津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■足

2017-10-22 16:34:12 | 徒然

 二年ほど前、自分の車を廃車し、今年一月の免許更新にあたっては大いに悩んだ挙句、高齢者講習を慌てて受けて免許を更新した。
運転技術についてはお褒めをいただいたが、その後全く運転していない。免許書は身分証明書代わりとなり果ている。

東京吉祥寺での85歳のご老人の暴走事故などを見るにつけ、私自身はもう免許更新も次は止めにしようと思っている。
加害者の方は元弁護士だというが、日頃の足として欠かせないものであったのだろうが、85歳の運転は及びもつかない。
又、二所ノ関親方が自転車で転倒、命には別条ないとの事だが、原因は承知しないもののこの事故も他人事とは思えない。
自転車はある程度スピードがでないと、ハンドルがふらついてひっくり返る。
最近の私がそうで、いつも後ろからやってくる自転車に追い越されて悔しい想いをしている。
車がないから自転車が手っ取り早い私の「足」なのだが、そろそろ電動アシスト付にしなければならないと思っている。

史談会の出席はもっぱら公共交通機関を利用しているが、ショルダーで重い荷物を運ぶのもつらくなってきて、リュツクを購入しようと物色中である。
是だと両手がフリーで安全だろうとの思いがある。齢を重ねると、こんな余計なことが現実としてまとわりつき、難儀なことと思うが受け入れざるを得ない。
昨日の史談会では二時間ばかり立ち通しだったので、一日たった今日も両足の膝の裏側が痛くて仕方がなく、我身体ながら情けなくてしょうがない。
交通手段としての足もさることながら、我健康のための足も少々鍛えなおすことを考えなければならない。

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■ひい・ひい・ひいじい様

2017-10-22 14:43:53 | 徒然

 某家(J家)の先祖附を読んでいる。一般的には三代目とか四代目の方が書き始めているから、初代高祖父「何の何某」、二代曽祖父「何の何某」という風に書いていく。処がこのお宅の先祖附には二代続けて「高祖父」があった。
明らかに間違いであるのだが、尊属においては四代しか公式表記がないから、高祖父の父親は表記の仕様がない。「高祖父の父」と書かなければなるまい。じい(祖父)様、ひいじい(曾祖父)様という俗な言い方からすると、「高祖父の父」は「ひい・ひい・ひいじい様」とでもいうのだろうが、まさか先祖附にそんな書き方もなるまい。

八代を経て明治に至っておられるお宅だが、初代を「高祖父」としておられ、その「父(高祖父とある)」が居られるから都合九代の事績が明らかである。菊池一族につながるお宅だと思われるが、資料に残るJ家の系図に行きつかないのが悔しい。

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■杉塘の桜

2017-10-21 14:29:35 | 歴史

 冨田紘一氏著「古写真に探る・熊本城と城下町」から引用させていただいた。二の丸御屋形の北西角から360℃のパノラマで撮影された7枚のうちの1枚である。
蛇行する井芹川に橋が見えるが「熊本城下古図」を見ると「ドバシ」と書き込まれている。
京町の観音坂から本妙寺田畑の中を通る「清正公道」がこの橋につながり、牧崎村に達している。
牧崎村には細川内膳家の屋敷があるが、この写真の左手先に長い塀に囲まれたそれらしい建物が見えている。(写真57)
内膳家はもともとは二の丸にあったが、本山に新しい屋敷を作った齊茲が、数年後この地に新たに屋敷を構えるために内膳家は移転を余儀なくされた。
齊茲は11人の子供があるが殆どが逆縁で亡くなっている。最後の子供が「耈(こう)姫」である。
年を経ての子供だけに齊茲の可愛がり様は察するに余りある。
かわいい姿は絵師や齊茲自身の筆により書き残されており、その可愛さにはほっこりさせられる。
顔つきが齊茲の実父・宇土藩主の細川興文によく似ていると齊茲が驚いている。

「熊本城下古図」には、この杉塘の杉並木に桜が植えこまれてることを記している。
耈姫様も新しい二の丸屋敷から、この杉塘の桜を眼下にされたことであろう。
ちょうどその時期、桜を倒す不届き物があったらしく、度支彙函には「文政八年四月八日陣橋より牧崎迄桜倒犯人とりしまりを在御家人及村人へ申付」とある。
文政九年耈姫はわずか四歳で亡くなった。

井芹川の流路が変わり、市電の開通に伴い道路状況はすっかりかわり、現在「杉塘」の名は市電(路面電車)の停車場にその名残をとどめるばかりである。

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■度支彙凾(13)

2017-10-20 07:03:27 | 史料

 五七
 御倹約年延被仰出候付ては別紙書附相渡候通候、御勝手向之儀御危キ程之事候處、當年ニ至ては御當前御難澁
 は薄相成候間御家中へも少々宛ハ御心も可被附處、何分其儀出來兼候、乍然近年御手當等委ク被仰付置候付て
 は、勿論兼て覺悟は相整居候事ニ候得共、何角と以外之費用も可有之、彼是聊之儀ニ候得共別紙之通御米被下
 置旨被仰出候條、此段組々支配方へも可被申聞候、以上
[付札]「本文拝領米之儀寸志之満々ヘハ不被下置候事」
   十二月
 一貮百俵  三萬石取   一百俵宛   萬石以上
 一五拾俵宛 三千石以上  一貮拾五俵宛 二千石以上
 一拾五俵宛 千石以上   一拾俵宛   五百石以上
 一七俵宛  二百石以上  一五俵宛   二百石以下
 一三俵宛  御中小姓   一六斗宛   歩御使番獨禮
 一四斗宛  歩御役人段  一三斗宛   御側足軽格
 一貮斗八升 足軽段    一貮斗宛   無苗
   以上

 五八
 御倹約中心得方之儀付ては丑十二月及達候通ニて、衣服飲食等之事節度をも被立置候處、漸々相弛質素之風俗移
 兼候所より、間には武器之嗜も薄相聞、其上御難題等申出候族も有之、折角之御旨趣難相立事ニ付、此節は皆共ニ
 おゐても各別申談候趣有之候條、頭々は不及申同列・伍列・親類等申談御達之趣相届候様可被致候、然處丑年及
 達置候ヶ條之内、公私共祝事之節々之儀は是迄之通ニて候、一統永ク難被行相見候付、此節斟酌被仰付左之通
一公私共總て祝事之節々、當日迄高下之無差別相應ニ祝酒を出し、肴之品數惣て六種を限彌以分限ニ應し質素ニ相
 心得、酒宴等長し不申様、右は御弛と申意味ニては無之、一統守り易長ク被行候を主ニ被仰付候御趣旨ニて、堅増
 長を被制候ニ付、此上聊之品持合たり共數を相増候儀決て有之間敷候、尤兼々不勝手二て拝借等有之輩及小身之
 面々輕輩は不及申、右より如何様ニも内輪ニ致候儀は彌以丑年及達置候通可被相心得候、右之趣ニ相違有之候ハヽ
 被仰付筋も有之筈ニ候
一衣服之儀堅御制度を守、成丈ヶ質素ニ可被相心得儀勿論之事ニ候、御制度之趣は追々御沙汰ニ相成居候儀ニは候
 得共、年久敷候ニ付若氣取違之輩も可有之哉、追て猶又書付相渡筈候條、其内之儀は是迄之通彌以違背無之様家
 内末々迄も堅可被申付候、尤右両條之趣付ては來春より改の役方をも被指出、貴賤之無差別厳重ニ相糺せ候筈ニ
 付、此段も被承置組々支配方へも精々可被申聞候、以上
   十二月

 五九
  文化六年巳正月御達
一近年御家中手取米被減候ニ付、一統積合難澁ニも可有之と格別の趣を以拝領等被仰附候處、諸間之御銀一ヶ所も
 無残所拝借有之、無手取程之面々多、却て難澁相増候様子ニ相聞、右ニ付ては時々元分ハ疊置利分迄御引立等之申
 立有之、諸間及難澁何共不取■(扌偏に乄=締)事候得共、其分ニも難被指置、其上近年従公義魯齊亞打拂之儀被仰出候ニ付、
 御手當一際委敷被仰付候砌、無手取程之面々多、勿論御手當筋は兼て相整居候儀ニは候得共、萬一届兼事等有之  
 候てハ難相済候間、御手當之面々拝借御取立一順は被弛下候得共、猶又今度格別の御僉議を以一統下地究御取立、
 壹石五斗之外諸拝借等利分ハ利無ニ被仰付、其外諸品代等ニ至迄手取米ニ係り候分は一切當暮より猶壹石五斗之
 利無年賦ニ被仰付、下地究御取立を合、高三百石ニ三石宛之御取立被仰付候、尤御咎ニより手取被召上、又は御
 赦免開徳米等上納を以之拝借は別段之事候、猶又御中小姓以下御切米取拝借は去ル亥年悉皆被捨下候ニ付、此節
 利無年賦等ニは不被仰付筈ニ候得共、是又格別之筋を以拾石高ニ五斗宛之利無年賦御取立被仰付候、右之通結構
 被仰付候上ハ彌以倹約を用イ、御手當筋用意之儀は勿論勝手向不及困迫様被相心得、頭々支配方よりも精々心を
 可被附候、畢竟拝借等は御家中一統繰合之便利ニも為可相成被仰付置候處、其末前文之通却て難澁ニ相成候ニ付、
 以來は別紙之外之拝借は決て難被叶候、萬一心得違之願等有之候ハヽ、其程次第ニハ被仰付筋も可有之候條、
 此段可及達旨御用番被申聞候間、左様御心得、已下例文
   正月十五日         御勘定方御奉行中
[付札]「本行御取立之儀、拝借少面々は勿論是迄より多御取立は不被仰付候、且又江戸内才覺借用之面々有之
此稜ハ銀主有之事候得共、先本文壹石五斗宛之内を以取引被仰付、追て模様次第猶又及達可被申候、其外地子
添屋敷或ハ地子銀等御取立ハ別段之事」

 六〇
一非常之節殊
一在宅引出料、其外従前々相究居候先取之事
一御役ニより被究置候家居建継料之事
一旅人往還筋之塀・長屋等及大破候節之事
一従類大勢ニて被及飢候程之面々、従類之人數應し御救米可被下事
一御救米被願出候程之面々、不慮之物入等之節之事
右之類は被願出候ハヽ可被及御僉議候、尤右稜々之内たり共先取又は拝借等、向々御時節柄之儀ニ付、是迄究拝借等
之類たり共可成は御難題薄キ様可被有御心得候、依て願書取継被相達候節、組支配頭より精々可被承置候、萬一心得
違之儀有之候ハヽ、其身は勿論頭々不行届之沙汰ニも可相成候條可被入御念、此段も可及達旨候事
  正月

         (度支彙函 寛政より文化迄節倹號令  了)
 

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■度支彙凾(12)

2017-10-19 08:29:40 | 熊本地震

 五四
 今度稠敷御倹約被仰付候付ては、萬端御省略を以聊之事たり共成丈ヶ御出方減候儀肝要之事ニ付、所々御役間御
 用紙仕方之儀も猶又手を詰、其心得無之候ては難相済、此節一統減方をも可被仰付哉之處、根元下地被減置候上
 之事ニ付、左様ては彌増難澁可相成哉ニ付及僉義、是迄記録前引越渡ニ相成居候分ハ、渡切之儘ニ乄悉皆捨りニ
 被仰付候、左候て以來は政府を初所々御役間共、切延紙品下被仰付候ニ付、左之通
 一切延紙壹束 内五帖薄墨紙六帖ト五枚被渡下候
 一小紙壹束 内三帖三合場形紙三帖三合被渡下候
 右之當りを以品下ニ相成候、彌以勘辨を用仕方相成候様、扨亦引越渡分は別段を以被捨下候事ニ付、以後引越
 等之儀ハ難叶候得共、前文之通下地減居候ニ付、薄墨紙之員數相増位ニては仕合せ猶及不足候御役間も可有之  
 哉、然共稠敷御倹約之折節ニ付、既ニ江戸表は御次向を初紙品下ニ相成候段も申來候、此御地之儀は右之通被仰
 付候間、随分省略有之儀は申迄も無之候得共、夫込御用差支候様有之候ては勿論難相済、是非左様之御役間も有
 之候ハヽ、其子細追て委敷被相達候ハヽ、猶僉義之筋も可有之哉、且右之通紙品下付ては、御奉行所諸達重キ御
 用筋は今迄之通切延巻を用、其外諸達筋は一切薄墨紙相用イ、諸帳面之儀も成丈ヶ不苦分ハ追々場形紙仕直候様
 及達候、仍て所々御役間も右ニ准、薄墨紙重々仕方有之候様及達候條、左様御心得可有其御達候、以上
   寅四月十四日               御勘定方御奉行中

 五五
 文化四年卯八月御達
 御勝手向之儀、何レも承知之通近十年非常之御物入打續、其上米直段は下直ニて金直段は高直ニ有之、御先々
 代様御時分被定置候御積帳よりは甚以御勘定悪ク、彼是御借物高莫大ニ相増候間、稠敷御倹約をも追々被仰付候
 得共御立行出來兼、左候得は致方も無之、御借物一件ニ格別御仕法付不申候ては所詮難相済相見候得共、大坂表
 御蔵元之取計居たし候長田作兵衛と申者初御用達共連年御才覺筋致出精、其上町家は貨殖を以産業相續之者候
 處、其産ニ障候所も心痛至極之事有之、且又御借物ニ手を入候時ハ銀談之口塞、差寄之御手支ニ相成、殊ニ臨時
 之御物入有之節御危、彼是を以是迄種々様々と致御押移ニ相成候處、又ハ去春之御類焼跡御作事諸事質素ニ被仰
 付候得共、何分大造之事ニ候得は餘計之御物入有之、是又御借物相成最早差詰候段ニ相成、しかし前文ニ申達候
 通、御借物ニ御手を被入候得ハ他ニ迷惑を懸候所不容易事ニ付、御難澁之有姿委クしらへ誠實を以長田作兵衛へ
 打懸、了簡を乞候ハヽ、數代御懇意之者と申、當作兵衛儀大禄も被下置各別厚被仰付候儀ニ付、此御艱難を致
 得心候ハヽ何とそ工面を付ヶ、此方様も可有之と重疊及頼談候處、作兵衛及手代用助と申者指寄御當前之御定用、
 幷熟議ニ相成居候江戸御作事御入目も難及力段申立、増て往々之御立行ニ至候ては當惑至極之筋のみ申募、御領
 内士民之御撫育も出來不申、第一は遠からす御公務も不為出來場ニ相成可申相見、不得止作兵衛ヘハ御借物元
 利共御手當出來迄御拂入被及御断、御蔵元之儀取計來候得共以來夫ニ不及段申達、手代要助儀は御屋敷御出入被
 指留、被下置候御扶持方被召上、被為拝領置き候御紋附之御品々着用難叶段申渡候、其餘之御用達共ハ作兵衛とハ
 譯違候得共、是又五ヶ年之間御借物元利御拂入御断ニ相成候、尤御當家え之忠志不相變輩は子孫迄も御疎意有之
 間敷旨及達候、右之通ニ相成候ヘハ追ては御勝手繰御難澁可相成候得共、銀主/\之口塞り候故御當分之所至
 て御六ヶ敷事候得共、其所ハ御押移之儀精々申談候事ニ候處、甚以致心配候は非常之御物入有之候節之取計ニ
 候、此儀も來ル未年ニ至候ハヽ可也ニ取崩候心組ニ候得共、明年・明後年之内ニも起り候得は、御自力計ニては
 御手ニ難被及候、其節一両年之所は猶又御家中手取をも不被減候ては御凌方付不申候、しかし色々計儀を凝シ居
 候間、其儀ニ不及事も可有之哉ニ候へ共、為用心豫申達置候間、御役付之面々は御出方筋ニ彌以消滅を用、一統
 其身/\之暮方も精々勘辨を用候様、組支配方えも屹ト無可被申聞置候、以上
   文化四ウ九月

  五六
  文化五年辰十二月御達
一御勝手向之儀、近十年非常之御物入等相續御難澁至極ニ相成候ニ付、去ル寅年より當辰年迄稠敷御倹約被仰出
 御出方筋ハ疊直をも被仰付候付ては丑十二月委細及達候通有之、其外種々之御仕法を被附候處、右等之験有之、
 當年ニ至候ては先御當前之御難澁は薄相成候、然共全躰之御積合至候て御六ヶ敷、此上萬一非常之御出方等有之ニ
 おいてハ又々以前之通之御難澁ニ可相成、左候ては御公務も被指支、御家中之御扶助御國中之御撫育も思召ニ難
 被任事ニ付、何分御倹約難被弛、猶又來年巳年より三ヶ年之間、今辰年迄之通之御倹約年限被仰付旨被仰出候條、
 此段組々支配方へも可被申聞候、以上
   十二月
 

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■妙解寺周辺

2017-10-19 07:06:03 | 地図散歩

 細川家の菩提寺「妙解寺」周辺の古図である。先般の熊本大地震で妙解寺も大被害を受けているようだ。
入口の石橋が落ち、御廟前に並ぶ家臣が建立した数十基の石碑も倒れていると聞く。忠利公ご夫妻と光尚公の御霊屋がどうなっているのか、その他代々の藩主のお墓は倒れていないのか、全容は明らかにされていない。
この絵図は何度か手を加えながら嘉永二年に完成したといわれる。往時をしのびながら、現在の地図と見比べているが大変興味深い。

 先にご紹介した「筒口御屋敷」が右端中央に見えている。この図でみると妙解寺はすぐ近くである。
右下に「高麗門」がみえ、そこから妙解寺に向けて「御成り道」が見えている。
妙解寺前の川は当時の「井芹川」流路が変更されて今では相当部分が埋め立てられ細い流れが残されている。
御成り道は延長されて「一駄橋」から春日方面へとつながった。現在では熊本駅春日口周辺の賑わいへと繋がっていることになる。
忠利公を荼毘に付した「春日寺」や、綱利公の嫡男・與一郎、二男・吉利の生母のお墓がある妙立寺、又護久公の生母・田鶴のお墓がある瀬西福寺も至近の距離であることも興味深い。(側室は細川家墓地に埋葬されることはない)
21日の史談会では1.8×2.0mの古図を広げて地図散歩をすることにしている。

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■閑話休題「度支彙凾」から

2017-10-18 12:36:16 | 徒然

                         藩法集 7 熊本藩

 現在ご紹介している「度支彙凾(たくしいかん)」を始めたころから、閲覧数が急上昇したことに気づいた。
読んでいただいている方々の数が増えたということが信じられない気がするのだが、興味が御有りになるということだろう。
この内容は「藩法集・7・熊本藩」にある、「十二・寛延より文化迄 節儉號令」をご紹介しているもので、(13)で一応終了の予定である。
読んでいると、「御勝手向御危難」「御勝手向省略」「御倹約」「省減」等などの文言がしょっちゅう登場し、藩の財政が壊滅的な状況の中にあることが判る。
宝暦の改革でいったん持ち直したかに見えた藩財政は、幕府の諸々普請の「御手伝」や、連年の天候不振による作毛の不作、大洪水、重賢公夫人実家の火災・再建(40,000両)などで一気に破綻した。

これまでの大坂商人からの」膨大な借り入れに対して元利返済をしないことに対し、新たな融資はストップする。
ただただ「倹約」しかない状況が延々と綴られている。政府は全く無策である。
こんな内容にタイピングをしていても鬱陶しくなるのだが、いまさら撤退も出来ずに頑張っている。
この「度支彙凾」の記事は「一〇三二」まで続いている。(13)の終了時点で「六〇」だからまだ僅か6%ほどである。

ちょっと一息入れさせていただこうと思っている。

 

 

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■度支彙凾(11)

2017-10-18 06:41:18 | 史料

 五〇
 御勝手向御難澁ニ付て今度稠敷御倹約被仰出、右付ては御家中末々迄も其身/\之倹約稠敷無之候てハ上之御主
 意致齟齬候間、別紙之通及御沙汰候、此旨堅被相守儀は勿論ニ候、且又追々承知之通之御勝手向ニ候へは、是迄
 之手取米等被渡下候儀御難澁有之候間、御心附等は纔(ワズカ)たり共難相成儀ニ候得共、此節御沙汰之一件往々は屹ト御
 家中勝手之為ニ可相成候得共、倹約筋を申候ても、事之改り目ニは却て少々は出方之筋も可有之候處、當暮米價
 下落付ては別て差支候輩多、殘米等も無之程之族も可有之哉相聞、彼是奉入御内聴候處、御勝手繰之儀當分は聊
 たり共御心附は難取計可有之候得共、此砌之儀は各別之事ニ付、いか様とそ差繰を以少々ニても心付遣候様ニと
 被仰付越候ニ付、重疊申談、御難澁至極之御中乍ラ別紙書付之通拝領米被仰付、來三月・五月両度ニ被渡下候筈
 ニ候、尤少分之事ニ付差て勝手之為ニも相成間敷候得共、右之通之思召ニて被下置候間其旨被相心得、彌以倹
 約之儀御達筋通屹相守、猶も内場ニいたし候儀は銘々之勝手次第ニ候條、御倹約年限中ニ成丈ヶ勝手向取直候
 様、組々支配方へも可被相達候、以上
一百三拾俵宛萬石以上  一七十俵宛三千石より六千石迄
一三拾五俵宛貮千石以上 一拾七俵宛千石以上
一拾貮俵宛五百石以上  一九俵宛貮百石以上
一七俵宛三拾石以上   一四俵宛御中小姓
  旅詰四斗            旅貮斗七升
一六斗宛御側足輕同格  一貮斗八升宛外様足輕同格
     右同貮斗            右同壹斗九升
一貮斗宛 無苗
   右同壹升三升(ママ)
 御役付之面々手取之儀是迄高之究有之事ニ候處、已來は役高限役付手取被渡下、相殘御知行高は無役手取被渡下
 筈ニ候、尤今迄勤懸り之輩は是迄之通ニて、此以後新ニ御役被仰付候面々文之通ニ候、且又、依勤功御役高之
 外ニ御足高被下置候分は役付手取被渡下候條、被得其意組支配方えも可被達候、以上
   丑十二月

 五一
 當寅年より三ヶ年稠敷御倹約被仰出、右年限中ハ御出方筋一切御畳置被仰付候付ては一統及達候通候、依之川尻・
 鶴崎御作事所取計之筋之儀、御船々ハ危儀有之候てハ難相済、其手入は無油断申談、屋形其外上廻り之儀乗前之安
 危ニ係ヲさる処ハ不見分位之儀は御手入惣て疊置候様、且陸方御作事漏留之外惣て疊置、尤御外聞ニかかり候所
 又ハ不■(扌偏に乄=締)或危ヶ所/\精々見分之上達出有之候様、両所御作事頭え被及達、其様子ニより得斗僉議之上可被相伺候
一右之通付ては杣取之儀も望無之筈ニ付、杣方も御疊置被仰付候、萬一無據筋も有之杣取望不申候て難叶儀有之候
 ハヽ、委細達出有之候様、其上及僉義可被相伺候、右之趣可被達候、以上
   寅正月

 五二
 近年御勝手向御難澁至極相成、既ニ御六ヶ敷場ニ至り可申處、去ル亥年御取之儀被仰出、御側え差上候御銀を
 初上々様御分料をも被減、御家中は手取米省減ニ相成、御郡中は受免ニて上米仕せ、町家えは調達銀も有之、江
 戸・大坂を初御借物ニも御仕法を被附候間、御公務・御私用共可也ニ被押移候、然處右之通ニても年々御積合餘計
 之御不足を抱へ當惑之至ニ候、尤御當座之事は御才覺彼是差繰候得共、夫ニては御立直ニ相成候期不相見、自然
 其内不意之御出方等も有之御操合悪敷事等有之候へハ、又ハ亥年以前之通之御難澁可相成哉も難測奉恐入候、然
 處右之趣被為聞召上猶又各別之御倹約被仰出候、依之於御勝手放重疊及評議候得共、前文之通御仕法筋は亥年手
 段を被盡置候間、急ニ是と申候て御勝手向之御甘ニ相成候筋も見兼行當候事ニ候、此上は下地御省略仕詰ニ相成
 居候上之儀ニは有之候得共、今一入諸向御出方を減取計候外有之間敷と、明和・安永之比と近年之様子精々しら 
 へ御出方高を立合候處、何方も莫大之増方ニ相成候、此儀御役方之越度ニては無之、明和・安永比とハ世間一般
 之振合も違、且諸色之直段等も引上誠ニ不得止儀多相見候間、明和・安永之通之御出方取計候様及沙汰候迚被行
 候儀とも不相見、其上御省略ニは相成候ても不都合之儀は難致通用事ニ候、然共此度被仰付候筋も有之、且往々
 難奉安心御勝手向之儀ニ付、可相成丈之儀は是迄之仕來ニ不拘、各別之御差略を以御倹約筋取計不申候ては難相
 成事ニ候、委細は一統及達候通候條、一手/\之御役方精魂を砕候ハヽ案外之御省略可致出來候間、御為合之儀
 晝夜心懸力を盡心を合申談、聊之事たり共上ハ役え可申達候、若又其事柄次第ニハ御勝手方上聞大御奉行・御勘
 定方御奉行、封印を以直達いたし候も不苦候
一此節より御出方減ニ相成候分は、何某取計又は存寄ニて是迄何程之御出方之處何程減方相成候と申儀迄も委ク書
 記、一ヶ年/\之事翌正月中ニ帳面を以御勘定方御奉行へ可被相達候
一右取計付ては一己之家事を指置打掛り候程之輩も可有之、左様之族ハ暮ニ至勝手向猶又及差支候様成候儀も可
 有之哉、此等之事ハ上使より其段委細達出有之候ハヽ、稜目次第相應/\可被附御心候
一右取計之精粗は毎年/\上役より可被相達候、此節之儀故速ニ出精之規模相立候様御褒美可被仰付候事

 五三
 今度稠敷御倹約被仰出候ニ付、見聞之御役員も被減、其上近年見聞之御役多被差出候ニ付ては、何と歟仕手方之面
 々取計筋を疑候形有之、御役人ニ被任候躰薄候間、旁以御役間ニより御横目はまばらニ被差出候間、彌以諸事入
 念不圭角之事無之様、若又見聞之御役立會差略付て油断を生し、或ハ不潔白之儀等於有之は、是迄之御見合より
 ハ御咎筋重ク被仰付儀も可有之候條、此段可被御達置候、以上
   寅三月廿四日

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■度支彙凾(10)

2017-10-17 07:33:45 | 史料

 四九
  文化二年丑暮御達
 御省略年限之儀は當丑年迄ニて、一昨年以來は御側金幷上々様御分料を初、御家中手取米をも被減、江戸・大
 坂・御國之御借物も御仕法を被附、町在は上ヶ米銭被仰付候て御急迫之所は御凌ニ相成候、然共連年之御跡繰
 ニて御積前年々餘計之御不足を抱、其上一昨年關東筋川々御普請御用被為蒙仰候御上納金有之、其外無攄臨時之
 御出方差凌、今分ニ被押移候てハ近年之内ハ亥年以前之通之御難澁ニ可相成哉も難計、右之趣委細奉達尊聴候
 處、來寅年より辰年迄三ヶ年稠敷御倹約被仰付、右年限中は御出方筋一切疊置被仰付、譬ハ江戸御作事ハ表向御
 外聞ニも係り候損所は御繕被仰付、其外溜留計ニて新規之儀は少も構不申差置候様、右は一事ニて申候儀ニて、
 諸事此見渡ニて不依何事御出方筋一切疊置被仰付旨被仰出候、右付ては御不自由之儀も可被為在、一昨年以來ハ
 御側金も被減置候上、右之次第は重疊奉恐入候得共、御公務を初御家中之御扶助、萬民之御撫育被届兼候所を被思
 召上候て被仰出候御儀と誠以難有儀ニ付、御断申上候は猶以恐多何レも申談御受申上、夫々及其達申儀ニ候條、
 御役付之面々は別て其心得可有之儀は勿論之事ニ候條、一統之儀も手取米等被減置候付ては難澁之輩多可有之、分
 過之儀は可有之様も無之候得共、御國中一統上之御出方ニ係り候事ハ不及申、自分/\之心得方暮之仕法共右之
 御旨趣ニ齟齬不仕様可被相心得候、此段組々支配方へも精々可被申聞候、以上
  上にも御召物等御倹約年限中ハ御仕継不被遊、御客様も御断被遊候ニ付、御脇々様へも御宴會之節は御出不
  被遊候事
  若殿様へハ御馴被遊候ため有折御客様御出も被為有筈ソウル事
 來寅年より三ヶ年之間稠敷御倹約被仰付、御出方筋之儀一切御疊置被仰付候付ては別紙ニ委細申達候通候、右之
 御様子付ては御家中之面々上之御旨趣を奉窺、銘々倹約筋之儀格外ニ覺悟可有之儀勿論ニ候、其上大小身共當時
 之振合ニては被下置候禄ニて取賄得不申、拝借いたし上之御難題ニ不相成輩ハ無之程之事ニ成行候ニ付、旁以
 左之通
一上ニ懸り候祝事之節、歓ニ見候面々えは祝酒を出、肴等之取遣も有之事候處、右年限中ハ當日たり共熨斗迄を出、
 酒を出候儀可為無用、勿論肴等之取遣ハ身近親類たり共一切無用事
  但、新知・家督・御加増・且又御留守居大頭以上ニ被仰付候節、又は初て御目見之節は吸物取肴迄ニて酒を
  出し、勿論酒宴長不申様可被相心得候、肴等之取遣ハ是以可為無用事
一内祝之儀も右年限中は可為同前事
  但、婚禮・凶禮之儀は別段之事ニ候得共、是以規式之儀右年限中は格別省略可有之候、勿論右ニ付歓又は為
  弔儀取遣之儀は親類たり共無用之事
一餞別・土産之儀、右年限中は身近親類たり共可為無用事
一音信・贈答之儀可為無用、尤師家・醫師へ之附届は是迄之通可被相心得候
  但、交情難済相手交互ニ輕キ品等取遣ニ及候儀は今迄之通
一召連候供廻之儀、明和年中御倹約被仰出候節之通可被相心得候、右之節よりも猶減少有之候共不苦候、明和年中
 之振合被彼是斟酌を以、江戸御留守居以下は御役付無役共平日鑓を為持被申候面々、右年限中は鑓を為持不被申候
 共不苦、無役着座も右年限中鑓を為持不被申候儀勝手次第之事候、且又平日若黨一人・草履取一人召連被申面々
 は、右年限中草履取迄召連被申儀不苦候、年始・五節句等之供廻も各別取繕ニ不及候事
  但、出火之節出役之面々召連申候人數・挑灯數ハ別段之事
一御用談付て寄合之節ハ、辨當持参有之候共又は時刻次第茶漬を出し候共、相互ニ申談次第之事
一衣服之儀、寶暦五年被仰出置候御制度之通相守被申候上は子細無之事候得共、此節々御倹約付ては大小身之無差
 別、総て綿服相用候様ニも有之度候得共、左候てハ仕継等却て失墜之儀も可有之候ニ付、右年限中は成たけ仕継
 等無之持懸りニて相済候様、勿論不見分之儀は少も不苦候、輕輩末々は彌以御制度を堅相守いか程不見分有之候
 共不苦候事
一旅詰衣服之儀、各別御外聞ニ係り候儀は遠慮可有之候得共、品柄下品を用、又は古ヒ候位之儀は此砌相當之事ニ
 付、成たけ仕継等不仕様ニ有之度候事
一御紋附着用之儀、地旅共今迄之通可被相心得候事
一刀・脇差之拵、輕輩之内ニは美々敷目立候も有之候、用方ニ係り候儀は可相嗜儀勿論之事ニ候處、見分ニ懸り物
 敷寄いたし候儀は不都合之事ニ候、右年限中は凡て武器之類も身分相當之用差支候ハ各別、新規之拵物數寄等
 不致、其餘之道具は猶又可被用心事
 右之趣を以萬端倹約筋之儀可有覺悟候、所詮右年限中は上之御様子ニ應、銘々出方筋之儀も一切疊置ニ相心得不
 申候てハ難成事ニ付、精々其處勘辨可有之候
一此節稠敷御倹約被仰出候迚、諸事物静ニ被相心得ニは不及事ニ付、漁獵・遊藝等保養方之儀は物入無之儀は勿
 論、暮方之障りニ不相成程之儀ハ勝手次第之事ニて、女子之稽古事等も遠慮ニ不及候、尤慎方等之儀ハ兼て被仰
 出置候通可相守儀勿論之事ニ候、右之趣奉達尊聴申達候條被得其意、組々支配方えも可被申聞候、以上
  上々様えも御保養之御慰ニ相成候儀は、御分料之御操合次第御斟酌を以被遊候筈之事
  役付着座も御倹約中鑓を為持不被申候とも不被遊御構候様、此段為承知申達置候事
 

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■度支彙凾(9)

2017-10-16 09:35:01 | 史料

 四五
  文化元年子八月御達
 御勝手段々取■(扌偏に乄=締)ニ相成、何方も御出方筋を詰候事ニは候へ共、是迄相済來候事ニも譯を付御入目増ニ相成、
 或ハ御作事抔之事ハヶ様ニいたし候へハ、差寄ハ御出方増候へとも年數保方宜敷却て御益等之申立ニて、御出方
 多相成候儀有之、たとへハ表向是迄塀之所垣ニいたし候ても各別差支候儀無之様之所ハ、塀を垣ニいたし候ても、
 御出方減候儀ニ候ハヽ其趣ニ取計候様、將又御國益とと申候て元銭却て御損ニ相成候様なる事等取計不申候様、凡
 て之儀右之勾配ニ相心得候様との旨候間、可被得其意候、以上

 四六
 川尻御作事所御入目之儀、去ル子年以前十ケ年御入目撫を以受込料被究置候處、猶又翌丑年少々増方を以米百七
 拾石、銭拾三貫五百目被究置、惣ての御出方筋一式右を以御操合取計有之候様及達置候處、去辰年一統御省略付
 て右受込料半高減被仰付置候、然處右半方分ニてハ半分御取賄愛相済兼候付て、追々引越渡、不時増渡等役通を以
 受取方相成候分、當時ニ至候ては一ヶ年分之御出方、右丑年被究置候受込料高よりは却て餘計之増方ニ相成、右之
 通候てハ御入目際限も無之成行、當時各別之御省略被仰繰付置候御旨趣ニも戻り候事ニ付、此節及僉議是迄引越等
 ニ相成居候分ハ惣て渡捨被仰付、當十月よりハ右丑年被究置候受込料高引戻被仰付候條、左様御心得、此砌之事
 ニ付委細丑年及達置候趣を以精々手を詰、此上御出方相増不申、一ヶ年中之御取賄相済候様可有御取計候、此段
 附属之御役人中へも夫々可有其御達候、以上
   子十月六日        御勘定方御奉行中

 四七
 御家中之面々勝手支ニ付拝領願之儀付て、去春被仰出置候趣有之候處、非常之儀とハ難申候得共連々之跡繰ニて、
 至て困窮之輩ハ其分ニても難被閣事ニ付今度御僉議被仰付、代々相續御中小姓已上願之趣ニより候てハ、御銀之
 御手當不支節々は可被為拝借候間、至て困窮之面々有願出候ハヽ親類・五人組より精々手を詰、倹約省略之仕法
 等は願主之覺悟を究、ヶ様/\ニ致候間ヶ様ニ被仰付候ハヽ三ヶ年或五ヶ年又は七ヶ年之間勝手向立行候様可仕
 候間、御銀被為拝借度段相達候ハヽ、右御用掛之御役人被差遣、逼迫之次第を糺、無餘儀相聞候ハヽ取しらへ拝
 借之可被及御沙汰候、萬一倹約等之儀達置候以後齟齬いたし候暮方等有之段相聞候ニおひてハ、越度之可被及御
 沙汰候、將又一旦御救助被下候ても成立得不申、猶又願ヶ間敷儀は決て御取上無之筈ニ候、尤非常之儀有之初發
 之しらへ狂候類は別段之事
一右之通年限を以奉願候上は、其年限中は勝手向立行之儀ニ専ら心力を潜不申候ては届兼可申事ニ付、身分移變た
 る事有之候ては積合も狂可申、且御節柄上之御難題被相成居候内之儀ニも有之、新ニ御役付等申立之内意は勿論、
 是迄御役勤懸之輩も右年限中は順選繰上等之儀も組支配頭より申立候事等は相憚可申候、年限ニ至勝手向之模様
 を被申達置其上ニては例之通可被相心得候、尤御様子有之、上より御讃談を以被仰付候事は別段ニ候事
一一代御中小姓以下は是迄之趣を以及僉議申筈候事
 右之通可申聞置旨被仰出候條、被奉得其意觸之面々えも可被知置候
  但、願出候面々仕法之儀は御用懸御役人申談候様可被達候
   文化元子十月

 四八
 旅詰之面々積合出來不申候ハヽ、於御國許御断申上候との旨趣、寶暦九年以來追々委細及達候處、右達之通無
 之儀間々有之不都合之事ニ候、以來は彌以追々及達置候趣相守、於旅詰願ヶ間敷儀無之様可被相心得候、尤非常
 之儀有之不慮ニ物入有之候節は、其程ニ應し及僉議候儀ハ別段之事ニ候、旅詰向ニて有之と申程之物入等之儀は
 兼て覺悟いたし置候儀勿論之事ニ候處、間々有之候川支又は一通り之病災等を申立、御難題ニ相成候儀有間敷事
 ニ候、向後ハ右躰願ハ決て御取上不被仰付筈ニ候得共、江戸表等出立難成或ハ御外聞ニも障候儀は其分ニも難被
 閣事ニ付筋をも可被附下候間、右之通御難題ニ相成候輩ハ追て被仰付之筋も可有之候條、着之上相慎居候様申聞
 可被置候、且又以來筋をも被附下候上ハ、御取立相済候迄大小身無差別身代相當之御扶持方計被下置、御扶持
 方迄之輩は御扶持方之内半高御取立被仰付筈候、右付て難澁之儀申出有之候とも決て御取立上不被仰付候間、兼て
 可有其覺悟候、尤非常之事有之候歟、又は其人ニより御様子有之、上之御参談を以御弛被下候儀は各別之事ニ
 候、此段觸之面々えも可被達候、以上
   十月  

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■断簡の整理

2017-10-16 07:19:21 | 史料

 先にお預かりしたT家の文書だが、種々の史料の中には初出の細川家の侍帳などがあり貴重である。
10個に分けられてビニールの袋に入れられているが、その中のニ袋は断簡である。
それは種々の史料の破れた断片やしわくちゃになった小さな紙片、墨跡のまったくない行く先を確かめようもないものなど様々だ。
こちらは大きな断片の一袋分、どうやら加藤家侍帳だと思われる。
何とか元の状態に戻したいと思って仕分け作業をして、まずはアイロン掛けをしている。
過日和紙を注文、届いたら糊つくりを始めなければならない。その後和紙で裏打ちをしたり、つなぎ合わせたりの作業が待っている。
読み下しも大事な作業だが、この様な作業も又貴重な体験である。


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■御恵贈御礼「小倉藩葡萄酒事情」

2017-10-15 08:16:27 | 書籍・読書

 北九州小倉の古刹・長圓寺のご住職様からお送りいただいた。是非とも入手したい本であっただけに、大変ありがたく深く御礼申し上げる。
長圓寺様は忠興公が小倉入部以来の細川家と御縁の深い御寺らしい。いろいろ口伝はあるらしいが、細川家の肥後転封により詳しい資料が残されていないらしい。
三齋公に由来する史料は、細川家の熊本移封に伴い八代に入り、後宇土細川藩が所蔵する所となり、後種々の災害に遭遇、残されたものが九州大学に納められている。

長圓寺様のホームページを拝見したら「小倉藩の葡萄酒」に関することが書かれていた。
忠利公が上田太郎右衛門に命じて作らせたのが最初とされ、その故事により中津(小倉藩)などで葡萄酒つくりが行われている。
太郎右衛門によって造られた葡萄酒は、ガラシャ夫人の御霊に捧げられたことであろう。いろいろ想いを致すと感慨深いものがある。

上田太郎右衛門の上田家は曾祖母の実家である。そんなこともあってこの「小倉藩葡萄酒事情」を是非とも手に入れたいと思い図々しく入手方を御願した。
この本は長圓寺様ともお付き合いが深い小倉のワイン界では有名な小川研次氏の著によるものである。
小川研次氏は素敵なワインバーを経営なさっている。なかなか小倉迄出かける機会はないが、一度はお邪魔してみたいものだと思っている。

     過去の関係ブログ
     細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォー 2007-11-08
     ・黄飯・鳥めし・ナンハン料理 2013-09-03  
     ・大分合同新聞から 2013-10-23 
     ・すでに知られていましたよ・・「忠利ワイン」 2016-11-02



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■度支彙凾(8)

2017-10-15 08:06:24 | 熊本地震

 三八
  享和三年亥二月
一御勝手向之儀先年莫大之御上納金被蒙仰、其上津波・洪水・八代御城火災等非常之御物入打續御難澁之段は追々
 承知之通候處、御勝手方ニおいて種々指繰を以是迄取計ニ相成候得共、誠ニ當前之御紛迄ニて次第ニ御借物高相
 増、其外累數̚稜々之事等も致出來、御政體ニ相障候筋も有之、御勝手向先は御大切之場ニ相成奉恐入候事候、右
 之趣委被聞召上、甚以御苦悩ニ被思召上候付ては、御勝手向御立行之儀此度屹トしらへ被仰付、御仕法筋相改漸々
 と舊復ニ相成候様ニと及僉議、不被得止上々様御分料をも被減、町在ニは餘計之出米銀をも申付、江戸・大坂御用
 達共へハ下地御借物之上、猶又此節各別之調達をも被仰付候、然處御家中手取米之儀は是迄之通ニてさへ一統及
 難澁申儀ニ付、減方被仰付候儀別て御苦悩ニ被思食上候得共、御勝手向前條之次第ニ付此上は不被得止、一統減
 方被仰付候、尤大小身之差別を以少々宛斟酌を被加、且小身之面々在宅手取引方此節より經ク被仰付候儀等別
 紙書付之通候、將又被減置候年限之儀は、只今難差究儀も有之候間追て可及其沙汰候
一安永二年は下地被減置手取被増下候ニ付、御家中諸勤稜等被遊御免候儀は無之候得共、此節は今迄結構ニ被仰
 付置候を被減候付ては、何レも取續方難澁可仕旨御氣毒ニ被思食上候間、諸勤稜來年頭より明和年中被仰出候通
 御免被遊置旨被仰出候、則明和五年及達候書附寫之相添候、右之内當時迄も其通ニて被閣候は付札用置候、右
 之通ニ付自今以後銘々存分ニ省略を用相凌候様被思召上候、此段可申聞旨被仰出候、右ハ當暮より之手取減ニ候
 得共、此以後之儀銘々覺悟可仕事ニ付、只今之内申渡置候様ニとの御旨候條、被奉得其意組々へも可被申渡候、
 以上
   二月

 三九
 御勝手向之儀付ては別紙相渡候書附之通ニて、至て御難澁之儀有之、熊本津端御蔵且御銀所ニて年々御不足、且
 江戸・大坂御借物之取引は利拂ニいたし、凡米ニ直し毎歳八萬石程之所御不足相見候ニ付て、在中よりは出米、
 町方よりは出銀いたさせ江戸・大坂ニても御仕法を被立、新ニ御用達共へ調達被仰付、猶御不足之所御家中よ
 り上ヶ米被仰付候趣則相渡候書附之通ニ候、右之通之儀拙者共ニおいてハ奉恐入候次第ニて一統之難澁難及兎角
 儀と存候、しかし外ニ致方も無之右之通取計、且此上も御倹約を以是非舊復ニ相成候様、御役人中ニも申談候事
 ニ候、此段各為存内密申達置候條、左様被相心得組々席以上へハ密々可被申聞置候、已上
[付紙]「本行之外御銀所銭預等之儀付ても御難澁之筋有之候事、本文夫々披見相済候上御奉行所迄可有返達候、勿
    論寫取候様之儀ハ致用捨候様可被申聞候事」

 四〇
 出仕彼是今度被附御心、御省被下儀は書附之通候處、列々申談ニて省略いたし勝手可相成筋も可有之哉、左候
 ハヽ其程ニ應し自分/\ニて極かたき事は被申談候趣可被相達候、平日供之人數等は各別被仰付置候究りハ無之
 候得共、當時迄其列/\之見合ニて格式之様成行候類も有之様子ニ付、是又被相省可然候間、被申談候趣は追々
 可被申聞候、且又右之通事々省略ニ相成候とて、萬々一風俗も猥ニ成り様ニ心得違等有之候ては如何ニ候、勿論
 右躰之儀可有之とハ不存候得共、ヶ様之事迄も委ク可被附心候、若キ面々稽古事等も怠無之様旁不及申事候得共、
 一概ニ被心得候ては萬々一間違之受かたも可有之哉と為念申達候間、精々可被談旨明和年中及達候、今度之儀
 も右之趣ニ被相心得、組々えも得斗可被申聞置候、以上
   二月

 四一
 御勝手向御難澁付ては相渡候書附之通ニ付、御家中拝借御取立等ニ被附御心候儀は難相成子御候處、近年御本方幷
 小物成方・櫨方共拝借之御取立餘計有之面々多、當暮より手取米減少被仰付候付ては、一向に手取無之程之族も
 有之可為當惑候間、別段之僉議を以諸間拝借之儀利分は被捨下、元分返納之為高百石ニ壹石五斗宛毎暮取立ニ
 相成申筈候、右之通御取立御寛メ被仰付候付ては、向後願ヶ間敷儀堅無之様、若又非常之筋有之至て難澁之輩ハ、頭
 々より精々糺方之上被相達候ハヽ僉議之筋も可有之候條、被得其意組々えも可被申聞候、以上
[付紙]「諸間之御銀拝借無之輩、又は拝借高纔之面々は其段直ニ御勘定所へ可被申出候」
   二月

 四ニ
 御家中出仕御寺参拝等之諸勤向被略候儀は、明和五年各別小手取之節之儀ニ付、此節は安永二年通之手取高ニ付
 是迄手數ニて可被指置處、別段被附御心別紙之通被仰付候條、以來手取被減候度毎ニ右之通被略候儀ニては無之
 候條、此旨被奉承知組々えも可被申聞置候、以上
   二月

 四三
 去春一統及達候通ニ付、御在國之節年頭御禮別紙書附之通候間、被得其意組々えも可被達候、以上
   文化元年十二月廿三日
一元旦朝五半時揃ニて、御番方以上御禮被遊御受候事
一二日右同揃ニて、元日不参之面々幷御知行取御右筆より諸切米取迄右同断
一右両日共、組外以下五節句之通御禮被遊御受候事
一三日之晩御謡初御略式被仰付、出前之御留守居大頭以上被罷出候様
一七日式日ニ罷出候面々出仕御禮相済候上、元日・二日不参之面々、且又町別當同列御扶持被下諸職人・諸町人御
 禮被遊御受之事
一九日惣寺社・葦北御惣庄屋・一領一疋・地侍右同断
   十二月

 四四
  文化元年子七月御達
 御省略筋之儀は追々及達、諸御役間ニおゐても重疊省減ニ相成候事ニ候得共、此砌御勝手向至て御難澁御大切
 之場ニ相成候付ては、委細先達て及達候通、上々様御分料を初御家中手取米をも被減、町在は難澁之中より上米
 銀をも被仰付候程之事ニ付、諸御役間之儀も猶又御省略之取調有之、諸品之減方ハ不及申御人御仕ひ方をも不被
 減候て難叶事ニ候、然とも前文之通是迄重疊省減ニ相成居候上之事ニ付、一通之儀ニてハ省減之稜も立申間敷候
 間、當時迄仕來り之例格ニ拘無、可成丈ヶ省減之儀被申談、聊之儀たり共御費之儀無之様委ク心を被用、一局限
 御省略之仕法見込之趣、書付を以被相達旨候、以上
   享和三年亥七月

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■どんと打った花火は雨の中・・・

2017-10-14 20:28:11 | 熊本

 夕方からすっかり雨模様になってしまった。今日は江津湖で花火大会、10,000発の打ち上げ予定である。
奥方は大変な花火好きで、あちこち遠くまで出かける人である。会場が割と近いとはいえさすがに病み上がりで、おまけに本降りの雨となって「残念」を連発していた。
処が19時前、我が家のベランダからこの花火が遠望できて奥方は大喜び、人様のお宅の屋根越しで、アンダーカットされた姿ではあるが楽しむことができた。
病み上がりでフラフラしながら毎日を過ごしているが、「花火のおかげで元気が出た」と大喜び・・・これには私も大いに結構と喜んでいる。

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■筒口御屋敷はどこだ・・・

2017-10-14 09:15:23 | 熊本

 来週土曜日の熊本史談会では1.8×2.1mの大きな「熊本城下古図」を見ながら、地図散歩をすることにした。
広げるのは実は本物ではなく、A1判8枚に分割コピーをしたものである。

この絵図は嘉永二年京都で作成された一点物と思われる手書き着色の熊本城下の地図である。
大身の家臣のお宅は家紋を入れて表示がしてある。本妙寺(加藤家墓所)、泰勝寺・妙解寺(細川家墓所)や水前寺御茶屋などが詳細に書き込まれている。また今迄窺い知ることのできなかった場所の特定ができるような情報が多く盛り込まれている。

その一つが「筒口御屋敷」と呼ばれるものだが、その場所を今日まで確定できるような情報を知りえなかった。
この度この絵図を詳細に眺めていたら、新町の高麗門から横手の正龍寺・長国寺の前を通り、かっての井芹川筋を渡ってすぐ左手に「五軒茶屋」の書き込みがあった。そのすぐ前に「筒口」の書き込みがある。今では五六軒の住宅が建て込んでいる。久しく通ったことがないのでイメージがわいてこない。加藤家の側室や、細川家の藩主の弟妹など、また側室などの住まいに宛てられた「筒口屋敷」で間違いないと思われる。
この絵図のコピーをお許しいただいた所蔵者にただただ感謝するとともに、すばらしい絵図に出会えたことをうれしく思っている。
熊本の地名の成り立ちを知るうえでも、貴重な史料になると思われる。

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