へハ、彼者共
   依怙仕候儀ニもかまひ不申、成次第奉公仕義ニて無御座候間、兎角肥後守ニ暇を乞
   申候、何も国之年寄共一列ニ被 召寄、善悪之様子被 聞召、何之道ニも片付於被
   仰付者、肥後守御奉公之筋目も成立可申かと奉存候、御穿鑿之砌者罷出、如何様ニ
   も年来存之通可申上候、以上
      (元和四年)
       五月十一日                  捧庵
          酒井雅楽(忠世)殿
          本多上野助(正純)殿
          安藤對馬(重信)殿
          土井大炊助(利勝)殿

牛方 加藤美作守・丹後守の、棒案目安に対する公儀宛返書

   捧庵上申候目安ひらき事
一、多分ニ不付と申上候事、何茂相談之上ニ而連判を以申付候間、多分ニ不付と申候
   儀無御座候
一、万事依拈仕之由、身ニ覚無御座候、玉目丹波事、ひらき時分ニ可申候事
     (元和四年)
        七月廿七日               加藤美作守
                              加藤丹後守
          酒井雅楽殿
          土井大炊助殿
          安藤對馬殿
          本多上野助殿
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   謹而言上仕候
一、今度捧庵立のき申候様子申上候、肥後守家中之者共、他所江参候儀、肥後守ニ不
   理参候事、堅法度申付候処、捧庵子共、肥後守ニ不相理罷出候二付しかり申候、然
   共、相田内匠助、玉目丹後(波)守、加藤丹後、両三人詫言申ニ付、余火ニ相替、捧
   庵子共之儀候間、今度ハゆるし候由、相田内匠助ニ申付、捧庵ニ申聞候処、捧庵申
   候者、子共ハ夜前屋敷ヲ立のき申候、●(此辺誤脱アラン)惣別肥後守此節暇をもらひ
   可申之由、内匠助ニ申候、内匠助達而異見申候得共捧庵合点不仕、剰肥後守物書
   渋谷三郎兵衛と申者、小姓伊藤吉太郎と申者、捧庵の(めカ)しつれ立のき候事
一、慶長十九年、大坂籠城之刻、肥後守帰城仕候時、京都ニ本多上野(正純)殿御座候
   間、捧庵使ニ遣被申候処、国本江下着仕、年寄中老共、下川又左衛門(元真)所江
   よひよせ、捧庵申渡候者、肥後国御仕置、本多上野殿被仰候ハ肥後守出陣之供、年
   寄之内二ハ、加藤丹後守(正長)出陣供、年寄内二ハ加藤丹後壱人、熊本之留守下
   川又左衛門、八代之城代加藤右馬允、佐敷之儀加藤與左衛門(重次)、関之城丹後
   守留守ニて候間、熊本より加藤美作守罷越、留守可仕之由申渡候間、何茂奉得其意、
   弥右之通相究申候、然処ニ、右之段々、本多上野助殿御聞被成、肥後国仕置之儀、
   捧庵ニ不被仰渡之由ニ候、其以後上野殿より肥後国仕置之儀、年寄中談合を以可仕
   之由、御状被下候、か様之大分之茂(義カ)捧庵つくり事申す儀不審ニ存候事
一、江戸江肥後守罷越候時、供仕候年寄共、肥後守銀子取候而つかひ可申之由申候へ
   共、加藤丹後守同心不申候二付、残ル年寄共も取不申候、かやう成義を多分ニも不
   付と申候哉之事
一、肥後守銀子を、年寄共之内、年々ニ過分ニ借遣、終返弁無之ニ付、加藤美作守申候
   ハ、年をきり候て、返弁仕候様ニと申候、左候ハすハ利足を加出し候様ニと申候、万事
   ニ付、肥後守為不罷成候間向後物取申度躰見及候間、左候へは肥後守為不罷成候
   間、向後者、分限ニ応し借候様ニと、美作守達而申候二付、其分相定候、か様之儀も
   多分ニ付不申候と申候哉之事
一、肥後守祝言被仰付候、則美作守使ニ参候二付、銀子百枚、年寄共分別ニて渡し候へ
   ハ請取不申候、祝儀小袖計取申候事
一、加藤美作守無足之時、残年寄共談合ニ而、米千石遣候由申由候へ共、存様子御座
   候へハ請取不申候事
一、下川又左衛門・中川寿林、相奉行ニて、預り蔵之算用九千石ニをよひ滞御座候、此内
   多分又左衛門手前御座候事

     七月廿七日               加藤美作守
                           加藤丹後守
          酒井雅楽頭殿
          土井大炊助殿
          安藤對馬守殿
          本多上野助殿

  
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細川家家臣・真下氏

2009-10-18 08:59:19 | 歴史
 家祖沢井対馬守は足利将軍義輝公に仕、「御生害之時同戦死」(綿考輯録・巻九)した。

対馬守子・梶之助元重は真下と改姓  
   *大和国真下ニ居住、一色之招ニより来て家老職となる
   *一色義有被討果候節、何として宮津を切抜候哉、弓木を心掛、東より登り峠にて
    米田(助右衛門)に行逢候、米田と真下は常に睦かりけるか、真下此時も詞をかけ、
    今日の次第とかういふに及はす、他人の手にかゝらんより貴殿と死んこそ本望なれ
    とて刀抜く、助右衛門ハ鑓にて互に馬上より挑ミ合、やかて真下を突通す、真下懇
    に城中の事を頼ミ死し、米田も落涙して領掌いたし候(中略)
   *助右衛門一言の約束もたしかたく、真下か妻子弟四人を育ミ置、男子七之助を御家
    人となし三百石被下、後七兵衛と云、其子孫今の真下喜角なり

    1、七之助(七兵衛) 
       (1)乗物かき小者頭 三百石 「丹後」  
           父ハ一色義有(臣・脱カ)真下梶之助元重(於豊前小倉御侍帳)
       (2)御側御弓鉄炮頭并組外衆 三百石 乗物昇小者頭(肥後御入国宿割帳)
                細川綱利公御書出(天和三年)三百石
    2、七兵衛   
       (1)有吉内膳組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳) 
       (2)御詰衆・六番岩越忠右衛門組 預知・三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、源太兵衛・元蕃、元寄
    4、源太兵衛(梶九郎)  三百石 御側弓十張頭鉄炮頭 屋敷・内坪井
    5、梶之助   御中小姓役 三百石
    6、七兵衛(梶之助)  着座之嫡子(梶之助嫡子)
    7、亀角
    8、亀之允(源太兵衛)御物頭列・町方御奉行触 高橋町奉行 三百石
           文化十三年(作事所目付)~文政五年十月 高橋町奉行
           文化十二年十一月本役 後、作事頭ニ転
    9、軍之助
    10、亀之助(梶之助・敬次)  御使番 三百石


 ■梶之介弟・沢井小八郎重包松井家家臣となる (家系永代記録・大和澤井家 1995澤井元生著)
 ■元重か姉ハ忠興君の妾となる、式部寄之ハ此腹也(名ハさい、後長岡勘解由延元ニ嫁す、
  五百石被添遺候                (綿考輯録・巻九)

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お運びください

2009-10-17 11:51:22 | 熊本
   爽やかな秋の一日、幽玄なる能の世界をお楽しみになりませんか。
   当日券も準備されております。お誘い合せの上お運びくださいませ。
                          
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         金春流 若楠会 結成記念観賞能

          とき 平成21年10月24日(土)
                  13時開演(12時30分開場)
          ところ 崇城大学市民ホール(熊本市民会館)
          入場料    S席 5,000円
                   A席 3,000円
                   B席 1,000円  二階席

          仕舞  土蜘蛛    本田布由樹
                       本田光洋 http://www4.famille.ne.jp/~shu-rei/rireki.html
          舞囃子 松風     本田芳樹
          狂言  盆山      篠原太一
                        川邊宏貴
          能    箙       中村一路 www1.odn.ne.jp/higo-nakamura

      お問合せ 肥後金春流事務局 (096-352-7801中村方)
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斎藤采女・木村左兵衛・後藤弥八郎

2009-10-17 09:35:41 | 歴史
 加藤清正亡き後の、肥後加藤家の「牛方 vs 馬方」と呼ばれるお家騒動の関係文書に、この三人の消息が見える。夫々が加藤清正の許にあった家臣であるが、この騒動の中で運命を異にしていく。

■斎藤采女は、豊臣秀頼の乳人・右京大夫の甥とされる。大坂之陣に際し大坂城に入城したらしい。
「斎藤采女と申者、秀頼おち(乳人)右京大夫、おい(甥)なから子ニ仕候、古肥後守(清正)かゝへ召置候、先年大坂籠城之刻、大坂江走入申候、彼者、美作守・丹後守・周防守引廻シ申者ニ御座候故、大坂江采女はいり候跡、知行万肝煎遣候事」    
    萩の御前(右京大夫)chachahime.hanagasumi.net/meiden/ukyou.html

■熊本に木村重成の弟・清兵衛が住み着き、天草島原ノ乱にも鑓働きをしたことは細川家の記録に詳しい。兄か弟か判然としないが、重成に今一人弟がいた。
「木村長門守弟左兵衛と申者、古肥後守時より召置候、大坂被 仰事之時、長門守弟之義ニ御座候間、大坂江走入候義可有之と、加藤丹後守ニ両度迄心付仕相届申候処、丹後守目をかけ申者之事候間、はしらせ申間敷之由、慥請乞候へ共、次之年御陣之刻、大坂江走入申候、旁以美作守親子、逆心之様ニ御目付衆も御覧被付ニ付而、拙者ニ被仰聞段御座候事」

 下津棒庵(馬方=加藤右馬介派)の目安「上申候三ヶ条之書付理之事」にある一文であるが、両名が大坂城に「走入」った事を捉え、「牛方」が豊臣に近いことを印象つける意図が感じられる。文中の美作は加藤美作守、丹後は美作の子・加藤丹後守、周防は中川周防正辰で夫々「牛方」である。それぞれ流罪(御預)となった。

■後藤又兵衛の子に弥八郎という人があり、加藤家に仕えた。この人が「牛方 vs 馬方」の抗争の中にあったらしく、十一名の切腹を仰せ付けられた人のなかに名を連ねている。
「切腹 後藤又兵衛子 奥村弥八郎」

 これらの抗争は行きつく所は、「加藤家改易」という思いがけない結果になるのである。
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細川家家臣・額田氏

2009-10-16 14:35:54 | 歴史
「綿考輯録-巻三十七」に、「永寿院(細川尚房生母)弟・額田左兵衛と云、京都牢人也、其子権之允を永寿院育置、修理殿(尚房)へ申上、延宝六年(1678)廿人扶持被下、天和三年(1683)被召出御知行五百石拝領、大組付被仰付候」とある。
 
     佐兵衛
    1、権之允・栄重  
       人持衆并組外衆・小兵衛組 五百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
             元禄六年(大組附)~元禄十四年 中小姓頭
             元禄十四年 ~ 宝永三年四月 小姓頭
             宝永三年四月~享保四年五月(病死)用人
              細川綱利公御書出(天和三年)五百石
              
    2、佐兵衛(権次・栄親 和多理) 
       (1)千石 御側着座大組附御小姓頭
       (2)御用人 千石
             享保十四年正月(小姓頭)~享保十九年七月 用人
                         後御側御者頭之触頭ニ転
    3、権次
    4、権之允  御鉄炮廿長頭 九百石
              額田権之允知行拝領高付(明和二年)九百石
    5、多吉(佐兵衛・和田理) 御鉄炮十挺頭・清水組 八百石
    6、権次  (1)御側御取次 七百石  (2)八百石  (3)九百石

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                   忠利+側室額田氏の子孫
 【細川尚房】 忠利の三男 寛永14年8月10日生れ、寛文5年6月新知二万石、延宝8年12月28日卒・44歳 室・長岡佐渡寄之女・万
 【細川尚方】 尚房嫡男 寛文9年8月13日生れ 天和元年5月家督 貞享5年七月21日卒・20歳 室・長岡帯刀直之女・萬

 ■三齋の死の直後の八代の動静を藩庁に報告した報告書(丹羽亀之允言上之覚)のなかに次のような一文がある。

    三月十六日、藤崎作左衛門宛書状(抜粋)

   此表(八代)侍衆■二而取沙汰候ハ公儀御年寄衆様へ可被遊御談合与被成御意候ハ
   三齋様御領分ハ松助様と中無殿御息女と御縁辺被仰合松助様へ三万五千石可被進と
   可分置御談合候宮松殿ニ者三万石被進候二相究可申由ニ御座候

 この文中に登場する「松助様」とは、光尚の弟・尚房のことだが、尚房に中無(中務 立允・立孝)の息女を娶わせて三万五千石を与えようというのである。中務の息女とは鶴姫(長命)しかいない。尚房が寛永十四年生まれ(当時九歳)、鶴姫は寛永十八年生まれ(当時五歳)である。結果としてこの話はまとまっていない。

 ■ 2006/10/6日の熊本日々新聞は、新幹線工事に伴い「細川尚房一族の墓」の発掘調査が行われた事を報じている。尚房と生母、室、長男とその室、二男、長女・二女の八名のお墓らしいが、この家は長男尚方の代に絶家している。新聞の表現を借りると、尚房のお墓は生母永壽院のそれよりお粗末らしい。
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くじ引き

2009-10-16 13:20:54 | 歴史
 構えにと書いて、くじと読むらしい。鬥は「とうがまえ」とか「たたかいかまえ」とか云い、一文字でも「たたかう」という意味をもっている。龜は亀の古字だが、「くじ」とは亀が何かと戦うことらしく、相手はうさぎかとふと考えてしまった。

 知行地を「くじ引き」で決めるということが成されていたらしい。松本寿三郎先生の「藩政下の知行割と鬮取」という論考がある。ここに我が家のご先祖の名前があった。百石の四つの知行地を、四人でくじ引きして決めるという訳である。どこを引き当てても自分の責任であり、恨みっこなしという訳だが・・・「これらの知行割は御郡方で下割を作成、清書した上で中折紙に中書して、花畑御奉行所へ持参、家老中列座の上で鬮入れが行われる」とあり、まさに公明正大である。当家の三代目・又之允については、宛行状が残っておらずくじ引きで何所が知行地になったのかは定かでない。ちなみに他の三人は、永嶺嘉平次・杉形右衛門・舟瀬次郎七である。延享三年のことらしいが、変な処で先祖の消息に出くわした。果たして「兎」であったか「亀」であったか・・・貴方の責任だ。
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菊陽町・鉄砲小路

2009-10-15 16:23:57 | 熊本
 熊本市に隣接して、人口36,000人弱の菊陽町がある。急激な人口増と都市化が進んでいる。そんな中に、JR豊肥線に並行するように走る豊後街道(旧国道57号線)の三里木から北に折れると、細川家の鉄炮衆が住まいした鉄砲小路という集落がある。現在もその子孫の方々が多く住んでおられるがその町並みが素晴らしく、多くの人を魅了している。(素晴らしいサイトを御覧下さい)
文書には「大津(大津新所・鉄砲町)」等と表記されている。
          【鉄砲小路】 http://fureainosato.net/teppookoji.html
          【場所】    http://www.kikuyou.hinokuni-net.jp/
                   http://fureainosato.net/teppou-map.html

 この鉄炮衆は「地筒」と呼ばれ、郡方ではなく掃除方の支配下におかれたいわゆる農兵である。「大津」は寛永十二年正月に設置され、100人がこれに属したとされる。外様足軽格とされ、勤方は御城内御作事所御用とされ、月の「四の日」には訓練等に参加した。天草島原の乱や、幕末の小倉出兵にも参加している。

 これら「地筒」のご子孫がこの集落を維持管理され、素晴らしい景観を残しておられる。地域社会の連帯が崩壊していく昨今、素晴らしい教訓を与えてくれる集落であり、ぜひともお尋ねいただきたい場所である。
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細川家家臣・後藤又一郎

2009-10-15 13:43:27 | 歴史
 ある方から筑前黒田家に関する資料を戴いた。この中に後藤又兵衛の遺児・細川家家臣後藤又一郎に関する略系図があった。「綿考輯録」によると又一郎を二男とするが、こちらの記録では四男である。(綿考輯録は「又市郎は又兵衛四男と有誤也」と注記している)

                        太郎助・一意   八助
                      +--基義-------正利(青山因幡守・仕)
                      |
                      +--基則(左門・・毛利家臣・自刃)
                      |
                      +--弥八郎(加藤家臣・切腹)
                      |   加藤家牛方・馬方訴訟により罪を得、元和八年八月切腹仰付けらる
                      |
                      +--又一郎
      切支丹殉教          |   ∥
      加賀山隼人正興良---------リユ
                      |
          +--母里太兵衛    ja.wikipedia.org/wiki/母里友信
          |           |
          +--野村祐勝--------野村祐直・・・・・・・→日本号の槍を継承
                      |    ∥
                      +----●
                ●    |
                ∥-----+----●(紀伊徳川家・曽我部徳蔵室)
                ∥         www.geocities.jp/fm030/shiryou.htm
       後藤又兵衛・基次
                ∥
                ∥--------三浦為勝---正敏---後藤刑部
       三浦四兵衛---●       治兵衛・主水      千石
       池田家家臣

 【綿考輯録・巻十七】
 黒田の功臣後藤又兵衛筑前を立退候時ハ、忠興君を頼奉り小倉より上方江罷越候、忠興君
 御懇て村上八郎左衛門を大阪迄御添遺候、扨又兵衛二男又一郎九歳に成候を指上候処、
 又兵衛討死後公儀ニ被仰上被助置御知行五百石被下候
 同志茶話ニ、後藤又市郎は又兵衛四男と有誤也、其外又兵衛事ニ付異説区也(以下略)

 尚、永青文庫には、慶安二年長岡佐渡・長岡監物宛、後藤又兵衛子息預養育について(?)の事情を記したと思われる「後藤又一郎儀ニ付臭田権右衛門仕上之覚」なる文書が残されている。まだ読む機会を得ないでいる。
            
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重賢公御帰国・・Ⅲ

2009-10-15 07:40:15 | 歴史
 6月11日 七時・加子川御発駕
         ↓
        姫路・御休
         ↓
        八時・室   www.muro-shimaya.jp
        七時・御乗船
         ↓
        暮六時・坂越御船繋 www.ako-sakoshi.org

 6月12日 八半・坂越御出船
         ↓
        七半・備前下津井御船繋(海上18里)
                  www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phshimotsuiminato1.html

 6月13日 六時・下津井御出船
         ↓
        伊豫岩城御船繋(海上17里)proto.harisen.jp/minato1/iwaki.html

 6月14日 四時・伊豫岩城御出船
         ↓
        伊豫奴和御船繋(海上19里)

 6月15日 五半・伊豫奴和御出船
         ↓
        七時過・上之関御船繋(海上14里)www.iokikai.or.jp/siomatinominato.kaminoseki.html

 6月16日 八時・上之関御出船
         ↓
        七半・鶴崎御着船 www.tsurusaki.info

 6月17日 九時・鶴崎御発駕
         ↓
        七時・野つ原 mytown.asahi.com/oita/news.php?k_id=45000210909240002

 6月18日 五半・野津原御発駕
         ↓
        今市御休 4travel.jp/traveler/godzilla/album/10226198
         ↓
        七半・久住 

   【豊後街道】 park8.wakwak.com/~kondo/touring/991030/991030.html
   【豊後街道・熊本~大津】 http://blowinthewind.net/kaido/bungo/bungo1.htm
   【豊後街道・大津~内牧】 http://blowinthewind.net/kaido/bungo/bungo2.htm
   【豊後街道・内牧~久住】 http://blowinthewind.net/kaido/bungo/bungo3.htm
   【豊後街道・久住~鶴崎】 http://blowinthewind.net/kaido/bungo/bungo4.htm

 6月19日 五半・久住御発駕
         ↓
        坂梨御休 sakanashi.ddo.jp
         ↓
        五時・内牧 

 6月20日 五半・内牧御発駕
         ↓
        的石御休 www.jalan.net/ou/oup2000/ouw2001.do?spotId=43422ae2180022017
         ↓
        八時・大津

 6月21日 九時・大津御発駕
         ↓
        七時・御花畑御着座 www2.koutaro.name/machi/kumamoto.htm

                         (了)
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重賢公御帰国・・Ⅱ

2009-10-14 14:32:03 | 歴史
           【中仙道】 www5.big.or.jp/~ejiri/nakasen
           【江戸の刻】 www.viva-edo.com/toki.html

 6月1日 五時・野尻宿御発駕
        ↓
       妻籠宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E7%B1%A0%E5%AE%BF
        ↓
       八半・中津川宿 ja.wikipedia.org/wiki/中津川宿

   2日 六半・中津川宿御発駕
        ↓
       大久手宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/大湫宿
        ↓
       七半・御嶽宿 ja.wikipedia.org/wiki/御嶽宿

   3日 六半・御嶽宿御発駕
        ↓
       鵜沼宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%9C%E6%B2%BC%E5%AE%BF
        ↓
       八半・加納宿 ja.wikipedia.org/wiki/加納宿
          (夕七時過より岐阜川鵜匠為御覧)www.ukai-gifucity.jp/ukai

   4日 五時・加納宿御発駕
        ↓
       赤坂宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/赤坂宿_(中山道)
        ↓
       七半・醒井宿 ja.wikipedia.org/wiki/醒井宿

   5日 六半・醒井宿御発駕
        ↓
       愛知川宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/愛知川宿
        ↓
       守山宿 ja.wikipedia.org/wiki/守山宿

   6日 六半・守山宿御発駕
        ↓
       大津宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/大津宿
        ↓
       伏見御茶屋

   7日 七半・御乗舟
        ↓
       七過・大坂

   8日 大坂御滞留

   9日 六半・大坂御発駕
        ↓
       西宮・御休
        ↓
       七半・兵庫

   10日 五半・兵庫御発駕
        ↓
       大蔵台
        ↓
       七時・加子川

                  (つづく)
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利休にたずねよ

2009-10-14 12:50:41 | 書籍・読書
      http://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=978-4-569-70276-6

                 p41「知るも知らぬも 細川忠興」
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重賢公御帰国・・Ⅰ

2009-10-14 07:29:07 | 歴史
 熊本大学の西田耕三・川口恭子先生が翻刻された「細川重賢御側日記」というものがある。この中の記事によると、宝暦十二年五月廿二日重賢公は帰国の途に付かれた。中仙道経由、大坂・兵庫を経て室の津(兵庫県御津町)からの船旅を経ての29日間の旅である。日記からその足取りを追ってみる。

 6月22日 五半・竜口御発駕
           ↓
          蕨宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%A8%E5%AE%BF 
           ↓
          七半・上尾宿 ja.wikipedia.org/wiki/上尾宿

   23日 六半・上尾御発駕
           ↓
          熊谷宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/熊谷宿
           ↓
          七半・本庄宿 ja.wikipedia.org/wiki/本庄宿 

   24日 五時・本庄御発駕
           ↓
          板鼻宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E9%BC%BB%E5%AE%BF
           ↓
          七半・松井田宿 ja.wikipedia.org/wiki/松井田宿

   25日 五時・松井田御発駕
           ↓
          阪本宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/坂本宿
           ↓
          七時・追分宿 ja.wikipedia.org/wiki/追分宿

   26日 五時・追分御発駕
           ↓
          望月宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/望月宿
           ↓
          七半・和田宿 ja.wikipedia.org/wiki/和田宿

   27日 六半・和田御発駕
           ↓
          諏訪宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/下諏訪宿   
           ↓
          七半・本山宿 ja.wikipedia.org/wiki/本山宿
 
   28日 五時・本山御発駕
           ↓
          薮原・御休 ja.wikipedia.org/wiki/藪原宿
           ↓
          七半・福嶋宿 ja.wikipedia.org/wiki/福島宿 

   29日 五時・福嶋御発駕
           ↓
          上松宿・御休 ja.wikipedia.org/wiki/上松宿
           ↓
          八時・野尻宿 ja.wikipedia.org/wiki/野尻宿

                   (つづく)

       【中仙道道中記】という、秀逸のサイトがある。秋の夜長、重賢公の旅の御供も悪くない。
       http://home.b05.itscom.net/kaidou/nakasendo/nakasendo.html

       【中仙道】 www5.big.or.jp/~ejiri/nakasen もどうぞ。
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細川家家臣・村山氏

2009-10-13 13:09:15 | 歴史
 村山家の家紋は「抱き巴」であるが、マンモスの牙のようなものが左右から天頂に向って伸びている。なかなか雄大なものだが、いくら探しても家紋サイトでは発見することが出来なかった。その出自は薩摩である。家祖の三尾谷豊前(村山一斎)という人は、島津大隈守忠恒に二千石で仕えていたが、故あって肥後國に移住、忠利の入國の際に召し出されたとされる。何事があっての事かはっきりしない。
     ja.wikipedia.org/wiki/島津忠恒

 2代・七兵衛 三百石、
        寛永十六年三月頃~(?)飽田詫摩郡奉行
        寛文元年二月~寛文五年二月 小国久住郡奉行
 3代・傳左衛門  三百五十石
 4代・甚助・武清(軍大夫)
 5代・傳左衛門・一英(養子 実・石松甚左衛門子 初・平蔵)
        三百五十石 寛政三年九月~宝暦四年一月 奉行
        江戸御留守居役行使・関東川筋修繕ニ当リ幕府ヨリ賞セラル
 6代、九郎次郎(養子 実・町市郎右衛門弟)
        高三百五十石
        宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
        奉行職にて江戸行使中乱心知行没収
 7代、仁九平(養子 実・山戸彦兵衛二男 七兵衛・甚助)二百石
 8代、七太郎(衛士右衛門) 二百五十石
 9代、甚助  二百五十石
 10代、四兵衛(傳左衛門)  二百石

宝暦の改革に於いての、村山九郎次郎の活躍が目を引くが、この改革の牽引車となったのが町氏(長曽我部氏)一族である。町市郎右衛門とその子孫平太、市郎右衛門の実弟・村山九郎次郎、従兄弟大里角次などである。夫々が奉行職を務めた。

     ■町市郎右衛門
       宝暦十年十月~宝暦十三年 奉行副役・後十挺頭ニ転

     ■町孫平太
       安永六年七月~天明五年七月 奉行副役
       天明五年七月~寛政二年九月 奉行(被差除)
         孫平太性甚だ酒を嗜む、或夜隣家の平井某の宅にて泥酔し、裸体に肩衣袴を着て帰宅
         する程なりしが、翌日早朝政堂に出て、事を処するや、判断流るゝ如く、少しくも滞ること
         なかりきとぞ、然れども之に因りて職を免ぜらる
       寛政十年七月(大組付)~寛政十一年三月 中小姓頭
       寛政十一年五月~文化十一年七月 奉行(致仕後隠居)

     ■村山九郎次郎
       宝暦五年五月~宝暦七年十二月 奉行
       * 御知行被召上候 宝暦七年十二月上知 高三百五十石
       (奉行職にて江戸行使中乱心知行没収・・細川霊感公より)

     ■大里角次(阿蘇氏)
       安永二年八月~安永六年五月 奉行副役
       安永六年五月~天明五年三月 奉行 

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八代蜜柑

2009-10-13 08:50:34 | 歴史
 歴史上「みかん」といえば、江戸で大もうけした紀伊国屋文左衛門の名前が頭に浮かぶ。みかんは紀伊国の特産のように思われるが、その元は肥後八代の高田(こうだ)のものである。天正二年伊藤某が高田から苗を購入した記録が残されている。
 細川家はこの「八代蜜柑」を、将軍家や幕閣、朝廷や公家、有力大名、縁戚などに幅広く贈物として活用している。

 上妻文庫に「八代蜜柑」という表題の文書が5冊ほど残されている。慶安三年から寛政五年迄の八代蜜柑の献上の記録である。これは上妻博之氏が昭和35年から2年余の歳月をかけ、関係文書466巻から記事を採取された膨大な記録である。毛筆で認められたこの貴重な記録は、単なる贈物の記録としてではなく、政治や人の動向、交通・運輸のありかたから、気候の変動など多くの情報を含んでいる。

 冒頭に上妻先生は次のように記されている。
享保三年の記事にあるように八代蜜柑の献上は毎年数回行はれたようであるが、江戸状扣慶安三年の項には三番立迄献上してあるが、享保三年から毎年一回となった。安永八年迄は藩の奉仕で輸送したけれども輸送が円滑に行かぬので幕府の證文を貰って筑後國原町から江戸白金の細川邸迄輸送する事となった。八代蜜柑の献上箱数は本丸(江戸城)に五百個入二十箱、西丸に五箱の定まりであったが、宝暦五年球磨川大洪水の為蜜柑木二百株余り流失したので本丸に十箱、西丸に三箱となり、其後蜜柑畑の整備が出来て天明元年頃から本丸二十箱、西丸五箱献上する様になった。八代蜜柑は他の献上品と違って大事に取扱はれたもののようである。

 後書きを読むと、上妻先生はこの時期白内障で失明の恐れがあり、この筆記の断念を覚悟されていたようだ。「神の御栄の現はれん為なり」という言葉を引用して、全てが完了した事に感謝しておられる。日頃上妻文庫の存在を大変ありがたく思っているのだが、このような先生のご苦労を洩れ知ると、なんとか活字化されないものかと心から願うのである。

 みかんの美味しい季節になった。
コメント (2)
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