10月に入ると涼しさと共に、なんだか慌ただしさも感じる。
奥方は「お節」の注文先を心配しだしたし、今日は「お土産」といってカレンダーを数種購入してきた。
私が使うカレンダーは、今年と同じく無地で旧暦などが書き込まれたシンプルな、月一枚のカレンダーである。
これは前もって奥方にリクエストして置いた100均ものだが、これが一番使いやすい。
最近は書き込む事柄も少なくなったが? 又探さなくと良いように、まずは、今年のカレンダーの後ろに重ねておいた。
今年は5ヶ所の窓ふきという大仕事がある。角部屋という事で数が増えたしまった。
奥方は背が低いから「お願いします」の一言で、自分には関係ないという顔をしている。
まあ、これは来月でも良かろうが、11月には史談会での私の担当が回ってくるから、そろそろ準備に取り掛からなければならない。
爺様の年末はこんなものだが、突然の対応は出来ないからそれこそカレンダーに書き込まなければならない。
今日のカレンダーを覗いたら、20時からBSプレミアムで、「宮本武蔵」を見なければ成らなかった。
カレンダーを見忘れると見逃すところだった。その時間になって忘れてるという事はないと思うが・・・
細川三斎 「天下一みぢかき人」の実像 福原 透 著
その一方、父細川幽斎の教養を受け継ぎ、蹴鞠や茶を学び、若い頃より千利休に師事、後世「利休七哲」のひとりにも数えられた。茶風は古田織部のような創意や華麗さは求めず、利休流の古い形を守り伝えた。その人生と茶の湯との関わりを、地元・熊本出身の筆者が詳細に分析、新たな茶人・三斎像を提示する一冊。付録に幽斎・三斎の「茶会一覧」など資料も充実。
[目次]
〈第一章 細川の家 ― 三斎(忠興)の一族〉
父幽斎(藤孝)の家族/三斎(忠興)の家族
〈第二章 三斎(忠興)の生涯〉
山城勝龍寺時代/丹後宮津時代/前小倉時代(藩主時代)/豊前中津時代(隠居時代)/肥後八代時代(最晩年の日々)/三斎の人間像
〈第三章 三斎と茶〉
父幽斎と茶/三斎と茶の湯との出会い/三斎と茶会1/三斎と茶会2/三斎をめぐる茶書/「三斎」号の意味するもの/三斎余光
〈付録〉略年譜/関係地図/茶会一覧/参考文献/人名索引ほか
著者略歴
福原 透(ふくはら・とおる) ― 1959 年、熊本県生まれ。立命館大学大学院歴史学専攻博士課程前期修了。八代市教育文化センター建設準備室、八代市立博物館未来の森ミュージアムの学芸員などを経て、平成25 年、同館副館長。令和元年、退職。専門は肥後の近世文化史(陶磁史・茶道史・絵画史)。東洋陶磁学会、九州芸術学会等共著に『茶道学大系』10 茶の古典(淡交社 1991)、『細川幽斎・忠興のすべて』(新人物往来社 2000)、『新熊本市史』通史編近世Ⅱ(熊本市 2003)などがある。
忠利が徳川家康の曽孫(岡崎三郎信康女の娘)で秀忠養女・千代姫と結婚に至った経緯がよく判らない。
忠利は15歳(慶長五年正月廿五日)の時から證人として江戸に留め置かれ、実質の解放となったのは父忠興が殊の外「御煩ニ付」、忠利の家督の決定したことによる。(慶長九年八月二十六日付、家康公御証書)
この時忠利(当時内記)は、見舞いの為御暇を給わり帰国したものと思われる。実質の證人を解かれたことになり、約4年半ほどの證人生活を終えたことになる。
忠利の江戸證人時代における家康・秀忠との親交は、その後の彼の人生に大いに寄与している。
忠利の結婚についても、徳川家の意を躰した幕府の意向によるものであろうことは十分にうかがえる。
慶長十四年(1609)四月に豊前で結婚した千代姫との間に、元和五年には嫡子・六丸(光尚)が誕生しており、以来過ごした中津城から共に小倉城に移徙したが、元和九年(1623)に至り正室の江戸居住が仰せ出され十月四日千代姫は14年間過ごした豊前国を離れることになる。
忠利はその後熊本に移封され54万石の太守となるが、千代姫は熊本城を見ることはなかった。
豊前国には、千代姫の実方・小笠原家が移封されて入国した。
細川家・小笠原家は共に九州の抑えとして、明治の御一新迄すごすことになる。
本来は「訝しい」とすべきところだが、綿考輯録の編者・小野武次郎は「いぶかし」とする。
史料をいろいろ集めて編纂の仕事をしていて、内容がおかしくつじつまが合わないことが出て来ると、武次郎は「いぶかし」と記している。
「いぶかし」とは、古い言い回しのようだが、意は「物事が不明であることを怪しく思うさま。疑わしい。」である。
武次郎は細川家の正史にとどまらず、家臣の家の記録や、巷間に伝えられているいろんな情報を、「一書に」という形で紹介しているが、これが綿考輯録の内容を信頼於けるものにしている。
この時代、といっても綿考輯録は藤孝公・忠興公・忠利公・光尚公の四代に限定されてはいるが、その行動や業績はいろんな形で情報が飛び交い、結果として捻じ曲げられて記録されてきたものもある。
それらにすべて目を通したうえで武次郎は「いぶかし」としながら紹介している。
それでも500年に喃々とする細川家の歴史には、理解の及ばない世界が存在する。
今朝の涼しさは秋そのものだった。やや強い風が明け放した窓から部屋から部屋へと吹き抜けていく。
もう残暑の暑さも終盤なのだろう。朝のうちに散歩に出た。過日少々歩きすぎたから今朝はやや抑えて、近所の公園を一周、約2キロを30分かけてゆっくり歩いた。
彼岸花の赤や黄色、朝顔によく似た冬瓜の紫の花、ツマグロ草などが美しい。
錦が丘小学校の裏手で、大きなドングリが落ちているのを発見、一つはD27㎜×h20㎜、もう一つはD20㎜×h23㎜というもの、掌に載せてコロコロやっていたらピカピカに艶が出たので持ち帰って来た。
世界のドングリ博士と言われた畏友・故 澤治彦氏のことが想われた。
錦が丘公園では、強い風に吹かれて落ち葉が乾いた音をたてながら走り回っている。
テニスの諸兄も強い風に悩ませながら楽しんでおられる。
公園内の木々が早くも紅葉しかけているものがある。ふとでかいカエデの葉っぱを見つけた。長経が135㎜もあった。
持ち帰って撮影。カエデは押し花にし、ドングリはひとまず小さなプラスティックの箱に収めた。
「興津弥五右衛門の遺書」7373文字のタイピング、二日がかりで終了した。
爺様はまだまだやれるという達成感に満足している。
ルビを入れると行間がバラバラになってしまい、これを何とかしなければならないが、爺様にはこれをどうしたものかと悩んでいる。
技術的なことになるとハタと困ってしまう。
全文をタイピングして分かったことだが、書き写す(タイピング)という作業をすると、読むのとは違う作品の深みにはまり込むような気がした。
鴎外先生が、以外に沢山の間違いをしていることも改めて確認した。
書き出し早々、松向寺殿(忠興)を妙解院殿(忠利)と間違えたり、中間部では忠利を綱利と三度も間違えたりしている。
歴史小説はこういうことが難しい。
青空文庫のタイピングをみると、妙解院殿には「みょうげいん」とルビが打たれ「殿」には打たれていないが、これは「みょうげいんどの」と読ませようとの配慮だと考えられる。
尾形仂氏の「鴎外の歴史小説ー史料と方法」にも指摘ある様に、これは法号だから、その読みは「みょうげいんでん」でなければならない。
鴎外先生のことだから、それは十分ご存知の上で、「殿」は「どの」と読ませようとされたのだと好意的に受け止めておきたい。
そして改めてこの小説は、史実にはそぐわない鴎外先生虚構の作品であることの核心を深めた。
NHK・BSプレミアム、10月4日放送(午後8:00~9:00)の『英雄たちの選択』は「
剣豪・宮本武蔵 極める!フリーランスの道
熊本からは、武蔵研究家の福田正秀氏が島田美術館から参加されます。どうぞお見逃しないように・・・
先に「興津弥五右衛門の遺書」に触れたが、これは著者が採用した史料がまずかったがゆえに、史実がゆがめられてしまった。
一番まずかったのは「翁草」にある「細川家の香木」を引用したことによる。
これに付随する話をつじつま合わせするために大いなる無理が生じている。
話の根幹に在る、主人公が相役と口論になりこれを殺害したという話にしても、伊達家との香木の値段の競り合いが在ったとされるが、細川家史料・伊達家史料ともにそのような事実はない。
伊達家史料には、政宗が細川家の香木を分けてもらい取得したことをしめす資料が残されている。
政宗は「金」を御礼として細川家に渡したらしい。処がこれに対して忠興は怒り、これに倍する「呼野金」を伊達家に還したという話が綿考輯録に記されている。
豊前の呼野で採れた「金」だというが、近くには鉱山をしめす「採銅所」などという古い地名も残っている。
喧嘩友達のような二人の交友ぶりが見て取れる逸話だが、鴎外先生の事前調査は残念ながらここには至っていなかった。
また翁草に取り上げられた、主人公による相役の殺害事件は果たして存在していたのかどうかも疑わしい。
事件が起きたとする鴎外が設定した時代から随分後の記録に、横田清兵衛が生存する記録を私は発見した。
尾方仂氏の著「鴎外の歴史小説ー史料と方法」にも触れられていない新事実である。
お香の関係者がこの小説を良く引用されておられるが、虚構の上の話であることを得と心して戴きたい。