津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「おもだか」と「田つくり」

2009-12-21 14:05:02 | 徒然
                 おもだか(サイト・あなたの知らない自然 から引用)

 9月19日のブログで、『「おもだか」とか「こうぼね」とか』を書いた。
園芸店に出向き、家紋にある「おもだか」をさがしたが、無かったことを書いたのだが、東京のTY様から「後日送ります」というお申し出を受けた。昨日航空便でお送りいただいたのだが、「くわい」に良く似た可愛らしい球根が顔を出した。植え方もご教授いただいたが現在は仮植え中、用土や鉢や睡蓮鉢等を買い入れなければ成らない。(出かけようと思ったら、免許証が行方不明・・・どうやら息子の車に落としたらしい)

 ご教授いただいた中に、用土の下方の肥料として「煮ぼし」と書かれていた。
「えっ・・煮ぼし」と思ったのだが、よくよく考えるとお正月の「御節料理」にある「田づくり」の由来は、田圃の高級な肥料であった煮ぼしからきている。すっかり合点してしまった。

 長男の家の水槽に泳いでいる「赤ひれ」や「かだやし」をもらおうと思っていたが、睡蓮鉢にはやっぱりメダカだろうと考えている。楽しい・・楽しい・・
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水道橋喧嘩一件

2009-12-21 12:04:21 | 歴史
 寛政元年(1789)六月水戸宰相御屋敷の近くで火事があり、細川家は志水新之允をはじめとして御人数を差し出している。小石川紺屋町とあるが、江戸切絵図では確認できないでいる。大した火事にはならなかったらしく、一行は引揚げる事になるがその道筋で酒井内記様火消しが、細川家行列を横切ろうとした為喧嘩となった。
   ■志水新之允覚書
   ■水道橋喧嘩聞書 といった文書が残されている。
 随分以前、上妻文庫から上記二件の文書をコピーしたが死蔵状態だった。
「肥後文献解題」に紹介されている事を再確認して、この訓下しをご紹介しようと思い取り掛かった。「火事と喧嘩は江戸の花」というが、どのような内容なのか興味津々でいる。
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細川家家臣・浅野氏

2009-12-20 15:13:26 | 歴史
 寛文九年の熊本における陽明学徒の追放事件では、多くの有為の人達が離國を余儀なくされた。浅野家初代の七左衛門もその一人だが、「於豊前小倉御侍帳」に「供之者・御扈従与也 五番 弐百石」と見えるのが資料としては初出である。以下 
   ・奉行所ヨリ触衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
   ・二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
   ・有吉内膳組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)   等の記録がある。
 前述の通り七左衛門は寛文九年(1669)十月御暇となったが、その処分については多くの人が「慶安三年以来段々御暇被遣候面々」に記録されているが、七左衛門については「御暇被遣其以後帰参仰付候面々」に登場している。それには以下の如くである。
   「寛文九年十月 弐百石 浅野七左衛門 貞享四年(1687)二帰参被仰付候(於・江戸)」
帰参まで18年の歳月を要しているが、特筆すべきは他の処分者と違い、家禄が減知されていない事である。二代目勘兵衛に対しては、貞享三年の「細川綱利公御書出・二百石」がみられ、「元禄五年比カ・御侍帳」にも「御奉行処触組 御馬方 二百石 浅野勘兵衛」の名前が見える。以降代々家禄が動く事はなく明治に至っている。                  
 家紋は「源氏車」である。由緒ある家紋だと考えられるが、浅野家との関係は未だ判らないでいる。
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米田家臣中山宗俊覚書 (七)・・了

2009-12-19 15:11:06 | 歴史
一、東照君御在世の時永井右近大夫殿へ被仰付幽齋様と室町家の
   九例御尋被遊候本慶長五年に永井右近大夫并御祐筆曽我
   又左衛門其男曽我太郎 後又左衛門又改丹波守為大阪町奉行・イ曽我家ハ両代押ツツキ を幽齋様へ武家の
   故実を御習せ被成候武家故実大双紙と云書を幽齋様より
   被献之今に至て松平家の御禮式永徳の被准旧例公方義満
   公の如例被執行となり右大双紙細川家御代々御譲御秘書と成て
   御文庫に御収蔵と傳承る 愚按に将軍義満公に初て公方の御
   家号并兵杖牛車共に勅許被准五摂家云々テ節會大辨ヲモ被勤勅官職ナリ然レ共 公方ハ武家の棟梁
   たるにより 公方如有識 公方家にも禮法なくて不成に付て其比今川
   小笠原伊勢三家に被仰付候て被撰集所の書号を上儀一統大双紙と云
   武家の故実の書なり此書たるへき将軍義晴義輝義昭公三代に
   幽齋様御近臣御膳番をも御勤と也然者室町旧例式とも可申也
一、慶長五年関ヶ原御利運に成て直に大阪へ御登城其侭御上洛於京
   師天下一統の賞罪被執行被夫迄ハ秀吉公如御遺戒天下五人の御大

   老下に■五奉行此衆中として御攻勢有之といへとも此時に至て右の
   衆中 大神君の敵と成て或は誅戮其家ヲ断絶或ハ其所領を被没収減少其
   後に御一人にて思召侭之御事也於京都御攻勢といへ者永徳に始り
   候礼式武家棟梁たる家にハ禮敷き一ヶ条闕ても ○イ 難成事也予■たりし
   時城州宇治山仁徳山興聖宝寺に詣てたるに永井右近大夫直勝碑石
   あり其辞乃内に云
   慶長五年秋意志だ三成等作乱 大神君自将伐之使諸将大戦
   于濃州関ヶ原三成等就擒時居士列于隊長逮於
   大神君之制閫外也令居士尋訪前代柳営之儀式故事于

   細川玄旨乃膳冩呈上是為其随時革沿故也 とあり是を
   以て見る時は羅山翁の正す所慥なるへし此以前御祐筆宮川加兵衛
    後入道号素貞 を久保殿門弟に被仰付書札御習を被遊候時分私尋申候
   ハ松平御家書札禮ハ其玄旨様より出たる儀無隠事に候今久保殿
   流儀と申すハいかなる事ともに御座候哉と尋申候得共成程其通に候或時
   麻生地酒献上之書様尋に遣候得者久保殿被申候ハ此酒豊後よりも
   出申候得共世挙て細川御家の名酒に成居申候皆共書中候も御家
   より書出候通に書来候本書■式ともに玄旨様より松平御家に相
   傳候事に候得共御所■によ川て傳用来候通りを指南仕候との儀に候

   由直に咄承り候時世ここにて時により用■補写可有之事也如
   此に候へハ慶長五年よりの事と申傳候事為必定羅山翁の
   柳営と有之候得共室町旧禮とも可申候小笠原家ハ元来後醍醐
   天王(皇)に始りて宮公達日本の師範たるへしといふ事小笠原の
   系図に出たり武家故実躾方ハ義満公に初り今 公方の例
   法永徳の例たりといへとも細川家に残りて世上に■然たる也
                              中山宗俊書之

                      了
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明日は雪かも・・

2009-12-18 23:51:19 | 徒然
 ベランダに出て空を見上げるのが、寝る前の私のいつもの最後の仕事(?)です。
駐車場の車の屋根に、うっすらと刷毛で刷いたように雪が積もっています。
随分冷え込んできました。暖房を消すと音をたてて水銀柱が下がっていくように、冷気が満ちてきます。明日は随分冷え込みそうな感じがします。ここ数日、あたたまって寝ようと、寝酒の量が増えました。(焼酎のお湯割です)痛めた膝が寒さできしむ感じがして、これが「老いの現象か」と切なく感じています。明日の朝は又ベランダに出て、阿蘇の山の雪景色を確認することになるでしょう。真っ白に輝く阿蘇の山の真反対方向に、細川家の墓所が有る立田山が見えるのですが、こちらは今紅葉真っ盛りの感じです。秋と冬が同居する不思議な風景を楽しんでいます。寝酒でいささか酩酊気味で、タイピングもろれつが廻らないという感じです。私事で恐縮ですが、長男が小さな家を建てました。約10ヶ月間いろいろ相談に乗ってきましたが、明日は引越しです。67爺もちょっと手伝いに行こうかと思っていますが、寒そー・・・。御地は如何ですか、どうぞお風邪など召しませぬよう・・・寝酒でいい気分の津々堂でした。
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米田家臣中山宗俊覚書 (六)

2009-12-18 08:54:05 | 歴史
 又父豊前在之竜王の城にハ逸見河喜多両
 人罷越候豊前二男岩徳丸と申ハ肥後弟にて候其節登城仕けるか御
 城大手ニ而米田与右衛門 後入道号宗伯 に行逢候与右衛門申候ハ豊前父子御討果被成
 これ/\に被仰付候早々被帰一所に可然と申聞候へハ曽て不存候御志らせ被下
 生々世々所存候是迄と申候て引返し豊前門前にて振袖の左右を切
 ■馳入働候由豊前甥に麻生吉左衛門と申者伯父甥兼々不快にて義絶
 仕居申候が此儀承り門戸をたゝきも候へ者一人も不入由申に付き常ニ
 気絶の吉左衛門にて候此節御許無之ハ門外にて果可申由呼り申候へ者其時
 くゝりを明け内へ入連申候其後吉左衛門申候ハいつ迄門をさし置可申哉開候

 へと下知いたし開き申候無程討手衆参候へハ吉左衛門如形働申候又豊前手
 前に高麗人を育置此者に向豊前被申候ハ幼少より育置別て不便(憫)に
 存候其方ハ無罪者也早々門外へ出候へと被申高麗人申様扨々無御情御
 意にて候御敵吾忽私討取御先に立四手の瀬蹈可仕候と申て古き杖を
 つき盲に似を御大将の石見様ハ何方へ被成御座候哉無罪盲の命御
 助被下候へと声高に泣きわめき橋の上を志とろにう詠たへ扣き出候を
 石見見てやれ/\瞽を助よと被申候得共何者か手を取りこなたへと引立候をやれ
 盲を殺しやるハ石見様御助被下候得と弥泣きわめき申候二付石見是にあり
 こなたへ参候得と被申候へハさぐり/\石見に取付申候をやれ後へ居よとつき放

 被申候時其侭後の方より抱付候て懐中より九寸五分を抜出し安々と
 石見を突殺し主命なれ者無罪石見殿にて候得共我等にハ恩の敵と
 存神妙に仕候と申由高麗人ハ大の男にて有之たる由なり又肥後女房
 ハ米田助右衛門是政か嫡女にて候夫婦三年義絶にて表奥無對面候
 四五歳の娘一人有 名号阿伊 此時助右衛門後室を者雲仙庵と申候忠興公
 御城へ被為召豊前父子御討果被成候其方娘無罪候肥後子は娘なり
 母子共に其方より申遣呼取養育仕候得と被成御意候雲仙庵所
 存候得共私心にして存合見申候に常々不挨拶の男を挨て一命助
 ■可申とハ申間敷ハ私より申遣候て同心不仕候時は私を見限り死後

 の障りに成可申候されとも不便にハ存候間御計ひを以て一命助申
 候ハ無此上存候間いか様にも御斗ひ被成被下候得と申上候何者米田与右衛門
 を被為召候て肥後女房并娘ハ殊に幼年無罪者に候我等申候間
 申遣■取て雲仙庵に渡し養育させよと御意に付与右衛門方
 より委敷申遣候得共肥後妻ハ見事に■奉抔候私儀覚悟仕居申候無
 罪御意を承り■果可申候娘阿伊事ハ東西不存者にハ雲仙庵へ
 御渡被下候得共返■のに娘を付て出し申候雲仙庵養育にて十歳内
 外にて是も病死無子孫扨又肥後方より内室へ使にて年来無音不
 及是非候娘をつれて雲仙庵へ参り娘を養育して給候り候へとの

 儀なり内室より返答に左様なる ○イ 心故此首尾に成行候御城より如 ○イ 此文参
                     ○イ 行迹故如是ナル首尾ニ成果被申候    ○イ 申来文ヲ見参ニ入申候
 候得共御城にハ辱奉存候肥後同前に覚悟仕居申候娘儀ハ幾重にも
 奉頼候無罪して相果申儀無此上悦と存候間旨御■を乞娘ハ早出し
 申候早々奥に通り我等死骸片付心静に生害被仕可然旨を返事
 被仕■をも見遣被申候時肥後三年ふりに奥へ通り夫婦の對面有之候扨
 内室は行水仕廻髪をさばき白装束にて越方の事共申尽し門出に
 拵置候候由にて白き湯かた白鉢巻白き帯白たすき廣ふたに家を
 出早々我が身を被■付候得との儀にて肥後手に掛り被申候遺骸を隠
 居き其身ハ右の装束にて出蔵人に逢被申其後はいり生害被仕候

 働ハ無之由亦与五郎興秋様江府御参府不被得其意儀者慶
 長九年忠利様を御家督に御願翌十年四月に従五位侍従
 任叙候御舎兄なりし興秋様無官無位にて江府御勤可被成様無之
 事尤成御事と申候由
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天正十年六月朔日神足掃部青龍寺城ニ而覚書

2009-12-17 18:11:37 | 歴史
           明智光秀謀反当日の覚書である。

一、勝龍寺城其時ハ矢部善七殿イノコ兵助殿両人預りニ而御座候
一、六月朔日夜明ヶ及頃者二日京大分やけ申候事ニて二日早天二
   東之川端江神足掃部見ニ罷越候得者いのこ兵助殿矢部
   善七殿内山田甚六殿と申仁京都より罷下掃部ニ申候様ハ今迄
   萬事申■候間身上之儀ハ其方ニまかせ申候侭外聞失ひ
   不申候様ニ仕可給候由被申是ハ不審なる儀被申何事不寄
   申合候上■今更別儀不可有之由掃部申候此上ハ隠して不入儀ニ候
   信長様御勝めし候間此儀ニて如何可仕候やと右三人申候掃部
   申候天下を引更運の開き申こ戸ニ而はなく候へ共成り申程かせき
   籠城可仕と申別心無之上ハ女子ハ城へ上ケ可申候合手ハ何某
   と見候哉と申立候明智殿と右両人衆申され左候者心安

   被存候得と何事も気遣なき事を申し候■籠城用意仕候矢部
   善七殿は其時分さかいへ信長様御使ニ被参候留守ニ手御座候故
   人数無御座候事
一、同六月二日之巳之刻斗ニあけち勝兵衛佐竹出羽いたい半左衛門
   三人之大将ニて人数六百斗被参神足掃部不死へあけち殿
   より申渡儀御座候間早々被罷で候得と申候二付如何可仕と談
   合仕候處ニ先出候て可承と申し候而罷出申候右三人之衆申候ハ
   勝龍寺之城をハせめ可申哉又ハ其方ハ父子存分次第ニ可仕と
   あけち殿より被仰出と申候二付掃部申候ハ我等爰元父子居申
   候とても預り人候間其由可申と申候て城へ参申候間ニはや
   神足村之百姓五十人程くひを取られ申候其侭掃部罷出
   者やうやうニ百姓之首とり申候事沙汰の限ニ候いかい半左衛門
   とはたし可申候而しつまり弥城あつかい仕申候事
                    了
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米田家臣中山宗俊覚書 (五)

2009-12-17 07:31:22 | 歴史
       長岡肥後誅伐について

慶長十一年年興秋様ハ江府ニ御参勤被成様ニと
被仰候処ニ興秋様曽て無御承引故忠興様(以の外)御立腹被成御父子様御
間柄悪敷被為成候されとも右之通之首尾ニて不被差立候てハ不成事ニ
付(元より)御用意等相調(居申)候上長岡肥後江右之通ニ御偏ニ御頼被思召候間御
異見申江府江御供仕届可申旨被仰付候肥後承り只今私一命ハ差

上可申候へ共此儀ニおゐてハ御免と再三御断申上候処ニ命より三
世の忠恩ニ思召候由御意ニ依て肥後難辞此上ハ不及力奉
得其意候されとも三度迄ハ御諫言可申上候其上にて無御承引候ハヽ
興秋様可任御心と申捨則興秋様へ申上候得共何の支もなく御
発足被遊京都建仁寺塔中十如院へ御上着御滞留日を経て
御発籠御延引ニ付度々御催促申上候得共無御発籠依之強て
御諫言申上明日ハ是非御発籠可被御遊之由相極翌日御用意調候
上肥後罷出候へハ早御剃髪被遊十徳ニ而御對面被成肥後最
早申分も有間敷候帰国仕此通申上旨御供衆も不残被召出何も

是迄御届申御満足被思召候皆々帰国仕相勤候得と被仰聞其侭奥
へ御入被遊候ニ付肥後も不及力豊前へ罷下此段具ニ申上候処
に忠興様以之外御機嫌悪敷被仰付候時分請方悪敷被思召上
候其場御通し被成間敷哉と被思召候得共其通にて被差置候父豊
前飯河豊前宗祐も同罪と被成御意親子閉門ニ仰付候其外
一類縁者に至てハ無別儀即刻逸見次左衛門を駿府江府へ御使
者ニ被遣候意趣ハ外向へ不知候由同年七月廿七日ニ逸見下着仕候
即日ニ肥後方ヘハ検使逸見次左衛門仕手ニハ河喜
多石見二代目之石見幼名藤平被仰付候益田に被仰付候へハ奉畏候肥後儀御手侭

に成者にて無之候私参候て計ひ可申由御請申上候益田事ハ肥後厚
恩にて一命を助られ其上肥後寄子にて御當家へ被召出候に御請の
次第不仁者哉と御家中歴々噴り申候由肥後所へ蔵人参候得共大
門を開き湯■■白鉢巻にて大長刀を杖につき玄関に仁王立に立
蔵人かと躍り上りたる気先にハ人間の寄付可申様子に不見候由其
時蔵人刀脇差を抜一束につゝみ門の方へ投捨て是ハ無勿躰御様子
に候私参り候ハ雑人を御相手に大事の御名を御穢し可被成事
無念に存参候先奥へ御入被成尋常に御腹可被成ハ私介錯仕御
跡を仕廻可申○申候得共蔵人を左の手○て引立奥へ入腹を○仕候
蔵人も無隠大力にて候由   

(以下次回・)父飯河豊前に関する事 ○はファイリング穴にて不明
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二條御所合戦三淵大和守討死の事

2009-12-16 20:20:57 | 歴史
 「新書太閤記」にある、細川藤孝の実兄・三淵大和守に係わる部分をご紹介する。
         【編輯人不詳 出版:東京栄泉社,明15.2】


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

将軍家再度思召立事有て宇治填島へ移らせ給ひ要害を構へ合戦の用意なし玉ふ由岐阜
へ追々注進来りしかバ信長然も有べしと豫て思ひつれ然バ上洛すべしとて(天正元年)七
月三日回文を以て軍勢を催促せられ五日岐阜を出馬なし玉ひ佐和山に着御在ます虎御前
山の城主木下藤吉郎ハ竹中半兵衛尉重治に兵士数多差添防禦の手當厳重に沙汰し置其
身ハ信長の御供せんと急ぎ佐和山へ参上し御前へ伺候し将軍家始終の御顛末何と成るべ
き思召にやと尋ね奉つれバ信長宣ふ様将軍家初めハ一乗院の學慶得業とて法相の沙門
にて在しけるが御母御臺所并びに御兄将軍義輝卿の仇を報はん事を思召立せ玉ふとて越
前の國より遥々御頼仰越されし儘即日御迎を奉つり直に軍兵を發し事故なく都へ返し入奉
つり将軍宣下の大禮を始め都て信長是を奉行し御所の経営迄残る處なく忠義を盡し勲労を
厭ずなしつる事を早晩思召忘却させ玉ひ信長を滅ぼせとの御教書を諸国へ下されし事先達
て露顕したりし時御誤りの由仰られ候により信長疎意存じ奉つらずと申上て歸國したりしに
時月も移さず今度の御企て實に以て不當に在しませバ天下の為に此君を除き奉つるべきな
り元來自業自得と申べし但し御命の存亡ハ其時に臨まざれバ豫じめ定め難しと仰られけれ
バ藤吉郎承まはり仰の趣き隙間なく聞え候但し今度の御處置に因て君の御開運有べく候
へバ能々御賢慮を廻らされ候べし三好長慶が萬松院殿光源院殿両将軍を補佐し奉つりし
事涯分の力を竭して候へども終にハ逆臣の名を取て候と申上しかバ信長心得玉ふ由頷首
せ玉ふのみにて何とも仰られず秀吉ハ浅井押えの虎御前山を預る身なり彼地を動べから
ずと仰られしばれども秀吉虎御前山の警衛ハ手厚く申付候へバ更に心配無く候御供の事
一向願ひ奉つる由申上しかバ然バ召具し玉ふべき由仰付られ六日佐和山を立せられて豫
て長秀に仰付置れし大船に取乗て坂本へ押渡り直に京都へ寄玉ふとて先白河の在家に火
を掛て焼立玉へバ洛中洛外以ての外に騒動す二條御所にてハ豫て期したる事ながら日野
大納言高倉宰相など弓箭の家成ぬ方々の御過ちあらん事近頃以て心成ず候早く御立退然
るべし迚退せ奉つり三淵大和守藤秀以下同志の融資わづかに五百餘人大門を鎖固めて待
所に織田軍勢雲霞の如く押寄て■を吶と作りける三淵莞爾と打笑ひ天晴敵の大勢や斯る軍
の無りせハ我等の手柄何時顕るべきや日頃の約束違へれバ我に續けや若者共迚大門を八
文字に押開き吶と喚いて駆出る履の子を打たる如く透間なく群りたる敵なれバ将棋倒しを見
如く當るを幸ひ切伏薙伏突立けるにぞ織田方の先鉾立足もなく敗走す信長遥に御覧じて御
所方に斯程の勇士有べしとも思ハれず誰ならんと不審げに宣へバ荒木攝津守村重御側に
有けるが是ハ三淵大和守藤秀にて候べしと申けれ場可惜勇士なり討死と決したりと見ゆる
ぞ幸ひ長岡兵部太輔ハ近き間柄なり如何にもして渠を止よと仰らるゝにより藤孝馬を馳出し
たり三淵ハ敵をも多く討取しが味方も大形討れて漸く十五六人と成しかバ今ハ是迄なり御
所へ引返し自害せバやと思ひつゝ向を見れバ長岡馬を進めて馳近づく三淵思ふ様藤孝が
來るハ必定我自殺を止めん為成べし然ども何の為なり命を護ふべき速く御所へ入て門を閉
よと云棄て御所に走歸り既に大門を鎖固めし時藤孝馳付三淵殿に物申さん信長の口状も
有と雖も更に音もせず唯大庭に酒宴して舞つ唱ひつ高々と笑ふ聲のみ聞えて其後大和守
切腹しけれ場皆々追々に自害したりける藤孝門外に有て様々に音なへども答ふる音信なか
りしかバ是非なく門を打破り乗入て見れバ此ハ何に大和守を始め郎等十五六人皆一様に
腹を切俯伏に成て死したりけり藤孝涙を倶に信長の前へ出如斯なりて死て候と申しゝかバ
あら哀れや何卒して命を全くなさせ長く将軍家へ忠義を盡さんと思ひし物を斯空しく見なす
事の可愛さよと信長も暫時涙に咽び玉へバ其外の侍ひ中何れも鎧の袖を濡しけり此藤秀ハ
将軍未だ南都に在しましける頃より付随ひ奉つり江州越前若狭美濃の國々御動座の時少
しも離れず供奉したりける忠臣なり将軍の御行儀宜からざる事を悲み幾度となく諫言申或ひ
ハ御勘気を蒙り或ひハ御怒りを犯し心の及ぶ程忠言を盡し二條御所を預り寄手を引受花々
敷合戦し其後潔よく自害して滅ぬ藤孝ハ亦将軍の諌む可らざるを知て是を諌め信長に随ひ
て将軍の過ち無らん事を庶■其所業各々異なれども主君を思ひ奉つる處ハ全く同じと云べ
し斯て二條御所破れしかバ信長惣軍を率し宇治五箇の庄に移り柳山と云處を本陣と定めらる。
                               (以下略)
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米田家臣中山宗俊覚書 (四)

2009-12-16 10:13:42 | 歴史
長岡 本氏飯河 肥後宗信 或云忠直 於豊前誅戮被仰付候父飯河豊前守
宗祐 飯河山城守信堅男 父子共に同日御討果被成候 肥後は長岡の御照合被下候 右罪
科の訳難知事と承候関ヶ原陳の時分飯河豊前と石田三成
別て念比にて石田方へ密通致候儀此罪科共古老衆被申

たるも有之候去とも関ヶ原陳ハ慶長五年也豊前肥後父子
御討果被成候ハ慶長十一年 私云七月廿七日 也関ヶ原 東照宮御
利運にて此陳中忠興公御忠賞に依て慶長五年の冬豊
前國御拝領御入部被成候時関ヶ原陳戦功に依て飯河肥後
守にハ長岡の御照合を被許長岡肥後と改知行六千石被下豊
前の馬嶽岩石の城主に被仰付候
此城ハ往年長野次郎左衛門筑(ママ)城也其後秋月種長か臣芥田忠兵衛か明城なり
父飯河豊前守にハ同國竜王の城主に被仰付三千石知行被下在
城也肥後若年たりといへとも知勇の仁也先年黒田如水と先納
の出入不■成事に付肥後を御使者に被遣候然処如水虚病を構

へ對面不成由被申候故百日にても御快気迄滞留仕置に忠興
口上并目録可掛御目と申に付無是非如水對面をし連たれハ則口
上を申述是に目録持参仕候由申如水被申候ハ目録見る迄も
無之被仰聞候通に■不成事と云■如水被立候処飛蒐衣服を取
引居成不成ハ御返事持参イタシ仕候書付をも不懸御目候て罷帰りて
ハ越中守に無申分候是非御覧候得と申たれ者如水得斗見被申断ニ
如水存念被述越中殿我等間柄に候取込候物成進し可申と返事
被申候付然者此目録の裏に御墨付をと申候て判形を取■候去
共如水博多の濱まで俵物運出し濱にて御請取候様にと被申此方よりハ

小倉迄被積廻候へとの儀にて相(爭)にて終に右の俵物博多の濱に
て■夫より黒田細川御義絶に成候此時も忠興様御意にハ我等
地震参候ハゝ如水と打果より外ハ有間■候被後を遣候故御存
分御達被遊候兎角人を不持してハ國ハ難治事と御褒美にて候
関ヶ原御陳の後慶長八年二月秀頼公被任内府同三月 私ニ考二月なるへし
東照宮被任征夷大将軍同十年 秀忠公 東照宮
御同官位に任せらは御父子様江府駿河両所へ御別違御在城
被遊候関ヶ原以後次第に 東照君御威勢強く天下一統仕候を
云へ共大阪駿府御心不知にしてとこともなく色立世の中不平の

様子に有之たるよし依之忠興様御思惟ありて御證人の御心にて
與五郎興秋様を江府秀忠様へ可遣置との御約束も御座候也 私云
是より先忠興様御三男忠利様を證人の為慶長五年正月江戸へ被差登秀忠公御幕下に御勤仕
同九年忠利様江戸より御下に付同十年右忠利様の御代り為御證人御二男与五郎興秋様江戸
へ御上り可被成由達て被仰入付豊前ハ御發足被成候得共■より御■に付可被成様子無之長
岡伊賀守殿嫡子長岡平左衛門重政を證人として江戸へ御登遣之由御家傳に見へたり 
中山氏説と年代其外少異なり如何
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「衰微仕り不賑わい」

2009-12-15 16:59:39 | 徒然
 不景気もあろうが大型店舗が郊外に店を連ねると、中心部の商業施設は下手をするとシャッター街となり、行き交う人もいなくなるということになる。文化12年(1815)頃の本坪井町がそうであったらしい。
             (新熊本市史通史編・第三巻--府中近郊の商業的発展より)

 府中からはずれた立田口では昔は団子や焼餅を商いしていたものが、現在では小屋を建てて、「麺類・煮売りや、小間物・古道具の外酒を売っている」し、慈徳寺町付近の三軒屋では「質屋・八百屋・小間物・古手物・俵物・木竹・揚酒・麺類・打綿」その他いろいろ町方同様の商売を始めたので、「不商に相成り零落仕候」状態になったという。
町の丁頭達は連名で、これらの出店に対しては18品目の品物に限るように、藩庁に願い出ている。飽田・詫摩郡代杉浦仁一郎が実情を調査して郡方へ報告しているが、両町とも府中--在の区別もつきがたく「准五ヶ町」の列に加えてはどうか、商売も今のままでよいのではないかと報告している。

 商売人に限らず、今も昔も先が見えぬ苦悩がある。
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細川家家臣・梅原家

2009-12-14 11:07:13 | 歴史
 初代九兵衛は柳生家に在った人だが、忠利に請われて細川家家臣となった。嶋原に於いて活躍して知られるが、何と言っても彼の名を高らしめているのは、「袖引き九兵衛」の話であろう。
細川光尚は末期に至り「領地返上」を言い出している。継嗣六丸は七歳であった。これを受けて幕府でもその検討を始めた。三つの案が検討されたとされるが定かではない。

   1、肥後二分案 40万石(六丸=綱利)、14万石(宇土・細川丹後守)
   2、肥後三分案 六丸、宇土・細川丹後守、光尚弟・松之助に三分与
   3、国替え説

 これを受けて家老松井興之は、養嗣子・松井寄之(忠興末子16歳)に梅原九兵衛、備頭都甲太兵衛を付けて江戸へ向わせ、江戸家老・沼田勘解由と共に幕府への折衝に当らせた。老中酒井雅楽頭と入魂であった九兵衛は、老中雅楽頭の袖にすがり刀をのぞかせ、切腹の覚悟を披露したとされる。「袖引き九兵衛」と呼ばれる所以である。
このようなことがあって、光尚の遺領は無事六丸(綱利)に受け継がれたのである。

 このような誉ある九兵衛には、狂人となった息子が在った。あるとき家人が食事を運んだ折逃亡を図り鑓をもち暴れた為、九兵衛は三刀にて切り倒したという。九兵衛も鑓で突かれ、二人共に死亡した。
 長男が別禄を拝領していたが、何の故か謹慎の身であり、その禄を嫡男が継ぎ梅原家は明治に至っている。
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北関始末實記・・番外編

2009-12-14 08:49:38 | 歴史
 北の関で藤田一族を討果した、前川勘右衛門の自裁死は思いがけない結果であった。仇と狙われる精神的重圧に押しつぶされたのであろうか。
「肥後先哲偉蹟」の大木夕岸(兼近)の項に、勘右衛門を仇と狙う藤田氏一族の動向を知る記事がある。彼らは巡見使の一行にまぎれて九州に入り、本懐を遂げようと画策していたらしい。大木氏はその事をどうして知ったのか、又藤田方は勘右衛門の動きをどう察知していたのか。大変興味深い。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 大木古舎人、家老勤居、在江戸の時、諸國へ御巡検(ママ)御下との儀なり、然るに
 山名十右衛門は、先年南関にて、藤田某を討放され候、此者二子有て、山名をね
 らひしとて誰も知る事なり、右の御巡見の御衆の内の家来に成、紛れ下る由、とこ
 ともなく取沙汰あるを、舎人殿聞付られ、安からぬ事に思ひ、或時不快と號して引
 込、一間に立籠り居られ、家来共も不審に思ひ、心を配りても、様子を見取らず、只
 何ぞ書付など仕ても有之かと存たる計りなり、其日も八半比に、其間より出て、家
 司宇田彌二兵衛を呼て申付けるは、兼て此方様へも懇に御出成れ候、直参の御
 衆、何某殿へ使者を遣候へとの儀なり、彌二兵衛畏り、舎人殿封箱を持せ遣、早
 速舎人方へ、右の御衆御出候へば、又右の所へ御入れ申、家来遠ざけたり、暫し
 て客御歸翌朝又御出、料理を出候て、御噺抔有之御歸、其後も舎人殿不快と申て
 出勤せず、家来共も彌不審に思ひ、病気の様子も見えず、舎人殿身上に事有之、
 不首尾にも有へき歟と、気遣するも理なり、扨十日程過て、宇田を呼び、差向に申
 され候は、今日は必祝の事あり、其方も祝べき事あり、盃すべし、譯は跡より咄べ
 し、料理申付よとなり、扨事済て其方へ盃すべし、近く寄候へとあり、扨今度御巡
 見九州へ御下の衆の家来に紛れ、山名十左衛門をねらひ候者下る由を、取沙汰あ
 り、左候ては、御國元の騒動、公義にも御事多く有之、第一は右の者御國へ抜れ
 下し候ては、我も又届さるようにして、御為ならず思ひ、色々工夫して、此方へ御出
 入の何某殿は、幸御老中衆何某殿へ御出入、殊に御気入にて、御懇の事と承及
 居候に拙者御願申度事ござ候、仔細は此書附にて総労、之を御老中何某殿へ御
 達成し下さるべく候、尤越中守用事にてござ候へとも、越中守へも聞せ不申儀にて
 ござ候、尤以後共、越中守へ少計も御噂下さるまじく候、命を際に仕候ての御願に
 てござ候と申候へば、客申され候は、御申の通、承知仕候得共、此儀は御受合あ
 つと難申候、尤も此の書付の内は、見不申候へば、事の趣意も不存、只取次と計
 の儀迷惑に候、扨又何某殿は、今日出の御事なれば、御埒もよく候へども、夫程
 に御六敷存する事に候へば、御書付届候様、仕済候儀は不知候へども、御命を際
 にと候へば、黙止難く、先持参候、返々内を見申事にては無ござ候、此事御安堵
 候へとなり、扨翌日早朝に、御老中へ参られ候へば、御膳参懸候處に、直に御通
 り候へと有に付、何某殿は、此書付を手に持ながら、御通り候へば、飯を喰ながら、
 是へ々々となり、御側へ御寄候へば、何か書付持参と御申あり、其處にて先何か
 差置、此書付の儀、御尋成れ候間申上候、是は越中守家来、大木舎人と申者、命
 を際に存するとの儀難黙示、尤此趣越中守存候ては、不成首尾にてござ候間、此
 處をも呉々私へ申聞候、御覧成れ不下され候はば、於私も重々忝可奉存候と申さ
 れければ、舎人事は、兼て聞及たる者なり、其書付是へ御越候へと仰らる、是は忝
 とて差出されければ、請取て脇に置、又飯を参り候、右書付は封も切らず、側に置
 れ、其節御覧はなしとなり、御老中より、直に是へ御出、上首尾なりと御噺候、扨
 書付、其願の趣、御老中御取上も無之時は、右之九州御巡見衆、江府發足の節、
 其方へ人數を附、懸り能き場所に出し置、無ニ無三に行列を切りくずし、御巡見の
 御存命候とも、御仁柄替るべし、然ば十左衛門をねらひ候者の、志を遂まじと見え
 たり、如此に致すべきと思込、今日迄様子を伺ひ、不快と云て有しが、宣石留守居
 廻状来るを見れば、御巡見衆、今度諸國へ下候に、敵持たつ者抔、堅く召連申さぬ
 様に、念を入吟味遂べし、若相違の儀も候はば、曲事たるべしとの儀也、然ば右の
 書付願の通、埒明に依てと知たるなり、さすれば、拙者も其方も、命を拾ひし心地な
 り、知し召されざる儀ながら、上へも御安堵の御儀、旁以て今日の心祝は、大切な
 る故と申され候、陪臣公義に事を届け、天下の定儀を引替たること、気量と云べし、
 是は舎人殿、宇田彌次兵衛へ密々咄され、両人の外知る人なし
                            (見聞雑誌)
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大名行列を解剖する

2009-12-13 16:31:45 | 書籍・読書

大名行列を解剖する―江戸の人材派遣 (歴史文化ライブラリー)


著者:根岸茂夫
出版社:吉川弘文館 (歴史文化ライブラリー) 
価格:1,785円

今日の熊本日々新聞の 「読書BOOK」 コーナーで紹介されていたのですぐさまネットで注文・・


【内容】
大名行列を支えたのは「渡り者」と呼ばれる派遣・アルバイトだった。やがて彼らは「がさつ」な振る舞いで格差社会に立ち向かう…。泰平の世に武威を示すはずだった大名行列の実態にメスを入れ、近世武家政権の矛盾を暴く。

【目次】
浮世絵に描かれた大名行列-プロローグ
大名行列はなぜ長い-武家の行列の構造
武家は奉公人に支えられた-近世前期の幕臣と一季居奉公人
江戸にも人材派遣があった-人宿の展開と欠落する奉公人
行列を飾るがさつな供廻り-供廻りの放埒と大名格式の混乱
がさつが止まらない-武家を無視した供廻りと役人の癒着
華美になり消えていく-エピローグ
【著者】
根岸 茂夫(ネギシ シゲオ)
1951年、東京都に生まれる。1979年、国学院大学大学院文学研究科日本史学専攻博士課程修了。現在、国学院大学文学部教授、博士(歴史学)
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信念の人・木村豊持

2009-12-12 22:33:12 | 歴史
 新田藩二代藩主・細川利昌の弟・利武が、細川宗家綱利の養子(宣紀)となった時分、代々三家老がうち揃って利昌の家禄を三万五千石から五万石に増やそうと考えたらしい。同意を求められた家老・木村豊持が不同意、これが原因かどうかは判らないが、新田藩の加増はなされていない。木村豊持は綱利の隠居をすすめんが為、御詰間に三日間綱利の出座を待ち、詰間を覗いた綱利の袴にすがって諫言したという剛の人である。加増に成らなかった利昌の七男・豊章が、豊持の養嗣子として木村家に入った。豊持の伯母なる人が将軍家綱の乳母であり、公儀は豊持に一万石を与えて御直参となすべく、井伊掃部頭より内意があったがこれを辞退し、晩年は京都に住まいしている。信念の人である。

  細川」宗家
  光尚---+--綱利===宣紀(利武)---宗孝        
       |
       |                 +--利方---利寛
       | 新田藩・初代    2      |   3     ↓4
       +--利重---+--利昌 -----+--利恭===利寛
               |         |
               +--利武     +--豊章
                             ↓
  上林加賀守 ・・・・・→木村豊政---豊持===豊章
コメント (3)
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