いろいろぐぐっていたら、「出来たてのほやほやのひよこの菩薩は、新発智(しんぼっち)と言います。」とある。
忠興は六丸(光尚)の幼い姿に、まさに生まれたての菩薩様を感じたのであろう。
だとすると、なかなか洒落のきいたお人柄といえる。
かってはこの言葉も当たり前に遣われていたのかもしれない。子規の俳句に次のような句があるそうだ。
新発智の青き頭を初時雨
ああ良い句だなーと参ってしまった。
いろいろぐぐっていたら、「出来たてのほやほやのひよこの菩薩は、新発智(しんぼっち)と言います。」とある。
忠興は六丸(光尚)の幼い姿に、まさに生まれたての菩薩様を感じたのであろう。
だとすると、なかなか洒落のきいたお人柄といえる。
かってはこの言葉も当たり前に遣われていたのかもしれない。子規の俳句に次のような句があるそうだ。
新発智の青き頭を初時雨
ああ良い句だなーと参ってしまった。
皆様は「しんほち」という言葉を御存知だろうか。
中津しんほち此比少蟲気之由候間針立遣候 相當之由申越候 但煩程之事にてハ無之候
養性のためニ候
ここにしんほちという言葉が登場し頭注において「忠利長子六丸、光尚」とある。さてこのしんほちとは一体何なのだろうか。
同年八月十日書状(216)にも同様のものがある。
志んほち切々煩申候 已庵薬相當申候 莬角其方歸城之時分もミ付候て無養性は 大事と
存候事
元和八年正月廿一日書状(2-329)は、忠利と六丸が将軍秀忠夫妻に謁見したことに対する忠興の書状である。
其方 新發智無■儀著 公方様・御臺様御禮被申上 珎重候事 (■ 已の下に大)
ここでは しんほち に 新發智 という漢字が当てられている。この漢字とて辞書では確認できない。あだ名・愛称みたいなものなのだろうか・・・・
その後光尚の事に触れる書状自体が見受けられなくなる。
この しんほち( 新發智) が皆目わからずぐぐって見たら、ブログ http://zagzag.blog72.fc2.com/blog-entry-873.html に、【「しんぼち」(「しんぼっち」などとも)は出家して間もない人の意味で「新発意」とも書く】とある。どうやらこれに間違いなさそうだが、六丸殿は得度したということだろうか。
どなたか御存知であればご教示を切に願うものである。
元和五年正月五日書状(折紙)
尚々其方使者ハ方々江参之由候間はやき便宜ニ此状遣候 已上
為年頭之祝儀被差越使者 太刀一腰・馬一疋代銀壹枚到来幾久と珎重ニ候 次ニうら付肩
衣三ツ・堺之たまり二桶祝著ニ候
一 小笠原右近殿江いつそや御約束申候中津之殿主儀 右近殿次第ニ可被渡候 幸舟所ニ御入
候間殿主うけ取奉行御乗せ候て舟御下候へと被申遣 請取奉行下次第ニ念入色め可被渡
候 立御用満足申之由可被申越候 恐々謹言
越
正月五日 (ローマ字印)
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元和元年大坂の陣において小笠原秀政・忠脩父子は戦死している。右近こと二男忠眞は傷を負ったが見事な鑓働きをしている。
其の故をもって信濃松本八万石を相続した。兄忠脩の未亡人である亀姫を家康の命により正室とした(元和二年)。
そして元和三年七月廿八日には播磨の明石十万石に転封となった。
忠眞は忠利室・千代姫の兄である。父と兄を失った忠眞に対し心のこもった援助をしている。
元和一国一城令にもかかわらず、支城中津城も城割を免れている。この中津城の天守を明石に差し上げるというわけである。
さて、この話が実行されたのかどうか私は承知していない。どなたか御存知であればご教示頂きたい。
小笠原忠眞 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E7%9C%9F
明石城 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%9F%8E
元和元年五月十四日付、内記(忠利)宛忠興の書状である。(書状下部の空白部分は折紙であることによる)
小笠原殿父子打死候
大學殿大てからにて
やりきす数ケ所おハれ
候へとも少も無別儀候
十二日之書状今日
ふしミの内竹田邊之寺ニ
十四日於吉田令披
御入候間御目見之後
御入候間見候其方事まつ
被参候て可見廻候 已上
すくニ伏見へ被参
公方様御目見仕
それより此地へ
可被越候
大御所様へ御目
見ハ上州まて我々
様子申遣可申候可
被得其意候 恐々
謹言
五月十四日 越
忠 花押
内記殿
御返事
(大日本近世史料・細川家史料一 九七 p123)
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忠利室千代姫(保壽院)の父親・秀政と兄・忠脩が戦死したことを知らせる書状である。大學とは忠脩の次弟、後の豊前小倉藩主となる忠眞であり、傷を負ったものの(命に)別儀なく大手柄を挙げたというものである。お寺で養生しているのであろう、これを見舞うように指示している。この時期忠利は小倉から全軍を率い出陣するが、忠興からの報告により戦いの終わったことを知り軍を撤する。忠興のこの書状の通り、自らは上京して家康に謁して賀を述べている。
当時忠利30歳、千代姫19歳、結婚して六年後のことであり、千代姫にとっては深い悲しみの年である。
小笠原秀政 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E7%A7%80%E6%94%BF
スカイツリーがいよいよオープンしたようだ。(祝・祝・祝・・・)
その高さが634m、熊本市のシンボル金峰山が標高665mだからほぼ同じ高さだということに成る。
夜景は見たことがないが、頂上から眺める景色はなかなかである。其の景色を紹介しているサイトはないかとぐぐって見たら・・あった。
http://view.adam.ne.jp/setoy/pic/kyusyu/kinpo.html
http://yakei.jp/db/summary.cgi?row1=kinbozan
高いところからの景色、特に夜景はどこでも綺麗なものですね~ (残念ながら四方全部は見えませんけど・・・)
ちなみにそれぞれのサイトのアドレスにあるように、金峰山は「きんぽうざん」「きんぼうざん」とどちらが正式な呼び方なのか、熊本人もよく判りません。
日本を「にほん」「にっぽん」と呼ぶが如しでしょう。
我が家の遠祖は磯部氏である。
磯部氏についてはなかなか史料が見えず、それでも最近ではウイキペディアに於いて紹介されるようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%83%A8%E6%B0%8F
我が家の遠祖は毛利氏に仕えていたが牢人し、下松三尾という処に牢居、江戸・京都へ上下される三齋公が休息の為に度々訪れられ、息子である我が家の初代兄弟が豊前へ召しだされた。二代目が母方の苗字をついで今の姓になったと先祖附にある。
ウイキペディアに安芸国磯部氏が紹介されているが、これに連なると考えられるのだが・・・・・・つながりは不明である。
一方我が家には伊勢神宮に係る磯部の末という口伝がある。
安芸国磯部氏の出自をたどると上野国に至る。その一宮である貫前神社は「 創建は安閑天皇元年(531年)3月15日、鷺宮(現在の安中市)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。」(ウイキペディアより引用)
先祖附にある周防下松の出身であるという記述を頼りに、自分なりにいろいろ調べてきたのだが努力不足でまったく解明できていない。
そんな中今般周南市(下松市のお隣)にお住まいでクリニックを経営されるS様から、磯部氏に係る色々な史料をお送りいただいた。
残念ながら当家に直接つながる史料は得られなかったものの、大変貴重な史料をお送り頂き、ただただ感謝申し上げる。
下松の磯部氏は、江戸期を通じ製塩業をいとなみ膨大な富を得たようである。このことについては過去、私もいささかの勉強はしたが、「富」などとはまったく縁遠い私としては夢物語の世界である。S様からお送りいただいた史料によると、下松の磯部氏は日向の土持氏の家臣であり土持氏を室としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%8C%81%E6%B0%8F
これらの史料から何とか遠祖・磯部に近づきたいものと思いを新たにしている。
元和元年五月七日書状案
昨日六日ニ大坂飯守之下ニて大和口へ人數六七萬出候處ニ 藤堂手前にて合戦候而敵數多
討捕候 伊井掃部手・本田美濃手にて合戦候而首數多上り候 大坂ニ而物頭果候衆 木村 井伊直孝・本多忠政
長門・後藤又兵衛・鈴木田隼人にて候事 木村重成・後藤基次・薄田兼相
一 今日七日午之刻ニ大坂江少シ御寄被成候處ニ 茶磨山より岡山迄取續六七萬も可在之候 此方
之人數を立 自是ひゝ物無理ニ合戦を懸候處ニ及一戦候 數刻相支申候 半分ハ此方へ半
分ハ大坂江勝申候へ共此方之御人數之段數多ニ付御勝被成不残相果候 度々之せり合中
/\推量之外ニ候 本田雲州も討死小笠原兵部殿も手を負候 是ニ而推量可在之候 我等 本多忠朝 小笠原秀政
事先書ニ申入候様ニ鉄炮頭三人其外小性計にて大坂へ参相合戦候事
一 鑓つき候者 一番七介 二番縫殿・佐藤傳右衛門・藪三左衛門・佐方與左衛門・吉住半四郎・ 清田石見
續孫介 右之鑓寄候衆之者崩ニ成候處ニ七介・縫殿両人馬を入きらせ候事
一 又其後大崩ニ成候處ニ松井右近一人取テ返し候處ニ酒井左衛門も披見候 左衛門小性も
右近と返シ中程迯又右近側へ返しつる筈を取候刻右近甲首取候事
一 七介儀鑓之鋒を突曲申候 傳右衛門も二本之鑓之鋒をつき曲申候
一 首貮ツ亀介 首貮ツ主水 首壹つ賀賀山半兵衛 首壹つ朽木與五郎 首貮つ主水内之者共取
候事
一 大坂御城御天守今日申ノ刻ニ火かゝり不残御果候 一時之内ニ天下泰平ニ成候事
一 此状之内被見候而草臥さる飛脚ニ持せ豊前へ下し可被申候 取紛書状書兼申候 以上
五月七日 越中守忠興
内記殿
又申候我等小性共迄物ニ相候事申上候ヘハ大御所様御前へ被召出候 是にて仕合推量
可在之候
(大日本近世史料・細川家史料一 九六 p121~)
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大坂の陣の終わりをつげる一日の顛末である。忠興は三日に兵庫、五日に山崎に着き淀に於いて家康に対面している。
家康は忠興に対し側近に詰めるように下知している。以降書状案の通りであるが、著名な諸将が命を落としていく中、忠興配下の者は後世に名を残す
鑓働きをしている。秀頼・淀殿も命を落とし遂に豊臣家の命運もここに尽きたのである。
昨日午前10時から史談会の例会。今回は八代史談会会長の蓑田勝彦先生をお迎えして、「幕末期の熊本藩 横井小楠とその時代」という演目でお話を伺った。膨大な一級史料を読み解かれた上での、出典のはっきりしたいわゆる推論抜きのお話であるから大変説得力がある。
偶然のことだが私はここ一両日、横井小楠にかかわる書籍を数冊読んでいた。それは「酒失事件」や「士道忘却事件」、また「天道覚明論」などがどの様に取り扱われているのかを知りたいが為である。いずれもいささか逃げ腰で詳細には触れていない。偉大な思想家・横井小楠を語る上では、これらの事件について深く論評するのは憚られるのであろう。特に「天道覚明論」の取り扱いなどについては、九割以上の研究者達が小楠のものではないと切り捨てている。まったく根拠のないところであり、「第一人者の某氏がそういっている」などの話になると、もう本を伏せてしまいたくなる有様である。そんな中で一人、地元の堤克彦氏には「天道覚明論の成立に関する歴史的考察」という論考がある。このような優れた論考をベースに研究者は謙虚に「否」を論ずべきではないのか。
このことについて質問をさせていただいたが、まったく一級資料に乏しい事柄についてはコメントのしようがないというお立場であった。
私はこれがまさしく研究者としての真の姿ではないかと感じ入った。推論で構築したいろいろな発言は、誠に説得力を欠いていていて読者に感銘を与えることがない。真の小楠を知るためにも、真実を真実として書く勇気が必要であろう。
私にとっては誠に有意義な時間であった。感謝
此文肥前殿御母儀へ可被届候 已上
為見廻牧五介被上候 祝著候 我々事豊前一國豊後にて拾壹萬石
令拝領候 忝儀候 其方之儀も来春は可呼上候間可被得其意候
猶五助可申候 恐々謹言
越
(慶長五年)十一月廿八日 忠(花押)
内記殿
御返報 (大日本近世史料・細川家史料一 五 p6)
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忠興から忠利へ宛てた書状である。忠利はこの年の八月廿一日、秀忠より一字を拝領して忠辰と名乗り内記と称した。のち忠利とす。
慶長五年という年は、細川家にとっても忠利にとってもまさに激動の年であった。忠利はこのとき十五歳であり正月には証人として江戸に赴いた。父・忠興と長兄・忠隆、次兄・興秋は行動をともにして関原戦などで戦場を経巡り、一方母ガラシャは七月十七日大坂玉造の屋敷で石田三成手勢に襲撃されて自害した。また祖父・幽齋は田邊城に在ったがこれも三成が派遣した一万二千の軍勢に対峙して籠城を余儀なくされこれらの軍勢を引き付け、関原勝利を導いた。一方豊後の領地においては大友勢の襲撃を受けたが、重臣・松井康之・有吉四郎右衛門以下がよく戦い勝利した。これらの戦功に対して細川家は豊前に領地を賜ることになった。
この書状で特筆すべき事は、「此文肥前殿御母儀へ可被届候」という一文である。
肥前殿御母とは前田利長の母つまり利家室・芳春院のことである。すなわち忠興の嫡男・忠隆の室・千世姫の生母である。この時期芳春院も前田家の証人として江戸に在った。忠隆にかわり早々に芳春院に、豊前入国の慶びを伝えるように申し送ったものである。ガラシャ夫人の生害に際しては、忠隆室がともに行動しなかったことをに対し、忠興が不快を示しこれが原因と成り忠隆廃嫡へとつながっていく。のち将軍家康は、前田家と細川家が遠戚関係にあることを警戒し、離縁をせまりこの後の一時期両家の交流も途絶えることとなる。まだこの時期はそのような気配が伺えない書状の内容である。
KKT開局30周年記念としてダイワハウス・スペシャル「花も花なれ人も人なれ~細川ガラシャ夫人の真実~」が放映される。
残念ながら余り告知が為されていないようで、私も ブログ「徒然なかはなし」 を拝見して知ったところである。
ポスターもあるようだが、こちらは同ブログの5・17を御覧頂きたい。
http://blog.goo.ne.jp/np4626/
5月26日(土)午後1時30分~ KKT 放送
6月02日(土)午後4時00分~ BS日テレ 放送
ナビゲーターを細川佳代子夫人が担当され、ナレーターは大河ドラマでガラシャ夫人を演じたミムラさんが努められるようだ。
佳代子夫人のブログ http://blog.livedoor.jp/kayokohosokawa/ を拝見すると、来年はガラシャ夫人の生誕450年とある。
まさに時を得た企画である。
熊本市の東隣に位置する益城町は、一時期熊本市との合併論議があったが住民の意思を以てこれにNOの答えを出した。
そんな益城町には多くの寸志侍の存在がある。其の出自を尋ねると大変興味深いものがあるが、益城町史からそのリストを御紹介する。
■古閑
・坂沢家 ・福岡家 ・良峯家、安藤家
■広崎
・永田家 ・富永家 ・吉田家
■福富
・福島家 ・永井家
■惣領
・荒牧家 ・川崎家 ・末武家 ・吉村次作 ・庄屋清九郎
■馬水
・緒方家
■安永
・守住家 ・石原家 ・橋本家 ・伊等家 ・飯田家 ・山川家
■平田
・小堀家 ・箕田家 ・原田家 ・津川家 ・松永家
■福原
・伊藤家、井芹家 ・後藤家 ・(針峯の先祖記念碑) ・山内家 ・九鬼家 ・安尾家 ・安田家 ・河添家 ・吉山家 ・米村家 ・宮田家 ・守田家
・園山家 ・福島家 ・中村家 ・宇佐川家 ・山陳の宇佐川家 ・原田家
■田原・寺中
・水村家 ・坂本家 ・今村家 ・福本家 ・山田家 ・高濱家
■津森下陳・上陳
・下田家 ・水村家 ・嶋田家 ・塩山・永島家 ・永田家 ・馬場、福永家(上陳) ・陳家 ・中村家(啓一) ・中村家(儀平太) ・田島家
■小谷・杉堂
・青木家 ・富永家(橘郎) ・富永家(嘉一郎) ・富永家(清庵) ・津田家 ・結島又三郎 ・吉本家 ・矢島家 ・大西家
■上砥川
・西園寺家 ・有馬家(平左衛門) ・有馬家(繁左衛門) ・中村家 ・永瀬家
■小池
・猿渡家 ・吉田家 ・北村家 ・福田家 ・芦原家 ・岩崎家 ・坂本家 ・森川家 ・津田家 ・田口家 ・永田家 ・永村家 ・宮本家 ・江島家
・原口家、富田家
■東無田
・宮崎家 ・米村家 ・坂田家 ・福永家 ・衛藤家 ・大賀家
■櫛島
・中島吉右衛門 ・中嶋要七 ・中島幾七 ・守嶋家 ・谷家 ・三村家
■下砥川
・中林家 ・美濃部家 ・冨田家 ・豊田梶右衛門 ・豊田仙右衛門 ・豊田新九郎 ・倉本家 ・源四郎 ・冨田恒彦 ・冨田茂兵衛 ・半兵衛
・久我家 ・坂井家 ・山下家
■木山
・松田家 ・富岡家 ・中川家 ・矢田家 ・角田家 ・田中家 ・吉田家 ・重村後福永家(清左衛門正明) ・福島範正(弥一郎) ・山村孫兵衛
・藤岡孫兵衛 ・富島善作 ・西田家(木山町村) ・木村家 ・都山円助 ・津山家 ・藤岡家 ・緒方清五郎
以上 134家 (完)
大日本近世資料・細川家史料三を読んでいたら、忠利宛三齋の書状(807)に次のような一行があった。
日付は寛永七年四月十七日である。
一、藤十郎妹谷蔵人へ被申合由 親子共可為大慶事
藤十郎とは、細川藤孝(幽齋)の末弟・三渕好重の子宗由(山名・長岡)のことである。長岡右馬助(三渕家初代)の四弟である。妹とあるのは幾久姫であり、これが谷衛友の五男・蔵人衛長に嫁いだことを慶んでいる。(その日時が確認できたのがうれしい)
細川家と谷家の係りは大変深いものがある。衛友亡き後の相続問題にも細川家は深く係っているが、残念ながらこのことについての結果は忠興の意に沿うものとはならなかった。 このことについては、かつて書いた 丹波山家藩・谷家の跡目騒動 で御覧頂きたい。
衛友(寛永四年没)の没後の谷家に関する忠興の思いは複雑であったようだが、この慶事についてはいっぱいの慶びを顕している。